19971014
■「出来」
先々回「駄洒落の出来不出来」を見ていたら思い出したので。「r音の性格」の補遺です。
*実は、ほとんど論文紹介です。
「出来」という言葉があります。シュッタイとよみます。「一大椿事が出来した」などと使います。
「出来」でデキとも読めるから、ちょっとこんがらがりますね。
しかしこれ、なぜ、シュッタイになるんだろう。シュツライなら話しは分かりやすいが。
そこで、先回とりあげたr音の半子音・半母音性がかかわってきます。
室町時代以前の漢語では、音がン(詳しくはm・n)・ツ(正確にはt)で終わる字のあとに、母音がはじめにくる字がくると、その子音(m・n・t)が母音にもかぶさって発音されるようになりました。
たとえば、「雪隠」なら、セツ(−t)のあとにインがくるので、tがくりこされてセッチンとなります。
「観音」なら、カン(−n)にオンでカンノンです。このような変化を「連声」と呼んでいます。
このような変化は、母音の場合だけでなく、ヤワ行子音の場合にもおこります。
「陰陽師」だと、オン(−m)+ヨウで、オンミョージです。ヤ行子音は拗音というかたちでなごりをとどめます。
『小倉百人一首』でおなじみの「大弍三位」は、サン(−m)にヰ(wi)でサンミです。こちらはwが直前の子音に乗っ取られます。
とすると、半子音・半母音的な性格のあるラ行子音も、そうした連声をおこす可能性は十分にあることになる。
それが、「出来」をシュッタイと発音する原因になっていると考えられそうです。
シュツ(−t)+ライで、rがtに乗っ取られるタイプの連声です。
ただ、ラ行子音が連声することは、国語学の、かなり専門的な本を読んでも出てきにくい。
おそらく、例が少ないからでしょう。でも、それをさがしだす人もいるから、この世界もすごい。
高松政雄「連声──字音韻尾の日本化の過程に於ける──」(日本文芸研究 43−2 1991)によると、
「善六 ゼンノク」「権六 ゴンノク」(以上『かたこと』)「新六 シンノク」(『醒酔笑』)などの人名がみえるとのことです。
ロクのr音がnに乗っ取られていますね。
また、『音曲玉淵集』という謡曲の参考書にもある、というのですが、多分次の例でしょう。
┌ しやかッら
〇娑伽羅龍王 │ トモ唱ふ
└ しやかツた
*「伽」が不審ですが、別表記の「娑竭羅龍王」を前提にしているのでしょう。(14時40分補)
ちょっと循環論めきますが、このようなr音における連声現象は、日本語のr音が半子音・半母音的であることの証明でもあると思います。
山形大学での国語学会の宿、もうとれてますか。
とれずに悩んでいる方は、ホテル・アルファ・ワン山形( 0236−22−8666)に連絡してみては?
佐藤は14日16時の電話で一室(金・土曜)確保できました。
料金は、ある人(の方がいいですよね)の情報だと一泊6810円。
アルファワン系列は富山駅前のに泊まったことがありますが、快適でした。
さて、山形は?
