[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
放送大学岐阜学習センター 平成21年度第1学期 面接授業  内田勝(岐阜大学地域科学部)
映画で読むイギリス小説 第5部 (2009年04月19日 9:30-10:55)
ウルフ原作『ダロウェイ夫人』[前半]([後半]はこちら)
*参照した映画:マルレーン・ゴリス監督『ダロウェイ夫人』(日本公開1998年)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]クラリッサ・ダロウェイはかつて女性を愛した経験を持っているのだ。そう。別の女性を、若いころに。彼女とその女性はキスを交わしていたはず。おとぎ話に出てくる稀有な魔力を秘めたキスにも似たたった一度のキス。そしてクラリッサはそのキスの記憶を、そのキスに宿っていた天翔ける希望を、生涯を通じていっときも手放さない。彼女はその一度のキスが約束したかに見える愛をけっして見出すことはないのだ。
 ヴァージニアは興奮して椅子から立ち上がり、テーブルに本を置く。(カニンガム『めぐりあう時間たち』pp.254)

[2]ウルフ Virginia Woolf(1882-1941) イギリスの女流小説家、批評家。哲学者で『英国人名辞典』の初代編集者レズリー・スティーブンの次女として1月25日ロンドンに生まれ、ビクトリア朝最高の知性の集まる環境で成長した。セント・アイブスの海辺の別荘で両親や兄弟たちと過ごした幼年期の夏の経験、とくに若くして世を去った家族の中心的存在だった母の記憶が、彼女の人生と作品の世界を大きく支配するようになる。両親の死後、弟エイドリアンを中心に、ケンブリッジ大学出身の学者、文人、批評家【E・M・フォースターを含む】が彼女の家に集まり、いわゆるブルームズベリー・グループとよばれる知的集団を形成した。1912年には、このグループの一員で植民地行政官であったレナード・ウルフと結婚。レナードは、政治評論の筆をとるかたわら、ホガース出版社を設立し、妻のよき理解者、援助者となる。
 1915年に処女作『船出』を、また19年には『夜と昼』を出版。2作とも伝統的な小説作法に拠[よ]っているが、以後の新しい展開を予見させる。22年の『ジェイコブの部屋』では、主人公が周囲の人に与える印象と周囲の人が主人公に与える印象をつなぎ合わせた新しい小説の形を試みた。これをより完成させた作品が『ダロウェイ夫人』(1925)である。この間、評論『現代小説論』(1919)や『ベネット氏とブラウン夫人』(1924)で新しい実験的な小説のあり方を主張、時代とともに「真実」のとらえ方も変わることを強調した。27年には、幼年時代の原体験の叙情的昇華といえる『灯台へ』を発表。「意識の流れ」の技法を用いて人間の心理の最深部を探り、時間、事実と真実の新しい観念を示した。16世紀から20世紀まで生き、途中で性転換をする人物を通して描いた、友人ビタ・サックビル・ウェストの伝記『オーランドー』(1928)は、その観念の具現化の好例である。31年に発表した『波』は小説より詩に近く、彼女の思想の究極を示すと同時に限界をも示しており、『歳月』(1937)、『幕間[まくあい]』(1941)はこの限界を越えようとする模索を示している。文芸評論集『普通の読者』2巻(1925-32)、女性論『私だけの部屋』(1929)、『三枚のギニー金貨』(1938)などがある。41年3月28日、ウーズ川に投身自殺。原因は少女時代からの強度の神経症の再発といわれている。(佐藤宏子「ウルフ」『日本大百科全書』[小学館、無料オンライン百科『Yahoo!百科事典』<http://100.yahoo.co.jp/>より])

[3]『ダロウェイ夫人』に一五年先立つ[…]『ハワーズ・エンド』の巻頭に、著者フォースターは「結びつけさえすれば……」というエピグラフを掲げた。この言葉が説いているのは、単に「散文と情熱を結びつけよ」ということではなかった。あらゆるもの、あらゆる見方が対立し、矛盾し、孤立した結果、他者との関係を築くことができないまま人々が自己を否定している現代に、「関係」がいかに重要かを説くものだった。人は他者との関係においてしか存在しえない——というより、関係そのものが人間なのであり、われわれには『ハワーズ・エンド』と『ダロウェイ夫人』の主題の本質的な共通性が見えてくるのである。ウルフは、『ハワーズ・エンド』ではまだわずかながら名残をとどめていたリアリズムをさらに徹底的に破壊して、いっさいが破片と化した現実のなかでふたたびその破片を拾い集め、詩的感覚ゆたかな美しい表現で新しい現実を構築しようとしたのであろう。その心には、断片と化した人間像をめぐる苦悩が潜んでいたのにちがいない。(小野寺「死の影と戦う言葉」p.143)

【『ダロウェイ夫人』の語り方は、全能の語り手が、主人公クラリッサ・ダロウェイをはじめとするさまざまな人物の意識に入りこんでしばらくそれを眺めては、その人物を離れてまた別の人物の意識に入りこむ、という特殊なものになっている。そうすることによって、さまざまな異なる人物の意識の断片を拾い集めることができるのだ。】

[4]【主な登場人物の一覧。これらの人々の意識がのぞき込まれる。】

クラリッサ・ダロウェイ 51歳になったばかりの女性。この日、自宅でパーティを開催しようとしている
ピーター・ウォルシュ クラリッサの旧友。かつて恋人だったが、リチャード・ダロウェイに敗れ失恋
サリー・シートン クラリッサの旧友。かつてはクラリッサの熱烈な同性愛的感情の対象だった

ヒュー・ウィットブレッド クラリッサの旧友。俗物で、宮廷の仕事をしている

リチャード・ダロウェイ クラリッサの夫。保守党の国会議員
エリザベス クラリッサの一人娘
ドリス・キルマン エリザベスの家庭教師。狂信的な信仰心の持ち主で、クラリッサの嫌悪の対象

セプティマス・ウォレン・スミス 第一次世界大戦従軍後、シェルショック(戦争神経症)を患っている青年
ルクレツィア(レイツィア) セプティマスの妻。イタリア人
(ウルフ『ダロウェイ夫人』表カバー袖の登場人物紹介、順序を変更した)

[5]時は一九二三年六月なかば(「水曜日」とあるのでおそらく六月十三日だろう)。その日はちょうど、クラリッサ・ダロウェイが保守党の政治家の夫人として、自宅でパーティをひらくことになっている一日である。ウルフがこの小説を書くにあたって影響をうけたと思われるジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(一九二二)同様、『ダロウェイ夫人』も朝に始まり深夜に終わる一日の物語なのである。
 しかしたとえたった一日の物語であっても、その一日のなかにはあらゆる過去の一日が充満している。「この六月の朝の瞬間」には「他のすべての朝が凝集している」のだ。あるいはこの六月の一日の下にはあらゆる過去の一日が地層のように重なりあっている、と言い換えてもいい。だから登場人物たちの心の深層にむかってトンネルを掘り進めば、過去の地層はいつでも彼らの意識のなかに浮かびあがってくる。ウルフは「登場人物たちの背後に美しい洞窟を掘る」ことによって過去を自在に「現在の瞬間」によみがえらせる、みずからが「発見」したこの手法を、適切にも「トンネル掘りのプロセス」と呼んでいる(『日記』一九二三年八月三十日および十月十五日)。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.372-3、丹治愛「訳者あとがき」より)

