『小公子』第十三回本文
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『小公子』初出本文のHTML化について

○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。

○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。


 小公子        若松しづ子

第十三回(甲)

ドリンコート城で彼の宴会が有つて幾日も経ぬに英国中凡そ新聞紙を読む人で、此お城に新らたに起つた小説めいた話しを知らぬ者は有ませんかつた。
実に此一條を其まヽ巨細に話せば、随分面白味のある小説になり升た。
第一、フォントルロイ殿として英国へ迎へられた米国生れの小息子のことが有り升たが、これは容色も人品も尋常でない様に評判されてゐて、はや人の望が一般是に帰して居り升た。
第二に、儲嗣に付ては大自慢の老侯が有り。
又第三には、カプテン、エロルと結婚した為に受けた不興が未に解けぬ彼の若い美人の母のことが有り升た。
其上今は世にない先のフォントルロイ殿なるビーヴィス君の始めて現われた結婚のこと、誰も見知らぬ其夫人が急に子供を連れて立あらわれ、我子こそ真のフォントルロイ殿ぞと権理を主張するといふのですから、段々との事件をしやべりたて、書たて升て、世間では一方ならぬ騒動をして居升た。
さうかうする中に、ドリンコート城主が此度起つた事件と其成行に頗る不満で、言立に対して法律上控訴されるに付ては、一大公事になるかも知ぬといふ風評が続で聞へ升た。
エールスボロの村のある郡中に曽つてこれ程の騒動の起つた例は有ませんかつた。
市日などには、成行はどうであらふ、こうであらふの話をする人々が群をなして居り升た。
百姓のかみさんたちは、聞いたこと、思ふこと、又人が思つてゐると推することまでも互ひにしやべりくらべして、楽しまふが為に態々茶呑みに朋友を招きだてする位でした。
侯爵の憤怒の事、新たなるフォントルロイをそれと認まいの強情に付て、原告の母なる婦人に対しての憎悪なとに付ては、さま\゛/珍奇しい噂話をいたし升た。
併し話しの最も多いのは矢張り、彼の荒物やのおかみさんで、以前より又一層繁昌いたし升た。
彼の婦人の言葉に、

イヤハヤ、飛んでもないことになりさうですよ、そうしてそんなことは大きな声じや言へませんがネ、あんな可愛らしい人を意地わるく、子供まで取り上げてしまつた罰ですよ。
デモ、おまへさん、其子が又可愛いくつて\/、秘蔵で\/自慢で\/しよふがないもんだから、こんどのこつて、丸で、狂気の様ですと。
それにネイ、おまへさん、こんどのは先の若様のお袋さんとは大違ひで、お品も何もない女ですと。
何んだか。
シヤアツクで、眼玉の黒い変なんですと。
だもんですから、制服を着て務める位の身分の者が、あんなもんに遣われるのは外聞がわるいつてネ、それで、お邸へ這入るつていふのなら、おれは直と退くなんていつて升たよ。
それに、こんどの子つていふのは先のと較べれば、月と鼈といわふか、マア迚も比較べ様もない様なんですと。
そこで、おしまいにはどんな騒動がおつぱじまるか、いつ方がつくこつたか分りませんよ。
わたしつてバネ、ヂェーンが来て、其話しをする時なんか、肝が潰れて、さわつても倒れさうでしたよ。

城中でも上から下まで騒ぎでない処はない位でした。
侯爵とハ氏とが協議して居られた書斎にも、タマスやパン焼や、他の僕婢たちが引も切らず噂をしては囁き合ふ僕婢の部屋にも、ウィルキンスが鬱憂極まる顔色で仕事をしてゐる厩にも同様でした。
ウィルキンスは例の茶色の小馬をとり別け、丁寧に世話をし、御者に向つて萎\/と、

おらあ、あんなに雑作もなく憤れツちまつて、あんなに威勢の好のに馬術、をせいたこたアねへんだ。
あヽいふんなら後ろから供をしてつても、心持が好いや。

といひ升た。
然し此大騒動の真最中に、極く静かにして、一向狼狽もせぬ人が有升た、其人といふは、最早フォントルロイ殿でもなんでもない様に思われて来た、フォントルロイで、始めに事情を明細に説き聞かされた時は、少しく心配にも、又当惑の様でも有りましたが、併しこれとても、出世の大望が外れた為では決して有ませんかつた。
侯爵が彼の一條を話し聞かせられてゐる間は、膝を抱へ乍ら低い台へ腰かけてゐ升たが、これは精神の這入たことを聞く時分いつもする僻で有つたのでした。
其話の終る頃には平常にないまじめになり升た。
そして、

