『小公子』初出本文のHTML化について
○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。
○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。
小公子。 若松しづ子
第七回 (甲)
翌朝フオントルロイ殿が眼を覚まされると、(前夜寝処へ抱かれて連れられた時は眼が覚めなかつたので)直ぐ耳へ這入つたのは、暖室炉の火の燃へる音と、人が小声で話をしてゐるのでした。
誰れかこふいつて居ました、
ドウソンや、おまへ気を付けて其事は何んとも、申すのではないよ、 おつかさまが御一処でない訳は、一向に御存じないのだから、そつくり其まヽお知らせ申してはならないのだからネ
すると外の声で、
あなた御前の仰ならば、黙つても居ませう、
ですがネイわたくしの様なお婢でこんなことをあなたへ申し上てどんなもんですか存じませんが、あんなに奇麗で、若くつて、連添ふ方に別たお方を、今度は又血を別たお子様までも離しておしまいなさるつて、本当に情ないなされ様だつて、わたくし、なんぞは可愛そうで仕方が御座いませんよ、
ソレニマアどふでせう、お美麗こと、
どふ見ても殿様に生れついておいでなさるじや有ませんか、
ヂェームスどんや、タマスどんが夕部下へ退がつて来て、マア二人口を揃へて云ふんでござい升よ、アノ若様の様な若様生れてから見たことがないつて、
おまけにネイ、あなたの前でそう申しては何んですが、時よりはほんとうになされ方があんまりで、わたくしどもでさへ口惜しくつてごう腹で、こヽが煮へかへる様なことのある其お方とお食事を遊ばすのに、子守地蔵見た様なさも優しい人とでも入らつしやる様なあどけない調子で、行儀も好く、可愛らしかつたことつてネ、
それからネ、ヂェームスどんとわたくしとをお呼になつて、書斎からお二階までお連れ申して、参れつて仰しやるので、ヂェームスどんが其まヽお抱き申すと、あの可愛らしいお顔はポツト桜色になつてヂェームスどんの肩の処へおつむりを載せて、お髪のきら\/と奇麗に下つてゐた処の美麗くつて、可愛くつて、何んとも云へません様でしたこと、
あんなとこ、ほんとうに見度つて見られやしませんよ、
そうしてネ、御前だつてまんざらお眼がなかつた様でもないんですよ、
デモ、何んだか頻りに見て入つしって、ヂェームスどんに「気を付けて、眼を覚させぬ様にしろ」つておつしやるんですもの。
此時セドリツクは寝反りをして、眼を開けて見ました。
部屋の中には二人の婦人が居ました。
そうして花模様のはでな白紗の窓掛や幕がそろへて有つて、室は万事奇麗で、爽快に出来て居りました。
暖室炉には火がたいて有つて、蔦が一面に纏着た窓からは、朝日がさし込んで居りました。
間もなく二人が一処に側へ来るのを見ると、一人は取締のメロン夫人で、モウ一人は深切で、極く気立の優しそうな顔をした、見ても心持の好い様な中年増でした。
メロン夫人がセドリツクに言葉をかけて、
若様、お早う存じます、昨夜はよくお休みになり升たか?、
セドリツクは眼を磨つて、ニツコリ笑ひました、
お早う、僕ネ、こヽに居るの知りませんかつたよ。
といひ升た。
取締は、
其筈で御座い升、 うたヽ寝を遊ばした処を、ソツトお二階へお連れ申したので御座い升もの、 これが只今から若様のお寝間になるので、こヽに居り升のは、ドウソンと申して、これから若様のお世話を申すので御坐います。
セドリツクは床の上で起き直り、丁度侯爵さまに握手するとて手を伸べたと同じ調子に、ドウソンに手を出しました。
あなた御機嫌は如何?、
僕を世話しに来て呉れて、誠に有難う。
といひますと、取締が、ほヽ笑みながら、
若様、これから、御用の時はドウソンとお呼び遊しましよ、
ドウソンと呼ばれつけて居り升から、
といひますと、セドリツクが、
アノ、ミス(嬢の意)ドウソンといふんですか、ミセス(夫人の意)ドウソンといふんですか?、
と問ひますと、ドウソンハ、メロン夫人の口を開くのを待たず、顔一杯に笑ひを見せて、
マア、ミスもミセスも入つたこつちやございませんよ、勿体ない、
サア、お眼ざめならば、ドウソンがお召替へをおさせ申して、それからお居間で御膳をめし上ることに致しませうでは御坐いませんか?。
といひますと、セドリツクが答へて、
有難う、だつて、僕ハモウ幾年か前に自分で着物を着るのを習らひましたよ、
かあさんが教て呉れたんです、
メレ一人でするんでせう、(洗濯でも何でも、)
だから、そんなに世話やかせちやいけないんですもの、
僕は湯にだつて一人で這入れ升よ、随分よく洗へるんです、
あとで隅の方さへ少しあヽためてくれヽば、
ドウソンと取締は、何故か、此時顔を見合せて居ました、メロン夫人はまた、
若様、何んでも御用を仰しやれば、ドウソンが致しますよ。
といひ升と、ドウソンが慰める様な、人の好さそうな声で、
いたしますとも、\/、何んでもいたします、
若様お好なら、お一人でお召替へ遊しまし、
ドウソンはお側でお手伝をして宜い時は、いつでもいたしますから。
どふも有がたう、ボタンを掛ける時が、チツト六ケ敷ですからネ、その時は誰かに頼まなくつちやネ。
セドリツクはドウソンが大変深切な人だと思つて、湯浴と着物の着替が済まない中に、大層中好になつて、さま\゛/ドウソンの事を尋ね出しました。
ドウソンの亭主が兵卒で有つて本当の戦で討死したといふことと息子は船乗りで、久しい前から航海に行つて居るといふことと此人が海賊や、人食島や支那人や、土耳児人を見て来て珍らしい貝売や珊瑚のかけなどを採つて帰つて来てゐるといふこと、トウソンが自分の櫃の中に入れて持つて居るのが有るから、いつでも見せて呉れるといふこと、みんなセドリツクには面白い話でした。
