[トム・ジョーンズ] [ノーサンガー・アビー] [ダーバヴィル家のテス] [荒涼館]
放送大学岐阜学習センター 平成26年度第2学期 面接授業 内田勝(岐阜大学地域科学部)
テレビドラマで読むイギリス小説 第1部 (2014年011月1日 9:45-11:10)
フィールディング原作『トム・ジョーンズ』[前半]([後半]はこちら)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]トム・ジョーンズは、いったん結んだ約束は、その内容いかんにかかわらず、絶対に守るという契約最優先の思想において、中世的であるというよりも、近代資本主義的なのだ。トムは「血の秩序」ではなく「契約の秩序」に従うという点で、十八世紀イギリスのブルジョアジーの理念を体現しているのである。(鹿島『悪党が行く』p.223)
[2]フィールディング Henry Fielding(1707‐54) イギリスの劇作家、小説家、治安判事。貴族の血をひく紳士階層の家に生まれ、イートン校を卒業。1728年、処女作上演後、オランダのライデン大学に学び、翌年ロンドンに帰って劇作家として活躍する。20以上の作品が上演されたが、笑劇が多く、その中には《作家の笑劇》《トム・サム》(ともに1730)、《落首》(1736)、《1736年歴史記録》(1737)などがあり、これらは当時のウォルポール内閣に反対する政治風刺を含んでいた。そのため37年劇場検閲令が制定されるや劇界を退き、法学院に2年半学んで司法官の資格を得る。
彼にとってさらに大きな転機となったのは S. リチャードソンの小説《パミラ》(1740)の出版である。この小説を偽善的として強い反発を感じた彼は、まずそのパロディとして《シャミラ》(1741)を発表、翌年小説《ジョゼフ・アンドルーズ》を出版して好評を博した。この小説で彼は〈喜劇的ロマンス〉または〈喜劇的散文叙事詩〉を主張した。続いてこれまでの書き物に《ジョナサン・ワイルド大王》などを加えて《雑録》3巻(1743)として出版。また45年のジャコバイトの反乱に際しては政府側の新聞を発行した。フィールディングの小説は古典主義的な伝統に立って明るい笑いを特質としているが、それは代表作《トム・ジョーンズ》(1749)に最も顕著に示されている。しかし1748年よりロンドンのウェストミンスター地区の治安判事に任ぜられ、単に明るいとはいえないさまざまな現実苦に満ちた世界を見ることとなった。こうした現実に対して社会改革の提案もしているが、小説としては苦難の中の夫婦の試練を描いたのが《アミーリア》(1751)である。文筆活動と治安判事としての激務などのため健康を害し、54年リスボンへの転地療養を試みる。しかし遺稿《リスボン航海日記》を残してリスボンで客死。(榎本「フィールディング])
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[3]【『トム・ジョーンズ』のあらすじ。】
物語は田舎紳士オールワージーに養育された捨て児(ご)のトムがその紳士の妹の子であるブリフィルと共に育つのだが、この2人は性質が正反対で、トムが腕白だが善良で純真な気だてであるのに対し、ブリフィルは卑屈な偽善者である。2人は成長しトムは近隣の地主の娘ソファイア・ウェスタンと恋仲になる。ところがブリフィルがソファイアと結婚することに決められ、トムはブリフィルと2人の家庭教師の中傷によってパラダイス館の邸宅から追放される。トムは途中で従者パートリッジを得るが、少し遅れてソファイアは女中と共に家出する。2組がアプトンの宿ですれ違うが、その際トムはウォーター夫人と称する女性に誘惑され、その事実をソファイアに知られてしまう。その後2組の旅行者は前後してロンドンに着く。トムは再びロンドンでソファイアが身を寄せている夫人に誘惑されるが、一方では彼は下宿の家族を破滅より救う。最後にトムとソファイアとの間の誤解がとけて和解する。またブリフィルの奸計(かんけい)による中傷が暴露されて、トムは実はオールワージーの妹の子であることがわかりめでたくソファイアと結ばれる。トムは善良であるが思慮に欠けていたと考えられるが、思慮に富むソファイアと結ばれるのである。(榎本「フィールディング、ヘンリー」)
【『トム・ジョーンズ』は、放浪する悪漢(ピカロ)が道中で出会う人々を風刺する「ピカレスク小説」というジャンルの代表作の一つである。ただし普通のピカレスク小説にひとひねり効かせた風変わりな設定になっている。】
