*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19981215
■スリッパとサンダル 〜漫才コンビ<8ビート>再登場〜
AB「明けましておめでとうございま〜す。生粋東京漫才本舗池袋支店、8ビートで〜す」
A「いやぁ、やっと師匠から名前、いただきました」
B「前回は名無しでしたらかねー。ったく、うちの師匠もズボラなんだから……」
A「と、Bが言った…… φ(..) メモメモ……」
B「ん? まぁ、いいや。しっかし、単純な名前ですねー。師匠らしいや」
A「師匠は単細胞…… φ(..) 」
B「言ってないって! まぁね、AとBとのコンビで8ビートですよ。
どう思う? A君?」
A「そりゃ、師匠は単純さ…… とAが言っ、ん? Aが……言わされた…… φ(..) 」
B「まだやってるのか…… 君には、それしか出来ないのか?」
A「 (..)φ」
B「おっ、左手でも書ける。すごい…… じゃなくて! 漫才、やるんでしょ!」
A「まぁまぁ。前回の仕返しさ。因果だと思ってあきらめたまえ」
B「はい、どうも、その節は失礼しました…… って、なんでオレが謝るんだ〜」
A「君こそ、その恰好! スリッパなんか履いてきて、お客さまに失礼だろ」
B「スリッパ? そんなもの、履いてないぞ…… サンダルだぞ、これ」
A「なに言ってんだよ。それがスリッパじゃなくて何なんだよ!」
B「変なヤツだなぁ。スリッパってのは、病院とかの、ペタペタの、底の薄いヤツだろ」
A「いやいや。内履きだろ、それ? 表に出て行けないだろ。スリッパじゃないか!」
B「ったく、コンビニだって、ミスドだって、ヨシギューだって行っちゃうゼ」
A「いや、スリッパやて!」
B「ん? んんん? そ、その言葉! 生粋東京漫才本舗の人間じゃないな!」
A「うっ、ここで岐阜弁がでるとは……」
B「責めるに落ちで語るに落ちたな? かぁっかっかっかぁ…… 正体見たり枯山水!」
A「むむむっ。誤用で責めるとは…… 立場上、ことばとがめがしにくい。卑怯なヤツ」
というわけで、スリッパとサンダルの使い分けが東日本と西日本で違うらしいのです。
大学院生のころ、京都からきた院生と見解が違うことに気づきました。
スリッパの守備範囲が、西日本(関西周辺?)の方が広いようです。
底が肉厚で、スーパーへ買い物に行くくらいなら十分に履ける、ゴム底・スポンジ風樹脂底のものもスリッパと言います。
ゼミの学生(岐阜出身)は「内履きならスリッパで、もっとしっかりした作りでないとサンダルとは言わない」と言ってました。
あるいは、女性だとサンダルの種類が多いため、スリッパの守備範囲が広いのかもしれません。
ともあれ、皆さんからの情報をお待ちしています。
問題になっているのは、たとえば、こちらのような履物です。 私はサンダルとしか言わないのですが、学生は上の二つなどはスリッパというでしょう。 (久保山さんより御教示。感謝)
19981217
■手書きの宛て名
年賀状の宛て名、私は、今年も手書きである。
実は、何年かまえに、住所をパソコンに入力し、プリンターで印刷したこともあった。
でも、データを失ってしまい、それ以降、手書きにもどったのである。
いちど入力してしまえば、データをなくさないかぎり(^^;、使えるのだから、再度入力すればよいのである。
が、気が萎えてしまってどうにも再入力する気になれない。
ま、宛て名を手で書くのも、それはそれで、相手を再認識することにもなるし、よいことである。
プリンタ印字ばやりの昨今であるし、かえって、よろこばれるかもしれないし。
と、今年の年賀状を書くまでは思っていた。
前にいただいた年賀状の住所を頼りに記していくのだが、何枚か見ているうち、これはマズイのでは、と思うようになった。
プリンタ印字の宛て名が結構ある。
そして、私が、早くからワープロを使い、ホームページを運営していることは、多くの人に知られている。と、こういう条件がそろってしまったときの、手書きというのは、実にマズイんじゃないだろうか。
佐藤が、プリンターを使えないはずはない。
ということは、受け取った年賀状が手書きなのは、手抜きであろう。
はじめは、出さないつもりだったのを、何かの拍子に書く気になった。
ところが、データをいれるのを面倒がって、手書きしたに相違ない。
なんと、無礼なヤツなのだろう……
年賀状は、普通、一人に一通しかださない(書くのも恥ずかしい)。
とすると、もらった人は、他に手掛かりがないのだから、上のように考える確率は相当に高いもの考られる。困ったこまった。
19981118
■「つやつやしい」
天野祐吉『嘘八百、これでもか!!!!』をながめていた。
明治から昭和戦前あたりの広告を著者の関心のおもむくままに集成したものである。
どんなものがどういう基準で選ばれているのか、はっきりしないので、あまりこの手のものは手にしない。
が、自室の階の不用紙ボックスに入っていたので拾う神になってみたのである。
そこで、化粧品だったかの宣伝文句に「つやつやしい」ということばを見つけた。
この言う方、現代ではあまり使われない。少なくとも私は使わない。
