『小公子』初出本文のHTML化について
○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。
○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。
小公子
第六回 (甲) 若松しづ子
さて翌日フォントルロイ殿とハ氏が乗つた馬車がドリンコート城へ行ふといふ長い並木を通りました時は正午も余程過ぎて居りました。
老侯の仰に、フォントルロイ殿を晩餐に間に合ふ様連れて参れと有りました。
又た何か特に思召が有たものと見えて、老侯が独り待ち受けられるお居間へ付添ひ手なく、たゞひとり遣はせといふお言葉でした。
馬車は彼の並木の間を轟音高く走しる中、フォントルロイ殿はユツクリと立派な羽布団に寄つて、四方の気色を余念なく、眺めて居られましたが、見る物聞くもの面白くないものは有ませんかつた。
きら\/した馬具の付いた、立派な大馬の引く馬車にも、見事な揃を着た背の高い御者や馬丁にも心を付られ、特に大門の扉に彫付て有た冠の摸形に眼が止りまして、どういふ理由のあるものか研究をするとて懇に馬丁と知己になりました。
それから、馬車がお庭の御門の前へ来ました時、入口の両側に有た石造の獅子をよく見ようとして、馬車窓から首を出しました。
此時蔦が青々と覆ひ被せた家を出で、御門を開いた者は頬の色の好い母らしい女でしたが、ニ人の子供が跡に続いて駆出して来まして、丸い、大きな眼をして馬車の中の若ぎみを眺めて居りました。
お袋らしい彼の女は、ホヽ笑みながら、腰を屈めました。
そうして子供等も、お袋に催促されて、頭をさげて辞儀をしました。
フォントルロイ殿は、
アノ女は僕を知つてるんでせうか?、
知つてると思ふんでせうね。
と云つて、黒天鵝絨の帽子を脱いで、こちらからも笑ひかけました、又例のさゑた調子で、
今日は!
御機嫌は如何?、
といひますと、女が嬉そうな顔つきをした様に、セドリツクには見ました。
始めからホヽ笑んだ口が、いよ\/広く開きまして、眼元にも親切相な処が現はれて来ました。
若様、よくお入りで御坐いました、マアお見事な若様で入つしやいますこと!、
御好運と御幸福を幾久しく祈り上ます。
と申ました。
フォントルロイ殿は帽子を振て、再び会釈し升た。
終に馬車は女の側を通つて、先へ進みました。
僕はあの女がなんだか好です、子供が好の様な顔して居すもの、僕は時々こヽへ来て、あの子供たちと遊び度もんですね、まだ外にも大勢子供が有りますかしら?。
ハ氏は門番の子供などと遊び朋輩になることは赦るされそうもないことヽおもひながら、あとでも申せることと、扣へてなんとも答へませんかつた。
さて馬車はズン\/進行いたしました。
此馬車道の両側に見事な大樹が生ひ繁つて居つて、双方から覆ひ、重つた大枝が、生きた緑門になつて有ましたが、セドリツクはこんな厳めしい立派な樹木を見たことが有りませんかつた。
ドリンコート城は大英国中の城廓で是に劣るといふものはなく、其庭の広いことと見事なことに於ては、指を折れる中で、殊に樹木と並木道は他に並ぶものヽない位といふことを、其時セドリツクは未だ知りませんかつた。
併し何も彼も美しいといふこと丈は、知つて居りました。
すさまじい大樹の間から、午後の光線が黄金の矛を差通ふしてゐる塩梅、四面声なく、沈々とした趣むき、風にユウ\/と殺いで居つた大枝の間からチラ\/見える樹苑の景色、一々セドリツクの心を悦こばして、眼を慰ませぬものは有ませんかつた。
時々は青々とした丈の高い格注が毛氈を敷詰めた様に生へた処を眺め、又処々には微風に靡いて居つた桔梗の薄色が、空と見擬ふ計りに咲き乱れて居つた処を通りました。
ある時は、青葉の下から不意に兎が跳出しました、短かい白い尾をチラリと後ろへ見せて、又何れへか走り去るのを見て、セドリツクは跳ね上つて大笑をいたしました。
一度は間近くから突然に雉子の一群が、羽敲して飛び出しまして、又飛び去りました。
此時セドリツクは大声を挙げ、手を拍つて、
ハヴイシャムさん。
どふも奇麗な処ですね?、
僕はこんな奇麗な処見たことがないです、アノニユーヨークの中央公園よりまだ奇麗ですネ。
行く途に大分暇どれたのを、少し不審におもつたと見えて、
全体門から入口までどの位あるんです?、
と問ひました。
左様、三英里か四英里も有りませうか、
ソウデスカ自分のうちの門からそんなに離れてるツて、大変ですね、
セドリツクは、ひとつ驚いて幾分も過ないに、また驚いて感服すべき新しいものに出逢ました。
一度は或は青草の上に横になつたり、或は馬車音に驚かされて、奇麗な角の生へた頭を並木道の方に向けて、ビツクリした顔で、立つて居る鹿を見付まして、まるで夢中でした。
セドリツクは声の色を変へて、
アヽ、こヽに見せ物でもあつたんですか、それともいつでもこヽに住んで居るんですか?、
一体誰のなんです?