[4]【「ピカレスク小説」についての百科事典の記事。】
ピカロ picaro(あまり暴力的ではなく、ときにはユーモアも備えた、ずる賢い、ぺてん師的な小悪党)を主人公にした小説で、一般に悪漢小説とか悪者(わるもの)小説と訳されている。[…]多くのピカレスク小説に共通してみられる点としては、虚構の自伝形式をとり、下層階級出身の主人公が次々と事件に出会い、異なる階級の人たちに接するという形式があげられる。[…]。一般にピカレスク小説の最初の作品と考えられているのは、16世紀なかばにスペインで出版された作者不詳の『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』(1554)であり、この作品には前記の特徴がすべて備わっている。(桑名「ピカレスク小説」)
[5]悪党小説[ロマン・ピカレスク]【英語ではピカレスク・ノヴェル】を扱うのだったら、これを外すわけにはいかないのがヘンリー・フィールディングの『トム・ジョーンズ』である。『トム・ジョーンズ』こそは、近代的ピカレスクの元祖である。
だが、この『トム・ジョーンズ』、いわゆる悪党小説とはいささか趣が異なっている。もちろん、主人公が狡賢[ずるがしこ]い大人たちの世界を遍歴するうち、世間知を増して悪党[ピカロ]として成長してゆくという構造に変わりはないのだが、主人公の性格付けが、他の悪党小説とはおおいに違っているのだ。
一般に、『ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯』を始めとする悪党小説は、[…]「善」対「悪」の物語ではなく、「悪」対「悪」の物語である。[…]ヒーローたちは、例外なく、したたかで、たくましく、悪知恵に長[た]けた、生き抜くのに敏な悪党である。
ところが、『トム・ジョーンズ』の主人公トム・ジョーンズ君ときたら、一点の曇りなき善人であり、竹を割ったような性格の快男児。女の魅力には弱いが、不正や偽善は大嫌いで、弱きを助け、強きをくじく、ひとことで言えば、大甘の通俗小説の主人公そのものである。
だから、このような性格の主人公を擁する小説が、ありふれた通俗小説とならずに、悪党小説の代表的な傑作になったということ自体が矛盾なのであり、作者の制作意図もそこにあったのである。
(鹿島『悪党が行く』pp.206-7)
[6]『トム・ジョーンズ』のキー・ワードは「捨て子」にある。[…]なぜ、捨て子という要素が重要なのかといえば、それは捨て子がキリスト教社会の恥部と認識されていたからだ。捨て子は生活苦ゆえに捨てられるのではない。「恥ずべき罪」すなわち、婚外性交の具体的な証拠だから、捨てられるのである。(鹿島『悪党が行く』p.216)
[7]【物語の発端。ロンドンから田舎の屋敷に帰ってきたオールワージ氏は、自分の寝室で赤ん坊を発見する。】
オールワージ氏はある特殊な用件でロンドンに出て、まる三ヶ月不在だった。[…]。彼はある晩おそく帰ってきて、妹と簡単な食事をすませると、非常に疲れて寝室に引き取った。寝室ではまず数分膝まずいてお祈りを上げ[…]さて寝床にはいろうとして掛蒲団[かけぶとん]をあけると、驚いたことに一人の赤ん坊が粗末な木綿に包まれて、彼の寝床にいかにも気持よさそうに熟睡しているではないか。この光景に彼はしばらく呆気[あっけ]にとられていたが、彼の心中で人のよさが勝ちを占めるのはいつものこと、やがて眼前のかわいそうな赤ん坊への同情の気持ちが湧いてきた。そこでベルをならし、年輩の女中頭にすぐ起きてくるように命じておいて、さて待つあいだも、眠っている幼児に必ずつきものの潑剌[はつらつ]たる血色のなかにうかがわれる無邪気の美に、ほとほと感じ入って眺めていた。(フィールディング『トム・ジョウンズ(一)』pp.19-20)
[8]南イングランドの牧歌的な田舎で「捨て子」トムはすくすくと育ち、気は優しくて力持ち、義侠心[ぎきょうしん]に厚い若者に成長する。トムと対照的なのが、彼の居候先の「楽園邸[パラダイス・ホール]」の当主オールワージーの甥ブライフィルである。行く行くは、この独身の地主の土地・財産を継ぐことになっている。カルヴァン主義に凝り固まった【神学者】スワッカムと、当時は無神論者と同義だった理神論者の【哲学者】スクウェアという二人の家庭教師のいずれにもなぜか受けがよい。その真面目さと信心深さは何かとトムの不品行と比較される。
(伊藤「フィールディング『トム・ジョーンズ』」pp.90-1)
