気になることば
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*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある、 「人間が言語にどうかかわっているか」に力点を置いているつもりです。 |
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外に出ると寒い。寒いけれど、お酒と魚で顔が火照っているから心地よい。陶然と歩きだしたら、いつのまにか「スナック」に入っていた。岡山あたりでは、バーのことをスナックという。たしか徳島でもそうだった。(宮脇俊三『時刻表おくのほそ道』文春文庫) |
学生のころ、方言調査の都合で、国立だったかのビジネスホテルに泊まったことがあります。そこを拠点に東京・埼玉を調査したのです。ある夜、たまたま恩師が出張かなにかだったのでしょうか、ミーティングのない日がありました。そこで、悪友と二人、飲みに出かけました。
ちょっと清潔そうなビルの、健康的としか見えないところに、その店はありました。外見からすれば、まぁ、スナックです。おたがい、貧乏学生でしたので、精一杯の気取りがあったのかもしれません。いまから思えば、居酒屋にすればよかったのですが……
席に案内されると、お姉さんが水割りを作りはじめました。おいおい、注文してから、グラスに入ったのがくるんじゃないの? しかも、お姉さんは、床に膝をついてウィスキーをついだり、氷をいれたりしはじめるではありませんか! た、高い店なんじゃないか……
これには悪友ともどもびっくりしました。当然、話しも上の空です。でも、それを気取られてはならない。余裕ありげに話そうと努力します。が、御勘定がこわい、という共通理解はすでに出来ています。「学生さんですか?」の問いには、「はい、そうです」と正直に答えます。社会人ですなどと言おうものなら、どうなっていたことか…… 落ちつかぬまま、ほうほうの体で逃げ出しました。
いま思うと笑い話ですが、「バー」と一言書いてあれば、良かったのに。
これまた、宮脇氏の作品から思い出話になってしまいました。しかも、あまりアカデミックな話でなくてすみません。次集をお楽しみに。それにしても、飲み屋の善し悪しは、いまだに見分けられません。誰かに教えを乞わねば。内地留学とかないかしら(あるわけないです)。
一畑電鉄は大都市近郊の私鉄なみに時速六〇キロ以上を出す。国鉄と競合しているので、ゆっくりもしていられないのであろう。もっとも、車両が古いと速度感は強調される。車体をきしませながら走るから六〇キロが八〇キロにも感じられる。私は小学校の綴方で全速力のことを「古スピード」と書き、先生に笑われたことがあるが、古さによるスピード感というものはあるように思う。(宮脇俊三『時刻表おくのほそ道』文春文庫) |
なかなか堂に入った負け惜しみ…… とだけ読んだのでは面白くないですね。
私も小学校時代、妙な宛字をしていたのではないかと思います。「宛字」と言いましたが、単なる間違いという意味ではありません。また、世間一般に認められてはいるが、本来的な用字法ではないもの、という意味でもありません。「遊び」とまでいうと高尚になってしまいます。
小学校のころ。それまで知っていた文字は、平仮名・片仮名。つまりは、一つの文字で一つの発音しか表せない(注意:これは大雑把な言い方です)。「山・川」を示すのに、「やま・かわ」と二つの文字を使うことになります。なんだか、当たり前のようで、つまらない。
ところが、漢字ときたらどうでしょう。一文字で二つも三つも音が表せるんですよ! これは驚きではなかったでしょうか。残念ながら、私は、その当時の、生き生きとした驚きを、きれいさっぱり忘れていますが、あらためて想像すると、大きなカルチャー・ショックだったのではないかと思います。
そういう便利な(?)ものを知れば、使いたくなるのが人情というもの。きっと、小さいころの私は、面白くなって、つぎつぎに「妙な宛字」を書いていたのではないか。書けば、親たちはなんとか読んでくれる。それがまた拍車をかけるでしょう。自分だけが分かっているのではない、他の人にも通じるんだ、と知ったときのよろこび…… 想像ですが、きっと私は小さいころ、「妙な宛字」を書いていたと確信できそうです。
「古スピード」を書いた宮脇少年に、小さいころの自分を見る気がしたことでした。
20000610
■概念化作用の裏表
AB「こんにちはーッ! 生粋東京漫才本舗池袋支店、8ビート、でーーすッ!」
