『小公子』初出本文のHTML化について
○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。
○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。
小公子 若松しづ子
第十回(甲)
当時、ドリンコート侯爵は曽て心に思ふたことのないさま\/のことを考へられ升たが、其考といふは、何れの道、孫息子に関係して居り升た。
此老人の性質の中で、最も強い処は、其傲慢気でしたが、孫息子は一から十まで其傲慢気を満足させて居り升た、そして、此性質のある為に、世の中が急に面白くなつて来升た、第一、己れの世継たるべきものを世の人に示すが快楽の基となつたと云ふのは、世間一般、侯爵が息子たちに失望されたことを承知して居り升たから、人を失望させる気違ひのない新なるフォントルロイを公然、世の人に紹介する時、一層鼻が高く、愈快な感じが有升た。
一ツには孫息子にも己れの権勢の及ぶ処、格式の厳めしい処が心得させ度、又世間の人にも充分弁へさせ度思われて、頻に前途の計画を致され升た。
時として、心の中、密に己が過去の履歴を追想しては自分の世渡りがモ少し道にかなつて居て、純潔な子供心に一分始終を知られても、忌み憚かれることが、実際切めて少なければと、我知らず思ふ時も有升た。
現在、此お祖父さまが、ドリンコート侯のわると悪名されて居たことがあると、何かの拍子で、其子供の耳に這入ることが有つたら、其美事な、あどけない顔がどんなになるだろうと思へば、何となく、快く有りませんかつた。
此事を考へると、どふやら、薄気味わるい様になつて来て、何はさて置き、子供に其事を知らせない様にと決心し升た。
時としては此新たな屈托が出来た為に、持病さへも忘れることが有つて、暫らくする中に、体の具合も余程よくなつて来て、出入の医者さへ、意外のこととて、驚く位でした。
侯爵の御気分の快方に向れたのは、近頃に体屈なさることが少く、他に考へることが出来て、自然苦痛を紛らしたからの故でせう。
ある朝、人々がフォントルロイ殿が例の通り、馬でおでましの処を見ると、同伴はいつものウィルキンスでないのを見て、殊の外。驚ろき升た。
此新たな同伴者はねづみ毛の立派な大馬にまたがつた、紛ひもない、侯爵どのでした。
実は此事を思ひ立つたのはフォントルロイで、ある時、自分が馬に乗らうとして、お祖父様に向ひ、少し残念さうに、
僕、お祖父さんも一処に入つしやるんだと好けどネイ、
僕、あつちへ行つちまへば、お祖父さんは独りで、此大きいお城に入つしやるんだもの、
僕、そのこと考へると、自分も淋しくなつちまいますよ、
ダカラお祖父さんも馬に乗れると好ことネイ、
それから急に、御乗馬のスィーリムをば、殿がお召しに付て、仕度をするのだといふ下指が出たので、厩などでは大騒動でした。
この後といふものは、スィーリムに鞍を着くことが毎日の様で、そうして人々は、形の少さいフォントルロイを乗せた小馬の側に、丈高く立派ながら、猛しく、鷲の様な容貌の、白髪老人を乗せた、大馬を見ることに慣てしまい升た。
それから、この通り二人して、青葉繁る小道や、景色の好い田舎道を乗り廻る中に、段々と親しく、隔意なくなり升て、老侯は聞ともなしに、かあさんのこと、かあさんの日々の仕業などに付てさま\゛/の話を聞れ升た。
フォントルロイが彼の大馬に尾て楽乗をして行中には、何くれとなく、調子に乗て、しやべり升た。
一体、性質が軽く、悦ばしいたちでしたから、人のお合手には持て来いといふので、話しをするのは大抵自分斗りで、殿の方は口を開かずに、たゞ嬉しそうな、さえ\/した其顔を眺めながら、話しに聞惚れて居られ升た。
時としては孫に命じて小馬に鞭をあてヽ、一走りさせ、フオントルロイが異議もなく一とび、駆出して一向に恐ける気色なく、シャント跨がつて居る様子を後ろから見て、余程鼻を高くし、機嫌が好い様でした。
