気になることば
〜充電通信99年11月号。通巻66集〜
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分類目次
*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
「気になることば」66集は、転送作業時に事故により、大部分を消失しました。が、このたび、おの しげひこ 様よりファイルをお送りいただき、完全に復旧できました。おの様、ありがとうございました。心より御礼申し上げます。
消失のおり、岡島昭浩様・小田勝様には、キャッシュに残ってないかなどとお尋ねし、お騒がせしましたこと、お詫び申し上げます。また、キャッシュで御確認いただきました ひい様はじめ、お知らせいただけなくとも御確認してくださった方々に御礼申し上げます。(2000年6月4日)
特集・TDN寺子屋
19991110
■言葉をめぐる話をする
8月30日、東京デザイン・ネットワークの世話役・水原滋さんから、メールをいただきました。
なんでも、若手研修会「寺子屋」で言葉の話をしてほしい、とのこと。
なぜ、デザイン(工業デザイン)にたずさわる人に言葉の話なのか……
直接的に、彼らの仕事のためになる話はできそうにありません。
真意やいかに…… ははぁ、最近はやりの社員教育とやらで、敬語の使い方とか、言葉の正しい使い方を教えよ、ということでしょうか。
メールをやりとりするうちに、水原さんの狙いが分かってきました。
ごくごく簡単にいうと、デザインの発想に肥やしを与える、ということのようです。
もう少し詳しくいえば、工業デザインのアイディアというのは、他の人が気がつかないような小さなことがら(でも、重要なことがら)に気づくかどうかで勝負が決まる面があるそうです。
そのために発想の手だてとか、「引き出し」とかを豊かにしておく必要がある。
そこで他分野の話がよいのではないか、となったようです。
たしかに、私自身もそうだけれど、昔々に教わった他分野のことが、発想や考え方の基礎になっている部分がないわけではありません。
それならばと、微力は承知でのうえで、お引き受けしました。
題は大きく「言葉・再発見」。内容を目次風に記すと次のよう。
1再発見への入り口 a国語辞典の語釈から b日常語をふりかえる
2言葉の旅・言葉への旅 a旅をする言葉 b外国の言語と思考
3知ってるようで知らない発音 a発音器官 b五十音図の並び方 c発音と意識
で、「気になることば」で再現、とまではいきませんが、記録の意味もこめて書いておきたいと思います。
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■国語辞典の語釈から
最初の話は、選び方に悩みますね。
これから、短からぬ時間、言葉について一緒に考えていくわけですから、魅力的なものでないといけない。
一方では、頭の働きを柔軟にすることも必要だし、明るく楽しい雰囲気も作りたい…… と言えば、私にはアレしかありません。
まず、国語辞典の語釈を材料に、一見同じように見える国語辞典の一冊一冊にそれぞれの個性があることを知ってもらいます。
とりあげたのは、『新潮国語辞典』『例解国語辞典』『新明解国語辞典』。
資料として、語釈の対比表も用意しました。
『新明解』だと、「老女」にプラスのニュアンスを、「老婆」にマイナスのニュアンスを与えて説明しわけています。
よく考えてみると、私たちの語感に合わないわけではない。
たとえば、次のような文ではじまる小説があったとします。
┌老婆┐
バス停に、│ │がひとり立っていた。
└老女┘
さて、やってくるバスの混み具合はどうか、待っているのは何時ごろか、天気は? ……
などと考えていくと、やはり「老婆」の方が悪い感じになっていきそう。
やはり別の言葉なんですね、などと話します。
そのほかにもいくつかの語をとりあげます。
「洒落」は落とせません。
「あの岩波書店の辞典だと『下手な洒落はやめなしゃれ』という用例がでています」なんて言えますし。「動物園」「馬鹿」も。