ドウソンは昔しから子供の世話斗りして居たさうで矢張りこれまでも英国のある大家でウイニス、ヴオーンと云ふ可愛らしい姫君のお世話をして居たのだそうでした。
此話をして、ドウソンがいひますのに、
そうして、其ひいさまは、若様の御親類続で御座升から、いつかお逢になるかも知れませんよ。
そうですかネ、僕は女の子の友だちは持つたこと有ませんけれど、僕いつでも女の子見るのが好ですよ、奇麗だことネ。
さて朝飯を食する為に次の坐敷へ行まして、其大きいのに驚ろき、ドウソンに聞くと、まだそれに続いて坐敷が有つて、それも自分のと云ことを知りました時、自分のいかにも少さい者で、これほどの用意をして待たれるに相応しくないといふことを、又深く感じまして、膳立の奇麗にして有る処に腰をかけながら、ドウソンに向ひ、大層意気込んでこふ言ひました、
僕はこんなに少さい子だのに、こんな大きなお城の中に住んでゐて、大きな部屋をソウいくつも持つてゐるなんで、なんだか大変デスネ、
ドウソンは慰めて、
なんのマア、始は少し変なお心持がなさるかも知れませんが、直つきにお慣れ遊ばし升よ、
そうしてどんなに宜しうございませう、こんなに美しい処で御坐い升もの
セドリツクは少さい嘆息をついて、
それは奇麗な処だけれど、かあさんがこんなに恋しくさへなければ、よつぽど好いは、
ダツテ、僕、いつでも朝御膳を一処にたべたんですもの、
そうして、かあさんのお茶へ乳だの、砂糖だの入れて上たり、焼パンを上げたりしたんですもの、
そんなに中よくしてたんですもの。
ドウソンは、又慰めやうとして、
アヽそれに違ひ御座い升まいがネ、それでも毎日お眼にお掛りで御座いませう、
そうすれば、其時どんなにおつかさまにお話し遊ばすことが沢山で、どんなにお楽しみでせう、
それからまだ\/お楽しみなことが有ますよ、今に少し方々お歩ろい遊ばして、御覧じろ、
犬だの、お厩の中に沢山繋いで有るお馬だの、ソウ\/それから其中に若様がキツト御覧になり度のが、一匹をり升よ‥‥‥
セドリツクは、声をたてヽ、
オヤ、ソウ‥‥、僕は馬が大好です、
僕、ヂムつて云ふのが大好でした、
それはネ、ホツブスさんの荷車についてた馬でしたよ、
強情張らない時は、随分奇麗ナ馬でしたよ。
さ様で御座い升か、
兎も角、アノお厩に居るのを御覧遊ばせ、
それはそうと、マアどうしませう、まだお次の御座敷も御覧にならないじや有りませんか。
セドリツクは、
そこに何があるの?、
御膳をお済まし遊ばすと、御案内いたしますよ。
こふ聞いて、自然、何が有るかと頻りに見たくなり、勢出して、食事にかヽりました。
ドウソンが余り様子有気な、妙な顔をして居る処を見れば、キツト其坐敷には何か大した物があるに違ひないと思ひました。
暫らくしてから、椅子を辷下り
サア、モウおしまい、サアいつて見度もんですネ。
ドウソンは頭点いて、先へ立つて行ましたが、尚子細らしい様なとぼけた様な顔をして居ましたから、セドリツクはます\/一処懸命になりました。(以上、『女学雑誌』第二七四号)
小公子。 若松しづ子
第七回 (乙)
ドウソンが戸を開けますと、セドリツクは敷井へ立つたまヽ、目を丸るくしながらビツクリして見廻わして居り升た、
まだ口も開き得ず、たゞ両手をポツケツトの中へ入れて、額まで赤くなつて、覗いて居り升た、并\/の子供でもこふいふ処ろを見れば、随分ビツクリし升から、セドリツクの驚いたも無理ならぬことでした。
此の坐敷は矢張大きい坐敷で、セドリツクには他の坐敷よりもまだ\/美敷見えた訳で有ました
此坐敷の中の道具はセドリツクが下で見た広間の道具の様にガツシリした、時代物らしいのでは有ませんかつた。
下幕や、敷物や、壁の塗は花やかで、眼の醒める様な色どりでした、
書棚には本が一杯詰めて有り、卓の上には数々の手遊びが有りましたが、何れも見事に巧を極めた物で、セドリツクが、ニユーヨークに居る時分、店の玻璃窓の中にあるのを見て楽しんだ不思議な物に似て居り升した。
暫らくしてから、溜息をついて、
誰れか男児の部屋の様ですが、全体誰のお部屋なんです。
ドウソンは、
マア中へお這入り遊して、よふく御覧遊ばせ、
若様ので御座い升から。
ヱー、僕のだつて!
本当に僕のですか!
なぜ僕のなんです?
誰が呉れたんでせう?
聞いたことが余りのことに信じられない様でも有つて、セドリツクは嬉しそうな声をたてながら、中へ飛込み升た、そうして、星の様に光つた眼をして、
お祖父様ですネ、お祖父様に掟まつて升はネ。
左様で御座い升よ、御前で御座い升、
そうしてネ、若様がおとなしく遊して、何かにつけてクヨ\/遊ばさずに、ある物をお楽み遊ばして、毎日お気楽に遊ばせば、何でも欲しいと仰つしやる物を下さい升と。
此の朝は中々気の揉める朝でした、
改めて見る物や、試みて見る物が余り沢山でしたから、眼新らしひ物が余り多つて、一ツ見始めると中々身が這入つて、容易には他へ移れず、気が急く程でした、
そうしてセドリツクは何も彼も自分の為に備へて有つたので、自分がまだニユーヨークを離れもしない前から自分が住む部屋といふのを飾りつけるとて、態々人がロンドンから来て、自分の気に叶ひそうな書物や手遊を仕度したことを聞いて、不審に堪へられませんかつた、
今ドウソンに向つて、
ドウソンはそんな深切なお祖父様持つてる子があると思ひ升か?
ドウソンは暫らく曖昧な顔付をして居ました。
此女は侯爵様を左程徳の高い方とは思つて居りませんかつた。
まだ自分は幾日も此お邸に居ないのでしたが、それにモウ下\/で御前の蔭事をとり沙汰するのを充分聞いて仕舞ひ升た。
彼の一番丈の高い給事が、
イヤ、わしがこれまでお仕着を頂戴した殿様で、いとゞ意地がわるくつて、がむしやらで、癇癪持だといふ奴をみんな並べたつても、イツカナ\/こいつにかなうこつちやねへよ、ドウシテ!
