気になることば
72集
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| 「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある「人間と言語の関わり方」に力点を置いています。 |
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20000713
■「ちげえよ」──音訛の史的傾向性?
やっと「ちげえよ」の続きを書くことにしました。でも、やっぱり妄想かなぁ。
整理すると、「ちがうよ」が、単に訛るのであれば「ちごうよ」になりそうなのに、なぜ「ちげえよ」になってしまうのか、というのが問題点でした。
結論を先にいえば、「ちがうよ」が「ちごうよ」と訛るのは、もう時代遅れだ、ということです。ただ、ここで注意したいのは、単に、現代の若い人が「ちげえよ」を使っているから時代遅れだというのではないことです。
遅くとも室町時代の末期から江戸時代にかけて、終わりに母音uをもつ母音の連続が〈一拍の音+長音〉に変化するという大きな変化がありました。現代の発音で書けば、au・ou は o: に、iu は ju: に、eu は jo; に変わっていったのです。この変化はすでに終了していて安定期に入っています。長音になるものは長音になり、「会う」のように二種類の母音を残す必要のあるものは残しています。時に長音になったり、時に二種類の発音をしてみたりといったことは、原則としてありません。
〈母音+u 〉の変化についで起きたのが、〈母音+i〉の変化です。「映画」を 「えいが」と仮名では書くのに、発音は、「エーガ」 と長音になるような変化です。この変化は、地域と母音の組み合わせによって差があります。その最先端を行くのは名古屋近辺です。外来語の「フライ」や「バイパス」なども「フリャー」「ビャーパス」のように聞こえる発音になり、安定しています。ところが、九州では、「映画」は「エーガ」ではなく「エイガ」と発音するようですね(地域や年齢によって差があるかもしれませんが)。東京などはその中間で、「映画」は「エーガ」で安定していますが、「無い」は、ときに「ネー」になるものの、普通は「ナイ」ですね。このように〈母音+i〉の変化は、流動的で、いままさに変化の途中であるといえそうです。
このような大きな日本語の変化の流れを前提にするとき、「ちがうよ」が「ちごうよ」になりにくいというのは、ごく自然に納得できます。すでに、そういう変化をする時代は、遠い過去のことだからです。いまどき、はやらない、というわけです。ここまでは、比較的すんなり理解していただけるのではないかと思います。
で、問題は、「ちげえよ」になってしまえるのはなぜか、です。「ちごうよ」にならなかったことの裏返しで説明できればいいな、と思っています。どうせ変化するなら現在進行中の〈母音+i〉型でやってしまえとばかりに、「ちげえよ」になったのではないか……
自分で提案しておいて言うのもなんですが、やっぱり、妄想かなぁ。
「ちごうよ」にならない理由は採用、ただし、「ちげえよ」になるのは、まえに提案した「ねー(無)」を参照した、という考え方が現実的でしょうか。やっぱり。
20000709
■「仏檀」
さて、明けて7月6日、またまたクルマで往復100km走ってきました。といっても、レギュラーの非常勤なのですが。その帰り、岐阜市内でのこと。信号待ちしていると、とある仏壇屋の看板が目に止まりました。1枚だけなのですが、かなり大きく、いくつかの単語が書かれています。平仮名を多用しているので、話題を提供してくれます。
まず、「せんだく」とありました。岐阜あたりの仏壇屋の看板ではおなじみの用語です。漢字を当てるなら「洗濯」でしょうか。日国大によれば「洗濯」の古い読み方として「せんだく」があるとのことです。また、西日本では「せんだく」と濁る場合が多い、というのを何か(『日本言語地図』の解説?)で読んだ気もします。で、仏壇の「洗濯」なら、意味はおそらく、オーバーホール、解体掃除かと思っていますが、はたして。
ついで「ずず」。「じゅず(数珠)」が現代では認められた言い方だと思います。が、「ずず」も耳にしますね。これは、数珠をするときの音への連想もはたらいて「ずず」となっているのだと思っていますが、どうでしょう。もちろん、拗音「じゅ」の直音化とか、呉音・漢音とか、連濁とか、考えるべきことはいくつかありまが。ところで、『広漢和辞典』で「数珠」「珠数」をひいてみたら、「ズズ」の読みも「ジュズ」と同じように掲げられていました。ちょっとびっくり。
そして最後に「仏檀」。「仏壇」と土偏ではなく、木偏になっていました。これも興味深い。一般家屋に設置する仏壇は、木で作るのが普通です。そこで、木偏の「檀」になってしまったのでしょう。いや、単に「壇」と「檀」を見誤っただけ、という方がありうるか。仏壇の材料として黒檀や紫檀が使われますし、仏教関係の言葉でも「檀家・檀那・檀越」があります。「白檀の香りのお線香」というのもあったかな。
ただ、これで連想したのが、『和漢音釈書言字考節用集』の「井カタ」です(左画像)。『通俗文』からの引用は「土を以〈もって〉するを型と曰ひ、金を以てするをー(=鎔)と曰ふ。木を以てするを模と曰ひ、竹を以てするを範と曰ふ」と読めます。これもおもしろい。「土・金・木・竹」で作った鋳型を表す漢字が、それぞれ「型・鎔・模・範」で、部首がきれいに対応しています。部首と意味との関係からすれば、よくあることなのですが、それにしても「いがた」と読みうる漢字がこれだけあるというのも、すごいなと思ってしまいます。