[6]【小説の冒頭。】
 ミセス・ダロウェイは、お花はわたしが買ってくるわ、と言った。
 ルーシーはたくさん仕事をかかえているのだから。ドアは蝶つがいからはずすことになっているし、ランペルメイヤー菓子店からは配達が来ることになっている。それに、とクラリッサ・ダロウェイは思った。なんてすてきな朝だろう。海辺で子どもたちに吹きつける朝の空気のようにすがすがしい。
 なんという晴れやかさ! 大気のなかへ飛びこんでいくこの気分! ブアトン【イングランド西部の地名】の屋敷でフランス窓を勢いよくあけ、外気のなかへ飛びこんでいったとき、いつもこんなふうに感じたものだった。いまでもあの窓の蝶つがいの少しきしむ音が聞こえるようだ。早朝の空気はなんとすがすがしく、穏やかだったことか。もちろんここよりずっと静かだった。ひたひたと打ち寄せる波のように、その波の接吻のように、空気は冷たく、刺すようで、しかも(あのとき十八歳だったわたしには)厳粛な感じがした。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.11)

【1923年の6月、与党(保守党)有力政治家の妻クラリッサ・ダロウェイ(51歳)が、今夜のパーティの準備で忙しそうなメイドのルーシーに気を使って、パーティーのために飾る花を自分で買いに出かける。玄関のドアを開けて外へ出た途端、空気のすがすがしさがきっかけで、彼女の意識は18歳のころの自分にフラッシュバックする。】

【窓を開けると空気がすがすがしいブアトンの屋敷で、クラリッサは親しい仲間たちと過ごしていた。回想が続く。】

[7]あけはなった窓のところに立ちながら、わたしはなにか怖ろしいことが起こりそうだと感じていた。そして花や、木々からほどけながらのぼってゆく煙【朝靄のこと】や、飛び立っては舞い降りるミヤマガラスをながめていたのだった。するとピーター・ウォルシュが話しかけてきた。「菜園でご瞑想?」——それとも「ぼくはカリフラワーなんかより人間をながめてるほうがいい」だったかしら。彼がそう言ったのは、たしかある朝の食事どき、わたしがテラスに出ているときだった。ピーター・ウォルシュ。じきにインドから帰ってくる。六月だったか、七月だったか、忘れてしまった。ひどく退屈な手紙だったから。思い出すのはあの人の言葉、それにあの目、あのポケット・ナイフ、あの微笑み、あの不機嫌さ。無数の出来事が完全に消え去ったというのに——なんて不思議なんだろう?——キャベツかなにかについての些細な言葉は残っているなんて。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.12)

【若き日のクラリッサの恋人、ピーター・ウォルシュは、その後イギリスの植民地であるインドに渡っていたのだが、近々イギリスに帰るという手紙をクラリッサによこしたのだった。】


[8]【直前の引用のすぐ後の文章。「魅力的な女性だ」からは別の人間の意識に入りこんでいる。】
 彼女は舗道の縁石のうえで少し身を堅くして、ダートナル運送のヴァンが通り過ぎるのを待った。魅力的な女性だ、とスクロープ・パーヴィスは思った(ウェストミンスター【ロンドンの地区、議会や宮殿があり国政の中心】の住人がその隣人を知っている程度には彼女のことを知っていたのだ)。彼女にはどことなく鳥に似たところがある、青緑色の軽やかで活発なカケスのようなところが。五十歳を過ぎ、病気の後めっきり白いものがふえてはいるが。こちらには目もくれず、道を横切ろうと、とまり木にとまっている鳥みたいにまっすぐに立っている。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.12)

【スクロープ・パーヴィスなる人物は、この小説中でこの場面にしか登場しない、単なる通行人である。普通の小説ならただの端役でしかない人物が、この小説では全能の語り手に意識をのぞき込まれることによって、一瞬だけ主人公になることができるのだ。】

[9]ヴァージニア・ウルフの筆はさりげなく登場人物の心の中に入り込み、また波紋も残さずに出てくる。まるでイルカが水面の上と下を縦横に行き来するようだ。普通の小説が登場人物の会話と説明を素材としているとしたら、ウルフの小説は人々のつぶやきと描写によって作られている。場面は現在進行形で語られ、人々の心から心へと渡るうちにその日の出来事の全体が見えてくる。(池澤「幸福感の小説、不幸感の小説」)

【いま語り手は、セント・ジェイムズ公園を歩くクラリッサの意識に深く入りこむ。読者はクラリッサの「意識の流れ」を追うことで、クラリッサが今も諦めきれずにいる青春時代の切ない恋について、詳しく知ることになる。】

[10]もう何百年も離ればなれになっている感じだ、わたしとピーターは。こちらからは一度も手紙を出したことはないし、あちらから来るのはひどくぶっきらぼうな手紙だけ。にもかかわらず突然、こんな思いが心に浮かんだりする、あの人がここにいたらなんて言うかしらって。あの日の、ある光景が、昔の苦々しさをともなわずに静かにあの人の思い出をよみがえらせるのだ。たぶん、それは人を愛したからこそ得られる経験だろう。ある晴れた朝のセント・ジェイムズ公園のまんなかで、かつての思い出がよみがえる。ほんとうにあざやかに。[…]。【ピーターは】いつだって人の性格を批評し、わたしの魂の欠陥を指弾する。わたしにほんとうに厳しいことを言った! そして口論! あなたはいつか総理大臣と結婚し、階段のいちばん上に立って、お客をむかえるだろうね、なんて。わたしを完全無欠の女主人[ホステス]と呼んだりもした(わたしは口惜しくてベッドのなかで泣いたっけ)。完全無欠の女主人になる素質がある、そうあの人は言った。
 だからわたしは、セント・ジェイムズ公園のなかで、気がつくといまだにあの人と口論している。いまだに自分が正しかった、結婚しなかったことが正しかったのだと言い立てている。だって結婚にはわずかでも自由とか独立がなければならないのだから。明けても暮れてもひとつ屋根の下で暮らす人間同士のあいだには。実際、リチャードとわたしのあいだにはそれがある(今朝だって彼はどこにいるのかしら? なにかの委員会。でもそれがなんの委員会か、わたしはたずねたりしない)。ところがピーターときたらすべてを共有しなければ気が済まない。すべてを詮索しなければ。そんなこと耐えられない。だからあの小公園の噴水のそばで喧嘩になったとき、別れなければならなくなったのだ。さもなければふたりともむちゃくちゃになり、破滅していた。それは確実。とはいえ、その後何年間も悲嘆と苦悩が心から離れなかった——まるで矢が心臓に突き刺さっているかのようだった。そしてあるコンサートで、あの人がインドへの航海中に知り合った女性と結婚したと誰かから聞かされたのだ。あの瞬間の凍りつくような思い! (ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.18-9)