といひましたが、此のタマスといふ人物は又、セドリツクの来着に対して、件の準備を相談最中、御前がハヴィシヤム氏に対して申されたことを下へ退つてから朋輩に伝へたことも有ました。
御前のお言葉に、
なんでも勝手にさせて、部屋へ手遊でも一杯持つて来て置くが好かろう、
何か面白がりそうな物をあづけて置けば、お袋のことなどは雑作もなく忘れて仕舞うに諚まつて居は、
遊ばせて、気をまぎらせさへすれば、面倒なことはあるまい、
子供はみんなそれじやからな。
侯爵様は子供といふ者は皆、此通り容易くまぎらすことの出来る者と斗り思召して入つした処が、セドリツクの昨夜の様子では多少あてが違つて余りお心持の好いことは有りませんかつた。
そして、床に着れても充分お休にならなかつたので、翌朝はお寝間をお離れになりませんかつた、午になつて、食事を果されてから、セドリツクを迎ひに使を遣わされ升た。
フォントルロイは直と命に随ひ先づ、広い梯段を飛下りて来て、廊下を走つて参り升た、
侯爵様は其足音を聞いて居られると、間もなく、戸が開き升て、這入つて来たセドリツクの眼が光つて、頬は真赤でした。
僕、待つてましたよ、あなたがお呼なさるのを、モウ先アきから仕度して居たんです、
色々な物下すつて、誠に有難う、ほんとうに有がたう、
僕、朝つから持て遊んで升たよ。
アヽそうか、貴様はあヽいふものが好か?
好ですとも、どの位好だか云へない程好ですよ。
>
とフォントルロィは嬉しさを満面に現はして、
アノ、あの中に、ベース、ボールに好く似たおもちやが有升よ、
僕、ドウソンに教へようと思ひ升たが、始めてだから、好く分らない様でしたよ、
婦の人だからべース、ボールなんかで遊んだことがないんでせう、
ネイ、それから、僕が教へて遣るのもそんなに上手でなかつたかも知れませんよ、
ダケド、あなたはよく知つて入つしやるでせう?
おれも知らない様だ、アメリカの遊びだろうな、
クリケツトに似て居るか?
僕はクリケツト見たことは有ませんよ、
ダケド、ホツブスさんがべース、ボールを見に幾度も連れてつて呉れたんです、
どうも面白いもんですこと、
みんな、どふも、一処懸命になつてネ、僕、行つてあの道具とつて来て、あなたに教へて上ませうか?
あなた面白くつて、足のこと忘れるかも知れませんよ、
今朝、あなたの足大変いたいですか?
余り有がたくない程痛むな、
セドリツクは心配そうに、
そうですか?
それじや忘れられないでせうネ、
そんなら、あの遊びのことなんか話されたら、うるさいでせう、
どうでせう面白いでせうか、うるさいでせうか?
侯爵さまは、
行つて持つてこい!
侯爵様にとつて、実にこれは事新らしい慰でした、遊びを教へやうといふ子供を合手にすることは。
併し、其事新らしいのが却てなぐさみになつたのでした。
彼の遊び道具の箱を腕に抱へながらセドリツクが坐敷へ帰つて来た時は老侯のお口の廻にどこかホヽ笑みがひそんで居る様でした、
そうしてセドリツクの顔には何か一処懸命に身が入つて居ることが現はれて居り升た、
セドリツクは、
僕、アノ小さな卓をあおたの倚子の側へ引ぱつて来ても好いですか?
老侯は、
ナニ、呼鈴を引て、タマスを呼べ、
どこへでも持つて来るから。
僕、独りで持つて来られ升よ、ダツテ、そんなに重くはない様ですもの。
お祖父様は「よし」と答へてセドリツクの色々仕度を整へるのを御覧じて入つしやると、セドリツクが余り熱心になつて居るので、顔のどこかに隠れてゐたホヽ笑みが段々外へ現はれて来升た、
先づ彼の小さい卓を前へ引き出して、老侯の倚子の側へ置き、おもちやを箱の中からとり出して、其上へ并らべ升た、それから説明にかヽつて、こふいひ升た。
あなた始めて見ると、中々面白いですよ、
ネイソラ、此黒い奴があなたの方で、此白いのが僕の方ですよ、
木で出来てるけれど人間の積なんですよ‥‥‥
とそれから何が外れで、何が勝だといふこと、この筋、あの筋が何々になるといふ委しい説明を致しまして、それから本当のべース、ボールではどうするのだといふこと、ホツブス氏と其勝負を見に行た時、どふいふ面白い景況であつたといふことを巨細に物がたるにつけて、自身に立つて、柳姿な少さな体を色々に働らかせて、其勝負を恰も見るが如くに演じ升たが聞く者は兎も角も、セドリツクが幼心の一筋に其遊戯を楽しむのを見るが快い様でした。
軈て説明も形容も終り升て、真剣勝負になり升た時も矢張り老侯には惓み玉わず、面白く思われ升た、一方では冗談処ではなく、一心不乱の勝負でした、
甘くあてた時の嬉しそうな笑と、一運して来た時の満足と、自分が勝つた時も向ふの相手が勝ちたる時も一向変らず同じ様によろこぶことは、どんな勝負ごとを誰としても随分愛嬌になりそうなことでした。
若し一週間前に誰かドリンコートの城主に向つて、御前はいつ\/、おみ足の病症も、御機分のわるいのもお忘れになつて、ちゞれ毛の小息子を相手に、色取りのした板の上で、黒白の木切をお玩弄なさることがありませうと申し上る者があつたら、どんなご不興を蒙つたか知れません、
然るに、暫くしてタマスが戸を開けて、客来を注進し升た時分は正しく己を忘れて居られ升た。(以上、『女学雑誌』第二七五号)
小公子。 若松しづ子
第七回 (丙)
此時の来客といふのは黒羅紗の服を着た老成らしい紳士で、とりも直さず、此辺りを牧する宣教師でしたが、坐敷へ通つていきなり眼に這入つた有様に驚いたのが、余り甚だしかつたので、思はず二足、三足後ろへ退つて、すでのことに、案内に来たタマスに突当る処でした。
