じつは言葉というのはたんなる記号ではないのだ。たとえば七、八世紀頃の日本人は、 花が咲いた、という言葉を聞いただけで、突如、自分が花ばたけに立っているような共感 覚を持てたのだと思う。香りだって嗅げたはずだ。つまり、ハナという音や文字が、実際 の花がもつ形や色や香と密接な関係を保っていた。(18ページ)そうした幸福な言葉(「語形」というべきか)と意味との蜜月を現代の日本語は失った ので、いろいろな形容詞をつけて長くなるという話。この直後に「言霊」が話題になるの で、それが下地にあるらしい。
「柚子(ゆず)は九年」などがあることをお知らせした。こんなにもバリエーションがあるとは思わなかった。こ うなってくると、「桃栗三年柿八年」が共通する方が不思議なくらいに思われる。
「柚子は遅くて一三年」
「梅は酸いとて一三年」
「梅は酸い酸い一八年」
「枇杷(びわ)は九年でなりかねる」
「枇杷は九年で登りかねる梅は酸い酸い一三年」
「柚子の馬鹿めは一八年」
最後の一人が、財布、時計、カメラなど、ゆうゆうとぬきとり、三人バラバラの方角へ 走って逃げる。カモはそれを見て口惜しく叫びたてるが、どれう追っかけていいのかわからないから、 トド、泣寝入りである。(44ぺ)一瞬、何を言っているのか判らなかったが、おそらく「とどのつまり」の略なのだろうと見た。 で、『日本国語大辞典』を引いてみるとやはりあった。でも用例は江戸時代のもの。そこで、開高が、そんな 言い方を使った理由が気になってくる。