[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
放送大学岐阜学習センター 平成21年度第1学期 面接授業  内田勝(岐阜大学地域科学部)
映画で読むイギリス小説 第8部 (2009年04月19日 15:15-16:40)
マキューアン原作『つぐない』[後半(結末)]([後半]の最初はこちら)
*参照した映画:ジョー・ライト監督『つぐない』(日本公開2008年)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[39]【小説の結末。】
ブライオニーは濃密な茶色い光の中を滑り下り、いまはほとんど底に達していた。他の乗客の姿はなく、空気はとつぜん静止していた。平静な気持ちで、ブライオニーはなすべきことを考えた。両親への手紙と公式の陳述書はあっという間にできるだろう。そのあとは一日じゅう時間がある。自分に要求されているものは分かっていた。それは単なる手紙ではなく、新しい原稿、贖罪[しょくざい]の原稿であり、書きはじめる準備はできていた。

   ブライオニー・タリス
   ロンドン、一九九九年
(マキューアン『贖罪[下]』p.272)

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【以上のように、この小説を締めくくる最後の二行によって、読者は初めて、ここまでの物語すべてが、全能の語り手によって客観的に語られていたのではなく、事件の当事者ブライオニーによって語られていたことを知る。】

[40]この安堵の再会が書かれた第三部最後にある署名によって、再会を書いた作者が他ならぬ小説家、ブライオニーであったことが分かり、結末は可能性の問いかけとして開かれてしまう。再会は、謝罪は、つぐないは可能なのか?(服部「フィクションの『つぐない』」p.752)

[41]すべての語り、すべての視点を背後で操っているのは、事件の当事者であるブライオニーただひとりなのだ。かつて虚実をとり違えた十三歳の少女は、老作家となった今、より真実を語るにふさわしい人物となっているだろうか。(マキューアン『贖罪[下]』p.319、武田将明「解説」より)

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【小説の結末の後に付された「ロンドン、一九九九年」という文章は、ここまでの原稿を書き終わった後のブライオニーによる、一人称の手記である。】

[42]そこに描かれるのは、かつて戦争を食い物に大儲[おおもう]けをしながら現在は慈善家として振舞うマーシャルと、その傍らで栄華を謳歌[おうか]し、老いても溌溂[はつらつ]としたローラの姿だ。筆者ブライオニーは彼らへの反感を隠さない。脳を冒され、漸進的な痴呆状態に陥ることを医師に宣告されている彼女は、とりわけローラに羨望[せんぼう]交じりの憎しみを抱いている。となると、マーシャルとローラを告発する本書の筋は、作者ブライオニーの現在の心境を反映しているのではないか、という疑念が浮かんでくる。そもそも、犯人の顔を目撃していない以上、どう工夫しても彼女の小説が事実を確証することはないのだ。(マキューアン『贖罪[下]』p.319、武田将明「解説」より)

【ブライオニーがセシーリアやロビーの人生をすべて実名で書いたここまでの小説は、(少なくともマキューアンの小説の中では)まだ出版されていない。それが出版されるのは作者ブライオニーが死んだ後である。】

【77歳の誕生日を迎えたブライオニーは、病魔に冒され、近いうちにすべての記憶を失うことになる。】

[43]医者の話では、わたしの病気は脳血管性痴呆[ちほう]であって、まだしもの救いがいくつかあるらしい。精神崩壊の速度が遅い、という点を医者は十度あまりも口にしたろう。そしてまた、気分が乱高下して攻撃性を帯びるアルツハイマーよりは、こっちのほうがましなのだ。うまくすれば、わりあい気楽なことになりそうだ。不幸な人間にはならずにすむかもしれないのだ——おとなしく椅子[いす]に腰かけて、何も分からず、何事も期待しないでいる呆[ぼ]けたおばあちゃん。(マキューアン『贖罪[下]』pp.276-7)

【ポール・マーシャルは大富豪になり、88歳の今も妻のローラとともに上流社会で華やかな暮らしを続けている。】

[44]わたしはいつも、ぜいたくな生活と煙草とがローラの命取りになるだろうと思ってきた。ふたりがまだ五十代だったころにさえ。けれども、八十歳にして、彼女の顔つきは貪欲[どんよく]で抜け目がなかった。彼女はいつでもわたしの一歩先をゆく年上の女だったのだ。けれども、彼女が百まで生きようと、最後の重要な事柄ではわたしのほうが一歩先だ。わたしが死ねばあれを活字にできるのだから。(マキューアン『贖罪[下]』pp.288-9)

【ブライオニーが今なおローラに猛烈な敵愾心を燃やしていることを思うと、彼女の小説に描かれたローラ像が、現実のローラを貶めるために事実をねじ曲げたものである可能性を否定できない。】

[45]わたしが考えているのは、最後の小説のこと——第一作となるはずだった小説のことだ。第一稿が一九四〇年一月、最終稿が一九九九年三月、そのあいだに五回あまりの改稿。第二稿が一九四七年六月、第三稿が……しかし、そんなことはどうでもいいではないか? わたしの五十九年間の課題は終わったのだ。そこには、わたしたちの罪——ローラの罪、マーシャルの罪、わたしの罪——があり、第二稿以降では、わたしはそれを描き出すことに力を注いだ。何事をも——名前も、場所も、状況の細部も——偽らぬことを義務と考え、すべての事情を歴史的記録として紙上にとどめた。(マキューアン『贖罪[下]』pp.302-3)

