『小公子』第三回本文
10111213141516『小公子』の部屋||ホーム

『小公子』初出本文のHTML化について

○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。

○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。





小公子 第三回(上)若松しづ子

其日ハブシヤム氏は彼の走り競の大関と稍暫く話をしてゐる其間幾度か吝しそうな笑を傾 けながら骨つぽい手であとを撫てることが有升た。折しもエロル夫人は処用あつて暫時座 敷を離れ跡は代言人とセドリツク丈でしたが、 始にハ氏は何を云わふかと思案いたし升た。何れ祖父なる老侯と対面する心■もさせねば ならず、又、セドリツクの身分にとつて大変革のことも心得させて置ねばなるまいと思ひ 升たが、セドリツクはまだ着英の後どの様な物事に接するものか又どふいふ家に迎へられ るかといふことも一向夢中でゐた様子でした。
自分の母が自分と同じ家に住わぬのだといふことさへまだ知らずにゐたのでした。
是は驚かせることが余り多いので、先段々にいふて聞せる方が好いとはたで注意したから のことでした。
此時ハ氏は開た窓の方の安楽椅子に倚つて居り升たが、是と対して向ふにも一つそれより 大きな安楽椅子の有つたのにセドリツクは座を占て、ハ氏を見て居り升た。
此大椅子に深くチョンボリ腰を据へ、ちゞれ頭を布団の着た椅子の背へ寄せ掛け、脛を叉 の字にして、両手をポツケツトの中へズツト突込んだ様子はよくもホッブスに擬して居り 升た。
母が座敷に居る間からハ氏に頻りに眼を注いで居り升たが、母の席を立つた跡も矢張り、 仔細有気に其顔を見詰めて居り升た。
エロル夫人が外へ行かれた後は暫く談話が途絶へ升て、セドリツクはハ氏の様子を伺ひ、 ハ氏は又セドリツクの様子を考へて居りました。
ハ氏は自分の如き老成人が、走り競に勝つたり、又椅子に深入りもすれば足先が下へ届か ない位の脛へ短かい膝切ヅボンと赤の靴足袋を穿く年恰好の子供に、何を云つて好いもの か、一寸思付ませんかつた。
然るにセドリツクの方から急に話をしかけられ、漸くホツトしました。

おぢさん、僕は侯爵といふものはどんなものだか知らないんですが、おぢさんそれを知つ てゐ升たか?

サヤウか?

とハ氏に云れて、

ゑー、知らないんです、ですが、僕の様に侯爵になる人は知つてなくつちやいけませんの か?
どふでせう?

左様サ、マアそんなものでせう。

とハ氏が答へ升た。
セデーはいんぎんに、

おぢさん、僕にセイメイして下さいな、(折々長い言葉を遣ふ時は少し誤ること有り)全 躰誰に侯爵にされるんです?

ハ氏は此問に対して、

最初は王とか女王とかゞ其侯爵を授け玉ふので、大抵は何か主君に 対して勲功が有つたとか、大事業を起したとかの為に侯爵に挙げられるのです。

と答へましたら、

アヽヽそうですか?
そんなら大統領も同じものですね?

とセドリツクが申し升た。

左様か?
お国の大統領の撰挙されるのは全く左様な訳ですか?

エイ、大変な好い人で、色々なことを知つて居れば大統領に撰ばれるんです。
それから松火で行列をしたり楽隊が出たり、皆んなが演舌をしたりするんです。
僕も先にはヒヨツトスルト大統領になるかも知れないと思ていましたがね、侯爵ナンカに なるナンテ知らなかつたんです。
(此時侯爵になり度なかつたのだと思はせて、ハ氏の気を損じてはと心配して言葉忙しく いひ替て)アノ僕だつて侯爵といふもの知つてたら、なりたかつたかも知れませんよ、
ダケド知らなかつたからね。

といひ升た。

それは大統領になつたとは少し訳が違ひ升。

とハ氏が説明いたし升た。

そうですか?
ソンナラどんなに違うんです?
松明の行列なんかないんですか?