僕、なんだか変な心持がし升よ。
なんだか‥…変です。

といひ升た。
侯爵は沈黙に子供を見て居られ升た。
御自身のお心持も変でしたが、実際生涯にかふいふ変な心地がした例がない位でした。
そして、いつも、さも嬉しげな可愛いヽ顔がけふに限つて当惑さうなのを見て、尚さら変に感じられ升た
此時セドリツクは少し震へた様な心配さうな声で、

あの人たちがかあさんの家だの、アノ‥‥‥馬車だの、とつてつてしまうでせうか?、

ナニ、そんなこと、(と侯爵さまが声高に)何もとつて行くことは出来んのだ、

セドリツクは先づ一と安心といふ調子で、

アヽさう?
とつてけないんですか?

さういつて、お祖父様のお顔を仰向いて見詰め、少し掛念する事がある様子で大きな、眼を潤ませながら、言ひかけて尚こわ\/に、

アノあつちの子ネ、お祖父さま、アノ‥‥‥子がこんどつから‥‥‥お親父さまの‥‥‥アノお祖父様の子にならなくつちやならないんでせう‥‥‥アノ今までの僕見た様に。

ナニ、そんなことがあらふ!

と仰つた侯爵のお声が余り武しく、大きかつたので、セドリツクは飛び上るほどビツクリし升た。

アレさうでもないの!(と不審さうに)さうならないんですか、僕、さうかと思つたんですよ。

といつて、急に腰かけを離れ、

僕、侯爵にならなくつても、矢つ張り、お祖父さまの子なんですか?
先の通りにお祖父さまの子?

といつた顔が紅で、そこに、返事を待つ一心が現われて居升た。
どふもこの時の老侯が、頭から足の先まで、セドリツクを御覧なさり様といへば、実に非常でした。
彼のフツサリした眉の寄せ塩梅といひ、其下の窪い眼の光り様といひ、実に平常と違つて居り升た。

おれの子かなんて、おれの息のある中は貴様はいつまでもおれの子だ。
それに貴様の様におれの子だと思つたのは他に誰もない気がするんだ。

と仰つた声いろが非常に、震つた様で、チギレ\/の様で、枯燥た様で前よりも殊さら一層きつさうに物を仰つても、侯爵らしい処は有ませんかつた。
セドリツクの顔は頭髪の根まで赤くなりました。
心の落着と嬉しさとで赤くなつたのでした。
そこで両方の腕を深かくポツケツトの中へ突き込み、お祖父さまのお顔を、此度は一向恐気なく見挙げて、

お祖父さま、ほんとうにそんな心持がするんですか?、
ジヤ、僕、侯爵だの何んだのつて、そんなこと、どふでも好いですよ。
僕、侯爵になんかならなくつても好いです。
僕ネ、かふ思つたんです。
アノ、侯爵になる子の方がお祖父さまの子にもなるのかと思つたんです。
ネイ?さうすれば、僕さうじやないんだナつて思つたんです。
だから、僕、変だつたんです、ネイ?

侯爵はお手を其肩の上へ載せて、自分の方へズツト引きよせ、太い息をつきながら、

おれの力の及ぶ丈は、何も彼も抑へて、取らせはせん。
おれはまだ信ぜん。
あいつらが貴様の物に手をつけることが出来やうとは信ぜん。
どうしても、貴様には此位が備わつてゐるのだ。
それで矢つ張り、貴様のになるかも知れん。
ダガナ、何事が有らうと、おれの力にいきさへすれば、何もかも、貴様に遣るぞ、一切遣るぞ。

