19970620
■「調べればいいんですか」
「じゃ、この終助詞を調べればいいんですか?」
「ん?」
「ですから、ネ・ヨ・サを調べればいいんですか?」
「‥‥‥これ、女性(にょしょう)。そこに直りおれ。
『〜れば』とはなんじゃ。レバとは。
拙者は、おぬしに頼んでおるわけではない。おぬしのための学びごとではないか。
あまつさえ、レバイイとは何たる言い様。如何にも蛸にも、言質をとらんとするカタチにあらずや。
何とも拙者が免許皆伝を強いられておるように響くわ。
まったく、片腹痛いわい。
そのうえ、『調べる』だけで何がでると言うのじゃ。
結論にいたる道のり、すなわち考えることが大切だとあれほど申したではないか。
我らが学び屋における国つ文の学びごとは、高き才(サエ)のみならず、
まなかいの問いにむかいて、いかに調べ、いかに解くかの修行と心得よと際前も申したはず。
よいか。『調べる』のが目当てなのではない。より正しく『考える』ための
『調べる』なのじゃ。調べては考え、また考えてはよりよく調べる、
その行ったり来たりが大事な修行なのじゃ。
女性よ、合点か\/」
「はい、よく分かりました。度々のお導き、胸にしみ入りました‥‥‥
あ、先生! 頭から煙が‥‥‥」
「合点か\/\/ ゴホ\/ 合点か\/\/」
「先生! コホ、しっかりしてください。もうわかりましたから!
コホコホッ。なんて煙たいの‥‥‥ あっ、だんだんお姿が見えなく、
コホ、なっていきます‥‥‥」
郷飛斎、かき消つように消え入りぬ。彼よりいでたる白煙は、
たちまち飛雲となりて、いずことも知れず、飛びさりき。
案ずるに、郷飛斎の飛雲と化すは、名詮自性の理にかなえるか。
とまれかくまれ、前世の因縁、思いやるべし。
あとに残りし女性(にょしょう)は演習せずに済みぬとか、ある人の語られし。
19970622
■コレクター、あるいは私の日曜
日曜はブランチを食べながら『開運 なんでも鑑定団』を見ることが多い。
岐阜あるいは中京圏かも知れないが、この曜日、この時間帯にやってる。
「幻の逸品」のコーナーはいつも感心する。こんなコレクターもいるのだと。
今日は初版本コレクター登場。帯(腰巻きとも。岡島さんのページで触れてました。
興味のある方はそちらもどうぞ)の有無で値段が数倍違うのだと。う〜ん、
中身は同じなんだろうけどね。だからといってどうのこうの言うつもりはない。
人(少なくとも私)には迷惑が及んでないので言う資格もないとさえ思っている。
というより、人を云々するまえに自分の方が云々されかねないからでもある。
江戸時代の節用集を集めているなんていえば、どう見られるかわからない。
東北大の図書館で初めて現物の節用集に触れた。狩野文庫は17世紀のものが多く、
普通のところの「丁A/2−2/xxx」にあるのは18・19世紀のものが多かった。
ちょっと圧倒されるほどの量はある。一説によると、公共の図書館では、
国会図書館亀田文庫に次ぐという。まぁ、冊数を調べるだけの資料はあるが、
やったことはない。こういうところで突っ込まないのが私らしい。大雑把なO型なのだ。
それはそれとして、初めての接触が量的に豊富の部類だったというのは幸運だろう。
ただ、節用集を研究するとなると、これでも足りない。
語史の資料としてならまずまずのバリエーションが揃っているかもしれないが。
亀田文庫を合わせてももう少し、国研でもまだまだ…… 結局、現存するものをすべてみるしかない。
博士後期課程の一年のとき、仙台の古本屋(図南荘書店)で、奥付のないものながら、
そこそこ綺麗な本を1500円で買ったのが運のつき。自分で買えるではないか。
ならば、と集めはじめて今日に至っている。何だか、初めてやった競馬で大穴を当て、
やみつきになって身を滅ぼすというパタンに似ている。
幼いころ、父親は、飽きっぽい私を評して「半端野郎」と言っていた。
そういえばその通りのところもある。反省も込めて、徹底しようとも思った。
鬼だ、俺は鬼になるのだ!