一体、モウドント教師は、其職務上の必要の事情でドリンコート城へ推参する時ほど、不愉快に感じることはありませんのでした。
城主は其都度、権柄に仕かせて、存分牧師を不愉快にさせてお帰へしになり升た。
此城主は概して教会とか、慈善とかいふことは大のお嫌ひで、小作人どもが貧窮に陥るとか、病痾に罹るとかして、救つて遣らねばならぬといふ時には、此小民どもが好んで、態々こふいふ境界に陥りでもしたかの様に恐ろしいお憤りでした、
酒風症のお痛が烈しい時でもあれば、聞苦しい貧困話しなどは耳障りで、煩はしいとて、遠慮もなく、其のまヽお突き戻しになり升たが、お煩がさ程でなく、お心が幾らか如らいでゐる時分ならば、聞くに堪へられぬほど心のまヽに教師をおいじめなさり、小作人一同の怠懦、柔弱なことをお詰りなさつた上句に、幾分か金円をお恵みになり升た。
併し御機嫌の好い悪るいに係はらず、意地のわるい、刺衝的のことを仰つて困しめなさらぬことはなく、流石のモドント教師も、折ふしは、宗教の則に違はずして差支のないことならば、何か重い物でも投げつけ度と思ふ位でした。
モドント教師がドリンコート城の領地を牧し始めてより今日に至るまで多年の間、城主が故意に人に親切をなされたとか、何事が出来しやうと自分を置て、他を顧みるといふ様な御処行が只の一度も有つたのを思ひ出されぬ位でした。
今日推参したといふのは別して困難な一條を陳述して、救済を請ふ為でしたが、二ツ程理由が有つて、今日の訪問を格別嫌におもひ升た。
第一、御前には数日前より持病に悩まれて、寄りつけぬ様な御不機嫌だとて城下で評判する程でした、これをは城の若いお女中の中で、城下に小店を出してゐる妹が有て、針、糸、駄菓子を商ふのに世間の噂話しを景物に添へるので、結構活計が立つといふ処へ持つて行つて、御様子を伝へたからのことでした。
お城の内幕や、百姓やの内情や、城下で何処に何がある、誰が何をしたの噂を此おかみさんが知らぬ程の事ならば、別段話しにならぬのだと人に思はれる位、世間が明るいのでした。
そしてお城のことは尚さら、自分の妹が奥づとめの女中で、それが又給事のタマスには別して懇意でしたから、何もかも承知して居つたのでした、帳場の向ふに坐つて居て、此おかみさんの云ひ升に、
ダツテ、マアお聞なさいよ、タマスどんがヂェーン(妹の名)にぢかにそういひましたと、この頃御前の癇癪とどなり方は恐れるつて、
そうしてツイ二日前のこつてすと
どふでせう、マア、焼パンを載せて有つた皿を、突然、タマスどんにぶつヽけたんですとさ、
デスケドネ、朋輩は好し、他のこつて填合せがついてるから好い様なもんの、さもなければ直とお暇をとるんだつていつたそうですよ。
教師の耳へもこの話が這入つたといふのは、どこへ行つても侯爵さま斗りは噂の種で、茶呑話しにはキツト噂が出ないことはなかつたからでした。
第二の理由といふのは近頃新たに起つたことで、未だに巷の風評が八釜しいといふ丈に一層難渋な様でした。
先づ世間にかくれもないといふことは、末息どのが米国婦人と結婚された時の老侯の憤りと、カプテンを逆待されたこと、続いて、御一族の中で、たつた一人名望の有つたといふ立派で、威勢の好かつた若人が、金もなく、勘当を受けたまヽで、他郷の鬼となつて仕まつたことで、それから其妻で有つたといふ罪もない若い婦人をば、可愛そうに老侯のお憎くみなさることは一通りでなく、引いて出来た子供までが憎く、対面は決して許されぬ積の所が、長男、次男が亡くなつて、儲嗣になる可者を一人も残さなかつたことも、孫息子をいよ\/迎へることになつて情愛があるでも無れば楽んで待たるヽ訳でもなく、米国生れで有つて見れば、定めし下賎で、不作法で、出過ぎもので、大家の名折れになるに相違ないと心に諚めて居られたことは誰一人知らぬものも有ませんかつた。
自慢と憤怒で胸を燃した老貴人は、心の情は一切人に漏れぬことと思はれて、自分の感じたことや、懸念したことを敢て推測した人があろうとか、況して噂にかける様なものがあるなどヽは少しも思ひよられぬのでした。
然るに耳や眼の俊い婢僕どもは御気色を読み、御不機嫌、御鬱憂の原因を察し升て、其解釈を下へ下つては相伝へ、相弁ずるもので、下々の奴原は充分遠ざけて、内情を蔽い尽したと安堵して居られる時分に、タマスはヂヱーンやコツクや、パン焼や、給事中間にこの通り自分の説を述べて居り升た、
イヤ、おや玉は今日は、余計八釜しい様だぜ、こんだ来るつていふ孫どのヽこと考げへてよ、
ナニあんまり外聞の好い方じやあるめいつて心配してるのさ、
ダガ、あたりめへだ、仕方があるもんか、矢つぱり、自分がわりいんだもの、
アメリカなんて、下司斗り生れる国で、不自由に育つた者がナニ好いものになろう、ナア?
そこで、モドント教師が並木の間を歩ゆみながら、考へられると、此いかゞな孫どのは丁度其前夜、来着になつた都合でした、
して見ると、十が九まで、老侯の気遣ひ通りであつたろうと推量して、さて訳もしらぬ小息子が老侯を失望させたとすれば、十が十までも今ごろは煮へかへるほど猛り立つて居られて、運わるく、一番に出逢つた人が憤りの先に当るので其人は多分自分であらうと思ひ升た、
此通り故、タマスが書斎の戸を開けるや否、嬉しそうな子供の笑ひ声が響渡るのを聞いて驚ろかれたことでした。
イキセキした可愛いヽ、さゑた声で、
ソラ、二ツ外れ升たよ!
ネイ二ツ外れでせう!