ハ氏は今度は自分の脛を叉の字‥‥‥右の手の指先を左の手の指先へ一本ヅヽ順にゆる\ /と合せ升て、さて此子供に委細の事訳を云聞せる時期が来たと思ひ、先づ説出してこふ 云升た。

第一、侯爵といふものは大した人物です。

と聞ゐて、セデーは話の鋒先を突込んで、

大統領もそうなんですよ、松明の行列は二里も続くんです、そうして花火を挙たり、楽隊 がなつたりするんです、ホッブスおぢさんが連れてつて見せて呉たんです。

ハ氏は説明の腰を折られて、少し手持不沙汰に感じつヽ、

侯爵といへば大抵は極く旧い門 閥なんです。

と跡をつゞけ升た。

エー、それは何のことです?

とセデーが問升た。

大層旧い家がらのことです、甚だ旧いのです。

と聞いて、セデーは両手を尚深くポツケツトの中へ突込みながら、

アヽ、そう、そんならアノ公園の側の林檎屋のお婆さんとおなじことですナ、あの人はキ ツトその旧いもん‥‥‥もんばつでせう。
ダツテどふも年をとつて\/どふして歩けるかと思ふ様です、キツトモウ百位いでせう。
ですけれど雨が降る時でもヤツパリ彼処へ出てゐるんです。
僕は大変可愛そうだと思ふんです、そうして僕の友だちも気の毒がるんです、先にネ、ビ レイが一円ほど金を持つてましたから、僕がネ、其お金がみんなになるまで毎日五銭づヽ 林檎を買つて遣り玉へつて云つたんです。
そうすると廿日になるんです、デスケド、一週間たつとビレが林檎が厭つちまつたんです 。
それでもその時は大変好い塩梅でネ、僕が丁度余処のおぢさんに五十銭貰つてネ、其代り に僕が買つたんです、だれだつてあんなに貧乏で、旧いもん‥‥‥もんばつの人は可愛そ うですはネ、其おばあさんのもんばつなんかは骨の中に這入つちまつたんだそうで、雨が 降れば尚わるくなるんです。

こヽに及んでハ氏は対坐してゐる合手のあどけない、まぢめ顔を眺めても、又手持不沙汰 で、暫く言葉を続ませんかつた。

あなたは此老人の云ふことがよく分らなかつたのでせう。
旧い門閥といへば、年をとつたといふことではないのです。
旧い門閥といへば、其家の名が昔から世の人に知られてゐるのです。
大抵何百年といふほど其名が人に知られ、国の歴史に乗つてゐるものヽことです。

それじや、ワシントンの様なんですな、僕なんか生れた時から聞て知つてゐ升。
そうして其前も先ッから人が知つてるんです。
ホッブスおぢさんがいつになつても人が忘れやしないつて云いました。
それはアノ独立宣告や何かのせいです、それから七月四日の祭りもあります、大変ヱライ 人なんですもの。

抑第一世ドリンコート侯爵は四百年の昔しに位爵を授けられたお人です。

とハ氏は巌格に又説き始めました。

オヤ\/それは大変な昔しのことですね。
おぢさんそれを僕のかあさんに話し升たか?
キツト面白がり升よ。
ダツテ珍敷もの聞くのが大好ですもの。
今にこつちへ来たら、二人で話して聞せませう。
侯爵は授けられてから、それからどふするんです。

其中で英国の政事をとつたものも多くあり升。
又は豪傑で、昔しの大戦争に出たのも有升。

僕もそふいふことがして見度んです。
僕のとうさんは戦人だつたんです。
そうして大変な豪傑だつたんです。
ワシントン見た様な豪傑なんでした。
ダカラ、死なヽければ侯爵になつたのかも知れませんね、僕は侯爵が豪傑なら大変嬉しひ んです。
豪傑では大層な利イキです。
僕は先はね、こわがつたんです。
暗い処なんかね‥‥‥ダケレド革命の時の戦のことや、ワシントンのことなんか考へたら 、モウ直つちまつたんです。

