トップ|| 江戸辞書| 研究室| 『小公子』| 言語地図| 論文集|気になる| 充電|| 中部日本| リンク| 写真| メイキング| 掲示板||
気になることば 第5集   バックナンバー   最新
19961007

■紀田順一郎の用語「浅ましさ」1

 さて、昨日のつづきである。紀田順一郎『古本屋探偵の事件簿』(創元推理文庫・1991)の「シロトの浅ましさ」が「浅はかさ」ではないかという問題。

 『日本国語大辞典』で「あさましさ」をひけば、二つ目のブランチに「考えなどの浅いこと。また、その度合。」というのがあり、「あさはかさ」とほとんど同義。で、用例は次のように江戸時代のもの。

 酒の相手に色子ども、かはいや神ならぬ身のあさましさは、銀成(かねなる)客とおもふべし(*浮世草子・世間胸算用−3・1)

 命日の今日の日に便聞く告(つげ)でこそ有りつらん。夫(それ)とはしらぬ凡人の浅ましさ(*浄瑠璃・平仮名盛衰記−3)
 というわけで、「浅ましさ」が「浅はかさ」に通じるのは、神や仏に比べて、はるかに下った境涯・知識のものを評価する場合のようだ。となればこれはもう、「浅はかさ」という属性は「浅ましさ」という概念に含まれると考えてのことだろう。神・仏・君子・聖人が基準なら我々凡人が「浅ましい」存在になるのは当然。で、神・仏・君子・聖人が基準なら我々凡人は知識もないから「浅はか」。こんな背景があるから、「シロトのあさましさ」も「シロトの浅はかさ」と同義で用いることがあるのだろう。


19961008
■紀田順一郎の用語「浅ましさ」2

 ところで、ここからは辞書の話。『日本国語大辞典』の形容詞「あさましい」には7つのブランチがあり、そのひとつに「あさはかさ」の意味に近いものがないではないが、基本的に同義のものはない。もっと実例に当たる必要はあるけれど、「あさましさ」という転用名詞にだけ「あさはか」に通じる用法があることになる。

 そうなるとほかの辞典を見るのにも「あさまし(い)」だけでは駄目で、ちゃんと「あさましさ」を見なければならない。ところが、『時代別国語大辞典室町時代編一』・『角川古語大辞典 第一巻』・『江戸語大辞典』(文庫版『江戸語の辞典』)・大久保・木下編『江戸語辞典』にも「あさましさ」は立項されていない。けだし、「あさましさ」を立てた『日国大』の手柄というべきか。やっぱり、大きいことはいいことなのだ。

 それはそれとして、紀田氏の用法は、古本屋同士の会話中のものなので、やはり業界独自の言い方ということになるのだろうか。一方で、その淵源は少なくとも江戸時代にはさかのぼることがわかった。あとは、どのような経路で現代(の古書業界)にたどりついたかが知りたい。たとえば、江戸時代語がひそかに残ったとか、歌舞伎・浄瑠璃などでは普通の言い方でそこから現代によみがえったとか。

 と、ここまで考えて、やっぱり紀田氏の勘違いだったら‥‥‥う〜む、やだなぁ。


19961009
■術語一端

 林望『テーブルの雲』(新潮文庫 1996)に次の一節があってビクッとした。
 講義はまことに坦々としたもので、江戸初期の仮名草子から幕末の合巻本に至るまで、江戸時代の小説の展開を辿って行かれたが、(下略。91頁)
 ここは絵本仕立ての中長編小説をさすジャンル名なので「合巻」が正解。やはり、いきなり書かれるとびっくりする。で、このびっくりは、前に次の一節を読んでいたからでもあるようだ。
 余談ながら、(田中優子氏が・・佐藤注)盛んに「合巻本」とテレビで仰ったのも気にかかる。江戸文学研究の底の浅さと、学問のお里が知れようというもの、さしずめ“きいた風”学問と映る。(棚橋正博「草双紙の時代(8)春町と戯作」『日本古書通信』805号・1996・8)
 筆鋒(?)鋭いが、これはほかにも田中にミスがあったことによるのだろう。それにしても、「合巻本」と言ってはいけないのだ。

 ただ、もしかりに、ほとんど同内容で同名の作品が、絵本仕立てのものと文章主体のものとがあったら話しは別。私でも迷わず合巻『○○○』と言い、読本『○○○』とすら言う。もちろん、この「本」は異本という別次元の名称で、「佐竹三十六歌仙絵巻」「熱田平家物語」というのと変わらない。