かく、一走りしてのちに、フオントルロイが、笑ひ声に呼はつて、帽子を振つヽ、元の処へ帰つて来升時などには、何だか殊さら、お祖父さまと中が好い様な心持がし升た。
侯爵が早くも見出されたことは、嫁が中々怠惰な生活をしては居らないといふことでした。
到着の日から幾程も経ない中に、貧民どもがよく夫人に懐いて来たことにお目が止り升た。
どこかに病人があるとか、悲しい人があるとか、貧に迫つて居る者が有とかいへば、諦つた様に其家の戸口に夫人の馬車が止つて居升た。
フォントルロイがある時、お祖父さまに、
アノネ、お祖父さん、みんなが、かあさんを見さへすると、「神さまの御祝福を祈上升」つていひ升よ、
さうして、子供なんかは、みんな嬉しがり升よ、
それから裁縫ををそはりに、家へ来る人も有るんですよ、
かあさんはネ、大変お金持になつた様な心持がするから、貧乏な人が助け度つてしよふがないつて云ひ升たよ。
侯爵どのは、世とりの母に当る人が、若\/しくつて、器量も勝れてゐゝさうして何々侯爵の御息所と云はれて、少しも恥しからぬ品格が有るといふことを承知して、決して機嫌のわるいことは有ませんかつた。
それから又、其人が人望が多く、貧民どに敬愛せられるといふことも、一方から見て心持の悪るいことも有ませんかつた。
併し又フォントルロイが子供心に一番に慕ふて居て、誰よりも親しい人と、すがり付いて居る様子を見れば、嫉ましさと、憎くさが、一時胸を刺すことを免れませんかつた。
老人には競争者などなく、独り占に子供の愛が得度く思はれたのでした。
丁度其朝、二人馬を揃へて、乗り廻つた広野のとある小高見へ登つて、遥かに眼も及ばぬほどの所領地を鞭を振り挙て、指し示し、フォントルロイに向ひ、
貴様、この地面が一切、おれのだが、知つてるか?
サウですか 一人でそんなに持つてるつて、大変ですね、
そうして、大変、美麗だこと!
いつか、みんな貴様のものになるんだが、知つてるか?
フォントルロイは、どふやら、毒気を抜かれたといふ様子で、
アレ、僕のですか?
いつ?
おれが死ねば、直ぐだ、
ジヤ、僕、欲しかないです、
ダツテワ、お祖父さんはいつまでも、生きて入つしやる方が好いもの、
侯爵は例の冷淡な調子で、
中\/深切なことをいふな、
ダガナ、兎に角、貴様のになる時が来るは‥‥‥
貴様はいつかしら、ドリンコート城主になるのだ、
フォントルロイは暫時黙つて、静かにして居升た。
其間頻りに、広い野や、青々とした田舎美事な木立や、其間の百姓屋、城下の奇麗な所や、巍々として、年錆た、城郭の物見が樹木の向ふに見えて居る所を眺て居り升たが、軈て、妙な嘆嗅をし升た、
貴様、何を考へて居るのだ?
僕は、僕が大変小さな子だと思つて、
それから、かあさんのいつたこと、考へてたんです、
なんといつたんだ
(以上、『女学雑誌』第二八三号)
小公子 若松しづ子
第 十 回(乙)
アノ、かあさんがネ、さういつたんです、大変金持になるのは、そう、容易ことじやなかろうつて、
自分が始終、いろんなものが沢山あれば、外の人はそんなに運が好くないつていふ事、時々忘れるだろうつて、
ダカラ、お金のある人はいつでも気を付けて、人のこと考へなくつちや、いけないつて。
僕はお祖父さんが大変、人に深切だつて話してたら、それは結構なこつたつといひ升たよ。
デモ、侯爵なんていふものは、大変な権力があるんだから、自分の楽みのこと計り介つて、領分に住つて居る人のこと考へなければ、其人たちが困つて、自分が助けられることでも、知らずにしまうだろうつて。
ダケレド、人が大変大勢居るし、随分六ケ敷こつたろうと思つてるんです。
僕、今あそこいらに沢山ある家見て、僕が侯爵になつたら、あの人たちのこと、知れる様によく尋ねなくつちやいけないつて考へてたんです。
お祖父さんは、どうして、みんなのこと知れたんです?