[9]ようするに、ブライフィル君は物語においては悪役[ヒール]としての役割を果たすことになるのだが、作者フィールディングがフィクション・ライターとして意を用いているのは、まさにこの点である。
なんのことかといえば、本来なら捨て子という呪われた存在のトム・ジョーンズが逆にヒーローとなり、ヒーローとなるべき正統な嫡子ブライフィルがヒール【悪役】となるという一種のキャラクターの「捩[ねじ]れ」がそこには観察されるということだ。(鹿島『悪党が行く』p.218)
[10]王族の血を引いた捨て子がヒーローとなり、正統な嫡子のはずのヒールを打ち破るという神話構造、民俗学的に「貴種流離譚【きしゅりゅうりたん】」と呼ばれている説話は、神話の位相においては珍しくないどころか、むしろ紋切り型といえる。[…]。フィールディングは、自分なりの悪党小説[ロマン・ピカレスク]を書くに当たって、神話の「貴種流離譚」の次元を取り込もうと考えたのである。(鹿島『悪党が行く』p.219)
【悪党小説に貴種流離譚を組み合わせることで、主人公が善人なのに悪党小説、という目新しい作品になっている。】
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【『トム・ジョーンズ』という作品のもう一つの特徴は、物語が進んでいる最中に作者が読者に直接語りかけるという点である。ドラマ版でも、のっけから作者フィールディングが登場して視聴者に直接話しかけるだけでなく、物語の途中でも作者がちょいちょい登場しては、通常のドラマであればナレーションが行なうような状況説明を行なうことになる。】
[11]【第1巻第1章より。小説というものが不特定多数の客を相手にした「商品」であることを意識した書き方。】
およそ作家たるものはおのれを、少数の客を呼んで無償のご馳走[ちそう]をふるまう紳士と考えてはならぬ。作家はさしずめ、金さえ出す者なら誰でも歓迎する飲食店の経営者である。前者の場合には周知のとおり何を食わそうと主[あるじ]の勝手しだい、たといそれがはなはだ不味[ふみ]で一座の口にまったく合わずとも、一同は苦情を申すわけにはまいらぬ。いやそれどころか、出されるかぎりのものを表面は賞美し推奨するのが礼儀というもの。ところで飲食店の店主となるとこれがまったくの反対。金を払ってものを食う奴らは、自分がどんなに小うるさい気むずかしい味覚の持ち主であろうとも、その味覚を満足させねば承知しない。すべてが口に合わぬかぎりは、めちゃくちゃに食事を非難し痛罵[つうば]し罵倒[ばとう]する権利を主張する。
そこで、客にそのような失望を与えて怒らせまいと、誠実な善意の亭主たるものは、誰でもまず店に入ったとたんに目につくような場所に、献立表を用意しておくのが常法である。それを見てこの店では何ができるかを知り、その上で腰をおろして出されるものを食べるとも、もっと口に合いそうなどこか他の店に出直すとも、それは客のご随意というわけである。[…]。
我らがここに調製した品はほかならぬ「人間性」という料理である。ただし余[よ]がただ一品しか名をあげぬからとて、賢明な読者は、いかに口がおごっておられようとも、驚いたり文句をいったり怒ったりはなさるまいと思う。[…]。人間性とひと口にいうものの、そこに無限の変化があって、この広汎な題目を作家がきわめつくすのは、料理人がこの世の動物質植物質ありとあらゆる種類の食物をきわめつくすよりもなお至難であることは、学識ある読者のご存じないはずはない。(フィールディング『トム・ジョウンズ(一)』pp.13-4)
[12]ところで読者諸君、これ以上ごいっしょに話を進める前におことわりしておくのがよいと思うが、余はこの物語の途中で、必要と思うごとに何度でも脱線するつもりである。いつそれが必要かということは、情[なさけ]ない批評家諸賢などより余自身の判断のほうが正しいのだ。だからこの際そういう批評家諸氏に、よけいなおせっかいはするな、君らになんの関係もない問題に口出しはするな、と希望しておかねばならない。彼らが裁判官を持って任ずるだけの権威というものを提示せぬかぎり、余は彼らの裁判権に対して申し開きなどはせぬつもりである。
(フィールディング『トム・ジョウンズ(一)』p.18)
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【『トム・ジョーンズ』の3つ目の大きな特徴は、主人公トムの行動を規定する価値観が、「契約を遵守することによって自分の信用を守る」という、十八世紀イギリスのブルジョアジーの理念を体現したものになっている点である。】