かふ仰しやるお声とお顔に非常な決心が現われてゐまして、丸で子供に物を言つて居られるとは思へない様でした。
我と我が心に誓約をされるかの様に聞え升た。
そして実際さうで有つたかも知れません。
今が今まで、どれ程までに、子供を寵愛し、どの位自慢で有つたか、御自分でも御承知がなかつかの様で、其の屈強な処も、美質のある処も、容色の立派さも、これ程とはと、今さら詠められる様でした。
其頑固極まる性質にとつては、左程堅く心に諦めたことをやめるといふことは殆どなし難い、一体左様なことはない筈としか思へませんかつた。
それ故、よし権理を人手に渡すにしても、充分遣合ふてからでなければと、断然決心されたのでした。
ハ氏に面会した数日後に、フォントルロイ夫人と言ひ立た婦人がお城へと推参して、彼子供を引連れて居り升た。
併し早速に追ひ返され升た。
取継に出た給事が侯爵さまは面会お断りで、出入りの代言人に委細取斗らわせるで有らうと申伝へ升た、上からのお取継をしたのは、彼タマスで、あとで、僕婢の部屋で滔々と此婦人に付ての考へを陳述し升た。
タマスの言葉に、

わしも華族方のお邸で制服勤めを長らくした、お蔭には、此婦人がどの位に品のある位か知れないでたまるもんか。
それで、あの女が貴婦人だといふなら、わしの女を見る眼は腐つて居るツていふん。

といつて、一層自慢らしく、

憚りながら、あのロツヂに居る方は、ソリヤ、アメリカ生だらうが、さうでなからうが、あれこそ、本当の品のある方よ。
片眼しか開いてないだつて、その位はこちとらにやア知れらア、それだから、あそこへ始めて行つた時、直ぐとへンレにさういつたんだ。

(以上、『女学雑誌』第二九三号)


 小公子      若松しづ子

   第十三回(乙)

女は拠なく、引返し升た。
容色こそ好けれ、下卑た其顔をこわ\゛/ながら恐ろしい権幕にして。
ハ氏は段々と度々面会する内に、此女が非常な疳癪で、行儀は粗暴に卑野計り有つても、談判は中々器用に行かず、又存外度胸も坐つて居ないといふことを発見し升た。
時としては、自分ながら大層な請求をし始めたと我ながら気おくれのする気味があつて。どの道、これほど攻撃を受けやうとは夢にも知なかつた様子でした。
ハ氏がエロル夫人に此女の話をして、かふ言ひ升た。

其の婦人といふは正しく、下等社会の人間で御坐り升。
何事にも、教育とか、躾とかいふものは皆無の様子で御坐り升から、われ\/どもと相対して、同等の交際をする術さへ知らず、自分も途方にくれる塩梅が見えており升。
お城へ推参しても、余程毒気を抜かれたものと見え升テ。
イヤ恐ろしい権幕で腹はたてヽも、余ほど毒気を抜かれて居るのです。
侯爵は面会はお断りになり升たが、手前がお勧め申して、投宿して居る宿へお連れ申したのです。
先づ侯爵がお入りになるのを見ると、肝を消し升てナ、真青になつたと思ふと、俄に猛り立ちまして息もつかず赫して見たり、請求をしたり、イヤハヤ、大騒動で御座り升た。

此時の実況を申さば、侯爵が先づ厳めしい貴族的の豪の者の如くに、ツカ\/と大股に室へ踏み込み、突立つたまヽ秀でた眉の下からヂツト女を見詰めながら、敢て一言も仰つしやらなかつた塩梅は、何か、極く忌はしい物ながら、珍奇らしさに、見る眼を離されぬといふ調子で、只頭から足の先まで、と見かふ見して居られ升た。
そして、自分は一向口を開かず其女が疲れ果てるまでしやべらせた後で、

貴様はおれの長男の女房ださうだ。
真つこと、貴様のいふ通りで、証拠が慥かならば、是も非もなく、法律上貴様の方が勝利だ。
万一さうとすれば、貴様の生んだ子がフォントルロイに違ひはないが、事実は土底まで確かめる覚悟で居るから、さう思ふが好いぞ。
貴様の申立が其通となれば、正当丈のことはして遺はさうが、それにしても、おれの息のある中は、貴様も、貴様の生だ子も一切眼に触て貰ふまい。
おれが眼を眠つてからは、貴様ふぜいに、あの城を手もなく蹂躪されるのだが、それは拠ないのだ。
全体おれの長男なら、丁度貴様たちの様な者に拘らふ奴だと断念めて居るのだ。

