19970929
■「戀」
遊戯性に傾きすぎて、謎解きのような大名題も出来た。 たとえば、寛政七年二月に大坂中(なか)の芝居に出した『戀』という一字外題は、 「ことばのいと・そのしたごころ」(六・七)と読ませる。 字体を分解しつつ、狂言の内容をたくみに暗示した洒落たものである。
服部幸雄『江戸歌舞伎』岩波書店・同時代ライブラリー
歌舞伎とか浄瑠璃とか黄表紙とかの題名は一見しただけでは、どう読むのか分からないものが多い。
現代通行の熟字訓のレベルではない、奔放な漢字と訓(日本語)との対応にめくらめくほどだ。
もちろん、正解の読み方が分かって、再度、漢字と対照するとき、うまくしたものだなぁ、
と感心するのも、それはそれでこころよい。
ただ、作者や時代によっても傾向があるらしい。
河竹黙阿弥のはそのまま訓読みしてしまえるものも多いように思う。
また、現代劇でも、ときに歌舞伎の外題をまねて、漢字ばかり連ねたものをみることがある。
が、これはそのまま訓読みすれば正解になるものが多いので、かえって白ける。
どうせやるなら、ちょっとは気をきかせればいいのに、と思う。
江戸時代で、「気をきかせ」た頂点が、引用したものじゃないかと思う。
これはほとんど絶対に読めない。それだけで話題になりそうだ。
あるいは、こういうコトバ遊びもいいかもしれませんね。新訓読み遊び。
どこかでやってるのを見たような気もするけれど、まとまったものは、まだないのではないでしょうか。
話しは全然かわりますが、ラ抜き言葉への注目はあとを絶ちませんね。 こういうページ を見つけました(遅くれてる?)。
19971001
■蔵書びいき
ちょっと妄想がかった蔵書自慢を。
山田忠雄「草書本節用集の版種」(ビブリア29)によると、草書本には大別三つの版種があるという。
おおむね、初版系・復刻系・改刻系となるようである。
山田氏が掲げられた徴証はかなりの数にのぼるが、初版の徴証のほとんどを架蔵本はクリアする。
国会図書館亀田文庫本(『節用集大系』第二巻)と東京国立博物館本(とする説あり。白帝社『乾本節用集』)が影印本として公刊されたが、ともに初版系ではない。とすると、架蔵書はかなり喜んでいい本だということになりそうだ。
ところで、架蔵本のユ部のおわりの空白に左のような墨痕がある。
この画像は部分であって、実は、下の枠までずっと、ただし、少しずつ薄れながら続いている。これはなんだろうか。
かなり鋭い線。行の中央を縦断‥‥‥ これは、文字が存在しない部分、すなわち、空白を作るために版木を鑿でさらった跡ではないだろうか。当該の行の中央に向かって左右から鑿を入れるのである。
もちろん、普通なら、まったくの空白になるように十分に彫りさげるはずだ。
が、この場合はそれが十分でなかった。そして刷りだすときに墨が乗ってしまい、用紙にまで映ってしまったのではないだろうか。
ところで、亀田文庫本や東博本の影印には、架蔵本のような墨痕はない。まぁ、初版系ではないからそれはいい。
が、初版系諸本に目を通した山田氏も、この墨痕には言及されない。
ということは、普通の初版系諸本にはこのような墨痕がなかったと推測される。
版種の比較検討なら、この種の痕跡に言及しないことは考えにくいからである。
(もちろん、その辺のことはちゃんと考慮ずみで、誤って墨が乗ったのだろうと判断されたのかもしれない。要は、私が初版系諸本に目を通せばよいことなのだが)
とすると、以下のような妄想がみちびきだされる。
架蔵本の墨痕は、刷りだし初期のものに見られる、一種のミスプリントである。
それに気づいた本屋は、その部分を十分に彫りさげ、修整する。
こうして、いわゆる初版系諸本が流布することになる。
ということは、ミスプリのある架蔵本は、ミスプリゆえに、初版本のなかの初版本ということにはなりはすまいか。
とまぁ、考えてはいますが、どこかで何かを考慮してない、つまりは無知ゆえのヌカ喜びかもしれません。