A「いんや〜、一週間のごぶさたでした!」
B「一週間どころじゃないって。1年半ぶりだよ」
A「あ〜、そうでした、そうでした。師匠も仕事まわさないからなぁ」
B「やっぱり、例の小技、怒ってるのかな?」
A「小技? ああ、φ(..) (..)φ ね。君も古いことを」
B「師匠をネタにしてはいけないな〜」
A「まぁ、そうだけどね。でも、俺たち風情の師匠だぜ」
B「ほらほら、またそんなことを!」
A「だってさ〜、紅茶飲んで頭痛がするってんだから、ちょっと不気味だぜ」
B「え? そうなの? 変といえば変だな」
A「ウーロン茶もだめだって」
B「ええ? いまどき、どこ行っても出てくるのになぁ」
A「こないだなんか、紅茶入りキャンディ、うっかり食べて、夜通し頭痛してたっていうぜ」
B「うわっ。本格的」
A「な? あやしいだろ? きっと裏で悪いことやってるんだゼ」
B「そうじゃないでしょ。それにしても、師匠も不思議な人だな〜」
A「まぁ、本人は発酵茶アレルギーって言ってるけどね」
B「あ、なるほど。アレルギーか。名前があるくらいなら一安心」
A「ふふふ。わざとらしい反応、ありがとさん。座布団一枚!」
B「へへへ、ほめるなよ」
A「でもさ、名前があるせいで、苦しむってのもあるんじゃない?」
B「そうそう。俺なんか、本のページをめくるのも苦労するよ」
A「(?_?)」
B「二枚目って言われてるからね。ページ数の《2》見ただけで気恥ずかしい」
A「(・・)」
B「ん? 《目が点》…… 小技はやめろって」
A「(^u^)」
B「《ベー》じゃない!」
A「:-p」
B「寝てまでやるな! 早く起きなさい」
A「よいしょっと」
B「今度は、プロ・ゴルファーか!」
A「ま、君が二枚目かどうはともかく、分かってくれたかな」
B「おう、認めよう!」
A「言葉がなくて不安なのと、言葉があって苦しいのと、どっちもどっちだね」
B「でもさ、それって、ちょっと違うだろ?」
A「んんん? そうか?」
B「言ってみりゃ、目につくか、全く見えないかってことだろ」
A「おっ、なるほど。うまいたとえだねぇ。よっ! 色男! 座布団一枚!」
B「だ・か・ら、二枚目はいらないって!」
「この間ね、たまたま山本健吉の『新撰百人一句』というのを見ました。(略)まあ、誰しもが挙げる句です。では、加藤楸邨は何が選ばれているかと思ったら、《日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ》でした」 |
昨日、「情報伝達に関しては、他の手段では及びもつかない働きを言語はしていると思うからです」と書きました。まさにそうなのですが、「言語芸術」ということばがあるくらいですから、言語でも芸術はできるわけです。その、極端な例が俳句ではないでしょうか。
情報の伝達能力をはかる尺度・立場として「情報の記号化手段と記号の情報化手段とが一対一に対応している」かどうかを挙げました。言語は、対応の度合いがいちじるしく高いわけですが、その言語を手段としながら、俳句では、対応の度合いがいちじるしく低くなっています。
《日本語をはなれし蝶のハヒフヘホ》…… 私にも、この句の善し悪しはわかりません。それは、この句を作る際の手順──作者の思いなり「感動」なりを、《日本語の……ハヒフヘホ》という言語記号の連続に置きかえる規則──が分からないからです。
しかし、一方では、これを《いい》と言い切れる人がいる。うらやましいかぎりですが、このような状態は、「シュトックハウゼンの音楽が分からない」「ピカソの絵なら分かる」などと言えるのと同じですね。分かる人には分かる。非常に乱暴な言い方なのかもしれませんが、他の芸術と同じような状態を俳句は作りだしていることになります。
それは、言語を手段としながらも、情報を伝達しないことで芸術として成り立っているかのようです。実に面白い。さすが、「謂応(いいおう)せてや何かある」(去来抄)の芸術だな、と感じいるほかありません。
どう表現するかをこれからやらなければならないのだが、どうも言語というもの、一本の線路のごとくであって、面とか空間の印象をあらわすのに適していない。その点、画家や写真家がうらやましい。音楽は、どちらかといえば言語に近いが、さまざまな音色の楽器を同時に演奏させることができるし、喜ぶ男と悲しむ女の二重唱も可能である。(宮脇俊三『汽車との散歩』新潮文庫) |
言語の「線状性」。これは、言語学入門でかならず学ぶ言語の性格の一つです。時間の経過とともに音声を発したり、文字に書いたりするという性格ですが、それはそのまま制約でもありますね。そのために、宮脇氏のような慨嘆も聞かれることになります。