[46]恋人たちが幸福な結末を迎え、南ロンドンの歩道で寄り添いながらわたしが立ち去ってゆくのを眺めるのは、この最終稿でだけなのだ。それまでの原稿はどれも非情だった。けれどもわたしにはもはや分からないのだ——たとえばロビー・ターナーが一九四〇年六月一日にブレー砂丘【ダンケルク撤退作戦の舞台となった浜辺】の近くで敗血症のために死んだこと、あるいは同年の九月にセシーリアが地下鉄バラム駅を破壊した爆弾によって死を遂げたこと、それらを直接間接の手段で読者に納得させても、何の益があるのか。そしてまた、わたしがその年にふたりに会いはしなかったこと。わたしのロンドン徒歩行がクラパム・コモンの教会で途絶したこと、恋人を失ったばかりの姉に対面する勇気のない臆病[おくびょう]者ブライオニーが病院へと足を引きずって戻っていったこと。そんな話で結末がつけられるだろうか? そんな説明から、いかなる意味や希望や満足を読者が引き出せるというのか? ふたりが二度と会わなかったこと、愛が成就[じょうじゅ]しなかったことを信じたい人間などいるだろうか? 陰鬱[いんうつ]きわまるリアリズムの信奉者でもないかぎり、誰がそんなことを信じたいだろうか? わたしはふたりにそんな仕打ちはできなかった。(マキューアン『贖罪[下]』pp.304-5)

[47]わたしが死んで、マーシャル夫妻が死んで、小説がついに刊行されたときには、わたしたちは、わたしの創作のなかでだけ生きつづけるのだ。バラムでベッドを共にして大家を憤激させた恋人たち【架空のロビーとセシーリア】と同じく、ブライオニーも空想の産物となるのだ。どの出来事が、あるいはどの登場人物が小説という目的のためにゆがめて提示されたのだろう、などと気に病む人間はいまい。(マキューアン『贖罪[下]』p.305)

[48]もちろんわたしも知っている、ある種の読者が「でも、本当はどうなったの?」と尋ねずにいられないことは。答えは簡単だ——恋人たちは生きのび、幸せに暮らすのである。わたしの最終タイプ原稿がたったひとつ生き残っているかぎり、自恃【じじ】の心強き、幸運なわたしの姉と彼女の医師王子は生きて愛しつづけるのだ。(マキューアン『贖罪[下]』p.305)

【「自恃【じじ】の心強き」とは、少女時代のブライオニーが書いた劇『アラベラの試練』に出てくる表現である。】

[49]わたしは思いたい——恋人たちを生きのびさせて結びつけたことは、弱さやごまかしではなく、最後の善行であり、忘却と絶望への抵抗であるのだと。わたしはふたりに幸福を与えたが、ふたりが自分を宥[ゆる]してくれたことにするほど勝手ではなかった。完全な宥しはまだなのだ。(マキューアン『贖罪[下]』p.306)

【セシーリアやロビーの人生を引き受けて生きざるをえなくなったブライオニーは結局、ディケンズが『デイヴィッド・コパフィールド』で行ったような、「(架空の)幸せだった日々の思い出にすがって生きる」という生き方を選んだのだ、と言えるかもしれない。】

[50]ブライオニーによる事実の語り直しには、明らかに語り手の操作が入った箇所も存在し、読者はこれが決定的な「真実」であると信じることはできない。ブライオニーは、過去の嘘を償うために別の嘘をついている。ただし、問題の本質はブライオニー個人の虚言癖にあるのではなく、特定の語り手が存在する以上、物語は常にどこかで現実を裏切るというリアリズム文学の限界にこそある。だから彼女は、永遠に語り直すことでしか贖罪を遂行できない。(武田「出口のない世界」p.444)

[51]もしも真実を語ることにしか意味がないならば、生涯をかけて一篇の小説を書き直し続けるブライオニーの努力は虚[むな]しい。しかし、キリストならぬロビーの受難を通じて、語り手の錯誤と時代の迷妄を示すこと自体に、何の意味もないだろうか。本書の示す物語(および歴史)と現実との複雑な関係は、読者を困惑させつつも、ある必要性へと目を醒[さ]まさせる。自らの危うさを意識しつつも、語り、語り直し、語り続けること。物語の限界を引き受けつつ物語を肯定する『贖罪』という小説は、結果的に物語と事実、想像と現実を新たに媒介し、和解させている。ここに小説ならではの atonement【キリストの死による人類の罪のつぐない】のあり方が示されている。(マキューアン『贖罪[下]』p.323、武田将明「解説」より)

【「(架空の)幸せだった日々の思い出にすがって生きる」という生き方を、その限界を知った上で受け容れること。】

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【引用した文献】

●イアン・マキューアン作、小山太一訳『贖罪[しょくざい]』上下巻(新潮文庫、2008年)[原著2001年]

●武田将明「出口のない世界——イアン・マキューアンの時間感覚」『英語青年』154巻8号[2008年11月号](研究社、2008年)442-4ページ
●服部典之「フィクションの『つぐない』」『英語青年』147巻12号[2002年3月号](研究社、2002年)752ページ

(『つぐない』[前半]はこちら)(『つぐない』[後半]の最初はこちら)
(c) Masaru Uchida 2009
ファイル公開日: 2009-4-22
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