と叫んで居升た。
見ればそこに侯爵さまの椅子もあり足台も有つて痛処のあるおみ足はチアンとそこに載つて居り升た。
其外お側に少さな卓が置て有つて、其上に遊道具がのせて有て、ズツトお側へすり寄つて、現に侯爵の腕と健全な方のお膝に憑れて居るのは何か一心になつた処為か、眼は踊り、顔がポツト赤くなつた小息子でした。
此見知らぬ小息子が、ソラニツ外れたでせう!こんどはあなたの方が運がわるかつたんてすよ、」といつて、フト二人が同時に向ふを見ると、誰か這入つて来て居升た。
侯爵さまは例の癖で、眉を顰めながら、あたりを見廻しましたが、這入つて来た者が誰と分つた時は武しひお顔が尚武しくはならず、却つて少し和らいだのを見て、モドント氏の不審はます\/晴ませんかつた。
実に侯爵さまは此時計り、御自分の平常人に対して不愛相なことと、お心一ツでどの位人を困しめられたといふことをお忘れなさつた様でした。
此時お声こそ変らね、多少打とけたかの様に握手の手を伸べて、
イヤ、モドントか、お早う、
わしもこの通りチト新らしい職掌を見付たのだ。
といひながら左りの手をセドリツクの肩に載せ、少しく前へ進ませて、
アヽ、時にこれが今度のフォントルロイだ、
フォントルロイ、領内の牧師を務めるモドント氏だ。
と云われる中に喜悦の情がお目に現われて居り升た、
定めし世継たる可き立派な孫息子を紹介する心の底には充分高慢気が有つたことでせう、
フオントルロイは宣教師の服を着た紳士を見上げて、手を出し、ホツブス氏が新らしい花主と挨拶するロ誼を一二度聞たことがあるのを思出し、宣教師には別して慇懃にせねば済まぬものと覚悟して、
あなた、始めてお目に掛り升、何分よろしく
といひ升と、モドント氏は我知らず、ホヽ笑みつヽセドリツクの顔を眺めて、手を握つたまヽ離し得ずに居り升た。
モドント氏は見ると直ぐ、セドリツクに愛情が起り升た。
一体、誰でもセドリツクを愛したといふのは、其美麗なのと、風采とに最も感じたのではなく、此子息子の心の中に湧き出る泉の様な清素優愛があふれて妙に成人びたことをいふ時でもそれが何となく、心よく、信実らしく聞える故でした。
教師がセドリツクを眺めて居る内は侯爵のことはさつぱり忘れて仕舞い升たが、実に世の中に深切な心ほど強いものはありません、
そうして其深切のあつたのは誠に小さな子供の心でしたが。此暗い様な鬱陶敷様な広間の空気を払つて、明るく爽快にする様でした。
教師はフォントルロイに向つて
手前こそフォントルロイ殿の眼通りをいたして、誠に悦ばしう存じます、
大層長い旅をかけての御来着で御座り升たが、一同御安着を承つて悦ぶことでご座りませう。
エー、どふも中々長いでしたよ、だけど、かあさんが一処でしたからネ、僕、淋しくなかつたんです、
誰だつて自分のかあさんと一処ならば、淋しくはないですはネ、
そうしてどうも船が奇麗でしたこと。
侯爵は、
モドントマアかけるが好い。
モドント氏は腰かけて、フオントルロイ殿を見、亦侯爵を見て特に言葉に力を入れ、
御前、誠におめで度う存じ升。
といひ升たが、侯爵は心の情を人に見られるを厭ふものヽ様に態と言葉を粗暴にして、
イヤ、おやぢに似て居るは、併し行状は似て呉れねば好いがと思ふのだ、
ソレハさて置て今朝は何用だ。
誰が困つて居るといふ訳だ、(以上、『女学雑誌』第二七六号)
小公子。 (丁) 若松しづ子
第七回
こふ聞て、モドント氏は思つたより好都合と悦びながら、しばしロ篭つて、
ヒツギンスの一條で御座り升、
エツヂ、ファームのヒッギユスで御座り升が昨年の秋は自身に病み、又候、子供に熱病を患はれ、不運が引続いて、困難いたし居り升、極く締りの好い方とは申されませんが、不運の重なつた為、万づ、不手廻りになつて、只今の処、何分家賃を納め兼ねて居り升が、御差配のニユーウヰツクが早速納めぬとならば、立退く様に申聞け升たそうで御座り升、
然るに、目今、同人妻も病気で、立退くと申せば、家族一同にとつて、容易ならぬ難渋故、何卒暫らくの御猶予を手前より御前へ歎願する様に、申出升て御座り升、暫時御猶予を願ひさへ致せば、又どうにか、都合の致し様も有る、と申て居升る、
侯爵殿ハ、はやお顔の色を変へて、
フン、みんな同じ様なことを云ひ立てヽ居るな、
フオントルロイは少し前へ進み升て、始よりお祖父様と客人との間に立つて居つて、一処懸命に耳を傾けて居り升たが、直ぐヒツギンスのことが気になり出しました。
子供は幾人あるのだろう、そうして熱病のあとは大層弱つて居るのか知らと思ひ、モドント氏の段々との話しに一層身が這入つて、大きく開けた眼を離さず、モドント氏を見て居升た。
教師は又も一際願を強めやうとして、
ヒツギンスは正直な人物です、
御前は、
随分厄介な店子らしいナ、いつも不手廻りに斗りなる様にニユーウヰツクが申て居つた、
教師は又、
何様今の処、非常に難渋いたして居り升、
殊に同人も妻子をひどく不憫に思ふ様子で御座り升、
田地をお取り上げになると致せば、明日よりも饑喝に迫る場合で、増して熱病後衰弱いたし居る二人の子供に、医師の命じられた滋養物などは、思ひもよらぬことで御座りませう、
こふ聞いて、フォントルロイは一足前へ進み升た。
そうして突然、
ミケルも丁度其通りなんでしたよ、
此時、侯爵どの、ビツクリされ升た、
ナンダ、貴様が居たのだつけ、おれは慈善家のこヽに居るのはサツパリ忘れて居た、
其ミケルといふのは誰のことだ?
と仰つた老侯の凹んだ目に、是も一興といふ様な一種特別な思わくが現われ升た、
フォントルロイは答へて、
ミケルといふのはブリヂェツトの亭主で、熱病をわづらつた人なんです、
それで家賃も払へず、葡萄酒だの色んな物が買へなかつたんです、
ダカラ、お祖父さまが僕に助けて遣るお金を下さつたんじや有ませんか、?