[13]トム・ジョーンズによって体現される十八世紀イギリスの時代精神とは、いったん契約を結んでしまった以上、その契約の内容いかんにかかわらず、これを絶対に守るべしという契約遵守の思想、言い換えれば近代資本主義の思想である[…]。
ところで、この契約遵守の思想にとって、もっとも忌むべきものは二重契約である。近代資本主義社会において、二重契約の罪を犯した者は(あるいはそれが露見した者は)、理由のいかんを問わず、共同体から放逐される運命にある。なぜなら、二重契約を許してしまったら、信用体系が崩れ、近代資本主義社会を支える契約書(紙幣や債券なども含む)はただの紙切れとなり、共同体がたちまち崩壊してしまうからだ。
だから、理想的なクレジット・マン(信用人)たるトム・ジョーンズは、たとえ、自分が損を被ることがわかっていても、契約は絶対的に遵守する、つまり、信用体系に忠実なのだ。
しかし、この信用体系には、じつは一つの大きな落とし穴がある。クレジット・マンであればある程、取引相手からより有利な契約の申し出が増えてくることだ。(鹿島『悪党が行く』pp.226-7)
【青年となったトムは、近所の地主ウェスタン氏の娘で幼なじみのソファイアと恋仲になるが、その一方で、森番の娘モリーとも性的関係を持ってしまう。】
[14]トム・ジョーンズはモリーによって巧みに誘導されて契約を結んでしまったに過ぎないのだが、自分では自らの意志で契約したと思い込んでいるのである。ただ、いずれにしても契約は契約であり、なんとしてもこれを遵守しなければならないはめに追い込まれる。[…]。つまり、トムは、契約遵守の快男児であるがゆえに、モリーに恋され、契約へと誘導されてしまったのだが、その同じ性格はソフィア【=ソファイア】にとっても魅力的だったから、彼女もまた契約を結びたがったのである。クレジット・マンにとって、二重契約への誘惑は常に向こう側からやってくるのだ。(鹿島『悪党が行く』p.230)
[15]【トムはモリーとの契約を遵守するため、懸命にソファイアのことは考えまいとするが……。】
しかし、ソフィアの恋心はしだいに力を増し、ついにはクレジット・マンの砦を陥落させてしまう。
では、トムは御法度の二重契約に手を染めるのか?
否、彼は、あえて違約金を積んで契約破棄という道を取ることに決めたのである。(鹿島『悪党が行く』p.233)
[16]【トムは、妊娠したモリーに手切れ金を渡して自分と別れてもらうため、モリーの家を訪れる。】
トムはある日、【モリーの父で森番の】ブラック・ジョージの家を訪ねた。ところが、返ってきたのは、モリーは留守であるという返事。しかし、そのうちに、姉が意地の悪い微笑を浮かべて、モリーは二階にいると教える。
トムが二階に上ると、ドアはしまっている。ノックすると、しばらくしてモリーが出てきた。眠っていたというのだ。トムが別れ話を切り出すと、モリーは逆上してわめきだしたが、そのときモリーが悪態ついて暴れたため、間仕切り代わりに吊[つ]るしていた絨毯[じゅうたん]が床に落ちた。すると、なんと、そこにはトムの家庭教師の哲人スクウェアがぶざまな格好で立っているではないか!(鹿島『悪党が行く』p.234)
【モリーの姉が、モリーはトムとスクウェア以外にも複数の男性と関係を持っていることと、お腹の子はトムではなく別の男性の子であることをすっぱ抜いたおかげで、トムは二重契約の危機から間一髪で救われる。】
[17]では、これでトムは二重契約の危険性から完全に脱したのかというと、次には別の問題が持ち上がる。ソフィアと相思相愛になればなるほど、トムは捨て子という自分の身分の低さを呪うことになったのである。
(鹿島『悪党が行く』p.235)
【オールワージ氏は重い病にかかり、一時は危篤になる。彼が奇跡的に回復した後、甥のブライフィルは、オールワージ氏が危篤の時にトムは浮かれ騒いでいたと嘘をつく。オールワージ氏はまんまと騙されてしまう。】
[18]「じつは伯父上がいちばん危険だったあの日、私も家じゅうの者も涙にくれていた時、やつは家じゅうを狼藉[ろうぜき]と乱行[らんぎょう]の巣にしたのです。酒を飲む、歌をうたう、わめく。私がおだやかに少し不謹慎ではないかと注意しますと、猛烈に怒って罵り散らして、私を悪党呼ばわりして撲[なぐ]ってきました。」――「なに! おまえを撲ったと!」――「もちろん私はとうにゆるしてやりました。ただ大恩あるあなたへの忘恩行為はそう簡単に忘れることができないのです。」(フィールディング『トム・ジョウンズ(二)』p.57)