なんだか単純な話になってしまいましたが、話題提供ということで。それでは。
20000705
■第2回長浜ゼミにて
今年も敢行してしまいました。長浜ゼミ。(昨年)で、こころよい疲労感に浸っているところです。
でも、疲労は疲労なので、今日も息抜き企画。ゴメンナサイ。
今日を含めて何日か、寺の行事があったようです。たくさんの露店が出ていました。その露店で気づいたのが、この、のれんというか看板の右側面(客からみれば左側面)。これ、右からの横書きになっているんですね。左側面は普通に左からの横書きでした。つまりは「正面に近い方から読む」というきまりがあるようです。あるいは、御覧のように、正面ほど高くなっているので、「上から下へ読む」ということかもしれません。
商店のロゴや電話番号が入ったトラックなどで、右側面が右からの横書きになっているのがあります。先頭から読むということらしいですが、それを連想しました。最近、あまり注意してないのですが、今もあるかしら(岡島さんのところでやってたかな?)。
実を申せば、このお店のそばにきて、「げあらか」ってなんだ? と思ってしまったのです。「からあげ」と右から読めるようになるまで、若干、時間を要しました。
さて、右からの横書きをふまえると、次の写真はバナナチョコ。私が知っているのはチョコバナナ。高校のころ、武蔵野音楽大学(江古田)の学祭でみたのが、チョコバナナ。それ以来、インプリンティングされてしまって、バナナチョコという言い方を見逃してきたのかもしれませんけれど。こういうものにも地域差があるのかもしれませんね。
地域差かどうか分かりませんが、酒屋さんの壁に「いけがす」とあるのが目にとまりました。単純に酒粕のことかなと思いましたが、「なまざけ(生酒)」というのもあるので、その「なま(生)」と関係があるのかもしれません。もちろん、それがこちらでは「いけ」となっているのも注意を引きます。
「いけがす」と濁音になっているのも注目点でしょうか。このような連濁も、一筋縄では解決のむずかしいところ。それも含めてですが、一種の専門用語のような気もしますので、酒造関係の方に教えを乞いたいところです。
ちょっと困ったのが駐車場。あの「お旅駐車場」は、一時的に閉鎖されていました。露店が入り口まで出ていたためかもしれません。学生に見せて、意見を聞きたかったのですが。
20000703
■「俺の塩2000GT」
昨日・今日と暑いです。35度オーバーです。でも、私の仕事場の建物は、冷房を止められています! だから、息抜きの話題で失礼します。
西暦2000年を記念した行事や、あやかった企画が多いですね。バソコン・ソフトなども新しいバージョンになったついでに、名前に「2000」を追加するものが多いようです。
以前から、自動車会社はちょっと、ほんのちょっとだけ、困っているのではないか、と思っていました。「2000」という切れのよい数字を使いづらいんじゃないか、と。お気づきのように排気量の2000ccと混乱をきたしかねないので、気を使っているだろうな、と。
たとえば、「カローラ2000」とか「ウィンダム2000」という名前の付け方はできませんね。2000ccとまぎれて、カローラがとんでもなくグレードアッフしたんじゃないかとか、ウィンダムが2000ccで動くんだろうかと心配しそうです(現行モデルのカローラだと、ディーゼルエンジンは2200ccだそうですが)
さて、そんななか、ついに出てしまったなぁと思わせたのが、「俺の塩2000GT」です。これ、おもしろいです。自動車会社が使いづらく思っている「2000」のほかに、自動車ではおなじみの副称「GT」(グランド・ツーリング、グラン・ツーリスモ)までついてるんですね。自動車ではないからこそ付けられた名だと思いますが、ここまでやったか、と思ったことです。
昨年のパッケージもそうでしたが、女の人は、60年代のポスター風に描かれています。ちょっとレトロな路線を狙っているわけですね。そこに「2000GT」をつけたのですが、単純に2000年だから「2000」にし、ついでに「GT」まで付けただけでしょうか? やはり、名車の誉れ高い「トヨタ 2000GT」を意識しているでしょう。1968年製造だそうですし。
20000630
■「日国大」
またまた間があいてしまいました。「ちげえよ」の続編を書かねばならないのですが、ちょっと消耗気味。息抜きの話題にさせてください。
大学に在職中の演習などのさいに、私はいつも学生たちに、最低限、資料の中の言葉をこの大辞典──愛称「にっこくだい」──を引き、その用例を確かめて勉強の出発とするように指導してきた。(網野善彦「社会を動かす書」(日本国語大辞典販促パンフ)) |
なんだか、こころ強い。日本中世史の大家も「にっこくだい」と言ってらしたのですね。私もこの辞典を「にっこくだい」と呼ぶものですから。
岡島昭浩さんの『目についたことば』にもおもしろい情報があります(「日国大」)。「にっこくだい圏」(?)は、九州大・東北大・金沢大。高山倫明氏の足跡をたどれば、名古屋大が加わります。
網野氏もどこかでこのラインにかかわっていたのかとみれば…… 名古屋大に接点が見つかりますね(『日本の論壇』より網野善彦)。
やった! めでたし、めでたし…… と、普通ならなるところです。が、略称というものは、別々に発生して、偶然に同じ形になることがありそうです。略称を作るルールというのも、そうバリエーションがあるわけでもないでしょうから、その確率は高いでしょう。ですから、「ライン」にこだわるつもりはありません。
「にっこくだい」とはっきり読みを示した例が、活字になっていたので、なんとなく、嬉しくなって書いてしまいました。
20000625
■「ちげえよ」──形容詞化?