ただ、こういう慨嘆は、やはり「面とか空間の印象をあらわす」という場合に限られるように思います。さらに、芸術的表現の場合、と言ってしまえるでしょう。こと、情報伝達に関しては、他の手段では及びもつかない働きを言語はしていると思うからです。
たとえば、日本国憲法が、絵画や写真や音楽で表せるでしょうか。問われるまでもなく、否ですね。法律の条文のような複雑な内容を確実に伝えるには、絵画・写真・音楽などは不向きです。
「不向き」ではちょっと無責任な言い方でしょうか。詳しくいえば、表現者(画家・写真家など)の手法が、からなずしも享受者に理解されているとは限らない、ということになるでしょう。もっと確実にいうなら、「情報の記号化手段と記号の情報化手段とが一対一に対応している可能性が著しく低い」とでもなるのでしょう。最近では、古い時代をあつかった国語学の論文でも「デファクト・スタンダード」といったパソコン世界からの(?)用語が使われるくらいですから、それを真似れば「プロトコルが一致しない」というに近いでしょうか。
さて、本題にもどって。言語は、線状的だからこそ、複雑な情報も伝達できるのでしょうね。表現する方も少しずつ、糸をつむぎだすように、縄をなうように、言語にしていきます。それを受けとめる方も、少しずつ言語を受けとめながら、縄をほどくように情報を獲得し、内容を理解することができるわけです。
これは、たとえば梃子(てこ)の原理に近い。よりいえば、ドアのノブのような輪軸ですね。ノブがとれてしまったとき、心棒を直接回すとしたら、これは骨が折れますね(少なくとも、皮くらいはむけそうです)。が、ノブがあるおかげで、力を加え続ける距離はその直径に比例して長くなりますが、少しの力でドアを開けられます。
そういう、制約と最終的な仕事量の関係が、言語の線状性と情報伝達の量・密度との関係に似ているように思うのです。
あ、ここまで書いて気付きました。言語学の入門書に書いてあるでしょうね。こういうことは。
金曜日は夕方四時に入ることになっている。朝なら《おはようございまーす》で万事すむのだが、夕方ではそうもいかない。《今日はー》というのはよそよそしいし、《今晩はー》には早い。かといって《ごめんくださーい》では訪問販売のようだ。したがって、今のところ《失礼します》にしている。(北村薫『六の宮の姫君』東京創元社) |
これは、バイト先に着いての第一声の場合です。が、私たちの日常の挨拶でもちょっと困る時間帯ではありますね。「今日は」では、ちょっと遅い時間帯。使ってもいいけれど、なんだか間が抜けた気もします。
こういうとき、芸能界とか水商売などでの「おはようございます」は便利だなと思います。時間帯によってあいさつの種類を変えるというルールではなく、その日、最初に会ったときのあいさつ、というルールで「おはようございます」というわけです。だから、真っ昼間であろうと真夜中であろうと使えますね。
ルールが変わるのだから表現も変えた方が綺麗なのですが、変化は徐々に起こるもの、と考えれば、これはこれで過渡期的現象なのかと納得することにしています。
それにしても、「おはようございます」の意味をたどれば、「御+早う+ございます」でしょうから、いかにも朝にふさわしいものと思えます。が、「早い/遅い」を問題にすれば、その日、初めて会ったときのあいさつとして、その場に到着したのが「早い/遅い」とも言えるわけで、芸能界などでの用法も、これはこれで理にかなっているのかな、などとも思います。
が、多分、そうした理屈が通るから、芸能界などで「おはようございます」を使っているのではないのでしょう。日常、我々が使っている「おはようございます」をそのまま流用したのでしょう。ちょっとルールを変えて。そこが、いかにも、あいさつことばらしい。言語表現に意味はつきものですが、こと、あいさつに関しては使い方の方が優先されて、意味は二の次にまわりがちです。円滑な人間関係のもとに生活するには、意味はともあれ、いうべき時に「おはようございます」「ごめんなさい」「ありがとう」が言えなければなりません。あいさつにそういう用法優先の性格があるから、真夜中でも「おはようございます」を使うことができるのだろうと思っています。
ちょっと舌たらずですね。後に書き改めるかもしれません。
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」 漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
ことばにも関心がおあり。