老侯は異様な八の字を額におよせなさい升たが、一向こわらしい八の字では有りませんかつた、
そしてモドント氏に向つて、眼を放ち
どふだろう、こふいふのはどんな地主になるかな、
実はこれの欲しがる物はなんでも遣わす様にハヴイシヤムに申付けて遣つたのだ、
スルト、ねだつた物が乞丐にやるといふ銭ださうだ、アツハヽ
フォントルロイは熱心に、
アレ、乞丐じや有ませんよ、
ミケルは立派な煉瓦職人でしたよ、
それから、其他の人もみんなかせぎましたもの、
侯爵は、これはしくぢつたといふ調子で、
其通りだつたな、
そんな立派な瓦職人だの、靴磨だの、林檎やだのだつたな、
そふ仰つて、暫らくフオントルロイを見詰めて居られ升たが、フト新らしい考が心に浮び升た。
其考が極く高尚な情から起つたとは確言出来ませんが、悪るい考へでは有ませんかつた。
間もなくフイト、
こつちへ来い、
と仰つたのを聞いて、フォントルロイは進んで間近く差寄り、わるいおみ足丈には触れない様にして居升た。
御前は改めて
こふいふ時に貴様ならどうする?
この時モドント氏は心の中に妙な感覚を起し升た。
元来、極く考への深い方で、富めるも貧しきも、正直で、勤勉なるも、不正で、怠惰なるも、領内の小民を知り悉して居り升たから、今彼の茶勝な眼を大きく見張り、両手を深くポツケツトへ入れた何気ない小息が未来には善にも悪にも何れにも振ふ可き大権を握るのだと始めて心に判然悟り、さて、傲慢、放逸な老人の一時の娯楽の為に今から心のまヽを働く自由を与へられて、万一其子供が質朴、慈善的な質でなければ、啻に小民共の為已ならす、自分の為にどの位の憂を来たすか知れぬと考へ付き升た。
侯爵は又も言葉を推して、
どふだ、貴様なら、こふいふ時にはどうする?
といはれて、フォントルロイは少し差寄り、極く中の好い友だちにでもしそうに、御手を侯爵の膝の上へのせ、誠に心置のない調子で、
僕は少さくつて、何にも出来ないから仕方がないけれど、大変お金持ならば、追出さずに、貸といて遣て、それから、子供にいろんな物遣り升う、
だけど、僕、まだ少さいからしやうがないは、
といつて、一寸口を閉ぢると思ふと、急に顔がさえ\゛/して、
ダケド、お祖父さんは何でも出来るですネイ、
といひ升と、御前は其顔をヂツト見詰めて、
ムー、貴様はそう思つてゐるのか?
と仰つて、少しも御不機嫌の様では有ませんかつた。
フォントルロイは、
僕ネー、お祖父さんが誰にでも何でも好なもの遣れるつていふ積なんですよ、
ニユーウィツクつて誰です?
侯爵様は答へて、
それは差配人の名だ、小作人には嫌がられる奴だ、
お祖父さん、今ニユーウィツクに手紙をお書なさるの?、
僕、筆や墨持つて来ませうか、そうすれば、此卓の上のおもちや、とつちまい升わ。
そふいふ処を聞くと、人に嫌られる様なニユーウヰクが手ひどい事をするまヽに侯爵が捨て置れるとは一寸も考へなかつた様子でした、
侯爵はまだヂツト顔を見詰ながら、少し躊躇し、
貴様は手紙がかけるか?
エー、書けるけど、よくは出来ないんです、
それでは、卓の上の物を退けて、おれの机から筆と墨と紙を一枚持つて来い、
と命じられるのを聞いて、モドント氏は只管、注意して居り升と、フォントルロイは手早く、云ひつけられたことを致して、暫時の間に、紙と大きな墨つぼと筆の用意が出来ました。
フォントルロイは嬉しそうに、
サア、お書なさい、
といひ升と、侯爵さまは、
ナンダ、貴様が書んだ、
フォントルロイの額は急に紅色になり、驚いた様な声をたてヽ、
僕、書んですか?
僕が書たんでも間に合うんですか?
僕、字引がなくつて、誰にも聞なければ、綴字が好く出来ないんですもの、
侯爵は、
間に合ふとも、ヒツギンスは綴字が悪るいつて、苦情はいふまへ、
全体おれが慈善家なのではない、貴様なのだから、
マア筆に墨をつけろ、
フォントルロイは筆をとり、インキつぼに入れ、居住ひを直して卓に寄り、
サア、なんと書くんです?
侯爵は、
「当分、ヒツギンスを其まヽ差置く可し」、と書いて、下へフォントルロイと記るすが好い、
フォントルロイは又筆を墨壷へ入れて、尚居住を直して書始め升た。
さて中々丹精なのろい仕事でしたが、一心になつて、掛りましたから、暫らくすると、書付が出来上り升て、ニツコリ笑ふ中に、聊か気遣ひな様子を雑へて、お祖父様にそれを渡し升た、そうして
どふでせうか、それで好いでせうか?
といひ升と、侯爵は受とつて、書付を見、お口の周囲が少し斗り妙にモヂ\/する様でした、
好し、ヒツギンスは大満足に違ひない、
と仰つて、其まヽ、モドント氏にお渡しになり升た、
モドント氏が書たのを見と、宛名のニユーウヰツク、又ヒツギンス其他の綴りが妙に間違つて居て、ミストルのmが少さい字で書いて有つた外に、「差置く可」の上に「何卒」といふ意が添へて有り升た、
そうして終に、「フォントルロイ、敬白」と記して有り升た。
アノ、ホツブスおぢさんが始終、手紙の下へそう書き\/し升た、よ
それから、お祖父さんはそう仰らないけれど、「何卒」つて書く方が好いかと思つたんです、
「差置く可し」と書くのはそれで好いんですか?