と問われてハ氏は、
いつもこヽに居るのです、それは侯爵さま、即ちあなたのお祖父様のものです、
是から間もなくお城が見えて来ました、其眼の前に巍々として突立した処は、誠に見ことに錆て居りまして、数々の窓にはタ陽の光線が眩ゆく輝いて居りました。
井楼もあれば、凸字壁や、砲台も見える、其幾方の壁には、蔦桂がはひ纏ふて、古色を増して居りました。
お城の四方には観台や柴生や美麗な草木の植付けが有つて、今を盛りと咲き乱れて居るものさへ夥しくありました。
セドリツクのくり\/した顔は、嬉しさに逆上てポツト桜色になり、
どふも僕はこんな奇麗な処見たことがないんです、王様の御殿の様ですね、いつか御殿の画を画双紙で見たことが有ましたつけ、
といひました。
さて這入ろうとする玄関の扉は双方開いて有つて、召使どもは二列に居并んで、セドリツクを見て居る様でした。
セドリツクは何故にあの様に并んで立つて居るのかとおもひ、揃の服の見ことなに感心しました。
セドリツクは此召使たちが、程なく、此城郭と総て是に付属する者の主領となろうといふ此若君に敬礼を表して居たとは知ませんかつた、画双紙の宮殿めいた此荘麗な城郭も、立派な樹苑も、厳めしひ様な大樹木も、兎が遊ぶ草原も、柴生を寝床に起伏した、駁色な眼の大きい鹿も、みんな軈、セドリツクの所有になるのでしたが、思て見れば、馬鈴薯や鑵詰物の真中に、ホツプスおぢと腰かけて高い台から両足をブラ降て居たのは、ツイ二週前のことで、其時は尚さら、今でも、こんな立派な物に大した関係がある様には思れませんかつた。
召使の居并んだ頭の方に、眼立ぬながら立派な姿をした老成らしい婦人が居ましたが、セドリツクが這入ますと、外の者よりも間近く立て居て、何か言ひそうな顔付に見えました。
セドリツクの手を引いて居つたハ氏は鳥渡足を止めました、そして声をかけて、
メロン夫人、フオントルロイ殿で御座りますぞ。
若君、取締のメロンと申す婦人で御座ります。
セドリツクは眼つきに嬉しい情を現わし、握手の手を延て、
あなたでしたか、あの猫をよこして呉れたのは?、
どふも有がたう、
といひますと、メロン夫人は、門番の妻の顔ほど嬉しさうな顔になつて、ハ氏に迎ひ、
いづれでお眼通りいたしても若ぎみをまちがふことは有り升まい。
お顔も御様子もそつくりエロル様で御座ります。
あなた、今日は誠におめで度ことで御座ります。
といひましたが、セドリツクは何がおめで度のかと不審に思ひました。
デ、メロン夫人の顔を不思儀さうに見ますと、チヨツトの間、眼に涙が浮んで居た様でしたが、悲しそうでもなく、セドリツクを見つめて、につこりいたしました。
あの猫は見ごとな小猫を二ツこヽへ残して参りましたから、早速御居間へ差上げて置きませう、
といひました。
それから、ハ氏は何か低い声で二言、三言いひ升と、メロン夫人が答へて、
あなた書斎で御座ひますよ、若君をお独で、そこへ差上る筈で御座ります。(以上、『女学雑誌』第二六九号)
小公子。
第六回 (乙) 若松しづ子
それから暫時待合せる内に、矢張り揃の服を着た丈の高い給事が書斎の入口までセドリツクを案内して、戸を開け、殊更武張つた声で、「御前、フォントルロイ殿のお入りで御坐り升、と注進いたしました。
身は給事風情でこそあれ、当家の嫡孫が軈て受続ぎ玉ふ可き領地へ御到着有つて、老侯に初見参に入り玉ふ案内は、容易ならぬ栄誉と思つたことでせう。
セドリツクは続いて敷居を越へ、坐敷へ這入りました。
是はまた大して広い立派な坐敷で、置着けの道具は皆な豪儀な彫物のした品で、幾層と敷の知れぬほどの書棚に、書籍がギシ\/詰つて居ました。
置道具は総て黒色で、窓掛や、隔ての掛幕はいづれもドツシリして居て、菱形の玻璃窓は殊に間深で、室の隅から角までの隔りがいかにも遠いものでしたから、光線のうつりも薄く、一体の気色が朦朧と小気味わるい位でした。
セドリツクは始め一寸の間、誰も室にゐぬ様だと思ひましたが、暫くする内に大きな暖室炉の火の焼ひてある辺に、大きな安楽椅子が有つて、誰か其椅子に腰掛て居るのが見えました。
始めには此人物は未だセドリツクの方を見向きませんかつたが、他の一方にはセドリツクに眼をつけたものが有りました。
安楽倚子の側の床にすばらしい茶色のマスチフ種の大犬が寝て居りましたが、体も四足も獅子ほど有りました。
此の大の犬が凛然として静かに床を離れ、彼の小息子に向つて、ドシ\/足音させて歩いて参りました。
此時始めて彼の椅子の上の人物が声を発して、「これ、ダガル、こちらへ参れ」と命じなました。
併し若君の心には不深切もなければ、亦恐気もなく一体大胆な生れでしたから、誠に何気なく、此大犬の頚わの上に手を置きながら、犬と一処に徐々と進みました。
ダガルは歩みながら、頻りに鼻を動めかして臭を【口鼻】ぐ様子でした。
此時侯爵どのは始て、顔を挙げられましたが、先づセドリツクの眼に止た者は、頭髪も眉毛も白くフツサリして、窪い烈しい両眼の間の鼻のさながら鷲の嘴に似た、活服の大な老人でした。
侯爵どのヽ眼に止た者は、黒天鵞絨の服にレースの領飾の付いたのを着しとやかな子供の容姿で、尋常で、凛とした顔の辺には愛嬌毛が浪うつてゐて、何となく、親しげに自分を見て居りました。
此城郭を古し話しの御殿とすれば、セドリツクはソツクリ其中の若殿に見立度様でしたが、自分では少しも左様なことに気が付ませんかつた。
然るに老侯が斯まで屈強に見えた孫息子を見、大犬の領に手を載ながら、一向臆面なく自分に顔を合せる様子を察して、其烈しい御心の中に急に喜悦と高慢の情が燃て来ました。
セドリツクが犬にも自分にも懼ぢ恐れた様子の少しもないのが、ひどく武しい老侯の気に叶ふたのでした。
セドリツクは、門番の女や、取締を見たも同様な調子に、老侯を見て、ズツト側まで歩み寄りました。
あなたが侯爵さまですか?、
僕はハゥ゛イシヤムさんが連れて来た、あなたの孫ですよ、フォントルロイです、知つて入つしやるでせう?