侯爵が小作人どもを知つて御坐るといつても、誰々が年貢を滞なく納め、誰々が納めぬといふこと丈に止まつて、納めぬ者は早速、引立るといふ都合になつて居升たから、此問には容易に答へられませんかつた。
それ故、ニユーウィツクが探報するのだ」と仰つて、白毛の八字髯を引張つて、心わるそうに、質問した小さな小供を見詰めて入つしやい升た。
それから又、「サア、モウ家へ帰ろう、そうして、貴様が侯爵になつたら、をれよりも上等のにならんじやいかんよ」、と仰しやい升た。
侯爵は帰り途にも沈黙でした。
生涯に誰をも心を尽して愛したことのないのが、今はさまでに此小息子に執着するとはと、自分ながら、不思議に思はれる様でした。
最初は先づ、セドリツクの容色の好い処と、凛然とした風采が気に入り、人に対して誇る丈でしたが、今となれば、どうやらそれ斗りでなく、外の情が雑つて居つた様でした。
よく\/考へて見れば、自分はいつでも此子を側へ引付けて置き度く、其声を聞くのが何よりの楽しみで、他愛ない子供と知りつヽも、頻りに其心が得たく、好く思はれ度のが胸に一杯でしたが、かふ思ふ度に、我と我心が可笑くなり、人知れず、彼の渋さうな微笑を傾けて居られ升た。
心の中に、「おれもよく\/年をとつて子供がへりがしてしまつたので、他に考へることがなくなつたから、必竟かふもなるのだろう」と思ふて見て、復まんざら、さうでもないと考へ直され升たが、モ一層、心に立入つて考へて見升たらば、其子供の性質の中で、一番に気に適つて、我知らず、引つけられる様な心持のするのは、自分には嘗て持つたことのない徳、即ち取繕ひなく、優しい真心のある処と、人を信じ愛して、決して其悪しきを思はぬ処だといふことが分り升たでせう。
これから丁度一週間ほど後のことでしたろう、セドリツクは、ある日、母を訪問して帰つて来て、困つて思ひ沈んだといふ顔付をして、書斎へ這入つて来升た。
始め此城へ到着した時、腰をかけた、彼脊の高い椅子に寄つて、暫らくはたゞ暖室炉の中の火を眺めて居升た。
侯爵は何事かと思ひつヽも、また物を言ずに、其顔を眺めて居られ升た。
セドリツクは何事か深く考へて居たといふ丈は明かでしたが、やがて、顔を挙て、
アノ、ニユーウヰツクは、皆んなのこと好知つてるんですか?
侯爵さまは、
さうだ、それがあれの職掌なのだ、何か怠つて居ることがあるのか?