ばか【馬〈鹿】〔雅語形容詞「はかなし」の語根の強調形〕(略)身近の存在に対して親しみを込めて使うことも有る。
例、「あの−[[=あいつ]]が・−−[[=女性語で、相手に甘える時の言い方]](新明解4)
びっくりしてもらったり、笑ってもらったりします。ただ、それだけではありません。
『新潮国語』と比べると、いくつかの興味深いことが見えてきます。
バカ【馬(鹿・(莫(迦】(梵語 baka または moha 無知の転という)@おろかなこと。おろかな人。(新装改訂版 1982)
語釈ももちろん違うのですが、語源説も違っている。
これは、国語辞典をこのうえなく頼りにしている人には、困ったことでしょう。
また、見出しの片仮名・平仮名も違う。
『新潮国語』では、外来語のほかに漢語も片仮名書きするわけです。
『新明解』のように、日本語からの変化という語源説をとらないかぎり、『新潮国語』では平仮名では書かれないことでしょう。
また、『新明解』では、仮名見出しの「う」の右に「オ」を付している例が多く見られます。
長音を示すものですが、ここからも、現代日本語の仮名の使い方の注意点(不備?)を指摘することができます。
19991112
■日常語をふりかえる
ついで、「ませんでした」(丁寧・打消・過去)をとりあげて、普段、正しいと思って使っている言葉でも、おかしいものがあることを示します。
その意味では、意表をつくわけですが、さらに、言語変化にまつわる人々の行為、といったことに言及していきます。
「ませんでした」が変な表現であることは、以前、「気になることば」でもとりあげましたし、「ませんでした」に落ちつくまでに、人々の葛藤があったのではないか、ということまで書きました。
ほぼ、その線で、お話ししてきました。
補強の意味で、「ひねもす」の変化形もとりあげてみました。
変化形とは、「ひめもす・ひめむす・ひねむす・ひねもそ・ひめもそ」の五つです。
時代的には、ほぼ次のように現れます。
奈良時代 鎌倉・室町時代 江戸時代
ヒネモス─ヒメモス─┬─ヒメムス
├──ヒネムス └─────ヒメモソ
└─────────────ヒネモソ
これらをとりあげるのはいいのですが、ちょっとだけ迷いもありました。
これらの例は、語形が変化することとその要因を述べるのにも適しているのですが、それに触れるかどうかで、迷ったのです。
前後の音から影響をうけて種々の形になったわけですが、そこでも、人間と言語の関わりが窺われるので、よい例ではあります。
たとえば、ヒネモスからヒメモスでは、直後のモの[m]の影響が明らかです。
次にくる音が前の音に影響を与えるので「逆行(遡行)同化」というヤツになります。
が、術語を示しただけで終われないタチなものですから、長くなりそうです。
たとえば、学生たちには、「『零.何秒』(=0.n秒)かで次々に発音するんだけど、間違っちゃったんだろうね。頭の方はビュンビュンすごいスピードで命令を出すけれど、舌や唇が追いつけない、っことがありそうだしね。あるいは、こう考えた方がいいかな。『パンが/パンだ』でやったように、次の音の準備をすることってあるから、あまりに早く準備しちゃったとかね。このあたり、まだ、私自身、自信がないけど、どっちかだとは思っています」などと言っています。
こんなことを言ってしまえば、聞いてる方の神経は、「同化」あるいは発音に向かいそうです。
そこで、今回は、発音まわりのことは言わないことにしました。
「ひめもす・ひめむす・ひねむす・ひねもそ・ひめもそ」という形が存在したこと自体を、まず念頭に置いて欲しかったためです。
そののちに、それぞれの時代の人が「ひねもす」をめぐって格闘した痕跡として認めたいと言いたかったからです。
あとは、「ませんでした」をめぐって、ここ「気になることば」で書いたのと同趣旨になります。
五つの変化形のように《日陰》の部分も、規範からずれるので評価しない、ではなく、きちんと文化の一端として見ていこうよ、ということになります。
実は、発音回りのことを中途半端に書いてしまって、ちょっと失敗したことがあるのです。
場所は秘密。武士の情け、を!
