『小公子』第十五回本文
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『小公子』初出本文のHTML化について

○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。

○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。


小公子        若松しづ子

第十五回

時としては、極く僅かの時の間に不思議なことがあるもので、曽てはホ氏の店先の高い椅子から赤い脛をブラ下げて居た小息子の運命が、本の数分時間に一変して、今まで物静かな町に質素といふ質素な生活をして居たものが侯爵といふ泣階に添ひて、広大な所有を受継ぐ身分に早変りして仕舞升た。
さふかと思へば又英国の華族のうちに数へられた者が、現在、己がものとして、楽しんで居る栄華に対して毫末の権理もない一文なしの瞞着者とまで落されるのも僅か数分時間の様でした。
スルト又此度は万づの体面を再び飜へし既に失ふ斗りで有つたものを元通りに恢復するは幾程も経ぬ内で有つたといふは実に不思議千万なことです。
此事体が案外早く方づいたといふものは、己れをフォントルロイ夫人と主張した女が、仕組んだことの悪るいに比較しては、存外、巧ならぬ処が有つた故で、其結婚と子供については段々詰問される内に、一言、二言、云ひ誤りをして、疑惑を引起し升た処から、度を失ない、果は疳癪を起して尚一層内幕を見現はされたのでした。
女の言違ひましたといふは必竟子供に関して斗りの様でした。
先のフォントルロイ殿と結婚し、争論の末、手切金を取つて、別れたといふ事実には相違なかつた様でした。
併し其子供がロンドンのある処に生れたといふ話しは偽で有つたといふことは、ハ氏が発見し升た。
そして丁度其発見に付て、起つた騒動の真最中に、ニユーヨークの代言人とホ氏等からの書状が着したのでした。
此二通の手紙が到着し升て、侯爵とハ氏が書斎の中で処置法に付て協議された時は亦大層な騒ぎでした。
ハ氏の言葉に、

手前が婦人に面会いたして三回に及び升頃、余程心に疑を生じて参り升た。
第一見る処で其子供の年齢が申立よりは多い様に見受けられ升た。
其中に、出生の月日を尋ねられたはづみに、一寸、ロを滑らせたことが有升た。
尤も直ぐ其場はつくろひ升たが、此二通の書中にある趣が手前の心の疑惑によくも符合いたし升。
ソコデ、極く望のある法方と申は極く秘密に此チプトン兄弟を電報で呼びよせ、突然引合せるといふので御座り升。
彼の婦人も斯は仕組んでも、至極不奇用な方で御座り升から、手前の考へでは、直ぐ其場でギツクり度を失ふはづみに、後尾を現わすは必定と存じるので。

と申し升たが、其計画が思ひ通りの結果を奏し升た。
其女には一向何も知らさず、疑を起さぬ為にハ氏は其申立を取り調中と唱へて、折々対面をして居り升た。
そこで描いた狂言も図星を外さず、万願成就の期も近きにあると思ひ込み、女もおい\/応柄な調子になつて来たとは、さも有りさうなことでした。
然るに或る好天気の朝、ことの成つた上にはどふ、かふと、宿屋の座敷で結構極まる目算をしてゐる最中、ハ氏の来訪を告げる者が有升た。
通ふる処を見ると、後ろへゾロ\/続いて這入る人が三人有升た。
第一に機敏らしひ小息子、第二に、丈の高い壮年、第三には例の侯爵さまでした。
此時其女は思わず飛上つて、万事これまでといふ様な大声を立て升た。
不意のこととて、そ知らぬ顔にとぼけることも出来ませんかつた。
今眼のまへ。見えた中で二人のことなどは久しく思ひ出す暇もなくつて居り升たが、万一思ひだすことが有つても、数千里の遠きに有るものとも考へて居り升た。
それ故一坐に顔を合せることなどが有うふと思ふて居りませんかつた。
流石にヂツクは其顔を見てニタ\/と笑ひ升た。
そして、

イヤ! おミナさんか?

といひ升た。
べンなる丈の高い壮年は、暫らく沈黙で顔を見て居り升た。
ハ氏は二人の顔を交\/見て、

どふですお二人とも、同人を知つて御座るのか?

といひ升と、ベンが、

知つて居升とも、わしも、此女を知つて居れば、此女もわしに見覚えが有るんです。

といつて、一向平気で女に後ろを向け、顔を見るも厭といふ調子で、窓際に立つて、外表を脉めて居り升た。
スルト、其女が狂言のうらをかヽれ、悪事露見と知つてか、狂ふが如くに猛り廻り升たが、これはべンやヂツクが毎々見慣れて居たことでした。
其様子を見、さま\゛/自分たちの名呼わりをするのを聞いて、ヂツクハ尚一層ニタ\/と大口に笑つて居升たが、ベンは振反つて見もしませんかつた。
それで、ハ氏に向ひ、