【クラリッサが本当に愛していたのはピーターだった。しかしわがままな彼と結婚したのでは彼女自身の自由を束縛されるような気がして、あるとき小公園の噴水のそばで喧嘩になり、それきり二人は別れてしまったのだ。】

【かつて若くて「多感」だったクラリッサは、ピーターから自分が将来、総理大臣の妻で完全無欠の女夫人という、まるで「分別」の権化のようなつまらない人間になると予言され、悔しくて泣いた。】

【しかし結局彼女は結婚に際して「分別」をはたらかせ、自由気ままで無責任なピーターを選ばず、地味で安定感のあるリチャードを選んでしまった。リチャードはクラリッサを拘束しないが、情熱的な愛情に欠けている気がする。】

【そして今日、大臣の地位も夢ではない保守党の有力政治家リチャード・ダロウェイの夫人として、パーティの女主人を務めることになるクラリッサは、ほぼピーターが予言した通りの人間になってしまった。】

[11]高級店が並ぶボンド・ストリートで花を買うクラリッサ・ダロウェイだが、街を歩きながらふと自分が「ダロウェイ夫人」という夫から借りた肩書き以外には社会的に認知されないことに気づき、愕然[がくぜん]とする。薄っぺらな自分の存在について自己嫌悪を感じ、どうしようもない不安と孤独感が胸の内に渦巻いていくのを感じる。(大石「ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』」p.111)

[12]【街を歩くクラリッサは、自分がいかにつまらない人間であるかを感じて寂しくなる。】
わたしがまとっているこの肉体は、いろいろな能力をもっているのに、無、まったくの無としか思えない。自分の肉体が透明で、誰にも見えず、誰にも知られないという変な感覚。もう結婚することも、子どもを産むこともない肉体。ボンド・ストリートを進んでいく、この驚くべき厳かな行進の、大勢の人のなかのひとりというだけ。ミセス・ダロウェイというこの存在。すでにクラリッサですらない。ミセス・リチャード・ダロウェイというだけの存在。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.24-5)

[13]【不安と孤独感を感じたクラリッサは、いつか自分自身が死んだあとの世界について思いをはせる。】
ボンド・ストリートのほうに歩きながら彼女は自問した。自分がいつかかならず跡形もなく消え失せ、そのあともこのすべてがいままでどおりつづいていくとしても、どうでもいいことではないか? べつに腹立たしいことではない。死はすべての終わりにはちがいないが、にもかかわらず自分もピーターもなにかのかたちでこういったロンドンの街並のなかに、諸物の干満に揺られながら、ここそこに生きつづけると信じられるならば、それはむしろ慰めになるのではないかしら? わたしたちがお互いのなかに生きる。たしかにわたしはブアトンの木々の一部、ぶかっこうな、つぎはぎ細工のような、だだっ広いあの屋敷の一部、一度も会ったことのない人の一部となって生き残ってゆく。ちょうど靄[もや]が木々に支えられるように、わたしがいちばんよく知っている人たちのあいだに、靄のように広がりながら、彼らの枝に支えられて。はるか遠くまで生き残ってゆく、わたしの人生が、わたし自身が。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.21-2)

【自分が死んだ後も、身近な人たちが自分のことを覚えていてくれるなら、自分はその人たちの記憶の中で生き続ける、というのはよく分かる。しかしその後にある「一度も会ったことのない人の一部となって生き残る」という一節はよく分からない。クラリッサには、そのように思い込むことで死の恐怖を逃れようとする傾向があるようだ。】

【なお、オカルト的な発想に頼らずに「一度も会ったことのない人の一部となって生き残る」ためには、小説や映画といった物語の登場人物になればよい。実際、クラリッサ・ダロウェイは『ダロウェイ夫人』という小説の主人公になることによって、「一度も会ったことのない人の一部となって生き残る」ことになった。】

[14]こうして一九二三年六月十三日のなかに、登場人物たちの心のなかの「トンネル」をつうじていくつかの過去があらわれる。その過去のなかでもとくに重要なのは、ひとつはクラリッサ・ダロウェイが青春時代を過ごした「一八九〇年代初期」のある夏のこと——イングランド西部にある彼女の屋敷に、恋人のピーター・ウォルシュ、旧友のヒュー・ウィットブレッド、夫となるリチャード・ダロウェイ、そして彼女が同性愛的感情を寄せていたサリー・シートン(その後結婚してミセス・ロセターとなる)などが集まっていた夏。そのときクラリッサはピーターをこばみ、そしてリチャードと結婚する決意をしたのだった。そしてその一方で、「いま死ねば、このうえなく幸福だろう」というオセロの台詞をつぶやきながら、サリーとの至福の瞬間を夢見ていたのだった。夫人のパーティは、その人たちが三十年の歳月を隔てて、ふたたび一堂に会する場となる。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.373、丹治愛「訳者あとがき」より)

【『ダロウェイ夫人』は基本的に、テレビドラマや映画によくある「同窓会もの」なのだ。旧友たちが再会し、過ぎ去った懐かしい昔を回想する。ただしこの小説では、旧友たちがお互いを相手に思いのたけを語り合うのではなく、一人一人が勝手に回想している意識を全能の語り手がのぞき込む、という形を取っているために、ありがちな「同窓会もの」では出せない独特の味わいが生まれる。】

[15]【ボンド・ストリートの花屋で花を選んでいるとき、外の通りから大きな音がしてクラリッサは驚く。】
と、そのとき——ああ! お店の外の通りでピストルの発射音!
「まったく自動車ときたら」と、ミス・ピム【花屋の店主】は言った。[…]。
 ミセス・ダロウェイを跳びあがらせ、ミス・ピムを窓辺へ行かせ、申し訳なさそうな微笑を浮かべさせた大きな破裂音は、マルベリー花店のショーウィンドー真向かいの道路脇に寄っていた自動車からのものだった。通行人たちはもちろん足を止めて目をみはったが、パープルグレーのシートを背景に、やんごとなき人物のご尊顔がかすかに見えたとたん、男の手がブラインドを引いて、パープルグレーの四角いブラインド以外のすべてを消してしまった。[…]。しかしそれが誰の顔だったのかを見た者はいない。皇太子殿下か、女王陛下【国王ジョージ五世の妃】か、総理大臣閣下【保守党のスタンリー・ボールドウィン】か。どなたのお顔だったのか。誰にもわからなかった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.29-30)