ハ氏は例のゆる\/した調子で、妙な顔付をして、鋭い眼をセデイに注ぎながら。

侯爵になればまだ他に利益が有り升。
侯爵は大抵は大金持です。

と云つて、此童児が金の勢力といふものを知つて居るか居らぬかと、眼を聳だて、様子を 伺ひみたのを、セドリツクは何気なく、

お金が有れば大変好ものですネ、僕もお金が沢山ある方が好です。

左様か?
それは又何故です?

とハ氏は態と問ひ升た。

ダツテ金が有れば色\/なことが出来升もの、あの林檎やのおばあさんに、僕が金が有れ ばあの露店を入れる天幕と火鉢を買つてやり、そうして雨が降る日には毎でも一円ヅヽ遣 り升ワ、そうすれば店を出さずと家にゐられ升もの、オツトそれから‥‥‥アノ腰掛一ツ 遣り升ワ、それがありさへすれば、骨がそんなに痛くはないんです。
アノネあのお婆アさんの骨は僕たちのとは違つて、動けば痛いんですからネ、骨がそんな にいたければ大変困るでせう、あなたや僕たちだつて。
僕がお金が有つて、それ丈みんなして遣れば骨がよくなるか知らんと思ふんです。

ハ氏は、

エヘン(と咳謦し)、それからお金が有ればまだ何をする積りです?

と問ひました。(以上、『女学雑誌』二三二号)
  小公子
     第三回(下)   若松しづ子

まだ\/色々なことをし升は。
第一かあさんに色々奇麗な物買つて上升。
お針ざしだの、扇だの、金むくの腕貫や指環だの、大字引だの、それから馬車だの買つて 上升。
自分の馬車が有れば乗合が来るの待てゐなくつても好ですもの。
それから桃色の絹の着物が好ならば買つて上るけれど黒のが一番好なんです。
それだから大きな店へつれて行つて、色々な物を見てかあさんの一番好なものなんでもお とんなさいつて云升。
それからヂツクネ‥‥‥

ヂツクとは誰のことです?

とハ氏が問ひ升た。

ヂツクといふのはネ、靴磨きで、そうして大変好い靴磨きなんです。
いつでも下町の角に立つてゐ升よ。
そうして僕はモウ幾年か前から知つてたんです。
先にネ、僕がまだ少さかつた時、僕がかあさんと一処に外あるいてゐてよ、かあさんが僕 にポン\/飛ぶ奇麗な鞠を買て下すつてネ、僕が持つて歩るいてたら、馬車だの馬だのゐ る通りの真中へ飛んでつちまつたでせう、ダモンダから僕が大変失望して泣てたんです‥ ‥‥僕、まだ少いさかつたもんですからネ、まだ女の子の着る着物なんか着てたんですも の。
其時に、ヂックが人の靴を磨いて居升たつけが「イヤアー」と云いながら、馬の歩てる中 へ駈け込んで其鞠を取つて来てネ、そうして自分の着物で拭いて「ソレ坊ちやん何んとも ないよ」つて僕に呉れたんです。
だもんだからかあさんが大変感心して、僕も感心して、それからつていふものは僕たちが 下町へ行くたんびにヂツクにものをいふんです。
ヂツクが「イヤアー、」つていふから、僕も「イヤアー、」つていつて、それから少し話 しをして、ヂックが商買がどふだつていふんですが、近頃は不景気だつていひ升たよ。

と若侯は面白い計画を熱心になつて述立て升た。

左様ならばあなたは其ヂックとやらに何かして遣り度と仰しやるのです?