19971015
■五十音の配列
なぜか五十音ですが、実は、ラ行音の半子音・半母音性の続きです。
五十音の各行の配列ですが、ア行は母音で、カ〜マ行は発音部位(調音点)によります。
すなわち、カ行子音(k)は後舌、サ行子音(s)は中舌、タナ行子音(tn)は前舌、ハマ行子音は唇です。この場合、ハ行子音は室町時代以前の唇の摩擦音[Ф]を想定します(とりあえず方言音ははずしておきます)。「フ」の発音のときの子音として現代でも残っています。
というわけで、口の中の方から徐々に外側へという順番がみてとれます。
これ以外のものに、ヤラワ行があるわけですが、ヤワ行子音(jw)は半子音・半母音。
で、ラ行子音(r)も半子音・半母音的でしたよね。
こう考えると、五十音の配列も納得がいくわけです。
現代のとほとんど同じ五十音図は、鎌倉時代にはありました。
当時の音韻研究からすると、どうしても悉曇学(サンスクリット学)の影響を考えなくてはいけません。
おそらく、そちらの方で、r音が半子音・半母音的な音として捉えられているので、
ヤラワ行が隣接するようになったのでしょう。
や行、ら行、わ行の三行は悉曇で半母音としてあつかわれる特殊なフォネーム(/y,r,w/の三者)ではじまる音節からなっていて、この三行は、前の群と別あつかいにされている。
上村幸雄「五十音図の音声学」『講座日本語と日本語教育 2』
という指摘もあります。その典拠を知りたいのですが、なかなかうまくいきません。
どうも韻学関係は不案内です。
19971016
■音声の父と母
まえに、紀海音の浄瑠璃台本の末尾に、「音節(いんせつ)は此道の父 清濁は文句の母」という文句があると書き、現代の「子音」にあたるものが「父音」とされた例も書きました。
その淵源について。ひょっとすると、鎌倉時代までさかのぼれるかなとも思いましたので。
それに続いて東禅院流の「次第生起」の論があるが、これは信範の『悉曇秘伝記』にも見られた説であるし、心蓮以来の説であるから、ここでは省略する。また、
本末韻ヲ父ト為シ、第二三ヲ母ト為ス。此レ何ノ故有リ哉。という質問に対して、かなり詳しい説明をしているが、これも承澄のところで述べたことであるから省略する。
馬淵和夫『五十音図の話』大修館書店
「次第生起」の論ですか。韻学の方ではあたりまえのことかもしれませんね。音韻と父・母との関係は。
昨日分につき、藤井俊博さんより、山田孝雄『五十音図の歴史』108 頁に『三密抄』を指摘している
くだりがあると御教示いただきました。ありがとうございます。
『国語学大辞典』に掲載の『悉曇章』をみていたら、ちょっと途方にくれていて、困っていたところでした。
不明を恥じるのみ。
明日から学会ですね。このコーナーもちょっとお休みということになりそうです。
ノートを持っていくだけの根性がでれば、何事か書こうかと思ってますが。
19971021
■エンターテイメントな論文
山形での学会から帰ってきた。
寝付きの悪さがてきめんに発揮されたのにはまいった。
発表はいろいろ勉強になった。
自分とまったく同じことは誰にもできないのだから、
誰かの発表のなかにはかならず未知のことがある。
それが次から次へと続くのだから勉強にならないはずはない。
10年ほどまえだったろうか。
日本方言研究会のまとめの挨拶で、「世話役」だった柴田武先生が、
「今日の発表には『びっくり』がなかった」と一言まとめられたことがあった。
着想の斬新さ、手法の新鮮さ、重大な問題の提示など、
真に方言研究を前進させるような発表内容がなかった、ということと解釈している。
もとより次元はことなるが、最近、研究発表を聞いて感動することが少なくなったように思う。
おのれのためには、私自身の加齢にともなう感受性の鈍化でなければと祈るばかりだが……
「論文で感動を」などと言うと、何を馬鹿な、芸術作品じゃあるまいし、と言われそうだ。
が、実は、そういう論文はある。
たとえば以前にとりあげた二論文などもそうだ。
学問的に感動してもらえるようなものを書きたいといつも願ってはいるのだが、そうは問屋がおろさない。
他のひとも同じなのだろうか。
それなら、研究発表で感動しないというのも仕方がないことなのかもしれない。
20日21時24分東京発の「ひかり」191号名古屋行きに乗車。