と仰り残して、其まヽ立つて、ツカ\/と来られた時と同じ調子に又立去られ升た。
これより数日後に、小坐敷で書物をして居たエロル夫人へ下女が客来を報じ升た。
下女は取り続をして、何かドギマギした様子で、眼を丸くして居り升た。
そしてまだ年若で、ものなれぬ処から、奥様の為に非常に気遣つて居る体でした。
それで、何か恐ろしくて、ビク\/して居るといふ声で。

奥様、マア‥‥‥あの侯爵さまで御座い升よ。

エロル夫人が客間へ這入升た時、丈高く、凛然とした老人が虎の革の敷物の上に立て居られ升た。
其立派な老顔には、どことなく渋味があり、横顔は鷲の顔を見るの趣味が有り、長く延した八字髯は真白で、容貌は一ロに頑固といふ方でした。
先言葉をかけて、

エロルの妻であらうな?

左様で御座り升。

おれはドリンコートだ。

と言れて、自分の顔を何気なく、見挙た顔に、我知らず一寸眼を止めると、数月以来、一日に幾度となく、自分と見かはす、げんきな、愛くるしい、幼ない眼に生写しなので、妙な心持になり、唐突に、

あの子供は、よくも貴様に似て居るナ。

御意で御座り升、左様に申すものも沢山御座り升が、矢張父に似て居る様にも考へ升て、楽みに致し升ので。

ロリデール夫人が嘗つていつた通り、エロル夫人の声は真に涼やかで、其風采はいかにも淡純に、上品でした。
夫人は侯爵の思ひよらぬ御入来を、聊か迷惑に思つた様子は有ませんかつた。
そこで侯爵も、

さうだ、おれの‥‥‥子にも‥‥‥似て居る、

と仰しやつて、手持なさに、彼の八字髯を遺恨でも有りさうに、頻りに引張りながら、

貴様、おれがけふこヽへ来た訳を知つてるか?

アノ、ハヴィシヤムさまにお眼に掛り升たら、今度云々の言立をする人が御座り升さうで‥‥‥

それで、力の及ぶ限り攻撃する積だ。
それでは法律上差支の無い限り、保護する心だから、そのことを言ひに来たのだ。
子供の権理は‥‥‥

夫人は優しい声で押とゞめ、

たとひ法律がゆるし升ても、正義にかけて所有権のないものならば、決しておとらせ下さりません様に願ひます。

イヤ、法律上で子供のものになりさへすれば結構だが、それさへ出来さうもないのだ。
彼無法千万の女親子が‥‥‥

夫人は再びしとやかに、老侯の言葉を遮り、

併し御前様、其婦人にいたしても、手前がセドリツクに対すると同じ情愛を持つて居ることで御座りませう。
それで、其婦人が正しくお世とりで有らせられた方の夫人とならば、其お子がフォントルロイ殿で、手前のは左様でないことは極く明白で御座り升。

かふいふ様子の素直で一向恐気のない処は、よくもセドリツクに似居て、自分を見る顔付も亦セドリツクの通りでした。
それで、一生涯人を圧制しあぐんだ身には、却て、心の中に愉快を感じられ升た。
何と言ふと、侯爵に反対をいふ人は極く稀でしたから、物珍らしくも、面白く思はれたのです。
そこで、態と少し眉を顰めて、

貴様は全体子供がドリンコート侯にならぬ方が勝手と申すのだらう。

此時夫人は、花やかな其顔を紅らめ、

どふいたし升て、ドリンコート侯爵と申せば、大した格式で御座り升。
併し手前は子供が何はさて置き、第一に父に傚ひ升て、万事に雄々しく、正義を守る様致し度ので御座り升。

老侯はかふ聞いて、少し嫌味に、

ハヽア、祖父とはなる可く、正反対に有らせ度といふのだらうナ。

憚ながら御祖父様にはお知己が御座りませんので、何とも申上られません。
併し子供は誠によく信‥‥‥(言さして、暫し口を鉗み、静かに侯爵のお顔を打守り)セドリツクが御前様にお懐き申て居ることは、よふく承知致して居り升。