ちょっと気分が高揚していて、ことばのうえでちょっとしたいたづら心が生まれたときなら言うかもしれない。
「いかにもつやつやしていて、内面の充実まで感じさせることよ」などと思ったときである。
念のため、復調しつつあるgooで「つやつやしい」を検索したら、3件出てきた。
現代の例だとこちらがあった。
「高高指」という言い方も見られて興味を引いた。
こちらも若い人が書いたものだろうか。ちょっと意外だった。
あと一例は、青空文庫のなかの夏目漱石『こころ』なのだが、アクセスすると「見つからない」と返してきた(どうも、最近のgooにはこの手の、古い情報が多いようだ)。
3件を多いとみるか少ないと見るか、判断が分かれるところではある。
19981219
■Webで桃栗
普段、よく使っている手段なのに、ある対象にかぎってだけ、それをしないことがある。
「桃栗三年」もそうであった。で、おそまきながら、gooで検索してみた。
なお、もとのサイトで、かならずしも一連なりの歌のようになっていないものもあるが、再構成してみた。
(ちょっと無理のある場合もある)
○桃栗三年柿八年、梅は酸い酸い一三年 北日本新聞夕刊
○桃栗三年、柿八年、柚の大馬鹿十八年 (壺井)栄の文学碑
この2つはすでに紹介ずみのものである。
○桃栗三年柿八年ユズはすいすい十三年 10ギンナン(岐阜県美濃市道樹寺)
「梅は酸い酸い13年」から転じたものだろうか。
○桃栗三年柿八年、梨の阿呆が十六年、柚子のおとぼけ二十五年 吉祥樹の話(海老名市)
今回最大の収穫かもしれない。「阿呆」に対するに「おとぼけ」とは何ともうまい。
○桃栗三年柿八年、枇杷は九年でなり兼ねる、梅は酸い酸い十三年 粗忽者倶楽部
リンクを張ったものの、ソースまで見ないと出てこない(こういうのもgooは拾っちゃうんですね。ロボットはこわい)。
また、Makiさんから「枇杷は9年 柚の大馬鹿18年と聞いていたように思います」と教えていただいた。
なお、中国にも「桃三、杏四、棗当年」という言い方があって、「桃栗三年柿八年」と同様に使うらしい。
張さんの薬膳料理。
19981223
■「かわいそう」と言わないで
以前、ある学生と長い時間、話し込んだことがあった。
その話題の一つに、身体障害者のことをかわいそうと言わないでほしい、そういう目で見ないでほしい、というのがあった。
その学生の主張が、分からないわけではない。
むしろ、身体障害者とかかわっている人には、ごくごく当たり前の意見であり、感覚なのだろう。
わたしも、そのような話に接したような気がする。
「かわいそう」というまえに、人格を認めてほしい、対等の人間として接してほしい、ということかと思う。
その学生は「かわいそう」という言葉をなくしてしまいたい、とまで言ったように思う(記憶違いでしたらお許しを)。
「かわいそう」という言葉の背景には、ともすると、なにがしかの優越感がともなうことがあろう。
自分とは無縁ですよ、といった、対岸の火事をながめるような風情がともなうこともありそうである。
そんなことを考えると、「かわいそう」をなくしたいという主張は、実によく分かる。
が、かといって、なくしてしまっていいのだろうか。
いや、もちろん、ことばは文化なのだから大切にしようというロマンチックな話をするつもりはない。
言葉を廃棄することで、認識を改め(させ)る−−
たとえば、在来の差別感のともなう語をやめ、代替語を用いる運動がそれだが、十分な成果をあげているように思う。
恥ずかしい話だが、若いころは、あまり代替に賛成ではなかった。
別の言葉に置きかえた当初はよいとしても、次第に以前のイメージに染まるように思っていた。
そしてやはり、日本人の見方や思想から改める必要がある、と思っていた。
が、代替語は、以前の語とは異なるよそおいのもとに使われているようだ。
代替語の多くが漢語(字音語)だが、限られた音構成がもたらす独特の響きもあってか、代替語を言うときになにがしかの改まりを要求するためらしい。
もちろん、関係者の方々の並々ならぬ努力がなくしては、スムーズな代替は行なわれなかったにちがいないけれど。
たしかに、日本人の見方や思想を改める必要はあるだろう。
しかし、それが、いかに難事中の難事であるか、ある一定の年齢・経験を積まないと分かりにくいらしい。
その難事の一角を、言葉の代替という誰にもできる具体的な形で提案・実行され、認識を改めさせるのに成功された方々に敬服する。
さて、ひょっとすると、その学生は、差別語代替に近い感覚で「かわいそう」をなくしたい、と言っているのではないか、と思った。
わたしは、それは、絶対にしてはいけない、とあえて言ってみた。
言語学的にみれば、ある言葉がなくなる要因として、新語の誕生という事態がある。
「かわいそう」という心情はなくならないとすれば、それに変わる新語を準備しなければならない。
それができるのであれば、それでもいい。
しかし、ある言葉がなくなる要因にはもう一つある。
その言葉で表された事物が消滅する場合である。
「かわいそう」という心情がなくなれば、「かわいそう」はなくなる。
が、そういう世の中とは、どういうものなのか。