ちょっと忙しかったものですから、間があいてしまいました。そのあいだにある方からメールをいただきました。「ちげえよ」という発音を「ちがい」という形容詞ができる先触れと考える説を読んだことがある、というものでした。
なるほど。この説、おもしろいですね。「ちげえよ」で私が考えていることはまた次回にして、さきにこの考え方をみてみましょう。どうやら、こういうことらしいです。
「ちがう」は五段活用の動詞ですから、「た・て」が続くとき、「ちがった」「ちがって」となるはずです。けれど、最近、「ちがかった」とか「ちがくて」というのを聞くことがあります。この形、形容詞の連用形と同じですね。たとえば「近い」なら、「近かった」「近くて」なりますから。あ、そうそう、「ちがかろう」も、聞いたことがかすかにあるような気もします。たしかに「ちがう」は、形容詞を派生しようとしている、あるいは、形容詞に変化しつつあるようです。
「近い」という形容詞を引き合いに出して考えてみましょう。「近いよ」がなまれば「ちけえよ」になります。あら? 「ちげえよ」とそっくりですね。では、逆の手順で「ちげえよ」から元の形を復元してみると…… 「ちがいよ」になりますね。なるほど、これは形容詞だ。
ただ、私は、「ちがいよ」という言い方をまだ聞いたことがありません。したがって、「ちがいよ」を飛び越して「ちげえよ」ができてしまった、ということになります。もちろん、将来、「ちげえよ」から逆に類推して「ちがいよ」ができる可能性がないとはいえません。そういう可能性がある点で、この説は、魅力的です。
ただ、「違う」が形容詞化しつつある、というゴールを先に設定してしまうと、つい、その方向で考えたくなってしまいます。ですから、私としては、もう少し、形容詞化とは切り離して「ちげえよ」を考えてみたいと思っています。
「違う」の形容詞化をめぐっては、いろいろ面白いことがありそうですね。キー・ポイントは、「違う」があまり動詞らしくないことと、関西方言と、その活用形です。いずれまた。
20000617
■「ちげえよ」(違)
耳ざとい方なら、若い人が「違うよ」というところを、「ちげえよ」と言っているのを聞いたことがあるでしょう。これ、すごく興味ぶかい。
共通語をはじめ多くの方言では、「ないよ」をなまるなら「ねえよ」になります。二種類の母音の連続[ai]を、一つの母音の長音[e:]に置きかえています。[a]と[i]の代替がなぜ[e]になるのか。これは左の図で説明しましょう。
母音は、舌の中ほどのところを使って発音しわけられます。前寄りの部分を高く盛り上げれば[i]、べたっと低く平たくすれば[a]、後ろよりを高く盛り上げれば[u]です。[i]と[a]の中間が[e]、[a]と[u]の中間が[o]です。(このような言い方は、特に、[u]については不正確です。が、詳しい話はまたいつか)
ですから、[a]と[i]の代替が[e]になるのは中間の発音だから、ということになります。[a]と[i]がひっぱりあったとも、ゆずりあったとも見られますね。
さて、「ちがうよ」。問題のところは、本来の形は[au]なので、なまるとすれば中間の[o:]となるはずです。仮名で書くなら「ちごうよ」! でも、そうではなく「ちげえよ」になっているわけです。これはどうしたことか……
まず、第一に考えられるのは、「ない」(打消)がなまって「ねえ」になるのを参照したという線。「なまるときは[e:]だ」という感覚がはたらくのかもしれませんね。広い意味での混交(コンタミネーション)と言ってもいいでしょう。
たぶん、このように考えるのが一番シンプルで、それだけに真に近いように思います。が、よく考えてみると、「なぜ、《ちごうよ》ではいけないのか」という疑問には答えていませんね。そのあたりは、次回に回しましょう。なんだか、大仰で、妄想と言った方が早いような説明になりますが。
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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ことばにも関心がおあり。