名古屋駅がちかづき、定刻どおり、23時28分に到着するとのアナウンスがあった。
名古屋駅のホームにすべりこんだころ、席をたって、後方の乗降口に向かう。
3号車にのったので、乗り換えの階段は、ずいぶん後方になるからである。
まさに停車しようとするとき、通路でたちどまっていた私たち乗客に、
ホームからテレビカメラが向けられた。
有名人でもいるのかと前後左右を見回しても、それらしい人はいない。
そのままデッキまで行くと、今度は、5・6人のスーツ姿の屈強な男たちがなかへ突進してきた。一瞬、私の足がすくんだのを捉えて、男たちは2号車の方へ走りこんでいった。
「可哀相だから、なにかかけてやれ!」との叫びが聞こえる。
一瞬分だけ遅れてホームに立ち、歩きだすと、後ろから「佐藤さん、こっちこっち!」と叫び声があがった。
ふりむくと声の主は私を追い越し、声に応じてやってきた別のテレビカメラチームが、向こう側から突進してきた。
なにごとかと私たち乗客(いや、列車から降りたから「降客」か)は一斉にふりかえったが、
事態がわかるほどの動きはみえない。
不倫騒動で週刊誌上をさわがせている女性芸能人でもいたのかな、と思ったが、3号車は自由席の車両。
それならやっぱりグリーン車がふさわしい、いやいや、取材陣をかわすために自由席車に移ったのかもしれない。
う〜む、なかなか準備がよろしい…… などと愚にもつかぬことを考えつつ歩を進めると、NHKの取材班とすれ違った。
どうもその手の話ではなさそうである。
ならば事件犯人の逮捕かもしれない。
とすると、あの屈強な男たちは、いわゆる刑事か。
そういえば、すみませんも言わず、乗り込んできた。なるほど、態度がデカいはずである。
と、階段にたどりつくと、最下段にテレビカメラの放列である。
真ん中をどうどうと歩くのも一興かと思ったが、他の降客(落ちつかないなぁ)と一緒に、端っこによって降りた。
下までたどりつくと、すれちがった取材陣たちが大急ぎで追い抜いていく。
「別の口から降りたのかもしれない」などという声もきこえる……
と私は、乗り換えコンコースを東海道線の方面へ重い足をひきずっていった。
帰宅後、NHKのニュースでは、松阪屋の総会屋がらみの事件の報道があった。
名古屋駅で芳賀龍臥容疑者が逮捕されたという。どうもそのおじいさんの逮捕劇であったらしい。
19971022
■学会の意義
学会での楽しみには、人との出会いということもあろう。
メールでしか通信できなかった人に、今回もお会いすることができたし、
ホームページを読んでくれていた人にもかろうじてお会いできた
(2分後には所用があって会場を去っていた)。
また、かつて発表会で、感動的な発表をなさった方と親しく接することができるのも学会ならではだろう。
見つけ出して話すというのもいいが、私はシャイなので(ほんとだよ)なかなかそれもしにくい。
半端な時間ができて、休憩室でお茶を飲んでいるときに、ひとりでぼーっとしているのを見つけて、あるいは見つけられて、というのが一番いい。
しかも、そういう時の会話にかぎって、刺激的であったりする。
自分の分野での新たな展開を確認したり、自分のもっている情報でも生かせないものを提供したりされたりと、一番、有意義だったりする。
この人に会えてよかった、学会に来てよかったと思うのは、こういう時間を過ごせたときである。
そして今回も、そういう時間を持てたことに感謝したい。
また、やはりかつて感動的な発表をなさった方が、元気よく、発表者に質疑をするのを聞いているのも健在が確認でき、頼もしくも思う。
そして、自分も一つがんぱるか、という気にさせてくれるものである。
意地悪な質問でとっちめてやれ、という気がまったく起きないとは言わないが、それよりも日常の研究生活をがんばろう、という気にさせてくれる方がウエイトが大きい。
オフミもどき。
岡島さんとはあいさつくらいしかできませんでした。
柴田さん(東京・明星大学)とはパソコンまわりでいろいろ参考になる話が聞けました。
この差は、岡島さんとは、近畿の国語語彙史研究会で会えるという可能性があるためでしょう。
別に機会がありそうだから、私が話し込んでは、さらに機会の少ない人との出会いの時間を短くしてしまう、あるいは機会すら失わせてしまいかねない、と気をまわしたりしてしまうのです。