【この衝撃音に驚いた人混みの中に、この小説のもう一人の主人公である事務員のセプティマス・ウォレン・スミス(30歳)がいた。心の病を抱えたセプティマスには、自動車が立てた大きな音がまるで「世界が鞭を振りあげた」ように聞こえ、自分が罰せられるのではないかとパニックに陥る。】

[16]セプティマス・ウォレン・スミスは、年のころ三十、顔が青白く、鼻が鳥の嘴のような形をした男だった。茶色の靴に、みすぼらしい外套。その薄茶色の目には、彼をまったく知らない他人をさえ不安にさせるものがたたえられていた。世界は鞭を振りあげた。それはどこに振りおろされようとしているのか?[…]。怖ろしい。世界が揺れ、おののき、そして炎となって燃えあがろうとしている。道をふさいでいるのはこのぼくなんだ。ぼくはみんなから注視され、非難の指をさされているのではないか?[…]。
「行きましょう、セプティマス」と彼の妻が言った。小柄で、目が大きく、青白いとがった顔をした、まだ若いイタリア人の女だった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.31-2)

[17]【セプティマス(30歳)の妻レイツィア(24歳)の意識】
みんなが気づく。わかってしまう。その車を見つめている群衆をながめながら彼女は思った。イギリス人たち——彼らの子ども、彼らの馬、彼らの服装。たしかに素晴らしい服装だと思う。でもいまの自分にはそんなことまで目に入らない。セプティマスが「ぼくは自殺する」と言って以来。なんて恐ろしいことを言うのかしら。そんなことをこの人たちに聞かれたらどうなるだろう? 彼女は群衆をながめた。助けて、助けて! 彼女は肉屋の店員や女たちに大声で叫びたかった。助けて、と。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.33)

[18]【小説『ダロウェイ夫人』で描かれる】もうひとつ重要な過去というのは五年まえに終わったばかりの第一次世界大戦(一九一四年から一八年まで)である。[…]。
 大戦という過去はもちろんミセス・ダロウェイの意識をとおしてもあらわれるが、しかしなんといってもそれは、彼女の「分身」(「モダン・ライブラリー版自序」)としてのセプティマス・ウォレン・スミスを中心とする副筋をとおして提示される。スミスは第一次大戦におもむいた若い志願兵で、あの悲惨な塹壕戦のなかで、同性愛的感情でむすばれていたエヴァンズという名の上官の戦死を体験したのち、シェルショック(戦争神経症)と呼ばれる一種の精神病を患っている(これは、ヴェトナム戦争後のアメリカが悩まなければならなかったのと同様の、一九二〇年代のイギリスが現実に直面していた社会問題だった)。一九二三年六月の現実の背後に、たえずエヴァンズという過去の幻想を透視し、そのために現実自体を「感じられ」なくなっている彼は、自分を療養所に隔離しようとする精神病医のホームズとブラドショーの横暴から逃れたい一心で、アパートの窓から飛び降り、みずから命を絶つ。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.373-4、丹治愛「訳者あとがき」より)

【クラリッサ・ダロウェイの「分身」として創造されたセプティマス・ウォレン・スミスは、最後までクラリッサ本人と出会うことがないが、彼はこの小説のもう一人の主人公である。セプティマスを取り巻く物語は、クラリッサ・ダロウェイの周りの人々の物語と交互に語られる。】

【自宅に戻ったクラリッサは、若いころのことを考えつづける。クラリッサにはピーターの他にも、情熱的に愛していた人物がいた。親友のサリー・シートンである。】

[19]この恋愛の問題(と彼女は上着を片づけながら思った)、女性との恋愛という問題だけど、たとえばサリー・シートンのことを考えてみよう。若いときのサリー・シートンとの関係。あれは結局、恋愛だったのではないだろうか?
 彼女は床にすわっていた。それがサリーの第一印象。膝をかかえ煙草をふかしながら床にすわっていた。あれはいったいどこだったかしら? マニングさんの家? キンロック=ジョーンズさんの家? どこかのパーティだったはずだ(どこだったかははっきりおぼえていないけれど)。一緒にいた男性に、「あの方はどなた?」とたずねたのをはっきりとおぼえているから。するとその人は話してくれて、ついでにサリーの両親はうまくいっていないと言ったのだった(あれはショックだった——親同士が喧嘩をするなんて!)あの晩ずっと、サリーから目を離すことができなかった。素晴らしい美しさだった。浅黒く、目が大きく、わたしがもっとも見事だと感じるタイプの美しさだった。そしてわたしにはないのでいつも羨ましいと思う資質をそなえていた——なんでも言えるし、なんでもできるという一種捨て鉢な雰囲気を。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.62-3)

[20]【若き日のサリーは】虚勢を張ってほんとうに馬鹿なことばかりしていた。テラスの欄干のまわりを自転車で乗りまわしたり、煙草をふかしたり。おばかさんだった。どうしようもないおばかさん。でもその魅力も圧倒的だった。少なくともわたしにとっては。だから家の最上階にあった自分の寝室で、洗顔用のお湯を入れた容器を両手にもって、こう声に出して言ったことがあった、「あの人が同じ屋根の下にいる……この同じ屋根の下に!」
 だけど、いまのわたしにとってその言葉にはまったくなんの意味もない。昔の感情の反響さえ伝わってこない。でもわたしはおぼえている。興奮のあまり全身が冷たくなったこと、一種の恍惚感のなかで髪を整えたこと(いま彼女はヘアピンをとり、それを化粧台のうえに置き、髪を整えはじめたが、そうするとしだいに昔の感情がもどってくるのだった)。ばら色の夕暮れの光のなかでミヤマガラスが舞いあがり舞いおり、ひるがえるように飛んでいたっけ。そして正装して、階下におり、玄関ホールを横切ったとき、「いま死ねば、このうえなく幸福だろう」と感じたのだ。[…]。そしてそれはひとえに、夕食の食卓で、白いドレスを着て、サリー・シートンに会えるという理由からだった!(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.66)