19991113
■旅をする言葉
この題から分かるでしょうが、つぎは、方言の話です。
ただ、方言というと、その土地で生まれた、その土地固有のものと思ってしまいがちです。
たしかにそういうのも多いのですが、特に単語の場合は、よその土地から入ってくるものも少なくありません。
これが、言葉が旅をする、ということです。
ただ、口で言っただけでは、「言葉が伝播する」ことをすぐには飲み込んでもらえそうにありません。
私も、言語地理学に触れるまでは、方言はその土地固有のもの、と思っていたくらいです。
そういう方言観は、通念といっていいくらい、頭に染みついているように思うのです。
そうなると、まず、この通念をこわすことからはじめないといけない。
「通念をこわす」…… なにも、言葉の伝播にかぎることではありません。
ちょっとでも新しいことを理解してもらおうとするときは、いつもつきまとうものですね。
その時々に、効果的な説明なり例なりを準備できていればいいのですが、これがなかなかに厄介です。
話を「言葉の伝播」にもどせば、実際に言葉が伝播していく過程を示すほかありません。
新しい言葉が旧街道沿いに分布する地図を示すくらいではまだ弱い。
伝播の過程が、日付けを追って見せられるくらいのものでないとインパクトが弱い。
そこで、広井脩『うわさと誤報の社会心理』(NHKブックス 1988)所掲の「口裂け女の足取り」(『週刊朝日』1979・3・23初出)という図を引用します。
口裂け女のうわさは、1978年末に岐阜市で発生したのだそうですが、この地図からは、翌年2月には滋賀県に入り、2月中旬に近江八幡市、下旬に守山市から大津市へと南下し、3月には京都に伝わったことがわかります。
私の要求にはもってこいのものです。
もちろん、注文をつければ、いろいろ出てきます。
たとえば、岐阜から南の愛知県への伝播に触れてないとか。
が、あるだけでもありがたいわけですから、目をつぶらざるをえないでしょう。
なお、足取り図直下の文も引用します。
「口裂け女」の話は、今となっては、ある世代のメルク・マールになってしまったので、説明が必要でもあります。
家人に迎えに来てもらうため、公衆電話に長い列ができたとか、教室で噂を否定した教師が生徒から総スカンをくらうとか……
当時の小中学生たちが、口裂け女を心から恐怖し、パニックにおちているさまが知られます。
が、実は、こうした様子が描かれているのは、別の意味で、とてもありがたいのです。
言語地理学への古典的な批判として、「とんぼ」とか「ものもらい」とか、さして重要でない言葉ばかり扱っている、というのがあります。
これに対して言語地理学者は、重要な言葉の伝播は速すぎて地図に描きにくいからだ、という回答を準備しています。
「重要な言葉」とは、人々が必要としている言葉、ということです。
それが、身の危険にかかわるものとなれば、重要度は一層増します。
広井脩『うわさと誤報の社会心理』では、その辺が具体的に書かれているのでありがたいわけです。
「いい大人がトンボだカマキリだ、なんて、研究者って本当にヒマなのね」というレベルでの受け取り方はされずに済みそうです。
TDN寺子屋の方には、「こんなことが、本当にあったのか」と驚いてももらい、笑ってももらうわけです。
が、「ませんでした」「ひねもす」で「当事者の心理への理解」を触れたところです。
単におかしがるというよりも、深刻さの方に注目してくれている気がしました。
そこまで意図して話の順番を考えたわけではありませんが、よかったと思います。
さて、このようにして、「言葉の伝播」という事態を納得してもらい、なぜつまらない単語に注目するかをわかってもらいます。
その後、『日本言語地図』の「とんぼ」「ものもらい」をもとに、言語地理学の基本的な考え方「分布は歴史を反映する」とか、「ABA分布」とかに触れてもらいます。
長い時間、話ばかり聞いているのは辛いので、「ものもらい」の略図を用意し、一緒に、また、こちらがリードしつつ、色分け地図を作ったりして楽しみます。
どうしても、一つ一つの記号と単語(語形)の対応に目を向けることになりますので、理解も進みます。
熊本出身の方から、「そういえば、オヒメサンと言っていた」とかの声も聞こえるようになると、こちらも安心し、ますます楽しくなったことでした。
19991114
■外国の言語と思考