と云つて、侯爵さまでも握手をするのが礼儀で適当なことに違ひないと思ひ、手を伸べながら又大層なれ\/しく
御機嫌は如何ですか、僕は今日あなたにお眼にかヽつて、大変嬉しいんです。
といひました。
侯爵どのは、妙に眼を光らせながら、握手の礼をしました。
一寸始めには少し呆れ気味で、言葉も出ませんかつたが、被せかヽつた様な眉毛の下から、画に書た様なセドリツクを見つめ、頭から足の先まで余す処なく観察を遂げられてから、
ヤツト、ソウカ、貴様はおれに逢つて嬉しいと云ふのか?。
ヱー、大変嬉しいんです。
セドリツクの側に倚子が有ましたが、先是へ腰をかけました。
これは寄り掛りの高い、丈の高い倚子でしたが、これへ腰を落着ますと、両足が下へ着ませんかつた。
併し矢張楽そうにチヤントしてゐて、厳めしいお祖父様のお顔を、少し扣めながら眼を離さず眺めて居りました。
其中、こふいひました、
僕はあなたがどんな人かと思つて、始終考へてましたよ、お船で床の上に寝てゐる時分、あなたがヒヨツト僕のとうさんに似て入つしやるか知らと、思つてましたよ。
フン、そうして似て居る様か?。
と尋ねられて、
左様さ、おとうさんがおなくなりなすつた時、僕は大変少さかつたから、顔をよく覚えて居ないのかも知れませんが、何だか似て入つしやらない様です。
それじやあ、貴様失望だろうな?。
イヽへ、ナニソリヤア誰だつて自分のおとうさんに似てゐれば好けれど、おとうさんの顔に似てないだつて、お祖父さんの顔ならば好ぢや有ませんか、あなたゞつて自分の親類なら、誰だつて好でせう?。
侯爵どのは後ろへ反り返つて、セドリツクを見詰めて居ました。
自分の親類に親しむ妙味は、侯爵どのにまだ分らぬ位でした。
なぜといふに是まで時につれ、折に触れては、随分親類共と烈しい喧嘩をしたり、出入を禁じたり、誹謗の名呼はりをしたことも有つて、親類どもは、眼の敵に憎んで居たのでした。
フォントルロイは、又言葉を続け、
そうして、誰だつて自分のお祖父さんは好に定まつてますは、
あなたみた様に親切なお祖父さんなら尚ですは。
老侯の眼は、又妙に光りまして、
ハヽア、そうか、おれは貴様に親切なのか?。
フォントルロイどのは、威勢づいて、
エーそうですとも、ブリヂェツトだの、林檎やだの、ヂツクだのに、どふも誠に有難う。
何を申て居る?、
ブリヂェツトに林檎売に、ヂツクじやと?。
エーそら、あの人だちに遣れつて、あんなにお金を下すつた人のことです、ソラ、僕が入れば遣れつて、ハゥ゛イシヤムさんにそうおいひなさつたでしやう?
