19970708
■「みそか」−−−誤用ぎりぎり5
………今回は、ちょっと調子が悪いです。お読み飛ばしください。
数年前まで晦日になると京都まで出かけ、元旦と二日とをすごすのが楽しみだった。
(遠藤周作「晦日の話」〜『’90年版 ベスト・エッセイ集』文春文庫)
病気で三年ちかく入院をしていた頃の晦日もある。二年目、二度の手術に失敗し、容態はあまり良くなかったので正月の帰宅も許されなかった。(同)
「誤用」といってしまった方が話は早い。が、それで終わってしまっては、ことばとがめ。
建設的なことは何もない。
晦日は「み(三)そ(十)か(日)」。旧暦なら月末。
新暦になってもこれが踏襲されて、月末をミソカという。だから、毎年12回、ミソカがある。
で、その年の最後のミソカがオーミソカ。
ただ、ミソカという言い方はだんだんすたれてきた。
単に古くからある言葉だから、というだけではないだろう。
月の決算が、月末からシフトして25日締めとか、ところによっては月2回という場合もある。
これでは、ミソカの原義からずれるし、ニュアンスとして持っていたであろう「清算の期限」にともなうあわただしさや緊張感も縁の薄いものとなる。
実感がそがれてしまえば、ことばの生命力もそれだけ薄れるだろう。
ミソカが忘れられたら、オーミソカの立場はどうなるか。
「大」は、「小さい」あるいは「大きくない」何かがあってはじめて生きてくる。
ところが、それがない。無用になった「大」は捨てられてもしかたがないことになった。
ただ、こんなことを遠藤はいちいち考えてはいまい。
もし、意識にのぼったとしても「いまさら、オオミソカというのも馬鹿丁寧だ。ミソカでよかろう」というところだろう。
これは、遠藤の無神経をとがめているのではない。
人間がことばに対してもっている意識一般のはなしとして、想像したまでのことである。
わたしも、普段使っていることばについては、そのくらいの意識しかない。
そうでもなければ、一言たりとも日本語を話せなくなるだろう。
では、ここまで書いてきたことは何だったのか。国語学ってのはその程度のものなのか。
「はい、そうです。こんなもんなんです」とは私には言い切れない。少なくともこの段階では。
遠藤に、おそらくは無意識のうちに「ミソカ=大晦日」を使わせた大きな状況・環境を明らかにする、という段階まで踏み込まなくては「こんなものです」とは言えない。
何だか妙にかたいなぁ。肩凝った人はこちらでほぐしてください。 寄席に行ったつもりでどうぞ。高座にあがったつもりになって音読するともっといいかも。
19970709
■読み上げソフト
おととい、校正が厄介だと書いた。電話で指摘されたらすぐに気づいたとも書いた。
となれば、誰かに読み上げてもらえばいい。
う〜ん、我ながら、あきれるほど単純明快ではずかしいくらいだ。
さいわい、使っているOCRには読み上げ機能もついている。善は急げ。「気なることば」18集を読ませてみた。
二・三か所、脱字があったのがすぐ知れた。やってみるものだ。
この間、じっとパソコンの前にいたわけではない。寝ころがりながら、雑誌なんぞをながめていた。さすがに小説などを読みこんでいたら聞き逃すだろうが、この程度の「ながら」なら大丈夫のようだ。やっぱり、「間違い」は異様だから、すぐに気がつくのかもしれない。
ま、校正のたびごとにOCRして読み上げさせるのは手間だが、原稿の最終確認にはいいかもしれない。
一日中、エンドレスで読ませておいて、そのあいだ、別の軽作業をしていればいい。
読み上げ専用ソフトを買おうかとも思うが、11KHzのサンプリングだろうから、
音質は知れている。現状で我慢がまん。
耳寄りな話を。アスキー・ドスブイ・イシュー6月号付録CDに、「東芝音声システム」の体験版が載っている。
これが、使用期限がどこを見ても書いてない。
どうやら制限事項は、メインのエクセルとかワードの文章が読めないことだけらしい。
クリップボード読み上げはできるし(おしゃべりテキスト)、スタートアップで自動読み上げも可(おしゃべりテキストミニ)。
Windows95やアプリケーションがだす「ファイルをごみ箱に移してもよろしいですか」などのメッセージボックスも読み上げるかと思えば(おしゃべりメッセージ)、コマンドをしゃべると実行してくれたりもする(お気楽コマンド。IBMだけじゃなかった!)。
