・文献初出は『三省堂国語辞典』(第2版 1973)。「ねだんのわりにはねうちがあるようす。格安。」おりもおり、別件で辰巳浜子さんの『料理歳時記』(中公文庫 1977)を見ていたら、次のような例が出てきました。
・中京・関西などで盛んに使われている。特に商業関係者が使用。
(こういうのもあります。さすが中京銀行。語釈があるのもお茶目)
・東京などでもテレビ・ショッピングなどで使われだした。
・使用例は、ほぼ全国にわたる(あるいは、そういう勢いがある)。 ただし、位相(使われる場)の問題はあるらしい。
食卓についてビールの一杯を飲み干した頃、湯気の立った茹で豆を出してごらんなさい。 空豆や、枝豆のお値打ちが二倍にも三倍にもはねあがるのです。(「空豆 枝豆」93ぺ)巻末の「あとがき」には、「昭和四十八年二月」の年・月の表示があります。 また、やはり「あとがき」に「昭和三十七年〜四十三年の七年間、毎月『婦人公論』に、小付、小ばちもの、お惣菜等を四季折々の思い出につられて書きつづけておりました」とありました。 初出の『婦人公論』を見ないと確かなことはわかりませんが、辰巳さんの「お値打ち」の例は、1962年から1968年のものである可能性があります。
生醤油をかけて食べるのが身上ですが、薬味に細かい心遣いをすることで揚出しのお値打が上がりも下がりもすることをお忘れなく……。(「揚出し 茄子の丸揚げ 柿なます」160ペ)
子どもの友となるに、一番必要なのはいき\/しさである、必要といふよりも、いき\/しさなくして子どもの傍らにあるは罪悪である。 子どもの最も求めてゐる生命を与へず、子どもの生命そのものを鈍らせずにおかないからである。 (倉橋惣三「いき\/しさ」。『育ての心』刀江書院1940 より)何だか、いい感じです、この言葉。 ちょっと大げさにいうと「自分の言葉」で語っている感じがいいのです。
*1 動詞から名詞を作るのに連用形を用いることもあります。「一人歩き」のように。「生き生きする」だと連用形「生き生きし」となり、シが出てきます。 形容詞語幹末のシとサ変動詞連用形語尾のシが、意識の底の底では通じるものがあるように思い、それだけに自然さを増しているとも考えられます(ただし、普通なら、こういう考え方は「考え過ぎ」ですが、感覚というのは論理を超える面もありますので、一応、記しておきます)。
女達はひそまりながら、しかも反ってどことなく生き生きしく立ち上がったやうに見え(川端康成『二十歳』。『日本国語大辞典』所引)そして、芥川も「生き生きしさ」を使っています。
あの人の顔を見ると、あの月の光のやうな、不思議な生々(イキイキ)しさも消えてしまって(『袈裟と盛遠』。同じく『日国大』所引)ただ、「生き生きしい」は、現代では普通にはお目にかかれません。 では、辞書に載っているかというと、『日本国語大辞典』以外では出てこない。 さほど、一般性を獲得した語ではなかったようです。 だから、引用した倉橋の文章は、多くの人にとって「生き生きする」から一足飛びに「生き生きしさ」を見、理解することになるでしょう。
ドップラーやドメルスマン、あるいはテュルー(といった19世紀のフルーティストたち)の書いた作品(は、一時期忘れられていました)が、今日の演奏会場に再び姿を現し、演奏効果の期待できるレパートリーとして定着しつつあります。(井上昭史訳『トレバー・ワイ フルート奏法の基礎』音楽之友社)この引用では、二つの挿入注があります。 こういう括弧付きの注では、括弧の中を読んでも読まなくても、そのまま、文が流れるようになっていなければならない、というのが掟です。なかには、括弧内を純然たる注と見なして、つまり、文の流れを考慮せずに書く人もいます。この場合、括弧内を読んで予備知識を仕入れてから、括弧のはじまりまでもどり、括弧内を飛ばしてふたたび文を読む、ということになります。私もやってしまうので、それをどうこう言う資格はありませんが、専門でないものなら、やはり文の流れにのって読みたいな、と手前勝手に思ったりします。