[21]【人生を変えてしまうような濃密なキス。】
サリーはピンクの紗の服だった——そんなことってあるかしら? とにかく全身きらきらと光り輝いて見え、飛びこんできて一瞬イバラの木にとまった鳥か風船という風情だった。誰かに恋をすると(あれが恋でなくてなんだろう?)、ほかの人たちがその人にまったく無関心でいることほど不思議なことはない。[…]。ピーター・ウォルシュとジョーゼフ・ブライトコプフはワグナーについて話しつづけていた。わたしとサリーはその少しうしろを歩いた。そのときだった、わたしの全生涯でもっとも素晴らしい瞬間が訪れたのは。お花が植えてある石の甕[かめ]のところを通り過ぎたときだった。サリーは立ち止まり、花を一本つみ、わたしの唇にキスしたのだ。全世界がひっくり返った感じだった! ほかの人はみんな消えうせ、サリーとふたりきりになった。包装紙で包まれたプレゼントを渡され、なかを見ないでとっておいてね、と言われた感じだった。紙に包まれたダイヤモンド、あるいは途方もなく貴重ななにか——それを(行ったり来たり)歩きまわりながら、わたしはあけた。いや、あけたというより、燦然たる輝きが包装紙を焼ききって外にあらわれたという感じかしら。まさに啓示、宗教的感覚!(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.67-8)

[22]【午前11時、クラリッサが裁縫をしているところに、意外な来客がある。】
「いったい誰かしら? 何事かしら?」、ミセス・ダロウェイはそう自問しながら、階段の足音を聞いていた(と同時に、パーティをひらこうという日の午前十一時にやって来るなんて、なんて無礼なのかしら、とも思った)。ドアに手をかける音がする。彼女はドレスを隠そうとする、あたかも純潔をまもり、秘め事を大切に隠そうとする処女のように。真鍮[しんちゅう]のノブが動いた。ドアがひらく。そして入ってきた——一瞬、名前が出てこない! そんなにも驚いたのだ。そんなにも喜び、はにかんだのだ。この日の朝にピーター・ウォルシュが思いがけず訪ねてくるなんて、ああ、すっかり動転してしまった!(彼女は彼からの手紙をまだ読んでいなかった。)
「お元気ですか?」とピーター・ウォルシュは、たしかに体を震わせながら言った。そして彼女の両手をとり、それに接吻した。老けたなあ、と彼はすわりながら思った。そのことは話題にすまい。ほんとうのことだから。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.76)

[23]「湖のこと、おぼえていらっしゃる?」、ひとつの感情に衝き動かされて、彼女は唐突に言った。その感情は彼女の心臓をつかみ、彼女の喉の筋肉を緊張させ、「湖」と発音したその唇をひきつらせた。[…]。
「ええ」とピーターは言った。「ええ、もちろん、おぼえていますとも」。表面にのぼってくると確実におれを傷つけてしまうなにかを、この人は引っ張りあげようとしているのか。やめろ! やめろ! 彼はそう叫びたかった。おれはまだ老いちゃいない。おれの人生はまだ終わっちゃいないんだ。とんでもない。まだ五十歳をこえたばかりだ。この人に言ってしまおうか。それともやめようか。おれとしては洗いざらい打ち明けてしまいたいが。だけど冷ややかな態度だな。鋏をもって裁縫している。それにデイジー【インドにいるピーターの恋人】はクラリッサとくらべれば並の器量だ。打ち明ければおれのことを失敗者と考えるだろう。この連中の尺度では、ダロウェイ家の尺度では、たしかにおれは失敗者だが。ああ、それはまちがいない。おれは失敗者なんだ。こういうものとくらべたら、象眼細工のテーブル、装飾をほどこしたペーパーナイフ、いるかの置物、燭台、椅子カバー、イギリス製の古く貴重な色刷り版画などとくらべたら、まちがいなく失敗者だ!(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.80-2)

[24]【結局ピーターは自分の恋をクラリッサに告白してしまう。以前結婚していた女性とは別れたピーターは、いまインドで新たな恋人デイジーに出会ったのだった。】
「ぼくは恋しています」と彼は言った。[…]。膝にドレスをのせ、緑色の絹布の端に針を刺したまま、わずかに震えながらすわっている彼女の目は明るく輝いていた。この人は恋をしているんだ! わたしにではない。もちろん誰かもっと若い女性に。
「お相手はどなたなの?」と彼女はたずねた。[…]。
「人妻です、あいにくなことに」と彼は言った。「インド駐屯軍の少佐殿の奥さんです」[…]。
「その人には」と彼はきわめてわかりやすくつづけた。「まだ小さな子がふたりいます、男の子と女の子。離婚について弁護士と相談するために帰国したんです」(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.84-6)

[25]【クラリッサの意識】
なんという人生の浪費だろう! なんて馬鹿なんだろう! これまでもピーターはいつもこんなふうにだまされつづけてきた。最初はオックスフォードからの退学処分、二回目はインドへ渡る船のうえで知り合った女との結婚、今度はインド駐屯軍の少佐殿の奥さんですって。こんな人と結婚しなくてよかった! だけどこの人は恋している。昔からの親友、わたしのピーター。この人は恋しているんだ。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.86-7)

[26]【次第に混乱したピーターは、愛用のポケット・ナイフでやおら自分の爪を削り始める。】
 おれには全部わかっている、とピーターはナイフの刃に指をすべらせながら思った。おれがなにに刃向かっているかを。クラリッサであり、ダロウェイであり、そういった連中。だがきっとクラリッサには思い知らせてやる……と思ったとたん、彼自身も驚いたことに、突然あの制御不可能な力によって宙に投げ出されて、不覚にも泣き出してしまった。恥も外聞もなく、ソファにすわったまま泣きに泣いた。幾滴[いくしずく]もの涙が頬を流れ落ちた。
 クラリッサは身をのりだし、彼の手をとり、体を引き寄せ、彼にキスした。銀色に光る羽毛のような白銀葦[しろがねよし]が、熱帯のあらしのなかで大揺れに揺れるのにも似た胸の動揺をおぼえながら、彼女はピーターの顔が実際に自分の顔に触れるのを感じた。その動揺がおさまると、彼女は握っていた手を離し、彼の膝を優しくたたき、傾けていた体をもとの姿勢にもどした。そのとき、彼といることを異常に心安く感じ、心が軽くなるのを感じた彼女を、突然ひとつの思いが襲った。もしもこの人と結婚していたら、わたしはこうした興奮を一日じゅう味わうことができたのかしら!(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.87-8)

[27]【帰るピーターに、クラリッサが後ろから声をかける。】
「ピーター! ピーター!」クラリッサは彼を追って階段の踊り場まで行き、戸外の騒音に負けないように声を張りあげて、「今夜のわたしのパーティ! 忘れないでね!」と叫んだ。しかし車の往来といっせいに響く時計の鳴る音に圧倒されて、「今夜のわたしのパーティ、忘れないでね!」と叫んだ声は、ドアを閉めたピーター・ウォルシュの耳には、か細くかすかな、そしてはるか遠い音でしかなかった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.90)