ハヽア、あの事か、そうか?、
貴様の好につかへといつた金か、全体あれで何を買つた?、
聞かせるが好い。
此時侯爵どのは、少しく彼の秀いでし眉を潜めて、鋭どくセドリツクを見詰めました。
必竟此童児がどふいふことを楽しみにするかと、頻りに聞たくなつたのでした。
アヽ、そうでしたね、あなたは、ヂツクや林檎やのお婆さんや、ブリヂェツトのこと知らなかつたんでしたね、あなたがこんなに遠方に入つしたの僕忘れてましたよ、三人とも僕の親友なんです、それから、アノミケルが熱病でね‥‥‥。
ミケルとは又誰のことだ?。
ミケルといふのは、ブリヂェツトの亭主なんです、そして大変困てたんです、人が病気で、働ないで、十二人子供があれば随分大変でせう?、
ミケルと云のは、いつでも極かたい人なんです、そうしてブリヂェツトが僕の家へ来ては、泣くんです、それからハヴィシヤムさんが、僕の家へ来た晩なんかにや、食べる物がなんにもなくつて、家賃が払へないつて台処で泣てたんです、それから僕が逢に行つてたら、ハヴィシヤムさんが呼によこして、あなたが僕にお金を下すつたのを預かつて来たつて云つたんです、それから僕が台処へ急いで距けて行つて、ブリヂェツトに遣つたら、モウみんな大変よくなつちまつたんです、ブリヂェツトはあんまりビツクラして始はほんとにしないんですもの、だから僕があなたに有難いんです。
侯爵どのは例の沈んだ調子で、
ハヽア、貴様が好に金を遣つたといふのは、そういふ塩梅なのかナ、それから外に何をした?。(以上、『女学雑誌』第二七〇号)
小公子。 若松しづ子
第六回 (丙)
彼の大犬のダガルは、セドリツクが席に着きました時、其側へ坐つてゐましたが、幾度かセドリツクを見挙げて、始終の話しに身が入つてゐるかと思ふ様な素振りをしてゐ升た。
ダガルといふのは、中々巌格な犬で、自分の犬柄に対しても、軽々しく世に処することは出来ぬとおもつてゐる様子があり升たが。此犬の平生を好く知つて居られた老侯は、それとはなしに注意して其の様子を見て居られ升た。
ダガルは中々粗忽に知己を拵へる様な犬では有ませんかつたから、セドリツクが撫でるのを何ともせずに静かに坐つて居つたのを見て、多少不審に思われました。
そして丁度此時ダガルは泰然と構へながら、フォントルロイ殿を熟思して、今度はすさまじい獅子の様な頭を黒びろうどの少さな膝の上へ態々載ました。
セドリツクは少な手で、新たに出来た友だちを撫ながら、問に答へて、
それからそら、ヂツクネ、あなたキツトヂツクが好ですよどふも大変キチヤウメンですもの。
侯爵どのは、流石此俗語は初耳と見えて、
全体それは、どういふ訳なのだ?。
フォントルロイは暫らく思案してゐました、自分でもキチヤウメンの意味が判然分つて居つたのではなく、たゞヂツクが好んで用ゐた言葉ですから、好いことに相違ないと信じて遣たのでした。
僕はヂツクが誰も欺したり、自分より少さな子を打たりしないで、人の靴を磨く時は出来る丈光る様にするといふ訳かと思ふんです、ヂツクは靴磨が職業なんです。
そうして、それが貴様の知己か?。
エー、僕の古い友だちです、ホツブスおぢさん程年をとつては居ないけれど、随分大きいんです、船が出帆する前に進物を呉れたんです。
此時セドリツクは、手をポツケツトの中へ入れて奇麗にたヽんだ赤い物を引出し、鼻高\/とこれを広げました。
それは、例の紫の馬の首や、馬の沓が織り出して有つた、赤い絹のハンケチでした。
これを呉れたんです、僕はいつまでも持つてるんです、ね頚へも巻けますし、ポツケツトへ入れて置いても好いでせう、僕がヂェークにお金を遺つて、ヂツクに新しひ刷毛を買つて遣つてから、儲かつたお金で直ぐと買つて呉れたんで、ヂツクの餞別なんです、ホツブスおぢさんに時計を遣る時、を見て僕を記念し玉へと書きましたが、僕はこれを見ればいつでもヂツクのことを思出すんです。
さて尊ときドリンコートの城主が、段々の話を聞かれて、心に起こされた感覚は、容易に明状することも出来ません。
随分世なれた老成貴人で、軽々しくは物に動じる様なことはないのでしたが、こん度といふ今度こそ、出逢たもの余り異様なのに呆れて、殆んど言葉も出ぬ程でした。
此おん方は、一体子供は嫌なのでした、自分の楽しみに屈托して、子供などに構ふ暇がないのでした。
御自分の子供らが幼少な時分、別段可愛いヽと思つたことは有ませんかつたが、たゞセドリツクの父丈を立派な、勇しい子と思たことのあるのを、時々思ひ出す位のことでした。
御自身が此迄万づ勝手気侭を通されて、人の互に相譲づる美しい処を見る暇さへ無かつたのでした。
心術の好い子供といふ者は、どの位優しく、信実で、愛の深い者か、あどけなく、無心な挙動の中にどの位清素、仁愛な情が篭つて居るかといふことは、丸で御承知なかつたのでした。
男児といふものは、極く厳しく限制しなければ、いつも我侭で、物ねだりしたり、騒々しくする至極く迷惑な動物と斗り思つて居られました。
この二人の息子どもは、絶へず師匠どもを困らせ、苦しめた様でした。
それに末の子に付いては余り苦情を聞ないで済んだのは、必竟余り大事な子でなかつた故と想像して居られ升た。
さて此度は、又孫息子が自分の気に叶わふかなどヽは、少しもおもつて居られた訳でなかつたので、只幾分かの名誉心に迫まられて、セドリツクを迎に遣つたのでした。