侯爵は極く味気なく、

どふだらう、貴様を城へ迎へない訳を知らせても、矢張りおれに懐いたらうかナ?。

どふもさうは参りませんでしたらう。
それ故、手前が是非知らせ度ないと存じたので。

御前は唐突に、

ダガ、それを言はない位の女は、たんとないナ。

と仰つて、益々八字髯を引張りながら、座敷をあちらこちらと濶歩し、

さうだ。
あれはおれを好きな様だし、おれもあれを愛してるのだ。
おれは全体、誰も好いた覚へがないのだが、あれ丈はどふも可愛いヽのだ。
始めから、気に入つてしまつたのだ。
おれも年をとつて生活が懶くなつて居た処だつたが、あれが来て、長生のし加斐が出来たといふものだ。
それで、人にも自慢して、おれのない後は、あれが家の首領になるのを満足に思つて居たのだ。

といつて、夫人の坐つて居た前へ来て、突つ立ち、雑粕にかふいはれ升た、

おれは不愈快極まるのだ。

御様子を窺へば、なる程、さこそと思はれる様でした。
平常我慢なたちも、手と声の震へをとゞめることが出来ない位でした。
一寸其時には、凹い武しいお眼が涙で潤んでゐたかの様に見え升した。
眼を見張つて、言ふがまだ少し残念さうに、

おれは非常に不愈快な処為で、貴様の処へ来る気にもなつたのだ。
一体おれは貴様を憎い奴と思つてたのだ。
それから又貴様のことをやつかんだことも有つたのが、今度不名誉極る事件が起つて見ると、万事の体面が変つて来た。
おれの長男の女房と名乗るアノ嘔吐い女を見てから、貴様と顔を合せれば、却つて気色が直るかと思つて来たのだ。
おれもよつぽど頑固な老ぼれで、貴様に対しては、済まぬこともあらふ。
ところで貴様はあの子に似てゐるが、あの子の為におれも生きてゐる様なものだから、今度の事件で不愈快極まる処から、あの子に似て居る貴様にも逢ひ、あの子を思ふ処が貴様もおれも同一だから、それで、必竟、こヽへ来る気になつたのだ。
貴様も子供に免じて、おれをひどく悪く思つて呉れるな。

かふいはれた声は左程優しくはなく、いづれかといへば粗暴な様でしたが、兎に角余り落胆されてゐる様子振りに、エロル夫人は気の毒さが心に溢れ、立つて、安楽倚子を少し前へ進め、極く優しく、可愛らしく、同感の情を篭めた調子で、

マア、兎に角、おくつろぎ遊しましナ。
頃日御苦労の多いので、余ほど御被労遊してゞす。
存分お厭ひ遊ばしませんでは。

率直に自分の言つたことを反対されるが珍らしければ、優しく、飾りけなく物をいはれたり、真心から介抱られるのも亦老侯にとつて珍らしいのでした。
又しても、セドリツクによく似た処よと思ひつヽ、言れるまヽに座に着かれ升た。
かく落胆し、かく不愈快を感じられたことは、老侯にとって、屈強な懲戒で有つたのでしたらう、不幸な遇境に陥なければ、相変らず、夫人を憎くんで居られたかも知れません。
併し、今の処では対面が結句心遣りになつたのでした。
それに、フォントルロイ夫人に面会された当坐は、何事も比較的に愉快と見たことでしたらうが、況てエロル夫人は誰が見ても、容貌や声が可愛らしく、進退も誠にしとやかでした。
暫らくする中に、静かに、温かな週囲の空気に同化されて、心地が漸くすが\/しくなつた処で、また、少し言葉を続けられました。

何事が有らうとも、子供の為には適当の用意はして置くぞ
今も未来にもおれが必ず、不自由はさせぬ。

といふて、立かけて、座敷を見廻し。

どふだ?、此家は気に入つたか?

誠に結構で御座り升。

中々小ざつぱりした座敷だナ、又時々に来て、話しても差支ないかナ?

御意に叶ひ升たら、いつ何ん時でもお入り遊しませ。

そこで、馬車に乗つて、お立帰りになり升たが、タマスやへンレなどは、今度のなり行の異様なのに胆を消して、物も言へぬ位でした。
(以上、『女学雑誌』第二九四号)


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