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気になることば 第6集   バックナンバー   最新
19961014
■言葉の職業病

 柳瀬尚紀『辞書はジョイスフル』(新潮文庫 1996)を読んでいたら、英詩の翻訳の苦労話に。脚韻には相当悩まされたそうだ。『ナンセンスの絵本』(ほるぷ出版)の折りは、末尾二音まで合わせることに挑戦したという。
 百篇以上、三、四週間で翻訳したのだけれど、その期間は四六時中、頭が寤寐(ごび)語尾になった、念のため、寤寐とは、れっきとした漢語で、寝ても醒めてもの意。久しぶりに人に会って、「やあ、語尾沙汰してまして」などと挨拶してしまった。(156ぺ)
 これには共感した。おそらく嘘ではあるまい。しかし、なかなか信じてもらえないだろう。でも、私は信じます。そして、私の一時の状態も柳瀬氏ならわかってくれるだろう。
 私の場合、節用集という江戸時代のイロハ引き辞書を相手にしている。辞書といっても、漢字を引くための辞書なので文章作成に供されたもの。原則として話し言葉は出てきにくい。じゃあ、どれだけ出てきにくいのか。これは調べるしかない。調べる語のリストをつくり、いくつかの辞書についてその語の有無を調べたのだ。イロハニホヘト……と繰るうちに、イロハ引きが身についてしまった。現代の辞書を引いてもそう。「餡パン」は確か後ろのほうだったな、と後ろの方から引いてしまうのである。で、そこまで行って初めて、五十音順だよな、と巻頭をみる始末。あるいは、「あれ、イの前にアがある。変な辞書だな」と一瞬だけ感じるのだ。
 この歳になってからでよかったと思う。上のような症状はしばらくすると(といっても結構残っていたが)消えてしまうからだ。

19961015
■誤用ぎりぎり3

 10月12日、NHKの土曜ソリトンはプロレスの特集。柴田惣一なる人(スポーツ誌の記者か評論家らしき人)が、
 猪木や○○は△△の直弟子(じかでし)ですから‥‥
と言った。やっぱりジキデシではなかろうか。もちろん、臨時的な誤用ということも考えられる。この場合、
 1)「直談判」(じかだんぱん)などからの類推
 2)酒(さけ)→杯(さかづき) 雨(あめ)→雨傘(あまがさ)などからの類推
が考えられる。まぁ、1)が穏当だろう。「直(じか)に」という言い方もあるので、応用力も強いかもしれない。もちろん、「直(じき)に」もあるがこれは「直接に」の意味がない。ただですね、2)も捨てがたいように思うんですね。普通、言語変化はそう起こるものではない。いくつかの要因が重なることが多いので。
 さて、第3の考え方として、専門用語ということもある。たしか、司会某も「じかでし」を聞いて聞き返し、それ以上なにも言わなかった。小さな言葉のことをテレビで云々しても大人げないと判断したことも考えられるが、専門用語かもしれないという懸念も脳裏をよぎったのではないか。建築関係では蝶番(ちょうつがい)をチョーバンということがある。印刷関係では植字をチョクジと言ったりする。自動車関係では「180馬力を発生するエンジン」などと言う。これらが、正しいものと受け取られている世界がある。それを尊重しようという配慮である。
 で、プロレス界ではどうなのか。気になりますね。番組でも言っていたが、 「プロレス」ということば自体、「大学プロレス・サークル」という摩訶不思議な表現をせざるを得ない。「プロ」の「レスリング」以上の意味を含んでいるのだ。ひょっとすると面白いことがいろいろある世界なのかも。
 その反面、それは考えすぎちゃうか、と自省してしまう。