このお題は、水原さんの方から、寺子のリクエストとして事前に寄せられたものです。
言語が違うと思考も違ってくるのではないか、その辺の例などもあつかってほしい、というものです。
まず、ぱっと思い浮かぶのが、「サピア=ウォーフの仮説」です。
言語は、人間が外界を認識する(あるいは切りわける)手だてであるから、言語が異なれば認識にも差ができることになる、という考え方です。
正直に言って、困りました。
たしかに、言語の違いがもとになっているような認識・思考の違いはあるようだし、典型的な例を示すこともむずかしくありません。
が、一方では、共通する部分も大いにあるわけです。
また、一見、言語の差に見える認識の差が、実は、もっと別のところの差にもとづいている場合もあったりします。
さらにいえば、「社会が異なる」というのがより大きな問題であって、そのために言語も異なり認識・思考も異なる、とみた方が納得しやすいのです。
社会あっての言語ですから。
で、結局、次の三つの方針でのぞむことにしました。
1)上のようなどっちつかずの状況を、そのまま示す。
2)例は、色彩にかかわるものを主とする。
3)佐藤自身、気になっていたことを、逆に教えてもらう。
1)はいいですね。2)で色彩にしぼったのは、聞き手がデザイナーであることを意識しています。また、色彩は、サピア=ウォーフの仮説をめぐる議論では、よく引き合いに出されます。
つまり、例を選ぶのも容易だということもありました。
さらに、3)も、色彩がからむことなのです。
以前読んだ、高橋克彦『北斎殺人事件』に、色彩の捉え方の国内外の差で、面白い例がありました。ゴッホの『アルルの跳ね橋』の複製を、日本でも作り、フランスでも作った。
登場人物の塔馬双太郎(美術研究者)は、日本の印刷技術に驚倒しました。
実物を見たときの感動が、複製をみてもそのままよみがえってきたからです。
ところが、友人のフランス人美術研究者に見せたところ、日本の技術は劣っている、という。
フランスの方がはるかに実物に近いと言うのです。
これはどういうことなのか。
まず考えられるのは自国の技術への身びいきですが、「研究者」なのでその恐れはないことになっています。
結局、塔馬双太郎は、瞳の色の違いという生物学的な差があるので色の見え方が違うのだ、と解釈することにしました。
違った見え方をする目で実物を見、その印象をもとに複製を作るので、両国の複製がちがったニュアンスで仕上がってしまう、と考えたのです。
さて、そこで私の疑問ですが、塔馬の解釈は正しいか、ということになります。
その辺を、デザイン専攻の諸君に教えてもらいたい、という下心。
もしも、塔馬のような考え方が成り立つなら、言葉による色彩の区分を議論するとき、生物学的な視点を避けるわけにはいかなくなります。
あるいは、すでに、その辺は考慮済みなのかもしれませんね。
言語学でも。
知らないのは、私が不勉強なだけなのでしょう。
色にシフトして書いてしまいました。
ただ、例示のなかに、色彩からはずれたものも一つだけ掲げました。
メキシコでは、つわり(悪阻)という現象がほとんどなく、それを表す言葉もない、というもの。
これは、今回、勉強し直してはじめて知りましたが、すごい例ですね。
単純に考えれば、言葉がないので現象も認識されない、ということになります。
が、つわりは、生物的な現象だから、万国共通、どこにでもあるのではないだろうか。
当分、私のなかでは、謎として生きつづけそうです。
さて、むすび。
さすがに、どっちつかずだよー、で終わってしまうのは気が引けますので、この種の研究の意義に触れて、まとめに替えました。
ウォーフの論文の一節を示すことにしました。下に引用したのはそのエッセンスともいうべき部分。
この引用の直後、ウォーフは、日本語の形容詞文(「象は鼻が長い」の類)を引き、二つも主語がありそれが一つの述語に直結・集約していく「美しい」表現だ、と言ってます。
言語についての知識は、数多くの異なった見事な論理分析の体系についての理解を可能にしてくれる。これまでは異質なものと考えていた他の社会グループのさまざまな視点に立つことによって、世界は新しい姿で理解できるようになる。異質的と思っていたものは、新しい、そしてしばしば理解の助けとなるようなものの見方に変じる。例えば日本語を考えてみよう。日本政府の政策からわれわれが表面的に受けとる限りの日本人の考え方というのは、とても兄弟愛とは結びつきそうもないものである。しかし、彼らの言語を美的に、そして科学的に味わうという態度で日本人に接すれば、様相は一変する。そうすることはとりも直さず、世界共同体というレベルの精神で親近関係を認識するということである。(「言語と精神と現実」。池上嘉彦訳『言語・思考・現実』講談社学術文庫)