侯爵は、
字引に有るのとは、チツト、違ふ様だナ
僕もそうか知らと思つて心配したんですよ、
僕聞けば好かつた、
何んでも六ケ敷字は字引で見なくつちや、そうすれば大丈夫ですネ、
僕、も一度書直しませう、
といつて、こんどは、注意して、一々侯爵様に綴字法を質問しながら、中々立派な写しを拵らへて、こふいひました、
どふも綴字つて変なもんですネ、考へて見てこうかしらと思ふのと大変違うんですもの、
僕pleaseと書のはp-l-e-e-sと綴るのかと思てたら、そうじやないんですものネ、
それからdearは聞て見ない中はd-e-r-e かと思へ升わネ、
僕、時々厭になつちまうんです。(以上、『女学雑誌』第二七七号)
小公子。 若松しづ子
第七回 (戊)
さてモドント氏が暇を告げて帰り升時に其手紙を持つて行き升たが、まだ外に家へ土産に持ち帰つた物が有升た。
何かとなれば、是までドリンコート城へ推参して、帰途、彼の並木道を通ふる時分に、曽つて心に味つたことのなひ愉快と、希望とでした。
フォントルロイは戸口まで教師を見送つてから、お親父様のお側へ帰り、
サア、これから、かあさんの処へ行つても好いですか?
かあさん、僕の来るの、待つてるだろうと思ふんですから、
といひ升と、侯爵様は、暫らく黙つて入つしやい升た、そして、
其前に貴様が見度だろうと思ふ物が厩にあるが、どふだ?
呼鈴を引かうか?
フォントルロイは、急にポツト顔を赤くし、
お親父さん、誠に有がたう、
ダケド、僕、それは、明日見た方が好ですよ、
かあさん、僕が来るか\/と思つて、待つてるんですもの、
そふか、そんなら好い、馬車を云ひ付よう、
と仰つてから、又暫らくして、無雑作な調子で、
ナニ、小馬が居るんだ、
フォントルロイは長い息をつき、声をたてヽ
小馬!
誰の小馬なんです?
貴様のだ、
アレ、僕の?
二階の色んな物とおんなじに僕んですか?
そうさ、貴様、見度か、
見度ければ、こヽへ引出させようか?
フォントルロイの双の頬はます\/赤くなり升た、
僕、小馬なんか持ふと思ひませんかつたよ!
チツトモ、そんなこと、思はなかつたんです、
かあさん、どんなに、嬉しがるか知れませんよ、
お祖父さん、僕になんでも下さるのネ
侯爵は、また
貴様、見度か?
フォントルロイは又長い息をつき、
僕、見度なんて、僕、見度くつてしようがないけれど、暇がないかも、知れないんですもの、
貴様、どふしても、お袋の処へ、けふ行つて、逢はなければならんと云ふのか?
貴様、延ばす様には行ないのか?
エー、だつて、かあさんもけさつから、僕のこと考へてたんですし、僕も、かあさんのこと、考へたんですもの!
ハヽア、そういふ訳か、そんならば、呼鈴を鳴せ、
さて、同車で並木道の、蔽ひかヽつた木々の間を通る間、老侯は沈黙でしたが、フォントルロイは中\/そうでは有ませんかつた、
其小馬の話を頻にして居ました、
どんな色で、どの位大きいといふこと、其名はなんといつて、何が一番好といふこと、今いくつだといふこと、あしたの朝、何時に起たら、見られるといふことなどを尋ね升た、
話しの合間\/には「かあさん、どんなに嬉しがり升か」と頻りに云つて居升た、
それから又、
かあさん、お祖父さんがそんなに僕に深切にして下さるの、どんなに有がたがり升か、
僕小馬が大好なの、かあさん、よく知つてるけれど、僕だつて、かあさんだつて、僕が小馬持つだらうなんて、チツトモ思はなかつたんです、
アノ、五町目に小馬を持つてた子が有つたんです、
そうして毎朝乗つては歩いて居たんです、
それから、いつか、かあさんと僕、其人の家を通つて、居るか知らと思つて、見て見たんです、
それから、布団へよりかヽつて、頻に老侯のお顔を見守つて、暫らく、だまつ居升た、軈て、大層子細らしく、
僕、お祖父さんの様な人、どこにだつてないと思ふんです、
ダツテ、いつでも好いこと斗りして入つしやるんだもの、
そうして、他の人のこと考へて入つしやるんだもの、
かあさんが度々そういひ升たよ、自分のこと、考へないで、人のこと、考へるのが一番好いこつたつていひ升たよ、
デ、お祖父さんが丁度そんな人だと、僕思ひますよ。
御前は大層結構らしい人物に画き出されたので、流石に、気臆れがして、何といふ言葉も有ませんで、先、少し考へてから返答をしようと思つて居られ升た、
幼心の淡純な一ツで、自分の卑劣、勝手な目算を一々、善良、優愛的な趣意に推し違へられるのは亦、一種特別な経験でした。
フォントルロイは賞嘆の眼‥‥‥いかにも、パツチリした、涼しそうな、あどけない眼を離さずに又いひ升た、
お祖父さんは、どふも人を幾人も悦こばせたこと、ソラネ、勘定して見升よ、
ミケルとブリヂェツトと十人の子供でせうネ
それから、林檎やのおばあさんと、ヂツクと、ホツブスさんとヒツギンスさんと、ビギンスのおかみさんと、モドントさん、モドントさんだつて嬉しがつたに諚つて升からネ、
それから馬だのなんだの、いろんなことで僕とかあさんでせう、
ソラ、僕、今、だまつて指で勘定して見たら、お祖父さんの親切した人、丁度、二十七人有升よ、
大変じや有ませんか、
丁度二十七人です、
ハヽア、それじや、己が皆なに深切にしたといふ訳なのか?
エー、そうですとも、お祖父さんがみんなを悦こばせたんです、
こふいつて、少し遠慮気味に控へて、
アノ、お祖父さん、知つて升か、
人が侯爵のこと、知らないと、時々間違つて升よ、
ホツブスさんも、そうでしたよ、
僕、手紙を遣つて、よふく、話して遣ろうと思つたんです。
ブツブスさんは侯爵のことをどんなに考へてたんだ?
アノネ、こういふ訳なんです、
ホツブスさんは侯爵なんか、一人も知ないで、たゞ本で斗り、読んでたんでせう、そうしてこふ思てたんです、
‥‥‥お祖父さん、気に掛ちやいけませんよ、
アノ、血まみれな圧制家だと思てたんです、
だから、自分のお店へなんか足踏もさせないなんて、いつたんです、
それだけど、お祖父さん知つてたら、丸で、違つた考へになるに諚つて升よ、
だから、僕、あなたのこと話して遣るんです、
何んていつて、話すんだ?