岡島さん、ホームページ容量の拡張(25MB!!!)、おめでとう!
拙者「その後の「拙者」」)は当分、3MBでやりくりするっす。
19961016
■旧形式の復活

 昨日のつづき。
 実はそのテレビをみながら、手元にあった『新明解国語辞典』(初版15刷*)を見たら 次のようにあってびっくりした。
 じき【直】[一](一) 隔てるものが一つも無いこと。「−弟子(デシ)・−談判・−輸 出・−輸入」 (二)「直取引」の略。(下略。以上、アクセント表示・旧仮名表示は略 )
 「直弟子」はいいとしても、それ以下を私はすべてジカで読んでしまった。最後の「直 輸入」は、一拍おいてチョクユニュウが浮かんだが。
 『日本国語大辞典』では、すべてジキ〜で載っていて、ジカ〜はない! ただし、さす がに「直談判」はジキダンパンが従、ジカダンパンが主の扱いだった。あら、これは私も 「ジキ→ジカ」の変化が進行していたのかと思った次第。しかし、これももう数十年もす れば、「直→チョク」の変化に追い越されてしまうのではないか。
 「他人事」も私にはヒトゴトとしか読めないが、いまではタニンゴトの方がむしろ圧倒 的で、ヒトゴトには戻れないだろう。誰ですか、音声言語の優先などと言った人は?(と 言いつつ授業でも述べ、例外も少なくないのだよと教えているが)
 が、一方で、最近、古い形式(用法・用字・読み)などが復活することがあるものだ、 との印象も持っている。たとえば、「気の置けない(=余計な心遣いの必要がない)」な どは、一時、本来の使い方論争があって、古い用法が復活したように思う。「一生懸命」 も「一所(処)懸命」の用字をよく見かけるような気がする。
 こういうことが今後五十年百年たって語史を振り返るとき、ちゃんと把握されているだ ろうかと不安をおぼえる。また、これまでの語史研究を振り返って、そうした古形復活の 事実を見落としてはいまいかと心配になる。ただ、後者の場合、さほどマスメディアが発 達していなかったから、復活にいたらず、変化の流れに押し切られることが多かったかも しれない。そうなると問題は近過去から今後にかけてのことになる。

*初版15刷。第1刷は「昭和四十七年一月二十四日」とわかるが、なぜ15刷には記されな かったのだろう。おそらく、15刷にかぎらず、すべての再版がそうなのだろうと思うが。 ともあれ、不思議。
19961017
■「○○しぃ」

 いやぁ〜、緊張しぃなもんですから……(昨日のNHK総合テレビ「スタジオパークからこんにちは」のモト冬樹の発話から)
 「えぇ恰好しぃ」などと使われる「しぃ」だが、随分と聞かれるようになった。東京出身のモト冬樹も使うくらいだから、そろそろ全国制覇達成か。
 なかなかいい言葉だと思う。「えぇ恰好しぃ」だと、嫌なやつ(気障?なやつ)のようなニュアンスが込められるし、「俺も36歳になったし、そろそろえぇ恰好しぃも卒業だな」などと自分で使うのも自嘲的なニュアンスがあって、いい味がだせるような気がする。そのようなことを感じているので、モト氏の用法が、いい意味で気になったのだろう。ところで、ネイティブ・スピーカーの方、使い方や語感、間違ってるでしょうか。

 ところで、この「しぃ」、サ変動詞の連用形の(特殊な?)用法なのだろうが、他の動詞にも類似の用法があるのだろうか。それとも無理矢理「しぃ」を付けてしまうのだろうか。「気取り屋」だったら「気取りぃ」? 「気取りしぃ」? (関西方言をおちょっくってるわけではありません。純粋に言葉の問題として見ています)
 やはり、「しぃ」がついても不自然にならない形式(語形)を選んでから「しぃ」を付けるのだろうか。 というより、サ変動詞にだけ見られる用法なのだろうか。いや、もっと限定されたいくつかの言葉にだけある特殊な用法なのだろうか。

更新が22時過ぎになってしまいました。今年の10月の木曜はなんかバタバタしています。
19961018
■俵万智のしたたかさ

 まちちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校(上の句の表記、自信なし)
 多分、多くの人が知っている俵万智の歌だと思う。そして、私は、何とすごい歌だろうと関心している。 上句は五七五の伝統的な音数律にしたがっているが、実は、下句は字余りなのだ。「神奈川県立」も「橋本高校」も八字(八拍)でそれぞれ一字(一拍)ずつ余っている。
 もういい加減、歳をとると、口ずさんだだけで、その短歌なり俳句なりが正規の音数なのか字余りなのかはわかってしまう。五七五七七・五七五が染みついてしまってるからだ。ところが、「まちちゃんを〜」ではそれが感じられずに、すっと読めてしまう。
 なぜだろう。「○○県立△△高校」という韻律(と言ってよいか問題は残ろうが)に知らず知らずのうちに慣らされているためではないか。しかも、無意識のうちに、ある種のリズムを感じている。そしてそれに、快感を感じこそすれ、嫌悪していないのではないか。
 それを拉致しきたって一首したてたのが「まちちゃんを〜」だろうと思っている。日常、短歌を作って いる人にとっては当たり前の感覚なのかもしれない。そして俵としては、「あれ? 気持ちがいいなぁ」と軽い気持ちで作ったのかもしれない。しかし、出来上がった作品は、こちらの無意識にまで食い込んできている点で少々薄気味悪くもあり、お見事!と拍手してやりたい一首なのである。