「おしゃべりキーボード」「おしゃべり時計」「おしゃべり電卓」もある。
ついでに「おはようとか」「ダンス」とかいうとお辞儀したり、はねまわったりする「お気楽ミミ」なんていうキャラクターまでついてくる。
体験版とは思えない。これじゃ、製品版が売れないんじゃないかと心配するほどのサービスぶりだ。
7日夜か8日午前中に、トップページのアクセスが1000件を超えました。みなさま、御訪問、ありがとうございます。
1000人めの方にプレゼントでも出そうかな。ただし、お名前の発表をもって、発送に代えさせていただきます。
19970710
■『国語漢文/ことばの林』
こんな題名の辞書を買った。ただし、扉と本文の最初には「国語漢文/言林」とある。
大町桂月監修(出たぁ〜)、文明堂編輯部編纂。大正11年2月5日発行、昭和2年7月10日第15版。定価2円50銭。保存状態は良。文庫本と同じ大きさ。ページ構成はちょっと複雑なのだが、ひっくるめて2100ページほどか。
インディアペーパーのため、厚さは5センチくらい。
以前、『ことばの泉』を買った古本屋で入手。
B5版1500頁超、厚手用紙使用で、厚さ8.5センチの巨巻『ことばの泉』が3000円で、今回の『ことばの林』は2000円。あらためて、古書の値段なんてあってないものだと思う。
ま、前回安かった分、追加徴収されたと思うほかない。
面白いのは検索法である。
五、本書語詞の排列は、五十音順に據りたること、前述の如くなれども、特に索出し易からんむが為めに、二語、三語、四語、五語、六語と其の語數を定めて、五十音順に排置せり。 盖し我が國在來のいろは節用字典の排列を、聊か參酌したるものにて、斯くなさば一層索出し易からむと、予が經驗なしたる結果を應用したる也。 其の委しきことは下に示せる本書の引き方の項に就きて承知ありたし。(凡例)
「二語、三語〜」は「仮名二字、三字〜」ということ。
いかに当時とはいえ、「字」と「語」を混同したものかどうか。
あとから出てくる「言」で統一してくれた方が、当時としても分かりやすかったのではないか。
それにしても、「予が經驗なしたる結果を應用したる也」の一言はおもしろい。
江戸時代以来の、早引節用集風の仮名数順が染みついてしまってる明証だ。
本書の排列は、前述の如くなれども、敢て一語の終りまでを悉く五十音順に依りて、排列せしにあらず、上の三語を五十音順に依りて配列し、(白点)而して其の三語を基礎として四言、五言六言 と語數の順に從ひて五十音に排列せり、是れ盖し多數の語中より、所要の語を早く檢出し得られむを主としたるに外ならず、(本書引き出し方に就きて)
ともあれ、この辞書の検索法は仮名三字語までは現行の五十音順とおなじだが、
四字以上の語は字数ごとにまとめて、別途五十音順にしたという。
だから、次のようになっても全然かまわない。
いひいる(言入)他[動]申し込む、
いひいだす(言出)他[動]話(ハナシ)をしだす(二)云ひ初める、
いひおく(言置)他[動]云ひのこす(二)話をして置く、
では、仮名四字語・五字語同士なら完全に五十音順かというと、そうでもない。 次のような例がいくつもある。
いひあはせ(言合)[名]云ひあはすコト(二)口(クチ)やくそくのコト、
いひあはす(言合)他[動]互ひに申し合はせる(二)口やくそくする、
いひあてる(言當)他[動]想像(ソウザウ)して云ひし事が本當(ホンタウ)になる、
仮名四字め以降はイロハ順、ということならドンピシャリ。
あるいはイロハ順の辞書から失敬してきたのかもしれない。山田忠雄述『近代国語辞書の歩み』にでも書いてあるかしら(誰かこの本の書名索引を作ってくれませんか)。
それにしても、山田氏じゃなくても嘆きたくなる。
それほどの杜撰さだが、辞書の歴史をみるうえでは、その杜撰さが価値になるだろう。
2000円は高くついたのか、安かったのか。
19970711
■姓名にもとづくあだ名の地域差
2年前に母の実家に行ったときのこと、隣町で唯一の温泉場に行ってみた。
適当に汗を流して、ジュースなどを飲んでいると、急に会話が成立した。
「ムでねかぁ!」
「ナでねかぁ!」
従業員の呼びかけに母が答えたのである。
母の名が「むつえ」で、従業員の幼なじみが「なみえ」(だったかな)さんだったので、
こういうよびかけあいになったのだ。
津軽弁が短かい表現をこのむことは「どさ(どちらへ)」「ゆさ(銭湯へ)」で有名になってしまった。