此小息子が管轄の小民どものことに注意して、彼是労はる様なことほど、不思議に侯爵さまのお気に適ひ、又実際お為になつたことはないのでした。
自身にはさういふことに注意なされたことは少しも有りませんでしたが、セドリツクが他愛なく、幼な遊びに屈托して、余念もなさヽうに打興じて居る中に、亦かふいふ真じめな考へが、其ちゞれ頭の中に働いてゐるとは、これも亦一興と思はれたのでした。
フォントルロイは、大きく眼を見張り、恐ろしくてたまらぬといふ顔付で、
アノネ、村の向ふツの外れに大変な処があるんですと、
かあさん見て来升たと、
家なんかどふも、くつヽいてヽ、丸で倒れさうで、息がつかれない様ですと、
それから人がみんな貧乏で\/、大変ですと、
熱病なんか度々あつて、そうして子供が死ぬんですと、
それから人がそんなに貧乏で、苦んでると、段々悪い人になるんですと、
ミチェルだのブリヂェツトだのよりか、尚わるいんですと、
そうして屋根から雨がドツドツト漏るんですと、
かあさんがそこに居る貧乏なおばあさん、見舞に行つたんです、
僕、行つてたら、自分が帰つて来て、着物をみんな着替へるまで側へ来させないんですもの、
それから、その話しヽて居た時、かあさん、ポロ\/泪流してるんですもの、フォントルロイは今此話しをしながら、自分も泪ぐんで居升たが、泪の中に又ホヽ笑んで居升た。
僕ネ、おぢいさん知つて入つしやらないんだから、行つて話して上るつて言つて来たんです、
と言ひながら、飛び下りて、侯爵さまの椅子に寄り掛り升た。
そして、おぢいさん、みんなよく出来るのネ、アノヒツギンスのこと、よくして下すつた様にネ、
いつでも誰でものことみんな好くしておやりなさるんだもの、ダカラ、僕、かあさんにさう言つたんです、
デ、ニユーウィツクがキツトおぢいさんに話すの忘れたんだらうつて言つて来たんです。
侯爵さまは自分の膝の上に載つた手を御覧じ升た。
ニユーウィツクは実際其話しを申し上るのを忘れた訳では有りませんかつた。
今フォントルロイの話しの村外に、俗にエールス、コートといふ処の如何にも廃頽して居る有様のことを申陳ずる為に、一度ならず、足を運び升たのでした。
それ故、傾むいて、見る影もない長屋のことも、打捨てある下水溝のことも、湿気でジミ\/した壁や、窓の破れて居る所も、屋根の漏ることも、貧困極まることも、熱病のことも、一切の難渋を知り尽して居られ升た。
モドント教師は、言葉を尽して、其情況を陳じ訴へたことが有つた時に、老公は亦それに対して、乱暴極まる断言を成され升た。
そして殊に御持病の悶煩の烈しい頃には、其エールス、コートの人民どもがみんな死に絶へて、地の下へ填まつた方が結句世話なしで好いなどと放言されたことさへ有ました。
然るに今、膝の上の少さな手を見、それから、まじめで、正直で、眼に天真な処を現はした顔を眺めるに付て、どふやら其エールス、コートのこと、又自分のことが、恥かしくなつて来升た。
ナンダ?、 貴様は、おれに人の見て雛形にする様な貸家を建させようといふのか?
と言ながら、今迄になく、子供の手の上へ自分の手を載て、おもちやにして居られ升た。
フォントルロイは、大層熱心に、今の家はみんな倒してしまはなくつちやネ、かあさんもさう言ひ升たよ、
アヽ、おぢいさん、あした、二人で行つてみんな崩させてしまいませう、ネイ?、
みんなおぢいさんが行けば、どんなに悦び升か!、
ダツテ、おぢいさんが助けに入つしたんだと思ひ升もの!と言ひながら、話しに身が入つた故か、眼が丸で星の様に輝き升た。
侯爵は倚子を離れて、子供の肩の上に手を載せ、「ムフヽヽツ」と一声笑ひながら、サア二人で外へ行つて廊下を散歩しよふ、
そこでスツカリ話しをつけるとしよう。
それから、天気の好い時は連れ立つていつもこヽで散歩する、例に随つて、広い石造の榔下をあちら、こちらと往来する中に、二三回もお笑ひなさい升たけれど、何か気に適はなくもないお考へをなさつてゐる様子でした。
そして、矢張り、少さな合手の肩の上へ手を載せて入つしやい升た。
(以上、『女学雑誌』第二八四号)
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