フォントルロイは一心になり、
なんていふつて、僕、あなたの様な、深切な人、聞たことがないつて、そうして、いつでも他の人のこと斗り考へて居て、悦こばせて斗入つしやるつて話し升わ、
それからアノ、僕、大きくなつたら、丁度、お祖父さんの様になり度つていひ升わ。
御前はさえ\゛/した其顔を見詰めて、
ナニ、丁度おれの様になり度といふのか?
と仰つて、流石にかしけたお顔の面にそれとも分かぬほどボンヤリと赤みがさし升た、そして俄かに眼を外向けて、馬車窓から外面をお眺なさい升たが、大きな山毛欅の樹の艶\/した茶色の葉は、日影に輝り渡つて居り升た。
フォントルロイは恥かしそうに、
エー、丁ツ度、あなたの様になり度んです、
と云つて、亦跡から、
そうなれヽばです、
僕、そんなに好い人になれるかどふだか知れないけれど、マア遺つて見るんです、
さて馬車は木々の緑が影をなす合間\/に、黄金の光を漏してゐる壮厳なる並木道を轟つヽ、進行致し升た、
フォントルロイはしだが生繁り、桔梗の微風に招て、なびきなびいてゐる、美しい気色や、草深い処に立たり、寝たりしてゐて、馬車の音に驚かされ大なビツクリした眼をこちらへ向る鹿の群や、茶色の兎が跳ね通るのを見たことは前日の通りでした、
又野鶏の羽や、小鳥が囀り、呼び合ふ声を聞て、何も彼も、前日よりは一入見事の様におもひ、四方の美に囲まれてゐる心に、得も云われぬ愉快が満ち\/て居りました、
老侯も亦同じ様に目には外面を眺めて居られながら、見聞なされた物斗は是とは丸で違つて居り升た、
此時老侯の眼の前に、何か外事の様に段々と見えたものは慈善らしき業も、深切めいた思遺りも、皆無の長ひ生涯でした、
元来、春秋に冨み、健康で、財産にも権力にも不足のなかつた者が、日を過ごし、年を経るに随がつて、たゞ\/己れ一人を楽しませ、年月をつぶそふが為に、雄壮な精神も、富しも権力も悉く消費し尽して、さて、其果に春秋は行て再び呼戻す術なく、老衰の襲ひ来る時分に、有余る宝の中に坐りながら、シヨンボリ、真の朋友一人なく、自分を嫌ひ、恐るヽもの、或は追従し、諂ふ者は有ながら、自分の損得に係わらぬ限り、此老人が生存らへようと、死なふと意に介するものが一人もない、哀れな境界を廻想われ升た。
老侯は現在、遥かに、眼も及ばぬ田畑は、御目身の処有で、面積はどの位、価値にして、どの位、又是によつて、生活を立てヽ居る小民どもの数は、どの位といふことなどまだフォントルロイが知らぬことまでも、此時思廻はして居られました。
それに加へて、またフォントルロイの知らぬことで、此時、老侯の心に浮んだことは、さしも広い領地に棲活して居る小民どもの中で、上も下も、推なべて、老人の財産や、門閥や、権力を貪つて、出来れば、甘じて、自分等のものにしよふと思者こそあれ、此純潔な小供に做つて、仮にも、殿様を善良な人とか、その性質に似度などヽ思ふものは一人もないといふことでした。
さてまた、七十年の久しい年月の間、己を以つて足れりとして、自分の安逸か、さなくば、娯楽に関係せぬこととては、世間の人が自分を何と思わふと、一向に頓着せぬ厭世的な、世なれた老人でも、こふ考へては、流石に心地の好い事は有ませんかつた。
全体、こふいふことは一切考へ起さぬ様に、かまへて居られたのでしたが、一人の幼ない子供が、自分を善良な人と信じて、其足跡を踏み行ひ、其手本に習わふと云つたに付いて、実際、自分、人の手本になるに適当で有ろうかといふ、チト新奇しそうな疑問を、心に呼起されたのでした。
フォントルロイは老侯が園を眺めながら、眉を頻りに顰め玉ふのを見て、さては、おみ足の痛むことだろうと心得、幼稚にしては、珍らしいほどの斟酎をして、なる丈、邪魔にならぬ様に、沈黙に、外の気色を楽しんで居り升た。
そうこふする中に、馬車は門を過ぎ、暫く、緑の生垣の間を鳴渡らせてから、軈て止りました。
即ちコート、ロツヂに着したので、丈の高い給事が馬車の戸を開ける間も有らせず、下へ飛び下りました。
老侯は急に追想の夢を破られてビツクリし、
ナニ、もふ来たのか?
エー、サーお祖父さんの杖をあげますよ、
お下りなさる時僕にズツト寄つかヽつて入らつしやいよ、
御前は雑泊に、
おれは、下りはしないのだ、
フォントルロイは、さも驚いたといふ顔で、
アレ、……かあさんに逢に来ないんですか?
老侯は冷淡に、
イヤ、御免を蒙るのだ、 貴様行つて、新らしい小馬の見たさも、逢たさには代へられなかつたといふが好かろう、
かあさん、失望しますよ、
キツトお祖父さんに逢たがつて居升もの、
ナニ、そうでもあるまい、
帰りに又迎によるぞ、これ!
タマス、ヂェツフリーズに、モウ参れといへ、
タマスは馬車の戸を閉ぢ升た。
フォントルロイはまだ不審顔をして居ましたが、軈て家へ行く馬車道を駈け出しました。
此時、御前はハヴィシヤム氏が前に一度見たことがある、走て、殆ど地に着かぬ程速かで、屈強な双の足を眺める折を得られ升た。
其足の主は一分時も暇を惜しむ者であつたことが明白でした。
馬車は徐かに進行いたし升たが、御前は、暫らく、後ろへ馮らずに外を眺めて居られました。
植込の間から家の戸が見え升たが、其中、戸をズツト押開けるものがある。
こちらからは少さな人が一飛びに階段を上る、モ一人、是も柔かな、若そうな、黒の着物の人が、走り出して来ると見る中に、双方から飛んで来て、一所になつた様に、フォントルロイは母の腕に縋り、頭を抱て、其可憐な、若\/しい顔を処えらまず、キスのしつゞけをいたしました。
(以上、『女学雑誌』第二七八号)