また、初版本とは言い条、すべての丁(ページ)が初版・初摺りとは考えにくいような刷りあがりの本もあります。つまりは、紙ごとに刷り・版の回数が違う場合が往々にしてあるということ。
ま、夢だけはもつことにしましょうか。
19971002
■「におって」(再々)
他動詞の「におう」(共通語の「(匂いを)かぐ」相当)の続報。
まえに岐阜と美濃加茂市のあいだに前線があるのでは、と書いた。が、事務の20代なかばで岐阜市南部出身の方に聞いたら、使わないという。
いろいろ状況とか場面とかも説明したが、彼女の判断は変わらなかった。
前回、使うと答えてくれた院生は、どちらかというと岐阜北部(長良川の北)出身。
北部と南部とで違うのかもしれない。
前線情報はちょっと修正が必要なようだが、こういうのは他にも例があったりする。
たとえば、「神輿をかつぐ」ことを岐阜市内あるいはその周辺では「神輿をツル」という。これが、やはり岐阜市出身の人であってもカツグとしか言わなかったりする。
同じ市内で、同じ年齢層の人が異なったコトバを使う‥‥‥
個々人の生育環境とかのせいもあるだろうが、そのまえに、学区(岐阜では「校下」)ごとの差を考えてみる必要があるかもしれない。
今日もメモがわり。
ニフティ・サーブに入会しました。メール・アドレスは書きません。
当分、インターネット・メールで統一したいので。
で、Windowsフォーラムの秀丸(エディタ)のところに行ってみました。
こわいところだろうと思っていたのですが、ヘルプを見るとか、設定画面をよくみれば分かることを質問してる人もいて安心しました。
で、それに丁寧に答えてくれる人がいるんですね。
フリー・ソフトとかもそうだけど、ほかの人の善意があればこそ、自分なんかも何とかパソコンをいじれているのだなぁと、改めて感じたことでした。
19971003
■「引き寄せ効果」
こういう(=「ロンドンの真中のような交通量も歩行者数も夥しい」佐藤注)場合に、 信号付きの横断歩道が設置され、それを「ペリカン式(Pelican crossing)というのである。 これが何ゆえに「ペリカン」であるかというと、これは本来「Pedestrian Light Controlled」、 略して「ペリコン」というべき所、訛ってか洒落てか、「ペリカン」になったのだそうだ。
林望『ホルムヘッドの謎』(文春文庫)より。下線部を太字に改めた。
「引き寄せ効果」とは、このように新語(など)の語形を既知の語形に変形することを含む概念である。
「国語学研究室へようこそ!」のページでも名前だけは載せてある。
類音牽引でいいじゃないかと言われるかもしれないが、それは語形(単語)だけにあてはまる言い方。
ところが、よく考えてみると、音韻で使われる「同化」や、
鳥の鳴き声に文・表現をあたえる「聞きなし」(ホトトギスの「天辺かけたか」など)もほぼ同一の現象だ。
また、「混淆」もそうだろう。もともと、玉蜀黍をトーキビと言っていた人が、
モロコシという人とであって、半分だけ自分に引き寄せたのがトーモロコシだ。
関東地方を念頭においている。『日本の方言地図』(中公新書)などの地図参照)
ついでに「使用者語源」もその範疇にある。
コトバに対する既知の知識をつかって、「ズボンっ、と足をつっこむからズボンだ」のように、分かりやすい語源をつくってしまう。
この「分かりやすさ」というのは、とりもなおさず、既知のものに新語を「引き寄せ」ているわけだ。
これらの諸概念を包含するのが「引き寄せ効果」ということになる。
さらに、一時よく使われた(社会学の?)術語に「カクテルパーティー効果」というのがある。
まわりがうるさくても、会話を成立させるという選択的な聴覚機能である。
これも実のところ、「引き寄せ効果」の範疇にあるといえる。
相手の発話にでてくるのは、当然のことながら騒音と同質のものではなくて言語である。