【一人になったピーターは、ロンドンの街を歩きながら、若いころブアトンの屋敷で、恋敵のリチャード・ダロウェイに初めて出会った日のことを回想する。】

[28]夕食もなかばを過ぎたところで、はじめてクラリッサのほうに目をやった。彼女は右隣の若い男と話をしていた。そのとき、突如、ひらめいたのだ。「彼女はこの男と結婚する」、おれはそう心のなかで思った。名前さえ知らぬ男だったが。
 もちろんその日の午後、ほかでもないその当日の午後だったのだ、ダロウェイがやって来たのは。クラリッサはあいつを「ウィッカム」【オースティンの『高慢と偏見』に出てくる放蕩者の名前】と呼んでいた。そしてそれがすべてのはじまりだった。誰かが連れてきたあの男の名前をクラリッサがまちがっておぼえたことが。彼女はあいつを一同にウィッカムさんと紹介した。とうとうあの男は「わたしの名前はダロウェイです!」と言った。それがリチャードを見た最初だった。ぎこちなさそうにデッキチェアに腰かけていた金髪の若い男。それが出し抜けに「わたしの名前はダロウェイです!」と言ったのだ。サリーはこれを面白がって、以後いつもあの男のことを「わたしの名前はダロウェイさん」と呼んだものだった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.112-3)

[29]【クラリッサは、リチャード・ダロウェイをピーターに紹介しようとする。】
クラリッサが、いかにも名女主人らしい完璧な身のこなしでやって来て、ある人をご紹介したいのですがと言った。そのときの初対面のような口のきき方におれはむっとしたが、そうしながらもそのことに感嘆を禁じえなかった。おれは彼女の勇気、その社交的素質、物事を徹底してやり抜くその才能に感心したのだ。「完全無欠の女主人[ホステス]だね」とおれは言った。その言葉に彼女はすっかりたじろいだが、それはおれの意図したところだった。彼女とダロウェイが一緒にいるところを見て以来、おれは彼女を傷つけることならなんでもやるつもりだった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.113-4)

[30]【サリーの提案で、若者たちは月明かりのなか、湖でボート遊びをすることになる。クラリッサとリチャードが親しげにしていることにふてくされたピーターは一人で残っていたのだが……】
おれはふり返った。すると、そこにクラリッサがもどって来ていた。おれを誘いにもどって来てくれたのだった。おれはその寛大さ、優しさに打たれた。
「いらっしゃいよ」と彼女が言った。「みんな待ってるわよ」
 生涯のなかであれほどの幸福感はなかった! ひと言も言わずに、おれたちは仲直りした。ふたりで湖へおりていった。おれにとってそれは二十分間の至福の時だった。あの声、あの笑い、あの服(白と深紅のふわっとした感じの)、溌溂とした心、冒険心。彼女はみんなをボートからおろし、湖の島を探検させた。鶏を驚かしたり、笑ったり、歌ったり。そのあいだじゅう、おれにははっきりとわかっていた。ダロウェイが彼女に恋しはじめていることを。そして彼女のほうでもダロウェイに恋しはじめていることを。[…]。ふたりがボートに乗りこむのを見ながら、おれは心のなかで「彼女はあの男と結婚する」とつぶやいていた。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.115-6)

[31]【ピーターはクラリッサの気持ちを確かめるために、彼女を小公園の噴水に呼び出す。】
 噴水は、屋敷からは遠く離れた、木や低木がかたまって生えているちょっとした植えこみのまんなかにあった。彼女は時間より前にやって来た。おれたちは噴水をはさんで立っていた。水の放出口は壊れ、そこから絶えず水がポタポタたれていた。景色というものはなんと鮮明に心に刻みこまれるものなのだろう! たとえばあのときの鮮やかな緑色の苔[こけ]が、そうだ。
 彼女は動かなかった。「ほんとうのことを言ってほしい、ほんとうのことを」とおれは言いつづけていた。額がいまにも割れそうな気がした。彼女は体を石のように堅くしていた。じっと不動のままだった。「ほんとうのことを言ってくれ」とおれがくりかえしたそのとき、ブライトコプフ老人が『タイムズ』をもってひょっこりあらわれた。そしてふたりをじっと見つめ、ぽかんと口をあけたまま、どこかへ立ち去った。それでもふたりとも動かなかった。「ほんとうのことを言ってください」とおれはもう一度くりかえした。なにか堅い物体に体を押しあてているようだった。彼女はあとにはひかなかった。背筋を堅くした彼女は、まるで鉄か火打ち石のようだった。そして「むだだわ。こんなことむだよ。もう終わりですもの」と言った。おれが涙を流して何時間も訴えつづけた(そのように感じられた)あげくの果てに——まるで顔面をなぐられたようだった。彼女はくるりと背を向け、おれを置いて行ってしまった。
「クラリッサ!」とおれは叫んだ。「クラリッサ!」しかしもどってくることはなかった。もう終わったのだ。おれはその晩、ブアトンを離れた。その後、彼女とは会わなかった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.117-9)

【そのころ、セプティマスとレイツィアはリージェント・パークにいた。高名な精神科医サー・ウィリアム・ブラドショーの診察を受けるために予約した時刻まで、時間をつぶしているのだ。】

[32]あの人は、あの木の下の緑色のベンチに腰かけている。独り言をつぶやいているのか、それともエヴァンズというあの戦死した男に話しかけているのか。[…]セプティマスの親友だったけど、あの戦争で亡くなった。でもそういったことは誰にでもある。あの戦争で友人を失わなかった人なんていないのだから。[…]。だけどセプティマスはいつまでも怖ろしいことばかり考えている。わたしだってそうしようと思えばできるのだけれど。あの人はどんどん変になっている。[…]。でもその気になれば楽しい気分にもなれる。バスの二階に乗ってハンプトン・コートに出かけたときは、ふたりともほんとうに楽しんだ。赤や黄色の小さな花が芝生いっぱいに咲いていた。水に浮かぶ灯籠[とうろう]のようだ、とあの人は言ったっけ。おしゃべりをし、作り話をしながら、笑った。だけど川辺に立っていたとき、不意に「さあ、ふたりで自殺しよう」と言いだし、汽車やバスが通り過ぎるときと同じ目つきでじっと川面を見つめた。なにかに魅入られている目つきだった。あの人が離れていくのを感じて、わたしは腕をつかまえた。[…]。
 それから家にもどってくると、あの人はほとんど歩くこともできなかった。ソファに横たわり、落ちる、炎のなかに落ちていく! と叫んで、落ちないようにとわたしに手を握らせていた。壁のところからいくつもの顔がぼくを見て嗤い、ぞっとするような怖ろしい悪態をついているとか、衝立[ついたて]のまわりでいくつもの指がぼくを指さしているとか言った。ほかには誰もいないのに。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.121-2)