このほか、出会いの空間としては、懇親会や二次会、はたまた宿といったことがありますが、それは明日に。
19971023
■学会の奇遇
懇親会やその二次会というのも、出会いの機会として重要。
論文でしか知らなかった研究者の顔や、彼らの知られざる一面を知ることができたりなど、まぁ、おもしろい。
しかし、いいことばかりでもない。
たとえば、一見、お嬢様風の院生がタバコをふかすのを見るはめになることもある
(別に女性差別をしようというのではない。私が女なら、このような公の場では、絶対にしない、というか、諸状況を勘案すればできない)。
また、どんな懇親会でも概して会費が高い。
まぁ、収容人数や準備・後片付けのことを考えると、会場はホテルということになるからなのだろう。
つまりは場所代分高い。
で、概して飲み物は潤沢のようなのだが、食べ物はとても値段なみとはいかない。
仕方がないので、こういうときは、お昼にあぶらっこいものなど、腹持ちのよいものを食べておくと、がつがつしないですむ(ことが今回わかった。ころもたっぷりの天ざるを食べたのである)。
また、立食形式がほとんどだが、日本のそれは、一定の人たちがあまり場所を移動しない。
さらに、お年をめした人は、面会者が多かったり、食が細かったりで、あまり食べない。つまり、偉い人の近くの食べ物は概して減りがおそいのだ。
お腹がすいていたら、勇気を出して偉い人の近くへいこう!
たまに、大学の食堂とか、県立●●会館で開かれる場合もある。
場所代はほとんどかからない(だろう)から、その分、料理にめずらしいものがでたり、民俗芸能が拝めたりすることもある。
こういうときは若い人も出ましょうね。
少なくともホテルでやるよりは、金額上の満足感が得られる確率が高いですよ。
ホテルといえば、宿である(あたりまえか)。
偶然、かの大教授と朝食をともにするかもしれないし、はからずも新たな出会いがあるかもしれない。
それはそれで有意義である。
別に、その期を利用して就職活動に励め、といっているのではない。
そういう偶然もあるということを淡々と言っているだけである。
実力もないのに人間関係ばかり作って、「断れない非常勤が多くて」などという言い訳をきくにつけ、馬鹿じゃないかと思う。
面と向かっては、誰も何も言わないだろうが、この世界も見るところはちゃんと見ている。
必要以上にアルバイトをする暇があったら、地力をつけなさい。
何だか話があらぬ方へ行ってしまった。どうも説教臭い。 年にはあらがえないということか。
19971024
■学会を乗っ取ろう!
文句ばかり言ってるのは、しんどいし、性にもあわない。
前向きにいかなくちゃね。寝付きも悪くなっちゃうし。
そこで愉快なことを考えてみる。
学会の乗っ取りである。
乗っ取りといっても、組織としての国語学会を乗っ取るという、物騒な話しではない。
ここでいう「学会」とは俗称としての「学会」で、正式には、春と秋に開催される国語学会の「大会」ということである。
もっといえば、大会のメインイベントである研究発表会のこと。
その発表者を、以前、感銘をうけた研究発表をしたり、論文を書いたりした方とかでかためてしまうのである。
オールスターキャストの研究発表会…… 夢がありますねぇ。
息もつかせぬ発表が打ち続く。まったく新しい見解の連続。
深い思考と調査に裏付けられた新成果の洪水。真摯な質疑・応答。
ためいきと喝采にあふれる会場……
あああ、書いてるだけで興奮してきました。
もちろん、発表者の選出は民主的に行なわれているので、それをまげてまでやってしまっては意味がない。
しょうがないから、そうですね、これはと思う方同士、連携をとりあって、2年まえくらいから発表の準備にかかりましょう。
最近は、発表希望者の数が多いので、ちょっと厳しい人選になる。
が、それに残るだけの内容を保持する。そのための準備期間が2年。
その間、互いに要旨を交換して、点検しあうのもいいでしょう。
あるいは合宿して、予行をおこない、ねりなおすのもいい。
そして、ターゲットの大会に向けて、発表要旨(候補選出用です)を事務局に一斉に送る……
どう? なかなか面白そうでしょ。
これで今日は安らかにねむれそうです。
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