もの心つくと銅の落としが作られた角(かく)火鉢によりかかって父の仕事を見ていた。この言葉、語源はよくわからないけれど、第一印象としては「ぶんまわす」で、「振り回す」の変化形だと思っていた時期があった。 だから、江戸訛りというか、関東っぽい言い方のように思っていて、ひいては江戸時代までしかさかのぼれないだろうと思っていた。 調べてはみるもので、『源平盛衰記』にすでに出てくるという。 こうなると、「ぶんまわす」説は本格的な語源ではなくなる。 もちろん、ブンマワシという語形を使い続けるための動機・きっかけ(=使用者語源)には、十分なものだとは思うが。
家業は紋章上絵(うわえ)師といい、紋服に紋を描き入れる職人で、父が二代目だった。(略)
細かい部分は墨と上絵筆を使う。丸を描くときには文廻(ぶんまわ)しという竹製のコンパスを用い、直線は溝がつけられた竹の定規、ガラス棒と筆を箸のように持ち、ガラス棒を定規の道に当てて、狂いのない線を引く。 (泡坂妻夫「子供の私が好きだった東京」。日本エッセイスト・クラブ編『ネパールのビール '91年版ベスト・エッセイ集』文春文庫)
私たち(=黒柳徹子と筆者・久世光彦)が抵抗を感じたのは、身内の死を他人に伝えるのに《亡くなった》という、敬語を使っている点だった。 つまり、この場合、《父は、私が二十のときに死にました》というのが正しいのではないかということである。 《あなたのお父さんは、亡くなったときお幾つでしたか?》。 これはいい。相手の父親だからである。 しかし、ある母親が、《私の下の娘は、可哀相に、三つで亡くなりました》と言ったら、これはおかしい。 (久世光彦「お電話」。『ニホンゴ キトク』講談社文庫)ちょっと安心。でも、敬語と言ってしまっていいかどうかはまた別。 おそらく、引用文中の「敬語」は「尊敬語」の意味で使っているのだろうが、「亡くなる」にそうした注をつける国語辞典が、どれほどあるか……
「父の詫び状」の中に《私の父は、六十四歳で心不全で死んだ》(「隣の神様」)というのがあった。安心した。《死んだお父さんに怒られる》(「お辞儀」)というのもあった。 しかし、全集のページをめくっているうちに、《祖母が亡くなったのは、戦争が激しくなるすぐ前のことだから、三十五年前だろうか》という文章が目に入った。(略)父親の場合は《死んだ》で、祖父母になると《亡くなる》なのである。(同)久世は、他に幸田文にも同じ使い分けがあるのを見いだしている。 こういう使い分けをどれほどの人がしているのか、一般性はあるのか、あるいはあったのか…… 事実として検討に値する問題である。私も面白く思う。
いつの頃からか秋月という地名だけが耳朶に心地好く響きつづけていたのである。 おそらく子供の頃の教科書に載っていた、それも一行だけ載っていた秋月の乱の、内容は知らないが「秋月」というその音と字姿がきっと気にいっていたに違いないのだ。(馬渕公介『小さな江戸を歩く 西国路編』小学館文庫)秋月についての感慨は、ほとんど馬渕のものと一緒である。 いわば、あこがれの土地だが、そうさせたのは、やはり「音と字姿」だった。
昭和二九年、福岡県甘木市は二つの町と八つの村が合併して成立した。あれ、そうでしたか? でも、甘木のバス・センターには行き先に「秋月」とあったはずだし、停留所にも「下秋月」があったし、秋月郵便局もあったように思いましたが…… あ、単純に、市町村レベルの「町名」の消滅を言っているのですね。 失礼しました。
この市制施行により「秋月」という町名は地図から消えたのである。 (馬渕公介『小さな江戸を歩く 西国路編』小学館文庫)
民宿「潭空(だんご)庵」のおっかさんは、宅配便の住所に、「甘木市秋月町野鳥」と記していたものであった。公式には「甘木市大字野鳥」なのだが。こういう状況、どういえばいいのでしょうか。 町名は捨ててませんが、「名を捨てて実(じつ)を取る」って感じですね。 ちょっとこんがらがりそうですが。 なんともいいです。使っちゃえばいいんだ。
また、秋酔倶楽部の内田恵三氏もその名刺を見ると、やはり「秋月町」と記してある。 秋月の人は秋月の名を、今も手放してはいないのだ。(同)
「甘木市の市長でさえ、いまにして思えば甘木市より”秋月市”のほうが良かったもしれないって、いったことがあるんですよ」こうなると、面白いなんてもんじゃない。痛快です。 実力行使の勝利といったところでしょうか。
と嬉しそうにいう住人には何人も会った。(同)