[トム・ジョーンズ] [ノーサンガー・アビー] [ダーバヴィル家のテス] [荒涼館]
放送大学岐阜学習センター 平成26年度第2学期 面接授業  内田勝(岐阜大学地域科学部)
テレビドラマで読むイギリス小説 第4部 (2014年011月1日 15:10-16:35)
ハーディ原作『ダーバヴィル家のテス』
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]職人の息子として生まれたハーディは、イギリス社会の階級差別に批判的だった。[…]。人間の本質とは関係のない地位や階級。これらは人間の上辺にすぎないのに、実際は大きな力を持っていたのだ。
(深澤「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』」p.58)

[2]ハーディが活躍した時代は難しい時代だった。伝統的な農村中心の仕組みがかなり崩れていたし、おまけに精神的支えだったキリスト教の秩序もあやふやになっていた。その中でハーディは農村に生きる人たちを題材に、人間の生き方の問題を正面からとらえた作品を発表していった。『ダーバヴィル家のテス』はその代表的なものである。(深澤「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』」p.58)

[3]ハーディ Thomas Hardy(1840-1928) イギリスの小説家、詩人。19世紀イギリス文学を代表する作家の1人。[…]。1840年6月2日、イギリス南西部ドーセット州の一小村ハイヤー・ボカムトンに石材加工業者の長男として生まれる。当時の庶民としては珍しく中等教育を受け、まず州都ドーチェスター[…]の建築事務所見習いとなり、22歳のときロンドンに出て教会修復専門の建築事務所に勤める。大学には進まず、先輩の指導や独学で広い教養を身につけた。
 幼いころから身体の弱かった彼は読書と暝想(めいそう)を好み、牧師を志したこともあるが、当時の懐疑主義思潮の影響を受けて信仰を失い、青年時代は詩作にふけった。しかし、作品は認められず、健康を害して帰郷を余儀なくされることもあり、依然として勤めのかたわら小説を書く。[…]。
 最初の傑作は農村生活を背景に展開する愛と運命の物語『狂乱の群を離れて』(1874)で、この作品で初めて郷土のイギリス南西部を古代の名称から「ウェセックス」と名づけ、やがて彼の14を数える長編小説は一括して「ウェセックス小説」とよばれる。古い習俗を残し、変わらぬ自然に生きる農村の人々や、彼らの語り伝える数奇な物語は、幼いころからハーディに親しいものであった。[…]。
 代表作の『テス』(1891)は美しい自然描写と残酷な運命の戯れを織り交ぜた作品で、因襲的な社会道徳に対する作者の抗議が読み取れる。このため、頑迷な中・上流階級の人々の非難を浴びた。『日陰者ジュード』(1896)では既成道徳への攻撃はさらに強烈になり、物語の救いのない暗さと相まって一段と激しい非難の的となる。これが一因となって、彼は小説の筆を折り、若いころから念願の詩人として後半生を送る。[…]。【1928年】1月11日、87歳で死去、ウェストミンスター寺院に葬られた。
 小説家としての特質は、描写の隅々に息づく詩情、女性や孤立した人間の迷いや苦しみへの深い共感、そしてそれらを堅固なプロットに組み上げる優れた構想力にある。宇宙は人間に無関心で、偶然の力によって人間を翻弄(ほんろう)するという悲観主義の哲学を抱いていたが、人間の憧(あこが)れと苦悩への同情を失っていない。詩人としては、日常的モチーフをとらえて運命の皮肉や不可避な幻滅を歌い込み、近代詩につながる洗練された詩法は今日のイギリス詩人に大きな影響を与えている。短編小説にも優れ、短編集四巻がある。(海老根「ハーディ」)

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[4]【『テス』序盤のあらすじ。】
貧しい農夫ダービフィールドの一家は、自分たちが中世以来の名家ダーバヴィルの末裔[まつえい]だと聞かされる。彼らは近くの屋敷に住み、勝手にダーバヴィルを名乗っている成金の一家と親戚[しんせき]付き合いをしようと、娘のテスを差し向ける。テスは女中として引き取られるが、放蕩[ほうとう]者のアレック・ダーバヴィルに犯され、子供を産み、その子を病で失う。(海老根「ダーバヴィル家のテス」)