なお、ウォーフのこの論文は日米開戦の年に書かれました。彼はアメリカ人です。
19991115
■知ってるようで知らない発音
私が、正式に話す最後のコーナーになりました。
これまでのTDN寺子屋では、「お話」の後半は、実習とか演習とか称したコーナーを設けることがあったようです。
水原さんからも要請があったので、私も、なんとか、それらしいことをしようと思いました。
やはり、話を聞いているだけだと停滞感がでますが、実習だと開放的な気分にもなり、会も活性化しそうです。
そこで考えたのが音声まわりの話です。
いや、音声になってしまうのが、言語研究者の限界かもしれませんけれど。
発音器官の説明。
「説明」では、実習どころじゃありませんが、実習らしくする。
まずは声帯です。楽器で言えば、オーボエやクラリネットのリードにあたるところ。
それならリードを鳴らしてみましょう。
やおら、講義原稿を丸め、そりをつけます。
2枚の原稿を、そりの凸部分を背合わせに、横からみると )( のような形にします。
この上の部分を軽く唇でくわえ、息をいれると、ブ〜とかビ〜とか鳴ってくれます。
これがとりあえず、声帯の発音イメージ。腰のある薄めの紙がよいようです。
こちらが何も言わなくても、寺子さんたちは実演しはじめました。
あとは、こちらと同じです。フルートも使いました。
発音器官の説明が一通り終わったところで、応用問題。
五十音図の行の順番です。こちらを参照。
ただし、ハ行については、現代の発音のままではうまくあてはまりません。
『謎立』の「(謎)母には二たびあひたれど、父には一どもあはず (答)くちびる」をしめして、唇を使う音であったことを言い添えます。
つづいて、実際の発音と意識の問題について。
「パンだ」と「パンも」の「ン」を比較してもらいます。
音声の観察はすでにウォーミング・アップ済みですので、私が説明をはじめるまえに、二つの違いに気づいてくれました。
めでたしめでたし。
耳だと同じ音にしか聞こえないけれど、発音はちがうんですね、とダメを押します。
実は、今回の一連の話では、この実際の発音と意識の差を示すのが、一つの目的でした。
水野さんが望んでいたこと−−小さなこと、見逃していることに気づく感性の養成−−に一番役に立ちそうな内容だと思うからです。
もちろん、「ませんでした」を一種の奇形と捉える見方や、「老婆/老女」のニュアンス差の発見・確認でも、似たようなことに触れることになります。
また、「分布は歴史を反映する」という言語地理学の考え方も、ものごとを見る切り口を提供したといえるかもしれません。横のもの(地理的分布)から縦のもの(歴史)を見ようとするわけですから。
が、やはり、自分の体(の一部)で起きていることの方が、印象は強いでしょう。
19991116
■詩表現の受け取り方
ほぼ17時ジャストに私の話は終わりました。
ああ、我ながら、よくしゃべったなぁ。
実は、数年前に体調をくずしてから(ここ数年はだいぶ回復してます)、ちょっと体力に自信がなかったものですから、ほんと、安心しました。
引き続いて懇親会。
ビールを片手に話すのは、いいものです。
思わず、乗ってしまいます。
いろんな質問が出、いろいろと話しました。
どういういきさつか、詩の話になりました。
そこで、長らく気になっている表現について、意見をもとめてみました。
中原中也『山羊の歌』所収の次の詩についてです。
「宿酔」は「二日酔い」。
千 朝 も 私 千 朝
の ` う は の `
バ 天 風 鈍 白 不 か 目 バ 天 風 鈍 宿
ス 使 が い つ 用 な を ス 使 が い 酔
ケ が あ 日 ぽ に し つ ケ が あ 日
ツ る が く な い む ツ る が
ト °照 銹 つ 酔 る ト °照
ボ つ び た ひ ` ボ つ
| て て ス だ | て
ル て ゐ ト ° ル て
す る | す
る °ヴ る
° が °
|
この第3・4行、どう解釈するか?