それが名前でもみられるのだ。単に短くなるといってもいろいろで、
特に音声上のものが有名である。が、ここでは、ムツエ・ナミエがム・ナになるのが、
音声上の変化ではなく、語彙レベルのものだといっておくだけにしよう。
津軽弁話者のすべての言語使用をみたわけではないので断言できないのだが、
おそらくは、名前の最初の一拍をとって呼ぶということが行われているのだろう。
さて、私の住んでいた埼玉では、「っぺ」をつけてあだ名にすることが多かったように思う。
「っちょ」もあったかな。私の場合だと「さとっぺ・さとっちょ」になる。
岐阜の場合はよくわからない。
着任したころの学生たちは、先生方を「たかまっち」(高松)「ゆげっち」(弓削)
と呼ぶことがあったから、「っち」なのかもしれない。
当然、タマゴッチよりは早いので、その影響は考えなくてよい。
地方ごとの、こんな特色、あるように思うんですがいかがですか。
19970712
■「御首神社」
今日も雨。晴れるととんでもなく気温があがってしまうので、雨は助かる。
もちろん、程度問題だが。
車に乗りながら、ちょっとロードノイズが耳につく。そろそろ1ランク上の車に代えようか。
CDプレーヤも壊れたし、タイヤの山も残り少ないし、12月には2度目の車検だし。
雪がちょっとは降るからFFかな。となるとセフィーロかカムリ・グラシアか。
グラシアは内装が寂しかったなぁ‥‥
ととりとめもなく考えていると、前の軽自動車に「御首神社」のステッカーが貼ってあるのに気づいた。
そういえば、ゼミ生で、そこの神子(みこ)のバイトをしていたのがいた。
大垣市にある神社である。何でも平将門の首が飛んできたとか、射落としたとかが、縁起の神社である。詳しくはこちら。
初めてこの名をみたときはドキッとした。それにしても、なんと直接的な名であろうか。
そのあたりから、私なんぞはかんぐってしまう。
つまり、直接的な名がついた背景には、それなりの事情があろうということである。
たとえば、名をめぐって、あるいは名のもとになるであろう縁起をめぐって、諸説あったという可能性。
あるいは、近くに似たような旧名・縁起の神社があって、紛らわしくなっていたという場合。
そのほかにも事情は考えられるかもしれないが、ともかく、混乱するような状況があって、
それをはっきりさせるためにそのものズバリの名が与えられた、という方向で「かんぐり」が働きだす。これは、類例にこと欠かないためで、たとえばこちらをご覧ください。
それでも十分条件と必要条件のとりちがいはある。いいじゃないですか、楽しみでやってるんですから。いろんな可能性を検討するのが癖になってるんです。職業病かもしれません。
まぁ、京都には御霊神社もあるからそっちもズバリじゃないか。
しかし、「御霊」は、平安時代人には十分具体的な存在かもしれないが、
現代人にとっては抽象的な存在である。それは神秘に連なり、宗教施設にふさわしいと感じる。
それにひきかえ、やはり「首」は現代人にも鮮烈な印象を与える。
だって、みんな「首」をもってるし。
歴史に興味のある人はすぐに「首級」などに思いいたるだろう。
そうでもなければ「ドキッ」とはしない。
神社ってのは、その宗教・教団に興味はないが、民俗的には面白そうですね。
故郷の隣市・浦和市には調神社というのがあった。これで「つきのみやじんじゃ」と読む
(ものだと教えられてきた。違うかもしれない)。で、この神社の狛犬が、ウサギだったりする。
そういえば、京都の西山には狛犬が鹿になっているところもあった。
19970713
■「演奏」
この言葉も以前から気になっていた。楽器を使って楽曲を「演奏」するのはわかるのだが、
合唱など、人間の声によるものでも「演奏」を使うことがある。
たとえば、ポスターなどで「〇〇合唱団第△回定期演奏会」というのはよく目にするところ。
合唱関係はほとんど知らないのだが、その会のなかの楽曲紹介のアナウンスやプログラム中の説明で「次に演奏する曲は湯山昭作曲〜」「この曲も世界中で演奏されています」などといった使い方もするのだろうか。
そういう使い方を私がしないので、関係者に、ニュアンスとか語感とか意識とかを聞いてみたい言葉だ。
合唱などで「演奏」が使われる理由も推測できないことはない。
私にとっては、「演奏」がふさわしいのは、人間の外の存在である道具、すなわち楽器を使う場合である。
