酒の相手に色子ども、かはいや神ならぬ身のあさましさは、銀成(かねなる)客とおもふべし(*浮世草子・世間胸算用−3・1)というわけで、「浅ましさ」が「浅はかさ」に通じるのは、神や仏に比べて、はるかに下った境涯・知識のものを評価する場合のようだ。となればこれはもう、「浅はかさ」という属性は「浅ましさ」という概念に含まれると考えてのことだろう。神・仏・君子・聖人が基準なら我々凡人が「浅ましい」存在になるのは当然。で、神・仏・君子・聖人が基準なら我々凡人は知識もないから「浅はか」。こんな背景があるから、「シロトのあさましさ」も「シロトの浅はかさ」と同義で用いることがあるのだろう。
命日の今日の日に便聞く告(つげ)でこそ有りつらん。夫(それ)とはしらぬ凡人の浅ましさ(*浄瑠璃・平仮名盛衰記−3)
講義はまことに坦々としたもので、江戸初期の仮名草子から幕末の合巻本に至るまで、江戸時代の小説の展開を辿って行かれたが、(下略。91頁)ここは絵本仕立ての中長編小説をさすジャンル名なので「合巻」が正解。やはり、いきなり書かれるとびっくりする。で、このびっくりは、前に次の一節を読んでいたからでもあるようだ。
余談ながら、(田中優子氏が・・佐藤注)盛んに「合巻本」とテレビで仰ったのも気にかかる。江戸文学研究の底の浅さと、学問のお里が知れようというもの、さしずめ“きいた風”学問と映る。(棚橋正博「草双紙の時代(8)春町と戯作」『日本古書通信』805号・1996・8)筆鋒(?)鋭いが、これはほかにも田中にミスがあったことによるのだろう。それにしても、「合巻本」と言ってはいけないのだ。
船名 日本丸・洞爺丸・氷川丸・咸臨丸・第五福竜丸・さんふらわあ丸(これは号?)‥‥‥いや、そう簡単にもいかないか。平板もある。
人名 牛若丸・熊王丸・日吉丸・石童丸・小狐丸・ピュンピュン丸(「風の〜」?)‥‥‥
紋・印名 日の丸・鶴丸・花丸‥‥‥むしろ、「2拍以下+丸」は平板で、「3拍以上+丸」は「丸」の直前に下がり目がくると見たほうがすっきりするか。『明解アクセント辞典』の巻末を見ればなにか出てくるかもしれないが、なぜか私は持っておらず、近辺にもない。でも、やはり船名の「花丸」は〇●〇〇だろう。それにしても面倒ですね。別に、岡島さんの【女性名のアクセント】参照。
人名 (南郷)力丸・(伊賀の)影丸・(伊賀の)カバ丸(「やきそぶわぁどうぇ〜い」)‥‥‥
Perkodhuskurunbarggruauyagokgorlayorgromgremmitghundhurthrumathunaradidilifaititillibumullunukkunun!(210ぺ)各国語の雷を並べ立てて一語なみに扱ったものだそうだ。これ、なにもでたらめではなさそうで、たとえば、母音だけ抜き出すとそれなりに連関があるようにも思えるが、これは僻目(僻耳?)か。
eouuuauauaooaooeiuuuauaaiiiaiiiiuuuuuu言葉でいえば、こんな風。
おっ、くるかな、くるぞ、来た来た おっともう一つ、ほう もう、いったか。まあ、擬音だから、そういうこともあるかも知れない。いろいろ擬音にもお国ぶりがあるのだといわれるが、雷ならどこにでも同じだろうから、上のように感じることもありうると思うのだが。子音だけぬきだすというのもありますが、それはお任せいたします。
昨年、「二十歳の女の子向きの作品を教えて下さい」と女子大の学生に言われて、絶句した。小学生向きの本を推薦してほしいというのと同じ調子で教師をあてにする学生がいようとは、思ってもみなかった。
「二十歳の女の子」と自己規定している学生も初めてである。(土屋繁子「当世学生『本離れ』気質」『ネパールのビール '91版ベスト・エッセイ集』文春文庫・1994。252ぺ)
その冴子も二十四歳になったはずだ。(2頁略)また、友人某氏は、30代後半の方がみずから「女の子」と言っていたのを聞いたという。その人は独身者だそうだから、結婚しないかぎり「女の子」ということになるのかもしれない。ひょっとしてこれが、将来、「女の子」の主たる語義になるかもしれない。会社などでも事務の若い女性を「女の子」ということがあるが、これも独身者であるのが普通のようにも思う(例外は少なくないかもしれないが)。そしてついには、「息女」の意味で使われるようになるかも。親からすれば、何歳になっても(!)息女は「女」の「子」である。
「見違える、と思ってたんだけど、あんまり変わっていないんで驚いたな」
「あんまり女の子が喜ぶセリフじゃないみたい」
津田の言葉に、冴子が返した。
「女の子ってのは、何処にいるんだ」
国府(冴子の兄−−佐藤注)が揶揄した。冴子が吹き出した。(高橋克彦『写楽殺人事件』講談社文庫・1986。69ぺ)