と頤を撫でながら、片頬に笑を含みながらハ氏が問升た、

エー、僕は金でジェークの方を付けて仕舞ひ升。

ハヽア、其ジェークとは又誰のことです?

ジェークつていふのはね、ヂックの商買中間なんです。
そうしてどふも大変わるい中間なんです。
ヂックがそういふんです、チツトモ正直でなくつて、あヽいふ人がゐると商買の為にわる いつて。
よく人を欺かしては、ヂックを怒らせるんです。
あなただつて一生懸命に靴を磨いてゐて、始終キチヤウメンにしてゐて、あなたの中間が チツトダツテキチヤウメンでなくつてズルイ事斗りすりやあゝおこるでせう。
ヂックは人に好かれるんで、ジェークは嫌われるんです。
ダカラ二度とジェークの処へは来ないんです。
デスカラ僕がお金が有れば、お金を遣つてジェークの方をつけて、ヂックには眼だつ看板 を買つて遣り度んです、ヂックが看板があれば大変都合が好んだつて云升もの、それから 新しい着物と新しい掃を買つて遣つて、とりつかせて遣り度んです、ヂックが何んでも始 めのとりつきが出来さへすれば好つていつてるんです。

と聞覚へたヂックの鄙語を其まヽ堂々と雑へての若侯の話し振りは、誠にあどけなしとも 可愛らしとも申様のないほどでした。
其心の中には自分の老成な話し合手が、矢張自分と同じ様に其話しに身を入れるだろうと いふことに、一点の疑をも入れない様でした。
ハ氏は実際、其話しに身を入れて居つたことは居り升たが、どちらかといへば、ヂックや 林檎売のことよりも、友人を思ふ情の濃やかな此若侯が、己を忘れて、細々と人の為に謀 ることに、注意して居つたのでした。
やがて、

あなたは何か……………金持になつたらあなたは御自分の物に買度ものは有ませんか?

と尋ね升た。
フォントルロイ殿は早速に、

それは沢山有升、デスガそれよりメレの妹にお金を遣り升。
ダツテ子供が十二人有つて亭主が仕事がないんですもの。
いつでもこヽへ来ては泣んです。
そうしてかあさんが篭の中へ入れてなんか遣るとまた泣いてどふも奥さま、お礼は申切れ ません」つていふんです。
それからホツブスおぢさんに金の時計と鎖とミヤシヤム製の煙管を置士産に上度と思ふん です。
それから、こんどは僕が‥‥度ものが有るんです。

と云ふのを聞て、さてはとハ氏が、

それはまたどふいふことです。

僕はネ、共和党の時の様に行列がして見度んです。
僕の友だちみんなと僕の制服を拵らへて、そうして行列をして調練するんです。
僕が金持ならば、こういふことを一つ遣つて見度んです。

セドリツクがます\/イキセキと話をしてゐる所へ戸が開いて、エロル夫人が座敷へ這入 り升た。

拠ないことでひどく手間どりまして、誠に失礼いたしました
只今大層困窮をして居る女が逢度と申して参つたので、

と氏に会釈して申しました。

ハヽ左様で御座り升たか、イヤ只今御子息がさま\゛/御朋友のことや、金満家と為つた 上は朋友の為にこふ\/して遣ろうなどヽ、お話し最中の所でした。

矢張りセデーが友だちと申人で御座り升が、只今台所で夫の病気彼是で、ひどく困難いた す様に申升て。

此時セドリツクは彼の大倚子の上から滑り下り、

僕、ひとつ行つて、逢つて来ませう。
そうしてあの人の病気を尋ねて遣りませう。
病気でないときは、いくら好人だか。
いつか僕に木の刀を拵へて呉れましたよ。
大変な才子です。

いひながら、座敷を駈出し升た。
ハ氏は此時少し座を正して何かエロル夫人に改めて云出る様子でした。(以上『女学雑誌』二三三号)
    小公子
      第三回(中)(*回数はママ−−佐藤注)    若松しづ子
ハ氏は尚暫く躊躇して、エロル夫人の様子を窺ひ、さて申升に、