兎に角、其子供が未来には、自分の跡を継ぐので有つて見れば、教育もない下郎に家名を継がせて、人の物笑ひになつても、折角と想はれ、かつは米国で其侭成人させたらば、いよ\/下賎な者になり遂せるだらうと、たゞ掛念せられた丈の事で、セドリツクに対し、愛情などの有つた訳ではなかつたのでした。
なる可は、器量も見憎からぬ程で、外聞のわるいほど馬鹿でなければ好いと思つて居られたもの、年上の息子どもには失望を極はめ、末のカプテン、エロルには、米国人との結婚一件で、恐ろしく憤つて居られましたから、婚姻の結果として何もめで度いものが有ろうなどとは、努め考へず、給事がフオントルロイ殿のお入と忠進した時には、自分がかくあらうかと掛念してゐた快からぬことを、今面り見ることかと、子供に顔を合するが嫌で堪られぬ位でした。
いつそ失望す可きものならば、其失望を人に見らるヽが忍び難いといふ高慢心が有つて、必竟さし向ひの対面も命じられたのでした。
こふいふ処故、尚更、セドリツクが怖気なく手を大犬の領の上に置ながら、泰然と闊歩して進んで来た時には、倣慢、頑固な心も、飛立様でした。
思ひ直して極々高く望を持つた時でさへ、こんな孫息子が有ろうとは存じの外で、顔を合せるさへ憚りに思つた者、又自分があれまでに嫌た女の子が、これ程美麗で、品格が高いとは、余の僥倖で、夢かと思はれる程でした。
流石の老侯も、此驚きに対しては、厳格な居構さへ崩そうでした。
それから、対話になり升たが、なほ\/妙な感覚を生じ、益々不審が晴なくなり升た。
第一、自分の前へ来ては、大抵の人がこわそうで、何か間が悪そうに、モジ\/するのを見慣れて居られましたから、孫も矢張り恥づかしがつて臆せて居ることと諚めて居られました処が、セドリツクは犬を恐れない通り、又侯爵をこわがる様子も有ませんかつた。
決して出過といふではなく、たゞ無邪気に人懐こいので間をわるがるとか、恐れるとかの訳などが有ろうとは一向思なかつたのでした。
老侯はセドリツクが高い倚子へ腰をかけて、誠に何気なく話しをしてゐる処を御覧じると、自分を疑ふ処などは毫末もなく、見てもこわらしい様な大きな老人が、自分にはどこまでも深切と思ふより外の考もない様でした。
そうして此通りに面会して話をするのが嬉しく、どふぞお祖父様にお気に入て、お悦こばせ申度といふのが、頑是ない中によく見えて居ました。
老侯は固より癇癪持で、頑固で、世俗的の人物でしたが、さて此通りに信じられて見ると、自然心の中に一種新たな愉快の感じが起りました。
自分を狐疑することも、忌み憚かることもせす、自分の性質の嫌ふ可き処を、見現わした様にも見えず、清かな、よどまぬ眼で、ヂツト見れるのは、黒びろうどの服を着た小息子にでも、どうやら心持の悪いことは有ませんかつた。
それ故、老侯は、倚子に憑れてゐながら、セドリツクが自分のことをづん\/話せる様に問をかけました。
そうして、妙な眼つきで、頻りに其様子を見て居られました。
一方では、一々其問に対して、雑作もなく答へまして、例のなれ\/しい様な、子細らしい様な、調子で、引も切らすしやべり升た。
其話といふは、ヂツク、ヂエークのことや、林檎やのばヽのことや、ホツブス氏のことで、中にも国旗や、松火や、花火で賑かな独立祭の話が有ました。
此話になつて、まだ革命のことに熱心になろうといふ処で、何か、フト考へた様子で、急に話を止ました。
何事だ?、
なぜ其先を申さぬのだ?
とお祖父様がお咎めになりました。
フオントルロイは、椅子の上でモヂ\/して居まして、老侯は何か思出したことで、間がわるくなつたかと、気が付れました。
僕はネ、あなたがヒヨツト其話嫌かと思つたんですよ。
誰かあなたの親類かなんかゞ、あの時にゐたかも知ませんからネ、僕はあなたが英国の人だつたの忘つちまつたんですもの、
ナニ好い、ヅン\/話すが好い、おれの付属のものなどは、それに関係はないから、ダガ貴様は自分も英人だといふことを忘れて居るな。
セドリツクは、口ばやに、
イヽへ、僕はアメリカ人です。
老侯は苦々しいといふお顔で、
貴様は、矢張り英人だ、貴様の父が、英人じやもの。
老侯はこふいひながら、心の中に少しおかしく感じられましたが、セドリツクには少しもおかしいことでは有ませんかつた、こふいふことにならうとは前もつて思ひもふけぬことでしたから、頭髪の根本まで熱くなつた様な気がしまして、
僕はアメリカで生れたんでせう、アメリカで生れヽば、だれだつてアメリカ人にならなくつちやいけないじや有ませんか、(此時一層まぢめになつて、言葉丁寧に)どふもあなたのおつしやることと反対しまして御免なさい、デスガネ、ホツブスさんが、こんど戦が有れば、僕はアメリカ人にならなくつちや、いけないつていひましたもの。
此時老侯は苦々しい様な笑様をなさいました。
短かくつて、苦々しい様でしたが、矢張り笑は笑でした。
さ様か、アメリカ人になるのか?
とたゞ云われました。
米国も米人も大嫌な侯爵どのでしたが、此年若な愛国者の、かくまでまじめで熱心なのを面白く思われて、国を愛する米人ならば、成人の後は、矢張り国を愛する英人になるだらうと思われたのでした。(以上、『女学雑誌』第二七一号)
小公子。 若松しづ子
第六回 (丁)
フォントルロイどのも少し遠慮気味で、彼の革命の話しに又深入りしない中に中餐の時刻となりました、セドリツクは席を離れ、お祖父さまのお側へ行つて、彼の痛処のあるおみ足を眺め、大層慇懃に、
お祖父さま、僕が少し手伝て上ませうか?