【一方、ソファイアとブライフィルの間には縁談が持ち上がる。ソファイアの父ウェスタン氏も、ブライフィルの伯父オールワージ氏も縁談に乗り気だが、もちろんトムを恋するソファイアは、ブライフィルと結婚するのは死んでも嫌である。】
[19]『トム・ジョーンズ』という小説は、ひとたび結んだ契約はこれを遵守することをモットーにするクレジット・マン(トム・ジョーンズ)が、行く先々で待ち構える二重契約の罠[わな]をいかにして回避していくかを主たる興味としているが、その場合、二重契約とは、かならずしも「愛の二重契約」の意味とは限らない。金銭という面から見ても、二重契約の回避が、トム・ジョーンズにとって大きな問題となるのだ。
なぜなら、捨て子で無一文のトム・ジョーンズは、親代わりのオールワージ氏に、愛情面ばかりか、金銭的にも大恩を負うているからである。つまり、トムはオールワージと先験的に【=生まれながらに】金銭契約を結んだ格好になっているのである。
ゆえに、甥[おい]のブライフィルをソフィアと結婚させたがっているオールワージの意志に反対するということは、トム・ジョーンズにとって契約破棄という大罪を犯すに等しい。一方、トムと愛し合っているソフィアもまた同じ境遇にある。なぜなら、ソフィアは、【ソフィアがブライフィルを好いていると思い込んだ】叔母の勘違いで進められたブライフィルとの結婚を断固拒否したが、これはウェスタン氏からみれば、明らかな契約違反に映るからである。持参金結婚が普通だったこの時代において、娘の結婚は父親にとっては純粋に経済行為であり、娘がこれを拒否するということは、即、契約の破棄に通じるのである。(鹿島『悪党が行く』pp.237-8)
[20]したがって、相思相愛のトムとソフィアが互いに愛を誓いあおうとすれば、それは、いずれにとっても二重契約の締結ということになり、それが嫌なら、二人とも保護者との契約を解除して、駆け落ちするしか選択肢はない。
しかし、この駆け落ちというオプションは、フィクションの中からまだしも、フィクションの外から見ると、はなはだ興味を欠いた選択となる。通俗的なメロドラマにしか発展しないからである。これは作者フィールディングにとって面白くない。何しろ、フィールディングが書きたいのは、通俗メロドラマではなく、変型のピカレスクなのだから。
ではどうすれば、駆け落ちではなく、変型ピカレスクにできるのか?
トムとソフィアを別々に出奔させることである。
かくして、ブライフィルの讒言[ざんげん]によってトムがオールワージ家から追い出され、海の上で運を開こうとブリストルに向かえば、ソフィアのほうはプライフィルとの結婚を避けるためロンドンに出奔し、その道中記がピカレスクに欠かせない遍歴譚[たん]を成すことになる。(鹿島『悪党が行く』pp.238-9)
(『トム・ジョーンズ』[後半]に続く)
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【講義で使用した資料】
●ヘンリー・フィールディング作、朱牟田夏雄[しゅむた・なつお]訳『トム・ジョウンズ』[全4巻](岩波文庫、1975年)[原著1749年]
●ヘンリー・フィールディング原作、サイモン・バーク脚本、メーティン・フセイン監督『トム・ジョーンズ』(アイ・ヴィー・シー、2004年)DVD[BBCで1997年に放映]
●伊藤誓[ちかい]「フィールディング『トム・ジョーンズ』――『捨て子』トムの成長物語」『朝日百科 世界の文学 2 ヨーロッパ II 』(朝日新聞社、2002年)90-2ページ
●榎本太[えのもと・ふとし]「フィールディング」『CD-ROM版 世界大百科事典』(日立デジタル平凡社、1998年)
●榎本太「フィールディング、ヘンリー」『デジタル版 集英社世界文学大事典』(ジャパンナレッジ、2010年)
●鹿島茂[かしま・しげる]『悪党[ピカロ]が行く――ピカレスク文学を読む』(角川学芸出版、2007年)
●桑名一博「ピカレスク小説」『日本大百科全書』ウェブ版(ジャパンナレッジ、2001年)
(『トム・ジョーンズ』[後半]に続く)
(c) Masaru Uchida
2014
ファイル公開日: 2025-8-24
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