鬼になったり、飛雲になったり、この集はすごい始まり方。 初めてこのページを読んだ方、安心してください。佐藤は普通の人です。
ある時、伯父に聞いたら「『半端野郎』は、俺があいつ(私の父)に奉った名だ」と言う。 おいおい。
と、『NHK囲碁の時間』の 梅澤由香里さんの笑顔をみながら、 しょうもないことを書いたりしているのが、私の日曜の送り方だったりする。
19970624
■下駄かくしの部屋
妖怪譚ではない。
こういう名の
サイト(石川博也さん)がある。「靴隠し」の遊び歌を集めているところだ。
内容は「方言周圏論から見るわらべ歌」「遊び方のパターン」
「古文(江戸時代まで)に見られる下駄かくし 」「日本中の下駄かくし」。
わらべ歌を言語地理学的に扱うのはすでに先例はあるが、数は少ない。
その意味では大いに期待したいところである。
www上で調査をするという発想は、おもしろい。通信調査の新たな手法になるかもしれない。
まぁ、そう大げさに考えなくても、郵便や電話(杉藤美代子氏の調査に各地の天気予報案内を
研究資料にしたのがあった)の代わりということなのだろうが。でも、回収率は悪そうだ。
10年くらいほうっておくと、いいのかもしれない。
それが待てないとなったら、gooあたりで「@」を検索して、出てきたアドレスに無差別に
調査票を送りつける、という荒技もあるか。たいてい「どんなことでもお便りください」
とあるから、そう迷惑とも思われないかもしれない。ただ、ウィルス添付メールと思われて、
即削除されるかもしれないけれど。
19970626
■アナウンサーの行方
別に書くほどのことでもないけれど、昨日のNHK『視点・論点』(でよかったかな)で、
久しぶりに迫田朋子アナを見かけた。
いまでは『暮らしのジャーナル』(だったかな)となった朝8時30分からの番組『おはようジャーナル』
(だと思う)でキャスターをしていた人といえば思い当たる方もいらっしゃるだろうか。
論説委員としてははじめての出演だったのだろうか、
こころなしか、生硬な調子だった。内容は臓器移植法案まわりのことである。
ああ、やっぱりこの人は迫田アナなのだなぁと安心したような気分になった。
ある日の『おはようジャーナル』で、子宮筋腫の手術にともなうトラブルについて話題にしていたことがあった。
ゲストの医師は以前にも出てきていた紳士的な人である。
ところが、私が聞いていても、トラブルが起きても仕方がないという風な発言をしていた。
私は、でもそれはやはり医師の責任です、といってくれることを期待しながら聞いていた。
すると、迫田さんは、彼を指弾しはじめてしまったのだ‥‥‥
男性のキャスターがうまくとりもち、医師の方も言葉が足りなかったことを認め、訂正していたように思うが。
翌日から私が8時代に起きなくなったのか、彼女が飛ばされたのか定かでないけれど、
その一件以降、テレビで彼女の姿を見かけなくなった。
いかに何でも、翌日から降板(番?)ということはないだろうから、そのときの印象が強すぎたので、
ほかの記憶が薄れてしまったのかもしれない。
しかし、彼女がああいう反応をしたのは無理もない、番組から降ろすようなことはしないでほしい、
くらいの投書をするつもりはあった。が、いつのまにか忘れてしまった。薄情なものである。
あの行き違いはどんな言葉がきっかけに、あるいは決定打になっていたのだったっけ。
何だかはっきりさせたい気もする。
久しぶりに『小公子』のテキストをアップしました。もう、ゴールは間近なので、 せいぜい励もうと思います。
19970628
■視点への配慮?
昨日は暑かった。岐阜では34.5度だったそうだ。後から知ったので耐えられた。
予報(この言葉もちょっと変)の段階で、つまり朝のニュースあたりで知っていたら、
授業をキャンセルしたかもしれない‥‥‥?