そしてほとんどの場合、そこで使われる語彙は、聞き手も理解しうるものであろう。
騒音によって、ともすると、断片的になりがちな話し手の音声の連続と、
自分の頭にある語彙辞書とを、一所懸命に照合しているはずである。
すなわち、自分の理解語彙辞書に「引き寄せ」ているわけだ。
「同化」「聞きなし」「混淆」「使用者語源」は語形という形で固定化するが、
カクテルパーティー効果のような場合は、その場かぎりの「引き寄せ」が動的に行われているということになる。
また、他の心理学的な現象にも適用できそうである。
一方では、「引き寄せ」が、逆に反発という形で現れることもある。
が、これらについてはちょっと長くなるかもしれないので明日にする。
10月2日から、「芳名帳」をスタートさせました。よろしかったら、一筆お願いします。
19971004
■引き寄せ効果の反作用
彼はひどく分かりにくいズーズー弁的英語で教えてくれた。
「アーンだなス、 まンずホルムヘッドはサ、 そごの、ちっこい道サ歩いてえぐだなス。 しると道は行き止まりだがらの、川の上サ人だけ行がれる小橋サあるがらス、 その橋サ渡った先だ。車はまンずこっから先は行がれねぇべス」
林望『ホルムヘッドの謎』(文春文庫)より。
むずかしいことではない。
自己の内部にある基準(たとえば語彙辞書)に照らして受け入れられる場合、
「引き寄せ効果」はどんどん適応される。
が、反対に、何らかの条件・事情のため、基準に引き寄せたくないとき、
「反=引き寄せ効果」が発動する、ということになる。
言語学・国語学系の術語では、「同音衝突」や「異化」がその代表例だろう。
「同音衝突」は、コミュニケーション上の不都合から同音類義語を避けようとする動きを生みだす。
モチヒ(餅)がモチヰ→モチイ→モチとなったとき、もともとモチ(黐)と呼ばれていた語形をトリトリモチ(鳥取黐)
→トリモチ(鳥黐)と変化させた。まさに、もとの語形から引き離したのである。
また、タブーに触れる同音衝突というのもある。
長良川と揖斐川にはさまされた一部の地域では、
カマキリ(蟷螂)をオマ(ン)マという形にまで転訛させた。「飯」と同じ語形である。
口に入れるものが虫と同名というのは、忌避されるべきだろう。
だれも蟷螂を食べたくはない。そこで、ツメマガリ・ツメマワリという語形を作って、引き離したのである。
また、自己の内部にある基準への「引き寄せ」が失敗したときにも、同様の作用が生じる。
これは少々厄介な問題を含んでいる。第二の「反=引き寄せ効果」としてちょっと区別しておく。
「コトバの乱れ」というとき、「乱れ」と判断する基準があるからこそ「不統一・不正」と認められ、「乱れ」と判断することになる。
その基準は、えてして、その当人自身の言語であるのが普通である。
すなわち、自分が聞いたり話したりするコトバとは違う、という思いが一足とびにマイナスの評価「乱れ」に結びつけられる。
いいかえれば、自分の基準に「引き寄せられない」から、悪になるという仕組みが考えられる。
こう考えると「方言蔑視」も同様の構図である。
また、ときとして外国人を嫌悪することがあるが、その理由に言語がある場合、
やはり上にみたのと同じ反作用が生じているはずである。
この反作用が起きたとき、みずから気づいて修正したり、表にださない努力をするのが、 教養をそなえた人というものだろう。 ときとして、教養人然たる人物に、その種の回路が欠落しているのをみることがある。 なげかわしいことである。
若くてチャーミングなイタリア人(とおぼしい)女性に、 イタリア語で「乾杯!」といわれて面食らうというCMがあったが、 これは「誤れる引き寄せ作用」とでもすべきものだろう。
ううう、書いてるうち、超過激論文モードになってしまった。切り換えないと‥‥‥
19971005
■Back to the Future(?)