その道具に十分練達しないでは、こころよい、あるいは一定の水準の演奏はできない。
そこで、「演奏」のもつ練達性に焦点をあてれば、人間の内部の存在である声を使う場合でも「演奏」が使える理由がわかる気がする。
合唱では、普段の会話とはことなった発声をとる。
だから、単に「声を出す」のではなく、「声をあやつる」というに近い状態になる。
そうなると、あたかも、楽器をあやつるような練達が必要になるのだろう。
そこで「演奏」が出てくるということになるのではないか。
あるいは、特殊な発声法ゆえに「合唱の声」を外側の存在とし、道具並み・楽器並みにみたてるということでもいい。
とすると、発声法が通常の会話から離れれば離れるほど、「演奏」もふさわしいように思う。
次の例も、私が使わないことにかわりはないが、聞いたり読んだりしての違和感がいくぶんは少ない。
さて、その夜の主賓岡本文弥師は、新内という邦楽の第一人者、当年九十八歳である。
縁があって、この数年、毎年私は文弥師を団長とする一行に参加して、中国の芸能鑑賞旅行をしているが、この老人の演奏が声といい節まわしといい、円熟のきわみにあってなお、艶を失わないのを知っている(下略)
戸板康二「一流の人」〜『中くらいの妻 ’93年版ベスト・エッセイ集』文春文庫
高度に倍音を駆使するホーミーならだいぶ違和感が薄れるような気がする。
口笛ならもう言葉ではないので違和感はない。
また、合唱のばあい、「演奏」以外にふさわしいことばが見つけにくいのかもしれない。
「定期演奏会」なら「定期発表会」「定期公演」でも言い換えられなくはない。
でも学会とか御稽古ごととか劇団の方がふさわしい気もする。
もっとも、うち(岐阜大)の合唱部では、3ステージうちの第2ステージを、まさに「演じる」ように演出することがあるけれど。
また、場内アナウンスやプログラムなどで、楽曲を紹介するときもけっこう困る。
「次に歌いますのは」「世界中で歌われている」では、芸術作品としての楽曲にはふさわしくない。で、別の表現があるかというとにわかには思い浮かばない。
あらためて「次に合唱しますのは」「世界中で合唱されている」というのも言いにくいし。
ということでなんとか理解してますが、いかがなものでしょうか。
19970714
■「つるさ[がげ]る」
焼き終えたポンセンは驚くべき量となり、バケツに入り切らぬ分は塔のように積み上げ持参の大風呂敷に包む。両手一杯につる下げて帰るが、往きに比べ手間賃の米の重さだけ軽い。
藤原正彦『父の威厳 数学者の意地』新潮文庫132ぺ
数年前、大学へ登校する途中、近所の出版社の屋上から、少年少女世界文学全集の垂幕広告が、 吊(つ)るさがっているのを見た。
同179ぺ
この言い方、いわゆる訛りなのだろう。
でも私には、なぜか親しめるような、なつかしいような響きがする。
きっと幼いころ、父や父の仕事仲間あたりが使っていたのを聞き覚えているのかもしれない。
埼玉県川口市。名にし負うキューポラのある街。30年も前なら職人気質が横溢していた。
それに似つかわしい響きが「つるさがる/つるさげる」にあるように思う。
それだけに、江戸気質みたいなものにつながる気がしないでもない。
だから長谷川時雨の『旧聞日本橋』に見えるのも、すっと腑に落ちる。
泣いていた娘と、青ぶくれな、お玉じゃくしのような顔の母親とは、キョトンとして、天井から釣るさがっている、かき餅のはいった餅網をながめたが、娘は一層狂暴に泣出した。
だからといって、藤原の例が、こうした場に由来するとか言っているのではない。
藤原の場合は、生育地の方言(長野県諏訪地方)かもしれない。
ところで、「つるさ[がげ]る」は「つりさ[がげ]る」が単になまっただけなのだろうか。
その方向なら、「り」の前の「つ」の母音uに同化されたということになる。
また、「つるす」との混淆も考えておいてよい。
毎度ながら、「変化は簡単には起こらない」と思っているから。
それにしても、よくぞ藤原正彦の随筆に現れたくれたものだ。
校正でひっかからなかったのだろうか。
検索すると『ビルマの竪琴』とか『路傍の石』あたりにもあるらしい。
その辺を根拠にしてそのままOKを出したのだろうか。
岡島昭浩さんの
「目についたことば」
高本條治さんの
「耳より情報」
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