20050816
■辞書と人生
最新の、といっても文庫版ですが、'02年版では、巻頭から泣かされてしまいました。浅田次郎「学而」。「私」の学習とその母自身の学習行為が──より大げさに言えば人生が──辞書を買い、使うという行為を通して印象的に語られます。いや、そんなに気取った書き方をしなくてよい。辞書をめぐる母の思い(を想うこと)に感じたのです。
無理を言って入学させてもらった私立中学の合格発表に、「小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典と、大修館の中漢和を買い揃えてくれた」母。そこに「私」は何を見、思ったか。
「遺された書棚には私のすべての著作にならんで、小さな国語辞書と、ルーペが置かれていた」。ここから、何を読み取るのか。息子に大きな辞典を与えた母が、なぜ小さな辞典を使っていたのか。等々。
江戸時代の人々が辞書を購入した動機、使用した要因など、辞書をめぐる当時の人々の思いに興味を持つようになって10年近くたちます。だから、関心を持ちやすかったのかもしれません。また、古い江戸時代のことだから、状況証拠を集めて推測するようなことにもなるのですが、浅田のように直接に書いてくれていたら、どんなにかありがたいだろうか、とも思います。(現代のものですが)模範例にあったような気がして嬉しくもあるわけです。
また、浅田とは事情が異なるけれど、自分も似たような道を歩んできて、母も似たようなことをしてくれた。小さな辞書で満足もしている。一種、同一視しやすい部分があって、思い入れることができたせいもあるようです。
20050815
■ベスト・エッセイ
毎年7月に日本エッセイスト・クラブ編『ベスト・エッセイ集』の文庫本が出ます。年ごとに選ばれた秀作短編エッセイ集ですが、いろんな意味で楽しみです。
まず、書き手が広いこと。小学生から老人まで。一般の方から手練の文筆家まで、ともかくいろんな人が書くものだから、話題が広い。語り口もさまざま。文章用の文体のはずだから、原則として方言差から免れているわけですが、そうでもないんですね。もちろん、時代差だってよく現れるし、生活の守備範囲も異なるから、それぞれの方面の用語が出てくるのも楽しいです。
そして内容。ともかく飽きさせません。活字離れが叫ばれる昨今ですが、こういう本から入る(入らせる?)とよいのではないでしょうか。短編だから、どこからでも始められるし、読み終われる。構成からして「読まなければ」という圧迫感を感じさせないんですね。また、気に入ったエッセイがあれば、それを書いた人の他の作品へと進むこともできる。つまり、一種のインデックスのように使えるわけで、自然な読書案内にもなりうるわけです。
編者も工夫してるようです。まず、全エッセイを4つか5つの章にわけてあります。それぞれにテーマがあるのですが、その章中のエッセイの題名を当てています。さらにその一つがエッセイ集全体の書名になります。最新の'02年版なら「象が歩いた」、'98年版なら「最高の贈り物」です。
また、隣り合うエッセイ同士にも連関を持たせることがあります。よくもつながるものだなと感心することもありますし、まったく関係ないものが並ぶこともあるようです。ただ、章の最初と最後とか、本自体の最初と最後は、相応に意を用いた配列がなされるようです。その効果がもっともよく現れたのが、'98年版でしょうか。
この本の最後を飾る二編は、あわやのぶこ「空飛ぶ魔法のほうき」と、木村恵利香「最高の贈り物」。アドバイスをすれば、どうかこの順にお読みいただきたい。原則として「どこから読んでもよい」本なのですが、この場合は編者の意図どおりに読むことをお勧めします。できれば、助走の意味でもう2・3編前から読むとなおよいかと。
この二編を結ぶのは「子どもの持つ思い」ということだと思いますが、それぞれに扱われ方は異なります。が、それはさておき、というより、ここで内容に触れては折角の感動が薄まるので、あえて触れません。ただ、私は、涙をこらえることができなかったと言うばかりです。そして心から読んで良かったと思いました。
こういうことからすると、やはり、本は、前から順序よく読まなければいけない。まさかとは思いますが、そういうことを知らせるための編集・配置なのでしょうか。とすれば、どこから読めてどこでも止められるけれど、読書の基本である「順序よく読む」ことも教えてくれる名エッセイ集なのかもしれませんね。
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