恩師の一人、佐藤武義先生が9月末日で退官された。
それに合わせてか、東北大の研究室から佐藤先生編『語彙・語法の新研究』(仮題)への執筆勧誘がきた。
ああ、やっぱりこの時がきたのだなぁと、ちょっと感慨にふけってしまった。
大学院の博士前期課程(「マスター」と言っていた)のころ、
話題にしたことがあった。加藤正信先生と佐藤先生はお年が近い。
だから、退官記念論集は立てつづけにだされるであろう。
となると、これは大いそがしだ。
修士論文どころか、講義のレポートでも呻吟しているのに……
同じ年だったろうか。5月か6月のことである。
警視庁の科学捜査研究所から公募がきた。マスターの途中でもいいという。
どういうつもりかはかりかねたが、時期とか科研とかをてがかりに推測すると、大学卒で言語に興味のある人を緊急に求む、というところか。
声紋とか筆跡鑑定を専門に担当するのかもしれない。
同期の友人が「いやぁ、ちょっと真剣に考えたよ」ともらすこともあった。
入院(自嘲気味にこういっていた)したものの、将来のことなど何一つ決まってない。
そういう時期だったということだ。
そしていま。
「大いそがし」に近い状態だが、お蔭様で論文のテーマの心当たりはある。
そうたくさんあるわけでもないが、ちょっとだけ、どれにしようかと迷うくらいの余裕はありそうだ。
時がたてば、こんなふうになることもあるようだ。
私の知っている、あるまじめな大学院生のために。御参考になれば幸い。
19971006
■しっかりしろ! リンボウ!
新規の刊行物じゃなくて、亨保二年の刊本を復刻したものかもしれない。(中略) そこでもし、この文政五年の本が亨保二年の本の「かぶせ彫り」だったとしたら、 その場合この本は亨保文化のリバイバルにほかならない。(中略) そこでこうしたものは「文政五年刊(覆亨保二年刊本)と、かくのごとく表記する約束である。 こう書いてある場合は「この本は文政五年に刊行されたものには違いないけれど、 ただし内容的には亨保二年の古い刊本の焼き直し海賊版ですよ」ということを語っているのである。林望『ホルムヘッドの謎』文春文庫、207頁。太字強調は佐藤。
享保だろ、享保。横棒一本、いるのだよ。
かわいそうに、君はマックに「亨保」と登録してしまったのだね。
それとも「ことえり」の辞書にはそう登録されているのかな。
それとも、幼いころ、友達の「亨」君の名前を「享」と書いてしまって喧嘩になったのが、トラウマとして残っているのか‥‥
たとえそれでも研究者たるもの、修正しないでなんとする。
あんた書誌学者でしょ。イギリスで、江戸の刊本、たくさん見てきて、目録まで作ったんでしょ。
こんな間違いしたら、だめでしょうが。「合巻本」のことといい、危なっかしくてしょうがない。
ついでにいうと、覆刻(かぶせ彫り)をそのまま「海賊版」と言ってるけど、本来の版元が覆刻する可能性もあるんだよ。
「いえね、かぶせ彫りによる版権侵害出版そのものを覆刻と申しますです」というのかな。
残念だがね、江戸時代の日本では、「覆刻・かぶせぼり」というのは、単に、「出来本をばらして版下として用い、版木をつくること」の意味でしか使われない。
すなわち、覆刻・かぶせ彫りは罪名(といっても現代の感覚とはちょっと異なるようである)でないのね。
罪名なら「重板(重版)・類板(類版)・差構(差支)」という呼び方しかないわけ。
私も気をつけるけど、あんたもちょっと、気合いれんと!
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