愚老がドリンコート城を出立致す前、老侯にお眼通り致して、取斗らひ方に付き種々御指 図を蒙りましたが、御嫡孫に於て此度英国へ御移住相成こと、并に初対面のことなども成 る可く歓んで御待うけ相成る様、注意いたせといふ仰で御座り升た、それ故、御一身上大 変動の起つたに付ては、幼者の悦ぶものは何に限らず整へて差上る様、又お望のものは何 に依らず御満足ある様致して、総べて老侯の賜ぞと申上る筈に御座り升れば、貧民を補助 するなどのことは或は老侯の御意中に無かつたこととは存升れど、是とてフオントルロイ 殿の御懇望とあれば、是非ないこと、矢張り、御満足ある様取斗らひ申さずば御勘気を蒙 るは必定で御座り升う。

此時にも老侯の言葉のまヽは憚つて述ませんかつた。
老侯がセドリツクの望のものを買与へよ、又金子もとらせよと命ぜられたは、全く純粋な 好意より出たものではなく、皆な為にする処が有つたのでしたから、若しセドリツクにし て優愛、温和なる性質を有つて居りませんかつたならば、多少人となりを害された事でせ う。
セドリツクの母も亦極めて温柔なたちでしたから、悪意が有りしなどとは努め推さず、只 子供を悉く失ふた心淋しい、不幸な考へがセデーに優しくして、其愛と信用を得やうとし て居るヽことヽ計り思ひ、今セデーが彼の貧困な母を救ひ助けることが出来るとは、何よ りのことと喜び、自分の息子に向いて来た不思議な好運が、人に慈善を施す手術になると は、誠に幸福なこととおもひ、今しも其奇麓な、若々敷顔ばせに嬉しさがホンノリと桜色 に顕はれて居り升た。

それは\/侯爵さまの御深切誠に有がたう御座り升。
セデーもさぞマア悦ぶことで御座りませう。
ブリジェツトと申す其女と、つれあひは、大層セデーの気に入りで御座りまして、一躰誠 に実直な好人たちなので御座り升。
私も始終モツト何か致して遣り度と思つて居り升が、兎角そうもなりませんで。
其つれあいと申は、乎常丈夫な時は誠に実貞に働く方で御座り升が、久敷間煩つて居り升 て、高価な薬や、温かい着物、又滋養物などもなくてならぬので、大層困難をして居るの です。
両人とも頂戴したものを麁末にいたすことは必ず御座り升まい。

と申し升た。
ハ氏は此時痩た手を胸のカクシへ入れて、大きな紙入を取出し升たが、其鋭敏な容貌には 、何とも一寸勘定のつかぬおもいれが現はれて居り升た。
其実ハ氏は心の中にフォントルロイ殿が先第一に処望されたことの趣は斯々と老侯へ言上 致したら、何と仰せらるヽだらう、生来癇癖ある、俗才に長けた、気随な老侯のおもはく は、如何あらうかと不審を抱いたのでした。
今エロル夫人に向ひ、

まだ御承知にはなり升まいが、ドリンコート侯爵は、至極御富祐で 、フォントルロイ殿の御処望とあらば、多少御気随な向も、決して躊躇せず、御満足ある 様取斗ふて差支は御座りません。
却て老侯のお気に叶ふことゆえ、只今フォントルロイ殿をおめし寄せ下さらば差むき五ポ ンド丈お話しの貧民救助としてお渡し申すで御座りましやう。

と聞く、エロル夫人は嬉しげに、

五ポンドと申せば廿五円に当り升、両人にとつては大金で御座り升。
思ひ掛ないことで、私までが夢の様に存られます。

氏は例の冷々としたる笑顔になりて、

イヤ、御子息の御生涯…‥は既に大変動が有つたので、今後大した権力をお握りなさるこ とで御座る。

そう仰つしやればホンニそうで御座り升。
まだあの通り頑是ない子で……誠に頑是ないので御座り升に私がマアなんとして其権力を よく用ゐ升やう教へたら宜しう御座りませう、私は子供の為に誠に気遣はしく御座り升。
アノ様にあどけないので御座り升もの!