[5]【テスの父ジョン・ダービフィールドは、牧師から「サー・ジョン」と呼びかけられて驚く。】
「こんなに何度も『サー・ジョン』と呼びなさるのは、どういうわけでごぜえますかね? わしは、肩書もなんにもねえ、行商人のジャック(ジョンの俗称または愛称)・ダービフィールドでごぜえますだに」
 牧師は一、二歩、馬を近づけた。
「ほんのわしの気まぐれだよ[…]。実はな、この郡の歴史を新しく作ろうと思って、系図をいろいろと漁[あさ]っているうちに、ついこのあいだ、一つの発見をしたのが原因[もと]なんだよ。[…]。ダービフィールド、おまえさんは本当に知らんのかね? 自分があの古い、騎士の血筋をひいたダーバヴィル家の直系に当たっているということを。この一家はな、[…]征服王ウィリアムに従ってノルマンディから渡って来た、あの有名な騎士のサー・ペイガン・ダーバヴィルから出ているんだよ。[…]。勲爵士[ナイト]の位が准男爵[バロネット]のように世襲だったら[…]、おまえさんも、今頃はサー・ジョンになっていただろうよ」
(ハーディ『テス(上)』pp.10-1)

【テスを含む若い娘たちが、地元に太古から伝わる五月祭[メイ・デイ]の輪舞を踊っている。旅行中に通りかかった青年エンジェル・クレアは、ふと興味を惹かれ、踊りの輪に参加する。】

[6]彼が踊りの群からはずれたとき、彼の目はテス・ダービフィールドにとまった。彼女の大きな瞳は、実のところ、彼が自分を選んでくれなかったことを恨む非難の色をかすかに浮かべていたのである。そのとき、彼もまた、彼女の引っこみ思案のために、彼女に気づかなかったことを残念に思った。(ハーディ『テス(上)』pp.26-7)

【テスは、現在「ダーバヴィル」を名乗っている裕福な一家の邸宅で鶏の飼育係として雇われる。テスは本来のダーバヴィル家の末裔だが、現在のダーバヴィル家は元々「ストーク」という姓の商人で、商売が成功して裕福になって以来、地元の旧家の姓を勝手に名乗っているのだった。屋敷の放蕩息子アレックが美しいテスに目を付ける。】

[7]【アレック・ダーバヴィルは、森の中で眠っているテスをレイプする。】
ダーバヴィルは身をかがめた。静かな規則正しい息づかいが聞こえる。膝をついて、さらにいっそうかがみこんでゆくと、彼女の息が彼の顔を暖め、つぎの瞬間には、彼の頬[ほお]は彼女の頬と触れあっていた。彼女はぐっすり眠っていて、睫毛[まつげ]には涙が残っていた。
 暗闇と静寂[しじま]があたり一帯を支配していた。頭上には、ご猟林のいちいや槲[かし]の木が、太古のままにそびえていた。その枝々には、静かにねぐらについている小鳥どもが最後のまどろみを楽しみながらとまっており、二人の周囲には、何匹かの兎がひそかに跳[は]ねまわっていた。だが、訊[き]く人もあるであろう。テスの守護神はどこにいたのか? 彼女の素朴な信仰の神はどこにいたのか?と。[…]。なぜ、こんなにしばしば、下品な者が美しい者を、ふさわしからぬ男が女を、釣合わぬ女が男を、わがものにするのか? 何千年ものあいだ哲学はその理由を分析してきたが、今もってわれわれを首肯させるように説明することはできないのだ。なるほど、この場合の悲劇的破局のうちにひそむ因果応報の可能性を、人は認めるかもしれない。疑いもなく、鎖甲[くさりよろい]に身を固めたテス・ダーバヴィルの先祖たちのなかには、戦場から意気揚々とふざけちらして引き揚げる途中、その当時の百姓娘に対して、これと同じような仕打ちをもっと無慈悲にやった者もあったに違いない。しかし、父祖の罪が子に報いるということは、神々については実にりっぱな道徳かもしれないが、普通の人情からいえば、軽蔑に値することである。だから、このような説明を持ち出しても、この事件の償いにはならないのだ。
 あの片田舎に住むテスの村の人たちが、宿命論的にお互いのあいだで飽きもせず言っているように、「そうなるようになっていた」のだ。ここにこの事件の哀れさがあった。(ハーディ『テス(上)』pp.122-3)