 江戸時代後期の小説系作品は、文章が主である洒落本・噺本・滑稽本・人情本・読本(よみほん)と、絵本仕立ての黄表紙・合巻というジャンルに分かたれる。つまり、文章主体のものは「○○本」で、絵本仕立てのものはそうではないという傾向がある。偶然かも知れないが、やはり、絵本仕立ては「本」ではない、という意識が働いていたのかも知れない。ここに気づけば「合巻本」と誰も言わなかったかも知れない。

 が、多勢に無勢は言葉の世界でも同様で、「○○本」の方が多いから合巻本というジャンルが正しいことになるかもしれない。しかも、田中優子はマスコミづいているし(といってもNHKがほとんど。いや、だからこそ問題か?)、林望はエッセイストと化して相応に人気を博している。言語地理学でいう「威光」の持ち主たちなのである。

 さて、「合巻本」が認知されるのは何年後のことになるでしょうか。


19961010

■「〇〇丸」のアクセント



 NHKの『堂々日本史』で、大阪城の出丸の「真田丸」をサナダマル(〇●●〇〇)と発音していた。あれ、変だな、船の名前じゃあるまいしと思った。

 城の「〇〇丸」ならすべて平板になる。本丸・二の丸・三の丸・出丸・西の丸‥‥‥、私のアクセントでは皆そうなる。だから「真田丸」もそうあるのが良いのではないか。それ以外は「丸」の直前に低まりがあるので、マル自体は低く発音されると単純に思ってた。

 船名 日本丸・洞爺丸・氷川丸・咸臨丸・第五福竜丸・さんふらわあ丸(これは号?)‥‥‥

 人名 牛若丸・熊王丸・日吉丸・石童丸・小狐丸・ピュンピュン丸(「風の〜」?)‥‥‥
 いや、そう簡単にもいかないか。平板もある。

 紋・印名  日の丸・鶴丸・花丸‥‥‥

 人名  (南郷)力丸・(伊賀の)影丸・(伊賀の)カバ丸(「やきそぶわぁどうぇ〜い」)‥‥‥
 むしろ、「2拍以下+丸」は平板で、「3拍以上+丸」は「丸」の直前に下がり目がくると見たほうがすっきりするか。『明解アクセント辞典』の巻末を見ればなにか出てくるかもしれないが、なぜか私は持っておらず、近辺にもない。でも、やはり船名の「花丸」は〇●〇〇だろう。それにしても面倒ですね。別に、岡島さんの【女性名のアクセント】参照。

 ちょっと寄り道したが、なぜ「真田丸」が〇●●〇〇なのかという話。多分、「真田」が鍵なんだろう。なんせ固有名詞。人名・船名の「〇〇丸」との関係が疑われる。「真田丸」は城の一部の名称でありながら、固有名詞でもある。アクセントが異なる語群の性格を兼ね備えているとも言える。その辺が判断に迷いを生じさせるのだろう。もちろん、語構成上は「本丸」などと同一なのは明らかだが。

 あるいは、船名と関わるか。『堂々日本史』は、武運傾く豊臣側に付いて多勢の徳川家康を翻弄する真田父子の知勇を紹介していた。見るものは判官贔屓シンドロームにおちいる。もちろん、その辺は、製作の方も狙っているのでは。スタッフ一同は視聴者以上にシンドロームにおちいる。敵兵の海に乗り出す真田父子‥‥真田丸(〇●●〇〇)の出来である。でも、やっぱりこれは無いか。


19961011

■長い単語2(少々やけぎみ)

 柳瀬尚紀『辞書はジョイスフル』(新潮文庫 1996)を読んでいたら、思い出せなかった最長英単語 pneumonoultramicroscopicsilicovolcanoconiosis が載っていた。

『辞書はジョイスフル』、これはジェイムス・ジョイスの名を掛けたもの。柳瀬は20世紀文学の頂点にあるというジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を邦訳した人である。この原書も訳書も、ことば遊びが滅多やたらにあるという。そのなかで、100字に及ぶ単語がある。