流石、ハ氏の冷淡、世才的の心も夫人の茶勝な眼に溢れた優愛と気遣はしげの眼付とに動 かされた躰で、又少し咽喉を払ひ、

イヤ、今朝フォントルロイ殿にお眼通りして、お話いたしたことより愚考いたし升るに、 ドリンコート侯爵位に登らるヽ上も人を忘れて、己の為に謀るなどヽいふお挙動は夢ある まいかと存升。
只今はまだ御幼年では在らせられ升が、決して御心配には及ぶまいかと愚考いたし升。

(以上『女学雑誌』二三四号)     小公子
    第三回(下)(*回数はママ−−佐藤注)若松しづ子
此時夫人は、セドリツクを迎ひに行ふとして座を立ち、つれ帰る道すがら、セドリツクが 何か頻りに母と話をする声が、聞へました。

かあさん、アノきん‥‥‥きんさうリヤウマチだつてネ、大変なリヤウマチなんですよ、 それから家賃が払へないことなんか考へると、其きん‥‥きんさうが尚わるくなるんだつ て、ブリジェツトが言ひましたよ。
それから、パツト(息子の名なるべし)も着物さへ有れば、小僧に行れるつてネイ、かあ さん。

といふ声聞へて、さて坐敷へ這入つた時の面は、大層に心配らしく、頻りにブリジェツト を気の毒がつて、ハ氏に向ひ、

かあさんが、あなたが僕、呼んで入つしやるつていひ升た。
僕はアノブリジェツトと話しをしてゐたんです。

ハ氏は暫しセデーを見詰めてゐましたが、少し度を失なつた気味で、躊躇しながら、セデ ーの母が今も云つた通り、まだ\/何をいふも頑是ない子供であるよとおもひ、

ドリンコート侯が‥‥‥

と云ひかけて、跡はお頼み申すといはぬ許りに、エロル夫人の方に知らず\/眼を放ちま した。
母は我子の側に急にすり寄り、さも可愛といはぬ許りに両手でセデーを抱へ、

セデーや侯爵さまは、おまへのお祖父さまナノダヨ、おまへのとうさんのほんとうのおと つさまナノダヨ。
其お方は、大層御深切で、おまへの様な御自分のお子たちはみんなおなくなりなさつたも んだから、おまへを大変可愛く思召して、おまへがおぢいさんを敬愛する様に、又それか らおまへを楽しませ人を助けることも自由にさせて遣り度と思召て、御自分は大層お有福 で、おまへの欲しい物は何でも遣り度とつて、ハヴィシヤムさまにそう仰つて、おまへの に沢山お金をおよこしなすつたのだよ。
今其お金をいくらかブリジェツトに遣つても宜しいのだよ。
アノ家賃を払つたり、亭主に何もかも買つて遣られる丈。
セデーや、好だろう、嬉しいだろう、好いおぢいさまじやないか?。

と云つて、子供の丸\/した頬にキツスをしましたが、其頬は今おもひ掛なく聞ゐたこと に仰天して、逆上せたと見へて、ボツト赤らんでゐました。
母をヂツト見てゐた眼をハ氏の方へ外せ、いきなり、

今、頂戴な、僕、直ぐと遣つて来ても好いですか?
モウぢきに行つてしまい升もの。

ハ氏は件の金をセデーに渡し升たが、青色の新しい紙幣で、奇麗に揃へて捲いて有升たが セデーはそれを持つて坐敷を駆け出し升た。
イキセキ台所へ飛び込か飛込まぬに、聞へた声は、