学生時代、友人にたずねられて、私なりに解釈しました。
それ以来、自分の解釈に固執しているのですが、どうも皆がみな、同じように考えているのではないらしい。
たとえば、『日本の詩歌 23』(中公文庫)では、次のような解釈を載せています。
昨夜の狼藉を責めるように、頭の芯がズキズキ痛む。そのような状態を、「千の天使が/バスケットボールする」という面白いイメージで暗喩したのであろう。
暗喩と捉えるのは賛成です。
以前、学生に聞いたときにも似たようなことを答えてくれました。
たしかに、あの頭痛は、頭の中にいたずら小僧がいて、バスケットボールでドリブルでもしているような気がしないでもない。
でも、私にとっては「天使」の甘やかなイメージと頭痛が直結しないのですね。
バスケットボールがもつ、作詩当時のイメージも、そう悪いものではないような気がしますし。
そもそもこの詩では、視覚を通しての表現が基調になっているように思います。
「千の天使」云々はひとまず置くとしても、第1聯、リフレインの第3聯もそうではないでしょうか。
第2聯に「私は目をつむる」とありますが、「白っぽく銹(さ)びた」という視覚表現、それも色彩表現が直後に出てきます。
「目をつむる」という行為を否定するような配置ではないでしょうか。
さらにいえば、「目をつむる」と出しておきながら否定することで、かえって読者に視覚を強調しているとも深読みできるでしょう。
そこでやはり、「千の天使〜」も、視覚にもとづく暗喩だと考えてみる。
ヒントは直前の「鈍い日が照つてて/風がある」です。
「鈍い日が照つて」いるなら雲が出てるのでしょう。
風があれば、雲は飛んで行きます。太陽の直前を。
そんな情景を、二日酔いの目は、雲を中心にすえて見た。
すると、太陽が、雲から雲へと手渡されているように、あるいは飛ばされているように見えた……
それはそのまま、バスケットボールのパスのさまではないでしょうか。
だめ押しの補強をしましょう。
イメージや属性のうえでも共通点があります。
「バスケツトボール」に「日」が応じていますが、両者とも丸いものですね。
あるいは、宙にあるものとも言えるでしょうか。
「天使」に「雲」が応じることになりますが、やはり両者とも空あるいは宙と縁の深いものです。
「千の」は、「雲」がつぎつぎに風に飛ばされてくるさまの形容。
こう考えると、第1・2行と第3・4行は、あたかも対句のように表現が対応することになります(もちろん、厳密な意味での「対句」ではありません)。
これを踏まえて「千の天使が/バスケツトボールする」の、詩全体のなかでの役割を言えば、二日酔いが空を見て連想した幻想であった。
あるいは、そのような幻想が浮かぶほどに、二日酔いであった。
「千の天使」などが浮かぶくらいですから、「悲しい酔ひ」ではあっても、底には甘いものがある。
ただし、それは、必ずしも「甘やか」「ロマンティック」を意味しません。
「甘え」「一人よがり」「我がまま」などとグループを作るようなものかもしれません。
理に落ちた解釈と感じる人もいるかもしれませんが、こう考えられるとなると、なかなか私の頭からは離れません。
「ではなぜ、『曇っていて』と言わずに、『鈍い日が照つてて』とまわりくどく言ったのか」。
そう問われても、「『曇っていて』では、イメージ上、後の『千の天使』と結びつきにくいから」と答えます。
寺子屋では、ここまでつっこんでは言いませんでしたが、比喩の解釈自体(「そこでやはり」で始まる段落)は、言ってみました。
こちらも酔眼だったので、ホワイト・ボードに書けたのは最初の4行だけでしたから、寺子さんたちも迷惑だったでしょう。
が、ありがたいことに、頭痛と直結した解釈はでなかった(あれ? 私が先に「頭痛と直結した解釈もありますが……」などと言っちゃったのかな)。
「天使」から良いイメージを感じて、頭痛と直結しない、と言ってくれた人もいました。
「いや、天使にだまされる、というのもある」と言ってくれた人もいました。
う〜ん、深いですね。
本当に受け取り方は多様だなぁと思い、これはこれで嬉しくなりました。
ああ、そういえば、「発音器官の説明をするために、フルートを始めたのですか」と聞いてくれた人がいました。
残念ながら、フルートが先でした。
「後の方が、言葉に打ち込んでいる感じがしますね」。
その通り。今後は、そういうことにしようかしら。
まだまだ、たくさんのことを話し、聞いたように思います。
酔いのせいもあって、忘れた部分が多いのは非常に残念です。
でも、久しぶりに楽しいひとときを過ごさせてもらった印象は今でも残っています。
水原さんはじめTDN事務局の方々、寺子の方たち、本当にありがとうございました。
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
">
・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」 漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
ことばにも関心がおあり。
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