[33]あのころ【クラリッサに振られたころ】の惨めな気持ちや苦悩や異常な情熱を思い返してみると、いまのおれはデイジーに恋していると言えるのだろうか? いや、あれとはまったく別物で、はるかに快適なものだ。ほんとうのところ向こうがおれに惚れているんだからな。おそらくそのためだろう、船が出航したあと、おれは異様な安堵感を感じ、ひとりでいたいとひたすら思い、船室のなかに彼女のちょっとした気遣い——葉巻やらメモやら航海用の膝掛けやら——を見つけて、かえって迷惑に思ったものだった。正直な人間ならば、誰だって同じことを言うだろう。五十歳を過ぎれば他人などいないほうがいい。女にむかってかわいいなどと、いつまでも言いつづけたくはない。たいがいの五十男はそう言うだろう、とピーター・ウォルシュは思った、もし正直な人間であるならば。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.144-5)

[34]だけどそれにしても、あの感情の発作、今朝のあのむせび泣きは、われながらいったいなんだったのだろう? クラリッサはどう思ったろう? たぶん愚かだと思ったろうな、今回がはじめてというわけじゃないけれど。根底にあるのは嫉妬心——人類のほかのあらゆる情熱が消えたあとにも残る嫉妬心だった。ピーター・ウォルシュはポケット・ナイフをもつ腕を突き出して、そう思った。このところオード少佐に会っています、と前回の手紙でデイジーは書いて寄こした。わざと書いたってことはわかっている、嫉妬心を起こさせるために。なにを書けばおれが苦しむか思案しながら、額に皺を寄せて机にむかっているあいつの姿が見えるようだ。だがわかっていても感情は変えられない。腹が立つ! わざわざイギリスまで弁護士に会いに来たのは、ほんとうはあいつと結婚するためじゃない、あいつがほかの男と結婚できなくするためなんだ。そのことがおれを苦しめる。クラリッサが冷淡なほど落ち着きはらって、ドレスかなにかを一心に繕っている姿を見て、おれの心に浮かんだのもそのことだった。彼女のためにおれはなんて男になりさがってしまったのだろう、彼女しだいでそうならずに済んだかもしれないのに——めそめそ泣く馬鹿な老いぼれ。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.145)

【レイツィアとセプティマスの回想という形で、セプティマスの過去が語られる。】

[35]外見からいえば、彼は事務員ふうだった。それも下っ端の事務員ではない。茶色の深靴【ブーツ】をはいていたし、手には教育のある人らしい繊細な感じがあり、横顔も同様だった[…]。世に多くいる中途半端な教育をうけた人間、著名な作家に手紙を出して助言をもらいながら、公立図書館から本を借り、それを一日の仕事を終えたあと夜の時間に読むことによりすべてを学んだ独学者の一人だった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.152)

【地方から上京した典型的な「ロウアー・ミドル・クラス」(下流中産階級)のセプティマスは言わば、「成功したレナード・バスト」のような存在であった。『ハワーズ・エンド』に登場する下流中産階級の事務員レナード・バストは、独学で教養を身につけようとするもののそれが実益に結びつかず失業するが、同じように独学者のセプティマスは「競売業、価格査定業、土地不動産周旋業のシブリー・アンド・アロウスミス商会」の有能な事務員であり、支配人からも信頼されており、将来の出世が約束されていた。】

【そんなセプティマスの人生を狂わせたのは、第一次世界大戦の勃発である。義勇兵として志願したセプティマスは、エヴァンズという上官と親しくなる。どうやら二人の間には同性愛的関係があったらしい。】

[36]【セプティマスは】男らしくなり、下士官に昇進し、エヴァンズという名の将校の注目を、というより愛情を得た。ふたりはまるで暖炉のまえの敷物のうえでじゃれあう二匹の犬だった。一匹は唸ったり噛みついたりしながら丸めた紙にじゃれつき、と思うとときどき年とった犬の耳をひと噛みする。もう一匹はうとうとと寝そべりながら、目を細めて暖炉の火をながめ、足をあげては、上機嫌に寝返りをうったり、唸ったり。そんなふうにしてふたりはいつも一緒で、互いに分かち合い、取っ組みあい、口論した。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.155-6)

[37]エヴァンズが、休戦の直前にイタリアで戦死したとき、セプティマスはまったく動揺の色を見せず、これで友情が終わったと落ちこむこともなく、ほとんどなにも感じなくて、平静でいられる自分を喜んだ。[…]。最後の砲弾は彼を逸れた。それが炸裂するのを彼は無関心のまま見つめた。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.156)

【終戦時ミラノにいたセプティマスは、ミラノの宿舎の娘だった帽子職人のルクレツィアと結婚する。しかしそのころから彼は、エヴァンズが死んだときに何も感じなかったことに対して猛烈な罪悪感を抱くようになる。】

[38]エヴァンズが戦死したとき、ぼくは平然としていた。あれは最悪だった。だがその他のあらゆる罪悪も、ぼくが夜中に目をさますと、ベッドの手すりごしに頭をもたげ、非難の指を振り、退廃を自覚しひれ伏しているぼくの肉体を、嘲笑し、冷笑する。お前は愛してもいないのに妻と結婚し、妻に嘘をつき、誘惑し、ミス・イザベル・ポール【セプティマスが尊敬していた社会人大学の文学教師】を侮辱した[…]。そんな卑劣漢にたいして人間性がくだす評決は死なのだ、と。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.164)

【時間は現在に戻り、セプティマスは高名な精神科医サー・ウィリアム・ブラドショーの診察を受ける。診察を終えたサー・ウィリアムがレイツィアと話す。】

[39]要するに安静の問題なのです、とサー・ウィリアムは言った。必要なのは安静、安静、安静なのです。ベッドで長時間安静にしていることです。田舎のほうに、ご主人が完璧な世話をうけられる快適な療養所[ホーム]があります。わたしと離れてですか? と彼女はたずねた。残念ながらそうです。病気のときには、患者がいちばん愛している人がむしろ害となるのです。ですが主人は狂ってはいないのでしょう? わたしはけっして「狂気」という言葉はつかいません、とサー・ウィリアムは言った。均衡の感覚を欠いている、と言うことにしています。でも夫はお医者さまが好きじゃありません。行かないと言い張るでしょう。簡潔にそして親切にサー・ウィリアムは彼女に患者の病状を説明した。ご主人は自殺するとおっしゃいましたね。とすればほかに選択肢はありません。これは法律の問題なのです。田舎にある美しい家でベッドに横たわり安静にするのです。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.174)

【ブラドショー医師は今日の夕方、セプティマスを療養所に連れ去る使いをよこすという。失望したレイツィアは、夫を連れてブラドショー医師の家から去る。家の前には、ブラドショーの豪華な自動車が駐まっている。】

[40]こんな苦しみを感じたのはいままで一度も、ただの一度もなかった! 助けを求めたのに、見棄てられてしまった! わたしたちは見棄てられたのだ! サー・ウィリアム・ブラドショーはいい人じゃない。
 あの車は、維持費だけでも相当なものだろうね、とふたりが通りに出たときにセプティマスは言った。
 彼女は彼の腕にしがみついた。わたしたちは見棄てられたんだわ。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.177-8)