僕に寄り掛つて入つしやいな、先にネ、ホツブスさんが林檎の樽が転がつて、足をけがした時、僕に寄り掛つて歩るき升たよ。
お側に居合せた丈の高い給事は、思わずホヽ笑で、危うくしくじる処でした。
此者は上等な華族方のお邸に計り遣われて、殊に上品な給事で、決して殿方の御前などでホヽ笑むなどの失策はしたことのない方で、仮令何事か出来しようとも、自分の分限を忘れてホヽ笑といふ様な以ての外の振舞があれば、それこそ大層な恥辱と平常から覚悟いたして居りました、然るに此時こそ危うき処を漸く免かれましたのは、侯爵さまの御頭の丁度上当りに、甚だ醜い画像の有つたのを外眼もふらず見詰めたお蔭で有つたのでした。
侯爵どのは、大胆にも進んで用立うとした小息子を頭から足まで見下ろし、雑白に、
貴様出来るとおもふか?
マア、出来るだろうと思んです、僕、きついんですもの、モウ七歳なんですもの、あなた片ツ方は其杖をついて、片ツ方は僕にお寄かヽりなさいなネ、アノヂツクもそういつたんです、僕はたツた七ツにしちやあ随分骨があるつテ。
此時セドリツクは手を握り、肩の上まで持つていつて、ヂツクが賞めたといふ力瘤を侯爵どのにおめに掛けましたが、其顔が余りにまぢめで、一処懸命なので、彼の給事は又前の額面を一心不乱に見詰ました。
よし!
そんならやつて見い!
と云われて、セドリツクは先杖をお渡申し、それから侯爵さまの席をお立になるお手伝をし始めました。
平常は給事が此役を務めまして、御前のお痛処が普段より御困難の時分などには、随分烈しひお言葉を頂戴いたしました、侯爵さまは決して人の気分を損ねるなどを厭ふ方で有ませんかつた故、近侍の人々が御気色に依ては恐ろしさに内々震へる様なことが有ました、然るに此時は御足の痛の烈しいにも関はらず、一度も鳴らせ玉はなかつたのは、一ツセドリツクの力量だめしをしやうといふ企が有つたからのことでした。
先づ静かに坐つて勇ましく進めたセドリツクの小さな肩に、御手を置玉ふと共に、セドリツクは痛処のあるお足に触れぬ様注意して、自分の足を一歩前へ進めました、そして侯爵さまを慰めて威勢をつける積りか、
僕、静に歩き升からね、ズツト寄掛つて入つしやいよ
といひました。
侯爵どのは平常此通りに歩行し玉ふ時は、お側でお手を取る者の方に御体を寄かけて杖は態と軽くつき玉ふこと故此時も其通りにして、充分力量をためそうとなさいました故、随分セドリツクの為には重い荷で有たのでした。
数歩行く中にセドリツクの顔は大層熱して来る、胸はドキ\/しましたが、シツカリ踏占て、ヂツクに賞られた骨組のことを考へて、息を切り。
あなた、かまはず、僕に寄り掛つて入つしやいよ、アノ‥‥‥余んまり……あんまり長い途でなきやア、僕大丈夫ですよ。
食堂までは左程長い間では有ませんかつたが、セドリツクには、食卓の頭の倚子へ来る迄随分の途のりに思はれました、肩に載せられた手は一歩毎に重くなり、顔はます\/赤くます\/熱く、息はいよ\/忙はしくなつて来ましたが、止めやうとは決して思はず、首を挙げ、筋を張つてちんばの様に歩む中も老侯を頻りに慰めて居ました、
あなた、立つていらつしやる時、大変足が痛いですか?、
アノ湯に芥子を雑ぜた中へ入れて見たことがありますか?、
アーニカつていふ物は大変好いつてネ。
といひました。
彼の大犬もソロ\/側に歩るき、給事も跡に従つて参りましたが、小さな形のセドリツクが勢一杯の力を出して、心よく重荷を負ふて行くのを見て、妙な顔付をしてる、又侯爵さまも真ツ赤になつた小さな顔を流し眼に御覧ふじて、是も意味あり気なお顔でした。
食堂へ軈がて来て見ると、是も又立派な広間で、侯爵さまの御着座になろうといふ倚子の後ろに立つて居た給事は、ヂロ\/セドリツクを見て居りました。
それでよう\/倚子の処まで辿りつき、御手は漸く肩の上から下り、侯爵さまは無事に御着坐になりました。
セドリツクはヂツクのハンケチを出して額を拭ひました、
どふも熱い晩ですネ、あなたは足が痛くつてそれでアノ火が入るんでせうが、僕にやア少し熱いんです。
セドリツクは侯爵さまの周囲にある物で余計なものが有る様なことを申して、御機嫌を損てはと気遣ひました、
貴様は随分骨を折つたからだろう、
といふお言葉に対し、
ナニ、そんなに骨が折れやしませんかつたがネ、すこしあつくなつたんです、夏になればだれだつてあつくなりますは。
といひながら例のはでやかなハンケチで頻りに汗で湿れたちゞれ毛を拭ひました。
セドリツクの坐はお祖父様の真ん向ふで食卓の向ふの端でした。
其椅子は臂掛のあるセドリツクよりはズツト大きひ成人の掛ける椅子で、其外これまで眼に触れた一切のもの、天井の高い広間の数々を始めとして、置付の道具も給事どもも養犬も侯爵どのまでも実に柄の大きなもの計りで、セドリツクはます\/自分の小さなのを感じ升た。