旦那、どこへ出ても、この女が慥にそれといふ証拠はキツト立て升し、まだ外に証拠人がお入り用なら幾人でも出しませう、尤も此の女の爺といふは、賎しい家業こそしても実直人間です、此のお袋といふのは、矢つ張り、これによく似てゐた奴でしたが、これは没なつて、爺丈は生てゐるんです。
イヤ現在親が此の女にかけちや、外聞をわるがつてる位なんです。
其の爺を引出せば、此の女が何者だか、わしのかヽあになつたことがあるか、ないかゞ直ぐと分かりまさア。

といつて、急にロ惜さうに、拳を振つて、女に向ひ、

これ、あの子供はどこへやつた?
モウおれが連れてつて仕まふから、あれも貴様と親子の縁は切るし、おれもモウ貴様に用はないぞ、

といつて居る中に、隔ての伏間が少し開いて次の間から男の子が顔を出して覗き升たが、これは、最前からの高話しを何ことかと思つて出て来たらしいのでした。
此小息子といふは別段容色の好いことは有ませんかつたが、一寸小奇麗な顔付で、誰が見てもべンに好く似て居て、其顋には、三角の傷痕が有升た。
べンは其児の側へ寄つて、其手を採り升たが自分の手はブル\/して居り升た。

此児もたしかです、出る処へ出て、云ひ立てヽも好うがす、
サアトムやおれは貴様の爺で、けふは貴様を連れに来たのだが貴様の帽子はどこだ?

其子供は帽子が椅子の上に有つた処を指し、目分が余処へ行くのだと聞いて機嫌でした。
近頃自分の一身に起つた不思議千万なことに慣れてゐて。見知らぬ人におれは貴様の爺だといわれてもさほど驚きませんかつた。
実は数年前に自分が赤子の時から居た処へ一人の女が来て、突然けに御前の母と名乗つた其人を何となく、厭に思つて居ましたから、モ一度かわつて外へ行くのを何とも思ひませんかつた。
べンは件の帽子を持つて、戸外へ出で行升た。
そして、ハ氏が、

又御用が有つたら御承知の処へお便を願い升。

といつて、女を振り反つても見ず、其子供の手を引て行つてしまい升た。
女は一層烈しく狂ひ廻つて居升たが、侯爵は眼鏡を鷲の嘴に似た貴族的のお鼻の上に悠々と載せ、泰然と其動止を睨んで居られ升た。
スルト、ハ氏が

コレ御婦人、怪しからぬ始末ではないか?
暗い処へ入れられるが厭なら、少し謹しむが好からう。

いつた調子が中\/馬鹿に出来ぬ処が有つたので、この場合になつては身を退くが上分別と思つたか、恐ろしい顔色で一眼ハ氏を睨まへ、裾を蹴立てヽ、次の間へ這入り、ピツシヤリ戸を閉ぢ升た。
ハ氏は、

モウ、これで面倒は御坐り升まい。

と申升たが、其言葉の通り、其夜過ぐと宿屋を出立し、ロンドン行の汽車に乗り込み、影を匿し升て、今後近辺に姿を見せませんでした。
侯爵が此立合を済まして、馬車へ乗られると、トマスに、

コート、ロツヂへ参れ。

と下指され升た。
スルト、タマスが御者の居る馬車前へ登りつヽ、

コート、ロツヂと仰るゼ、
とつぴやうしもないことになつて来さうだナ、どうも奇妙だナ。

馬車がコート、ロツヂに止まり升た時には、セドリツクは母と共に客室に居り升た。
侯爵は案内もなく、通られ升たが、近来の苦労で曲りさうな腰も延びて丈も先頃よりは一二寸高く見え、幾年かお齢さへ若くなられたかの様でした。
窪い其お眼も艶\/して居升た。
突然

フォントルロイはどこだ?

と言われ升た。
ヱロル夫人は顔を赤かめて、前へ進み、

アノ矢張り、フォントルロイで御坐り升か、本当で御坐り升か?

といひ升と、侯爵が手を出して、シツカリ握手なさり升た。
そして、

矢張りさうだ。

と仰つて、片手をセドリツクの肩へ載せ、例の唐突な武張つた調子で!

フオントル口イ、貴様、おつかさんが城へ引移つて呉れるか尋ねてみい。

と仰ると、フォントルロイは母の脛へ抱へつき。

かあさん、これから僕たちと一処に居て呉るんですよ。
いつまでか一処に居るんですよ。

此時侯爵はエロル夫人の顔を御覧、エロル夫人は侯爵の顔を窺き升と、御前は全く真面目になつて居られた様でした。
此斗らひも、なる可く、取急ぐ方が好いと心つかれ、ながら、母と知己になるがまづ好都合と考られてから、言ひ出されたのでした。
エロル夫人は、しとやかにニツコリし。

手前が参る方がキツト御都合に宜しひのですか?

と問ひ升と、侯爵が又雑泊に、

さうとも、実は始つから、其方が好かつたのだが、ついそれと知らなかつたのだ。
どうぞ都合して来て貰ひ度いものだ。

(以上、『女学雑誌』二九七号)


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