【屋敷の仕事を辞めて実家に戻ったテスは、妊娠してしまったことに気づく。彼女はアレックに知らせないまま赤ん坊を産むが、赤ん坊はまもなく死んでしまう。聖職者の洗礼を受ける前に死んだ者はキリスト教徒として埋葬してもらえないので、テスは赤ん坊が死ぬ直前に自ら洗礼式を行ない、その子を「ソロー(悲しみ)」と名付ける。しかし教会の牧師は、素人に洗礼された者をキリスト教徒と認めるわけにはいかず、一般の墓地への埋葬を認めるわけにはいかないと言う。】

[8]「じゃ、あたし、あなたが嫌いです!」と、彼女は【牧師に向かって】叫び出した。「もう二度とあなたの教会へはまいりません!」[…]。
 かくて、その夜、赤ん坊は小さな松板の箱に入れられ、[…]神が割当ててくださった汚[きた]ならしい片隅に、提灯[ちょうちん]の明りをたよりに埋められた。そこには[…]洗礼を受けない嬰児[えいじ]や、名うての酔漢や、自殺者、その他、地獄落ちとおぼしき亡者たちが横たわっている。しかし、このような逆境にもかかわらず、テスはけなげにも、二枚の薄い木舞[こまい]と一本の糸で小さな十字架を作り、それに花を結びつけて、ある夜、人目につかぬように墓地へはいり、墓の上部に突き立て、足もとにも、おなじ花の一束を、しおれないように水を入れた小瓶[こびん]にさして置いた。その瓶の外側にある、『キールウェルのマーマレード』の語が路傍の人の目に触れたとて、それが何であろう? 愛情に満ちた母親の目は、もっと高いものの幻を見ていて、そのような文字を見なかったのである。(ハーディ『テス(上)』pp.161-2)

[9]【『テス』中盤のあらすじ。】
再び生きる意欲を回復したテスは牧場に働きに出、牧師の息子エンジェル・クレアに会い、恋に落ちる。2人が結婚した夜、テスは自らの過去を告白するが、はじめ2人の間の秘密をなくそうと言い出したエンジェルはテスを許さず、ブラジルに去る。(海老根「ダーバヴィル家のテス」)

[10]テスは、自分の置かれた立場で誠実に生きようとするだけだ。名門の名だけを借用した新興のダーバヴィル家で鶏の飼育係として働いたときも、トールボットヘイズ酪農[らくのう]場で乳搾[ちちしぼ]りとして働いたときも、そうだった。(深澤「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』」p.58)

【テスは酪農場でエンジェル・クレアと再会する。エンジェルは遠くの町の牧師の息子だが、海外で農場主になることを目指して酪農場で修業をしているのだった。やがてエンジェルとテスは恋に落ちる。】

[11]【エンジェルはいったん帰郷し、テスと結婚したいと両親に告げる。】
「その娘さんは、おまえが結婚したいと思うほどの家柄のひとなのかい――つまり、レーディなのかい?」と、驚いた母親がたずねた。[…]。
「俗にいうレーディではありません」と、エンジェルは、ひるまず言った。「ぼくは、誇りをもって言うのですが、そのひとは、百姓の娘なんです。しかし、それでも、レーディにちがいないんです――気持からいっても、性質からいっても」(ハーディ『テス(上)』pp.267-8)

[12]牧師の息子エンジェル・クレアと愛し合うようになったとき、彼がテスを理想化しているのに罪悪感を感じて、テスは結婚前に自分の過去の恥辱【=アレックにレイプされてその子を産んだこと】をなんとか伝えようと思う。偽りの姿で愛されたくはなかったから。表面をごまかして、良い生活を手に入れることは、テスが最も嫌うことだった。ここには、上辺だけで中身のないものを嫌う作者ハーディの考えかたが示されている。
(深澤「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』」p.58)

【結婚式を挙げた日の夜、エンジェルは過去に行きずりの女性との性行為に溺れたことがあると告白する。釣られてテスも、自分の過去をしゃべってしまう。】

[13]「ああ、エンジェル――あたし、うれしいぐらいだわ――だって、もうあなたはあたしを許してくださることができるんですから! あたしの告白はまだすんでません。あたしも告白することがあるんです――覚えてらっしゃるでしょう、あたしがそう言ったことを」
「ああ、たしかにそうだったね! じゃ、今度はそれだよ、意地わるさん」
「笑ってらっしゃるけど、あたしのは、たぶん、あなたのとおなじくらいにたいへんな、もしかすると、もっとたいへんなことかもしれませんわ」
「もっとたいへんなことなんて、あるはずないよ、テス」
「あるはずがありませんわ――ええ、そうよ、そんなはずはありませんわ!」彼女は希望をつないでおどりあがった。「ええ、もっとたいへんだなんて、そんなはずがありませんわ、たしかに」と、彼女は叫んだ。「なぜって、そっくりおなじ話なんですもの! じゃあ、お話しますわ」(ハーディ『テス(上)』pp.372-3)