併しそれが決して気になりはしませんかつた。
セドリツクは自分が大した人物とも、えらひ人とも思つたことが有ませんかつたから、コレはと少し臆せる位の物事にも自分から務めて慣れて見ようと思つて居ましたが、今食卓の一方の大椅子に坐つた処は実にこれ迄になく小さく見えました。
侯爵は一人住ひでこそあれ暮らしむき万端中々大したもので、殊に好食家の方でしたから、膳部の調方なども随分八ケま敷いものでした。
セドリツクは立派な玻璃器や皿鉢のきう\/して、慣れぬ眼には瞬ゆひ様な間から遥かに侯爵の方を見て居りました。
さて大広間に制服を着た丈の高い給事どもに侍づかれ、光り輝く数々の灯火や、輝めく玻璃や白銀の器具を列らねて、上座には武しひ老貴人が坐を占めて入つしやる、夐か下つて大椅子にチヨンボリ腰をかけた誠に小さなセドリツクを見るものは誰もおかしく思ひませう。
食事といへば、他に処在の少ない侯爵には中々容易ならぬことでした。
それのみか御前が普段より御機嫌が好くないとか、御食気が進まぬとかいふ時には、料理人までが色を失ふことがありました。
然るに此日は調理の風味塩梅の外に御心に掛させられることが有つた所為か、御食気も平常よりはいくらか好い様でした。
その思ふて入つしやるといふは、他ではない、即ち孫息子どのヽことで、始終眼を離さずセドリツクを眺めながら、自分では格別何も云はず、どふかこふかしてはセドリツクに話をさせる様に持かけて居られ升た。
是迄は子供に話をさせて心遣りにするなどとは思もよらぬことでしたが、さてセドリツク丈は合点の行ぬ様な処もあり、又面白い処もあり升たから、どの位の度胸と堪忍があるものか試ふ計りにおもひ切つて少さな肩に自分の身を寄せかけて見た処が、セドリツクの少しも狼狽しなかつたことと為始たことを止るといふ様な景色が一向に見えなかつたことを頻に思ては、満足に堪れませんかつた。
フォントルロイはいと丁寧に、
あなたは始終冠を被つて入しやらないんですか?。
老侯は例の渋ぶそふな笑を見せて、
イヤ、おれには似合はないから被つて居ないのだ。
アーホツブスさんが、いつでも被つて入つしやるんだといひましてネ、又考へ直して、イヤそうじやない、帽子を被ぶる時には脱ぐんだろうといひ升たつけよ。
その通りだ、時々脱ぐんだ。
と老侯がおつしやるとお側に居つた給事が急に脇を向いて、ロに手をあてながら、妙な咳嗽をしました。(以上、『女学雑誌』二七二号)
小公子。 若松しづ子
第六回 (戊)
セドリツクは先づ食事を終りまして、椅子に憑れながらズツト坐敷を見廻し升て、
どふも立派なうちですね、
あなたこんなうちに居て、嬉しいでせう、
僕、こんな立派なうち見たことがないんです、
だけど、僕はまだ七ツにしかならないんで、たんと方々見たことがないんですからネ。
それで、おれが満足に思ふだらうといふのか?。
エー誰だつて満足ですは、僕だつてこんなうちが有ば、大威張ですは。
どふも何でも、かんでも奇麗なんだもの、アノお庭だの、木だのネ、どふも奇麗だつたこと、葉なんかが、ガサ\/音がして。
斯云つて、一寸口を閉ぢ、又何か云度そうに、向を見て居て、
たつた二人切りにやア余んまり大き過ぎ升ネ?、
どふでせう?。
二人の住ひにやア充分の様だが、大き過るとおもふのか?、
セドリツクは少し躊躇して、
僕はネ、考へてたんです、二人でも余んまり中の好くない人が一処に居るんだつたら、時々淋しいか知らんと考へたんです。
どふだ、おれは一処に住むには好い合手だろうか?。
エーそうでせうよ、だつて、ホツブスおぢさんと僕は大変中が好かつたんですもの、僕は一番好な人の次にやア、あの人と大中好でしたもの。
侯爵さまは、急に眉をひそめて、
一番好な人とは、誰だ?。
セドリツクは抵い静かな声で、
僕のかあさんのこつてす。
さて、いつも床に着く時は、近づき升し、それに二三日前からゴタ\/した所為で、少し疲労が出て来た様でした。
又疲労を感じると共に、今夜からは、自分と一番中が好いといつた優しい母さんが側に守つてゐて呉れて、いつもの所で寝るのでないと考へては、何となく妙に淋しい感じが起つて来ました。
セドリツクは、これ迄年若な母とは親子と云わふより寧ろ中の好い朋友の様でした。
此時も母のことが思われて、仕方がなく、母のことを思へば思ふ程、話が仕憎くなつて来て、食事が終る頃には、さえ\/してゐたセドリツクの顔に、薄く雲がかヽつた様なのを、侯爵も気がつかれ升た。
併し勇気は中々折けず、書斎へ帰る時にも、給仕が以前の一方へお付添ひ申しはし升たが、矢張片手はセドリツクの肩に載つて居ました。
たゞ最初ほど重くは有ませんかつた。
給仕が御用を済まして退つて仕まい、侯爵と二人になり升た時、セドリツクは、毛革の上にダガルの居る側へ坐りました。