Perkodhuskurunbarggruauyagokgorlayorgromgremmitghundhurthrumathunaradidilifaititillibumullunukkunun!(210ぺ)
 各国語の雷を並べ立てて一語なみに扱ったものだそうだ。これ、なにもでたらめではなさそうで、たとえば、母音だけ抜き出すとそれなりに連関があるようにも思えるが、これは僻目(僻耳?)か。

eouuuauauaooaooeiuuuauaaiiiaiiiiuuuuuu
 言葉でいえば、こんな風。

おっ、くるかな、くるぞ、来た来た おっともう一つ、ほう  もう、いったか。
 まあ、擬音だから、そういうこともあるかも知れない。いろいろ擬音にもお国ぶりがあるのだといわれるが、雷ならどこにでも同じだろうから、上のように感じることもありうると思うのだが。子音だけぬきだすというのもありますが、それはお任せいたします。
岡島昭浩さんの「目についたことば」(10月8日分)

 長山靖生『偽史冒険世界』の紹介。第六章の竹内文庫のところで、橋本進吉と狩野亨吉が、近代の偽作であることを証明するために検察側の参考人になったことが出てるとか。

 う〜ん、いい役者が揃いましたね。『狩野亨吉の生涯』あたりから裏をとりますか。
19961012
■CMの思いやり

 アステル中部のCMでは、巷でいう美少女が出てきて(あまり私の好みではないタイプ)送受信可能エリアの拡大を誇示している。

 で、岐阜市と四日市市を指さして、「こ〜んなとこや、こんなとこまで」などという。う〜ん、「こんなとこ」で悪かったね。どうせ四日市や岐阜なんて田舎だよ。山本真吾氏(三重大学人文学部)が住んでるわ、佐藤貴裕(私です)は棲息してるわ…… アステル中部は中部地方で商売する気がないようだ。

 でも、なぜ「こんな」にマイナス評価の語感が漂っちゃうのでしょうか。少々不思議。だれかの論文がありそうにも思うが……


 『言語』96年10月号に、インターネット上のデータベースの紹介がある。台湾の中国古典文学の膨大なデータベースに興味が引かれた。検索もできるという。これ、どうすれば利用できるのだろうか。Big5のフォントを内蔵すれば表示だけは可能のよう。検索語を入力するには、Big5対応のFEP(IME?)を導入すればウィンドウズでも使えるのだろうか。何というソフトで、どこにいけば売っているのでしょうか。メーカーは?

 どなたか、あわれな初心者に御教示ください。


19961013
■「女の子」

 最近(でもないか)、次のような文章によく出会う。
 昨年、「二十歳女の子向きの作品を教えて下さい」と女子大の学生に言われて、絶句した。小学生向きの本を推薦してほしいというのと同じ調子で教師をあてにする学生がいようとは、思ってもみなかった。

 「二十歳女の子」と自己規定している学生も初めてである。(土屋繁子「当世学生『本離れ』気質」『ネパールのビール '91版ベスト・エッセイ集』文春文庫・1994。252ぺ)
 その冴子も二十四歳になったはずだ。(2頁略)

「見違える、と思ってたんだけど、あんまり変わっていないんで驚いたな」

「あんまり女の子が喜ぶセリフじゃないみたい」

 津田の言葉に、冴子が返した。

「女の子ってのは、何処にいるんだ」

 国府(冴子の兄−−佐藤注)が揶揄した。冴子が吹き出した。(高橋克彦『写楽殺人事件』講談社文庫・1986。69ぺ)
 また、友人某氏は、30代後半の方がみずから「女の子」と言っていたのを聞いたという。その人は独身者だそうだから、結婚しないかぎり「女の子」ということになるのかもしれない。ひょっとしてこれが、将来、「女の子」の主たる語義になるかもしれない。会社などでも事務の若い女性を「女の子」ということがあるが、これも独身者であるのが普通のようにも思う(例外は少なくないかもしれないが)。そしてついには、「息女」の意味で使われるようになるかも。親からすれば、何歳になっても(!)息女は「女」の「子」である。

 なかば本気で語感のアンケートをとろうかと思っている。そういえば、『図説日本語』(角川書店)に、「佐藤あけみ」という名からうける語感を調査した結果がありましたね。「まとまった金」の金額とか、頼み事に対する「考えておく」の期待度の地域差とかもあった。もう少し、質問項目がたまればやってみたいものです。
岡島さん、Big5の件、お教えいただき、ありがとうございました。試用版は入手できました。
先達・岡島昭浩さんの目についたことば





トップページへ戻る