私の乏しい想像力では、敗戦直後の日本の一部や、近未来映画・劇画などの舞台に設定されがちな終末的世界戦争後の世の中などしか思い起こされなかった。
『北斗の拳』『風の谷のナウシカ』などなどから、良識ある人々を除いた世の中である。
そこまで考えて、こう話してみた。
「かわいそう」というのが、実は、いたわり・慈悲の言葉として、一番使い慣れたものなのではないか。
それをとりあげるのは相当苦労するし、第一、ファッショではないか。
それができたとしても、本当によい世の中になるのだろうか。
たとえば、「かわいそう」と思う人が100人いて、その中の3人がボランティアをしたり、障害者の介護の仕事をしたりするのではないか。
とすれば、「かわいそう」がなくなったら、そんな世の中になったら、君は一体どうするのだ、と。
その学生、納得してくれたのだったろうか。ちょっと記憶がない。
19981227
■「沢」(人名)
担当していた講義に「沢」という名の学生がいた。
その子の友人が私の部屋に質問にきた。
私の方から問うたわけではなかったが、「沢」さんの名前の由来を知ることになった。
なんでも両親が山歩きが好きでこの名がついたという。
ほかの兄弟にも山にちなんだ名がつけられているとのことだ。
「なんと安易な……」という人もいるかも知れない。
むしろ、そう感じる人の方が多いのではないか。
だからこそ、ここが考えどころだろう。
「なんと安易な……」という考えをとやかく言うのではない。
そう反応できる感覚が誰にもある、ということをまず確認しておきたい。
つまり、沢さんの御両親も「なんと安易な……」とは思ったはずだということである。
ひょっとしたら、親戚からも何か言われたかもしれない。
いやいや、御夫婦のあいだでも意見が分かれたかもしれない。
常識的ではない、などと。
それを乗り越えて、サワと命名した御両親には、相応の決意があったはずである。
他人にとやかく言われても全責任を負おうという、意志である。
そこには、保護者としての、養育の責任が重ね合わされていたかもしれない。
しかし、これは、他人に対しての決意に過ぎない。
自分たちの好きなものの名を持つ我が子……
たとえその子が、何をしても、どんな子になったとしても、好きなものの名をもつ子どもなのである。
好きなものにめぐり合うたび、その子のことを思い出さずにはおれないのではないか。
しかも、その名は自分たちが付けたものなのである。
後悔のし甲斐すらないだろう。
そこまでの決意が、親御さんにはあったのではないだろうか。
ちょっと度が過ぎた気もするけれど、そこまで考えて「いい名前だね」と言ってあげた。
19990117
■「岐阜市外岐南町」
今日はセンター入試の監督。
ただし、予備監督なので、正規の監督者に病欠などがなければ、本部に待機していればよい。
つまり、試験開始から終了まで膨大なヒマができるのである。
そこで『日本の名随筆』を2冊たずさえて会場に向かった。
陽光あふれる南窓に陣取り、かつは読み、かつはうたた寝し、日頃の睡眠不足をおぎなおうとの腹である。
が、会場に到着するや、教務厚生委員長に呼び止められた。
曰く、「健康状態のすぐれない人がいて、特別に部屋を設けて受験させるので監督してほしい」と。
悪だくみはもろくもついえさった。天網恢恢?
となると、楽しみは昼のお弁当。
活字供給不足につき、弁当屋のラベルまで熟読玩味してしまう。
おかげで、ちょっと興味深い住所表記をみつけた。
それが左の画像。普段なら絶対に見逃している。
岐南町は、岐阜市の南に隣接する町である。
市町村レベルでの地方自治体が異なっているので、「岐阜市」に「外岐南町平島」という地名があるのではない。
ましてや「岐阜市街岐南町平島」の誤記ではない。
すぐ下に記された市外局番は岐阜市と同じ。よくあることである。
兵庫県尼崎市のように、府県境をまたいで、大阪市(周辺)と同じ市外局番である場合すらある。
そうした自治体にとっては自己主張もしたくなるのではないか。
住民の方々も同じような気持ちを持っていることと思う。
とすると「岐阜市外」は、「電話の市外局番は岐阜市と同じですが、異なる自治体ですよ」という主張なのだろう。
あるいは電話番号と住所を併記するときの慣例なのだろうか。
もちろん、市外局番のことを抜きにしても、名前が似ている。
岐阜市の一部と誤認されることも頻繁にあるのかもしれない。
岐南町に来る人のためのサービスか。
結構あるらしい。
なかには岐南町以外のところに本拠があるにもかかわらず、「岐阜市外岐南町」を使っているような気がする。
親切のつもりなのだろうけれど、岐南町がかわいそうな気も。
がんばれ! 岐南町!
速攻レス! なるほど! 「都下〜市***」の岐阜版か! かみさかさん、ありがとう!
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」 漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
ことばにも関心がおあり。
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