ブリジェツトや、一寸お待ようサア、お金を遣るんだよ。
お前のだから家賃も払ふんだよ。
僕のおぢいさんが僕に下すつたんだよ。
おまへとマリイに遣れつて。

ブリジェツトは仰天声、

アレ、セデーさま、どふし升べイ。
廿五円ジヤ御座りましねいか?
奥さま、マアどこにゐさつしやるだんべイ。

これを聞ゐてヱロル夫人は坐を立ながら、

ドレ、私が一寸行つてよく訳を云て聞かせて参りませう。

跡には氏は独り残されて、窓ぎわへ立寄り、つく\゛/思案貌、外を眺めてゐました。
心の中に考がへて居つたは、今ごろドリンコート城中の壮麗を極めた書斎の中に、身は奢 侈と華美とに囲まれてこそ居れ、痼疾に患み、心より愛敬するものとては一人もなき彼の 淋しき老侯のことでした。
人に敬愛されぬといふは、元と自分がこれ迄に誰一人人に愛を施したといふことがない故 で、誠に気まヽで、傲慢で、性急な人物で有つたのでした。
一生涯ドリンコート侯爵なる己と己の楽しみのこと耳をおもふて、人の上を考へる遑なく 、己の富も権勢も、己の高名、尊位に基く一切の利益も、皆な己が恣に用ゐて安逸と歓楽 に供す可ときものと斗り考へて居り升たが、さて歓楽と放蕩を極めた結局は、今の老人と なつて、疾病に患み、癇僻はます\/募り、世を忌み、世に忌まるヽものになつたことで した。
斯く斗り栄耀ある尊位を占ながら、ドリンコート侯爵ほど人望のない、寂しさうな老人は ない位でした。
固より招待状を送つて城中喧きまでに来客を充満させることは、心のまヽで、立派な夜会 や、盛な遊猟の宴を催ふすことも自由でした。
然るに己れの招待に応ずる人々は、何れも心の中密かに己の余り愛想好からぬ面相と、嘲 弄、刺戟的の物いひとを忌み恐て居るてふことを承知して居り升た。
老侯は残忍な性質に酷薄なる物言を并せ用ゐて、人が神経質だとか、高慢だとか、怯懦だ とかいへば、好んで嘲笑して、不愉快にさせる僻が有り升た。
ハ氏は老侯の無情、残虐なる性質を見貫いて居り升て、今しも狭隘な、静かな町を眺めな がら、頻りに考がへて居つたことは、最前彼の大椅子に腰かけて、優に、無邪気に、打開 けて自分の友といふヂックや林檎売の話しをして居た、気軽な、器量よしな童児と老侯と の大懸隔のことでした。
それから深くポツケツトの中へ突込んだフォントルロイ殿の少さなポチヤ\/した手に追 つけ握らる可き莫大な歳入や、美麗、壮厳なる産業や、善にも悪にも用ゐらる可き権力の ことを思ふて、独り言に(イヤ大した変動だろう、大した変動になるに違ない)と申て居 り升た。
セドリツクと其母は間もなく座へ戻り升た。
セドリツクは大勢でした。
ハ氏と母との間の自分の椅子へ腰かけて、膝の上へ手を乗せて妙な位置になり、ブリジェ ツトを助けて悦こばせたといふ嬉しさを、満面に溢れさせてこふいひ升た。

マア、泣いてましたよ!
そうして嬉しくつて泣くんだつて云ひましたよ。
僕は嬉しくつて泣く人始めて見升たよ。
僕の祖父さんは大変な好い人なんですよ、僕はそんなに好い人だつて知らなかつたんです 。
それからネ、侯爵になるのはアノ……‥僕が思つたよりはよつぽど好もんですネイ。
僕は侯爵になるの…‥…アノ随分……‥大変嬉しくなつて来ましたよ。

(以上『女学雑誌』二三五号)




10111213141516『小公子』の部屋||ホーム