暫時犬の耳を撫でながら、沈黙て暖炉の火を眺めて居ました。
侯爵は、眼をすへてセドリツクを御覧じると、何か物足なさそうなのが、眼付までに現われて、頻りに考へてゐて、一二度ソツト溜息をつきました。
侯爵は眼を離さず、ジツト見て居れて、軈て、
フォントルロイ、貴様、何を考へてゐるのだ?。
と被仰ると、フォントルロイは気を励して、漸くニツコリ笑ひ、
僕、かあさんのこと考へてたんです、僕‥‥‥何んだか変ですから、チツトあつちこつち歩いて見ませう。
といつて立上り、小さなポツケツトへ両手を突き込んで、あちらこちらと歩るき始めました。
セドリツクは眼を光らせ、唇を堅く結んで居りましたが、首を擡げて、シツカリ\/歩いて居ました。
ダガルは不安心といふ調子で、見て居ましたが、やがて立て、セドリツクの居る方へ歩み寄つて、何か落着ない様子で、セドリツクの行く方へついて行ました。
セドリツクは、片手をポツケツトから出て、犬の頭へ載ながら、
おまへ好犬だネ、僕の友だちだネ、僕の心持を知てるネ。
といひ升と侯爵が、
どんな心持がするんだ?。
此子供が始めて家を離れて、頻りに淋しがるのを見て、侯爵は快くは有ませんかつたが、併し又それを辛抱し遂せやうとしてきつくなつて居るのが、お気に叶つて、幼ながらの勇気を殊勝に思はれました。
侯爵は、セドリツクに向つて、
こヽへ来い。
セドリツクは、直ぐと側へ行つて、例の茶勝な眼に、困つたといふ思わくを現はして、
僕はネ、一度もまだ余処へ泊りに行つたことがないんです、始めて自分の家を出て、人のお城へ泊るなんていへば、誰だつて変でせう、ダケドかあさんは、そんなに遠方に居るんじやないんですからネ、かあさんが僕に、そのこと覚へておいでつて、そういひ升たもの、それからモウ僕は七ツになつたんだから‥‥‥、アノそれから、かあさんが下すつた写真を見て居られるんですからネ。
といつて、ポツケツトへ手を入れて、藤色びろうどの小さな箱を出し、
これですよ、ホラ此ばねをこう推すと、開き升よ、ソラ、中に居ましたろう!。
セドリツクはズツと椅子の側へ来て、其箱を取出す時は、臂掛からお祖父様の腕に、いつも寄掛りつけた様に心置もなく、寄掛つて居ました。
箱を開けながら、
ホラ、居るでせう、
といつてニツコリ笑つて上を向きました。
侯爵は眉を顰められました、兎に角其写真を見るのは嫌に思はれましたが、我知ずチラリと見ると、マア云ふに云はれぬ奇麗で若々した顔が、そこから覗いて居て、其顔がまた、自分の側に居る子供に、余り生写しの様に似て居たので、ビツクリされる程でした、
貴様はお袋を大層好だと思つて居るのだろうな、
フオントルロイは何気なく、優しい調子で、
エーさう思つてるんです、そうして僕本当に好なんだと思ふんです、あのホツブスおぢさんも、ヂツクも、ブリヂエツトも、メレも、ミケルも、みんな僕の友だちですけど、アノかあさんはマア僕の大変な親友なんです、そうして僕と二人はいつでも何でも話あいつこするんです、僕のとうさんが跡で僕に世話をしろつていつて入つしたんだから、僕は成人になると、働てかあさんのにお金を儲けるんです。
侯爵は、
何をして金を儲けるつもりだ。
セドリツクは辷下りて、元の毛革の上へ坐り、手に件の写真を持ちながら、まぢめに考へて居る様子で、暫くしてから、
僕はネ、ホツブスおぢさんと一処に商買をしようかと思てたんですがネ、どうかして大統領になり度とも思ふんです。
其代りに貴様を貴族院へ遣ろうは。
といふお祖父様の言葉を聞いて、
そふですネ、どうしても大統領になられないで、夫が好商買なら、夫でも好ですよ、万屋は時々不景気でいけませんよ。
セドリツクは心に今のことを考へ比らべて居たものか、それから大層静まつて、少しの間火を見て居た様でした。
侯爵も何も仰しやらず、椅子に憑れて、セドリツクを眺めて居られ升た。
其間種々雑多な妙な考へが老貴人の心に浮びました。
ダガルはズツト四足を伸ばして、前足の間へ顔を突き込んで、眠つて仕まいました。
暫らくの間、四方に音も有りませんかつた。
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半時間もすると、ハヴィシヤム氏は、案内につれられて、坐敷へ通て来ました。
大広間が殊に物静かで、侯爵はまだ椅子に倚掛つた侭で、居られました。
ハヴィシヤム氏が、お側へ近付うとすると、侯爵は手真似をして、何か気を付られましたが、夫が為ようとしての手真似ではなく、するとはなし、我知ずしたかの様でした。
ダガルはまだ寝つて居て、其大犬の直ぐ側に、ちゞれ頭を腕に憑れさせて、横になつてゐたのは、フオントルロイで、是も熟睡の体でした。
(以上、『女学雑誌』第二七三号)