19961019
■役所の思いやり

 岐阜県身体障害者更生指導所 →
 岐阜県身体障害者更生相談所 →
 資料を郵送する約束をにわかに思い出し、速達でだしてあげようと、深夜、大きな郵便 局へむかった。もう郵便局へあと1ブロック(この言い方も日本語では定着してきました ね。たしか、中学校の英語の時間にこの用法をはじめて習いました)というところで、足 がとまってしまった。小さからぬ看板に上のように書かれていたからである。
「更生」?  私の頭には「不良少年の〜」「麻薬中毒患者の〜」など、「悪事悪行に走 ったもの」が「社会復帰のため、常識を身につける」といった意味しか出てこなかったの だ。
 『日本国語大辞典』の「更生」は次のとおり。
 1)いきかえること。よみがえること。
 2)精神的、物質的、社会的にたちなおること。生活の態度がたちなおること。また、 もとの状態にもどること。
 3)キリスト教で、罪と滅びとのなかにある人間が、神の恵みによって、霊的に新しく なること。再生。新生。
 4)不用品に手を加えて再び使用できるようにすること。
 1)が原義だが、2)以下には悪から良ヘということが含意されているか、明示されて いる。件の看板の場合、原義によったのだと言えば言えようが、2)以下の例の方が普通 である現在、それは強弁としか受け取ってもらえないだろう。

う〜ん、Yahoo!Japanのコメントがなかなかこちらの意図どおりにならない (^;)ゞ
19961020
■嬉しい用例

 「エキス光線」という言葉は、小学一年の夏、入院している祖父の話をしていた母が、叔母としゃべっていた時、これも聞きとがめて質問したが、私生児とはちがい、今にわかるでもなかったにせよ、確たる解説はされなかった。
 しかし、大正のおわり、医療の話にレントゲンとは、いわなかったのだという、これはひとつの証明になる。(戸板康二「耳ぶくろ」『耳ぶくろ '83年版ベストエッセイ集』文春文庫・88ぺ)
 以前にも記したが、このような報告はありがたい。ある語が、いつ使われたかを知るには、ある一定量以上の(厖大な)文献を漁る必要がある。が、この例一つあれば、かなり正確な見通しがつく。あとは、この前後を集中してさがせばいいので能率もあがる。もちろん、報告をした人の言語的・社会的な環境が、当時の一般の位置から大きくずれていたりすれば問題ですが。

 23最近/レントゲン放射線の原理及使用法  白木正博 大9 二、〇〇〇
    (一歩堂書店の目録より 『日本古書通信』第61巻第10号 1996・10 27ぺ)
 これは、たまたま見た古書目録にあったもの。我ながら、タイミングが良すぎるので、びっくりした。大正9年の本なので、一見、戸板氏の記述に矛盾する。が、この本は専門家向けらしい。したがって、戸板氏の記述は、一般人が「レントゲン」を使いだした時期が専門家よりも遅かったことを示すものになる。現実的には、専門家である医者が一般人に説明するときには、当時、より一般的だった「エキス光線」(X線)を用いた、ということにもなろうか。
 と言ってしまうと、「何だ、当たり前じゃないか」となるので少し悔しい。けれども、古書目録のおかげで、戸板氏の記述が、大正期の「レントゲン」の用法をより詳細に伝えることになる。これはやはり嬉しい。

岡島さんの『目についたことば』「方言文字?」(96.10.13)の「深」字。旁が「ワ+米」となるのは、「ワ++木」ではなく「ワ++木」と分析して、さらに「八+木」を「米」の異体字(八+十+八)と見て、正しい(?)「米」に直したのでしょうね。興味深いですね。こうなると散歩や旅行にも精がでることです。
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先達・岡島昭浩さんの目についたことば

言語学的に興味深い「専門用語の誤用例辞典」(鈴木亮輔さん・京都大学大学院助教授)



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