【エンジェルはテスの告白に衝撃を受ける。行きずりの異性との性行為という点では「そっくりおなじ話」であるはずなのに、どうやらエンジェルの価値観では、話し手が男性であるか女性であるかによって、罪の重さがまるで異なるようなのだ。】

[14]「あたしたちの愛にかけて、許してください!」と、彼女はからからに乾いた口でささやいた。「おなじことで、あたしはあなたを許しました!」[…]。
「ああ、テス。許すということは、この場合にはあてはまらないんだ! 以前のきみは、きみで、いまは別の人間になっている。ああ、なんてことだ――どうして、許すということが、こんな奇怪な――こんな、いかさまに当てはまるものか![…]。もう一度言うが、ぼくの愛していた女は、きみではないんだ」
「でも、それじゃ、だれなんです?」
「きみの姿をした別の女だ」
 彼のことばのうちに、彼女は、かねてから案じていた予感が実現したのを認めた。彼は、彼女を一種の詐欺師[さぎし]、無邪気な女の仮面をかぶった罪深い女と見なしているのだ。そう悟ったとき、彼女の白い顔に恐怖の色が現われた。[…]。彼が自分をそんなふうに見ているのかと思うと、恐ろしさのために、彼女は、がっくりとなって、よろめいた。(ハーディ『テス(下)』pp.9-11)

[15]テスは学校の成績も良く、美しい健康な娘として描かれている。[…]。エンジェルのようにキリスト教に疑いを持ち、古い家柄を嫌う者からすれば、テスこそは理想の人物にちがいない。しかしそのエンジェルですら、社会の持つ道徳観念にとらわれていて、過去にダーバヴィル家の息子アレックに犯されたうえ、私生児を生んだテスを認めることはできなかった。テスが弱い立場の被害者であるというのに。
(深澤「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』」pp.58-9)

【テスを許せないエンジェルは、テスを置き去りにして一人でブラジルに旅立つ。テスは家族の生活費を稼ぐために劣悪な労働条件の農場で働きながらエンジェルからの連絡を待つが、連絡はない。そんな時に再会したアレック・ダーバヴィルは、テスを再び我が物にしようと画策する。やがてテスの父が死に、一家はそれまで住んでいた家も追い出されて行き場を失くす。追い詰められたテスに、アレックが忍び寄る。】

【ブラジルで病に倒れ、農場経営を諦めてイギリスに帰ってきたエンジェルは、過去の自分の愚かな行為がどれほどテスを傷つけたかに気づいてテスを探す。ようやくテスを見つけたとき、テスは家族を養う金を得るために、憎んでも憎みきれないアレックの情婦になっていた。】

[16]「テス!」と彼は嗄[しわが]れ声で言った。「ぼくが行ってしまったことを許してくれるかい? ぼくのところへ戻って――もらえないだろうか? どうして、きみは、こんなになったの?」
「もう遅すぎますわ」と、彼女は言った。彼女の目は不自然に輝き、その声は部屋中に硬[かた]いひびきを伝えた。
「きみのことを正しく考えなかったんだ――きみの本当の姿を見なかったんだ!」と、彼は訴えつづけた。「あれから後になって、そうすることを悟ったのだ。いとしいぼくのテス!」
「遅すぎます。遅すぎます![…]。あの人は二階にいます。いま、あたしは、あの人が憎いんです。あたしをだましたから――あなたが二度と帰ってはいらっしゃらないと言って。でも、あなたは、ほんとうに帰っていらっしゃいましたわ! この着物は、あの人があたしに着せたんです。あたし、あの人があたしをどうしようと、好きなようにさせておきました! でも――どうぞ、行ってください、エンジェル。そして、もう二度と来ないでくださいません?」(ハーディ『テス(下)』pp.259-61)