今日は台風である。少しは気温も下がるだろう。
で、NHKのニュースを見ていると、欠航便の案内に。画面には
熊本 → 名古屋 1便
名古屋 → 熊本 1便
・
・
・
などがずらずらと出ている。山田敦子アナはよどむことなく「熊本発名古屋行き1便、
名古屋から熊本に向かう1便」と次々に読んでいった。
なぜ、「〇〇発□□行き」と「□□から〇〇に向かう」を使い分けるのだろうか。
どっちもどちらかの言い方でよさそうに思うのだか。
「〜に向かう」と動詞で示された場所は、相対的に台風の位置(この当時九州北部あたり)に近い。
その辺が要点なのだろうが、NHKの内部規約か何かで決まってるのだろうか。
より危険な方向に向かっていることを強調するために動詞にしたということらしいが、
それがなぜ動詞で表されなければいけないのか、あるいは動詞で表すと都合がいいのか。
ちょっとわからない。
詞的(素材的。静的?)な名詞文型よりは辞的(陳述的。大雑把に言えば「感情移入可能性のある」。
動的?)な動詞文型の方が訴える力が強い、したがって注意を喚起しやすいということだろうか。
月曜だったか、友人(♂ (;;))から長距離電話。「おまえは、テニスの
平木理化
なんかがタイプだろう。
そこで週刊誌から得た情報を伝授しよう」という。情報はともかく、タイプまで見破らないように。
私個人の認識は、それを成立せしめた生育環境・生活環境その他からいって私独自のもので、
著作権法により保護されています。私に許可なく推量すると同法により罰せられることがあります‥‥‥
冗談です。
それにしてもウィンブルドンの女子シングル1回戦敗退の弁は見ていて痛々しかった。
プロなら当然かもしれませんが、見かけによらずスィングは鋭いんですね。
19970629
■「亡くなる」
この集はなんだか不吉というか百鬼夜行というか、どうも変。
それじゃ、ついでにと「亡くなる」をだしてみた。
このことば、私にとっては少々扱いづらい。なぜかというと、尊敬語的な使いかたでないとしっくりこないから。
「母が亡くなり、父もあとを追うように亡くなった」という表現をみるとかなり違和感をおぼえるし、
自分にはこういう使い方はできないと思う。
けれど、よく見かけるので普通の言い方なのだろう。
そうなると、自分の基準の方が狂ってる可能性がある。
他人様(ひとさま)の使い方を云々しようとは思わない。
もし仮に肉親が死んだらどう言えばいいか。
「祖母が亡くなった」よりは「祖母が死んだ」の方がよっぽどしっくりする。
でも印象が強すぎるような気もする。んんん、ちょっと困る。
新明解などでは「死ぬ」の婉曲表現としているが、そのとおりだろう。
古典にも用例があり、それがどういう使い方になっているかは置くとしても、現代ではそれでいい。
とすると、肉親の死を言うのに婉曲表現を使うのは御大層だ、というのが私の感覚らしい。
敬語の発生自体、婉曲表現と似たようなところがある。いや、そのものと言ってもいいだろう。
それにしても私だけなのだろうか。「亡くなる」にこういう感覚を持つのは。
昔の例から調べてみるか。
の本文、すべてアップしました。あとはルビ付き本文ですが、どうなることやら。
19970630
■「日泰寺」
NHK名古屋のニュースで、愛知県の日泰寺でアメリカデイゴの花が満開だと報じていた。
この寺、日本とタイ国との友好の象徴として作られたそうな。
そのため、「日タイ寺」というらしい。大胆な命名だ。
「泰」字を当てたのは、めでたい文字で、ということなのだろう。
あるいは、タイ国を漢字で表記するのに「泰国」などとするのが普通だったということか。
アメリカが米国となるように。
タイの仏教は小乗教だったように思う。日本は大乗教が多い。すると日泰寺はどうなのだろうか。
なんと、「仏教各派が輪番で管理を行う超宗派の寺院」とのこと。
こちらに紹介がありました。
別件で『広辞苑』を手に取った。タイは「泰」字で表記することが注記してある。やっぱり調べないとね。
岡島昭浩さんの
「目についたことば」
高本條治さんの
「耳より情報」
トップページへ