【しかしエンジェルがテスの元を去って歩いていると、テスが息せき切ってエンジェルを追いかけてくる。彼女はアレックを殺して逃げてきたのだ。二人の逃避行が始まる。】

[17]【エンジェルに追いついたテスが語る。】
「走りながら、あたし考えたんです。もうあの人を殺してしまったのだから、あなたはきっとあたしを許してくださるだろうって。そんなふうにしてあなたを取り返さなくては、という考えが、光のようにパッと浮かんだのです。あたしはもうこれ以上、あなたなしでは我慢ができませんでした――あなたに愛されないでいることが、どれくらいあたしたまらなかったか、あなたにはお分かりにならないんです! もう今は、愛していると言ってください。あたしのいとしい、いとしいあなた、愛すると言ってください、あたしがあの男を殺してしまったんですから!」
(ハーディ『テス(下)』p.270)

[18]テスが逮捕された場所が先史時代の巨石遺跡ストーンヘンジに設定されていることには意味がある。ストーンヘンジは太陽の運行と関係のある、異教の神殿と考えられていたからだ。テスはキリスト教の枠組みを超えて、大地に立つ巨石のように、大地から生まれた生命そのものであることが強調される。
 このストーンヘンジでテスは、自分が死んだら妹のライザ・リーと結婚してくれるようにエンジェルに頼む。一つの生命が死んでも種族は生き続け、別の生命が残っていく。それが生命現象なのだろう。このような身分も肩書もない、人間の生命の根元に作者ハーディは目を向けている。(深澤「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』」p.59)

[19]【ストーンヘンジで眠るテスの前に、警官たちが近づいてくる。テスが目を覚ます。】
「どうしたんですの、エンジェル?」と彼女は、にわかに飛び起きながら言った。「あたしを捕えにきたんですの?」
「そうなんだよ、テス」と、彼は言った。「やってきたんだよ」
「そうなるのが当然ですわ」と、彼女はつぶやいた。「エンジェル、あたし、うれしいくらいなの――ええ、うれしいんですわ! このしあわせは、長つづきするはずがなかったんですもの。あまりしあわせすぎました。もう十分です。これで、もう、あなたに軽蔑されるために生きなくってもすむんです!」(ハーディ『テス(下)』p.289)

[20]【最後の場面。二人の男女が並んで手をつないで歩いている。】
 二人の中の一人は、エンジェル・クレアであり、もう一人は、背の高い、花ならば蕾の――半ば少女で、半ば一人前の女――テスの容姿を浄化した感じの、テスよりはほっそりとしているけれども、その瞳はテスと同じように美しい――クレアの義理の妹、ライザ・ルーであった。二人の青ざめた顔は、不断の大きさの半分に縮んでしまったかのように見えた。[…]。【二人は、刑場の塔にテスの死刑が執行されたことを示す黒い旗が揚がるのを見る。】
 『正当な処置』がとられたのであった。そして、エスキラス【ギリシャの悲劇作家】のことばを借りていえば、『神々の司』は、テスに対する戯れを終わったのだ。そして、ダーバヴィル家の騎士や貴婦人たちは、何も知らずに眠りつづけているのだ。口もきかずに見つめていた二人は、祈りを捧げているかのように、大地に身を伏せて、長いあいだ身じろぎもしなかった。旗は静かに揺れつづけた。気力を回復するなり、二人は立ちあがって、再び手をつないで、歩いていった。(ハーディ『テス(下)』pp.290-2)
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【講義で使用した資料】

●トマス・ハーディ作、井上宗次・石田英二訳『テス』[全2巻](岩波文庫、1960年)[原著1891年]
●トマス・ハーディー原作、デヴィッド・ニコルズ脚本、デヴィッド・ブレア監督『テス』(アイ・ヴィー・シー、2012年)DVD[BBCで2008年に放映]

●海老根宏[えびね・ひろし]「ダーバヴィル家のテス」『デジタル版 集英社世界文学大事典』(ジャパンナレッジ、2010年)
●海老根宏「ハーディ」『日本大百科全書』ウェブ版(ジャパンナレッジ、2001年)
●深澤俊[ふかさわ・すぐる]「ハーディ『ダーバヴィル家のテス』――農村の生と宿命」『朝日百科 世界の文学 3 ヨーロッパ III 』(朝日新聞社、2002年)58-60ページ


(c) Masaru Uchida 2014
ファイル公開日: 2025-8-24
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