【クラリッサの夫リチャード・ダロウェイは、昼食会の席でピーターが帰国したと聞き、ピーターに嫉妬する。】

[41]むかしピーター・ウォルシュはクラリッサに恋していた。昼食が終わったらすぐに帰宅してクラリッサを見つけよう。そしてはっきり、愛していると言おう。うん、そう言おう。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.192)

[42]なにか贈り物をもっていきたい。花か? そう、花がいい。金のアクセサリーを見る目には自信がないからな。ばらでも蘭でもたくさん買っていこう、昼食でピーター・ウォルシュが話題になったときに感じた彼女への気持ちの記念として。あれはどう考えても記念すべきことだ。ふたりともそういう気持ちを口に出さない。長いあいだ、そうしたことがない。でもそれはたいへんなまちがいだ。赤と白のばら(薄葉紙[うすようし]で包まれた大きな花束)をぎゅっと握りしめて、彼はそう思った。いつかそんな気持ちを口に出せなくなる。口にするのが恥ずかしくなる。そう思いながら、彼はお釣りとしてうけとった六ペンス銀貨を一、二枚ポケットにしまい、大きな花束を体に押し当てるように抱えて、ウェストミンスターにむかって歩きはじめた。彼女がどう思おうと、花を差し出し、はっきり「愛している」と言うために。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.205-6)

[43]【突然帰ってきたリチャードにクラリッサは驚く。】
ドアのノブが静かにまわり、入ってきたのはなんとリチャード! まあ、驚いた! リチャードが花束を差し出しながら入ってくるなんて。[…]。この人は花束を差し出している——ばら、赤と白のばら。(だけど愛していると言うのは気恥ずかしい。はっきりとそう言うつもりだったが。)
 きれいね、と花をうけとりながら彼女は言った。わかってくれている。おれが口にしなくてもわかってくれている。おれのクラリッサは。彼女は花をマントルピースのうえの花瓶に挿した。なんてきれいなんでしょう! と彼女は言った。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.210-1)

[44]【クラリッサは、自分にとってパーティとは何なのかを考える。『ハワーズ・エンド』の「ただ結びつけることさえすれば……」を思わせる一節。】
[…]ピーターがわたしに「なるほど、だけどあなたのパーティ——あなたのパーティの意味はなんなんです?」とたずねるとしよう。わたしはにはこう言えるだけだ(誰にも理解してもらえないと思うけれど)。それは捧げ物です、と。ひどく漠然とした言い方に聞こえるだろうが。[…]。誰それがサウス・ケンジントンにいる。べつの誰かがベイズウォーターにいる。またべつの誰かがたとえばメイフェアにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。それは捧げ物なのだ。人びとをむすびあわせ、そこからなにかをつくり出すってことは。でも、誰にたいする捧げ物なのだろう?
 おそらく捧げ物のための捧げ物だ。とにかくそれがわたしの天賦の才能。ほかにはどんな些細な才能もまるでない。考えることも、書くことも、ピアノを弾くことさえできない。[…]。
 それでも一日の終わりにはつぎの一日がつづいてゆく。水曜、木曜、金曜、土曜と。朝になってめざめ、空を見、公園を歩き、【旧友の】ヒュー・ウィットブレッドと出会う。それから不意にピーターが訪ねてくる。それからあのばらの花。それでじゅうぶん。こういった一日の出来事のあとでは、死が、こういったことに終わりがあるなんて、とても信じられなくなる! どれほどわたしがこういったもののいっさいを愛しているか、世界中の誰にもわからないだろう。どんなに一瞬一瞬を愛しているか……(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.217-9)

【ブラドショー医師のところから帰ったセプティマスは、久しぶりにいつもの優しい彼に戻っている。レイツィアは、家主の娘のミセス・ピーターズのために作っていた帽子を、セプティマスに手伝ってもらうことにする。ふたりは冗談を言って笑いながら帽子を完成させる。】

[45]素晴らしい。こんなに誇らしく思えることは、これまでやったことがない。それほどの現実感、それほどの実在感をもっている。ミセス・ピーターズの帽子は。
「見てごらん」と彼は言った。
 そう、この帽子を見るたびにわたしは幸福を感じるだろう。これをつくったとき、あの人はいつものあの人だった。あのとき、あの人は笑った。わたしたちはふたりきりだった、なんて思い出して。ずっとこの帽子を大切に思いつづけるだろう。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.256)

[46]たとえあの人たちがあなたを連れていっても、わたしも一緒についていくわ、と彼女は言った。わたしたちの意志に反して引き離すことなんかできるはずないわ。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.62)

[47]【やがてブラドショー医師の指示を受けたホームズ医師が、セプティマスを連れ去りにやって来る。】
【レイツィアは】ホームズ先生がたぶんやってきたんだと思い、のぼってこさせないために急いで階段を駆け下りた。
 彼女が階段でホームズに話しかけている声がセプティマスに聞こえた。
「奥さん、わたしは友人として来たのです」とホームズは言っている。
「いいえ、夫を診ていただくわけにはいきません」と彼女は言った。[…]。
「奥さん、失礼ですが……」と、ホームズは相手を脇に押しのけながら言った(ホームズはがっしりとした男だった)。
 ホームズがのぼってくる。やつはドアを勢いよくあけるだろう。「怯えてるのか? ええ?」と言うだろう。そしてぼくをつかまえるだろう。だが、そうはさせない。ホームズにもブラドショーにも。彼はふらふらしながら立ちあがり、というより右足と左足で交互に跳ねているようだったが、柄のところに「パン用」と彫ってある、ミセス・フィルマー【家主】のきれいなパン切りナイフを思い浮かべた。ああ、でもあれを汚しちゃあ悪い。じゃあ、ガスは? 手遅れだ。もうホームズが来てしまう。剃刀があったかもしれない。だけどレイツィアが荷づくりしてしまった、いつものように。残るは窓だけだ。ブルームズベリの下宿屋の大きな窓。その窓をあけて飛びおりるなんて、面倒で厄介でいかにもメロドラマチックな行動だ——あいつらにすれば悲劇なのだろうが、ぼくとレイツィアにとってはそうじゃない(彼女はぼくの味方だから)。とにかくホームズとブラドショーはその種の悲劇が大好きだ。(彼は窓枠に腰かけた。)だが最後の瞬間まで待とう。ぼくは死にたくはない。人生はいいものだ。太陽が熱い。ただ人間というのは——いったいやつらはなにがほしいというんだろう? 向かいの家の階段をおりてゆく老人が足を止めて、こっちを見つめている。ホームズはドアのところまで来た。「これをうけとるがいい!」と彼は叫んで、勢いよく、乱暴に身を投げた、ミセス・フィルマーの家のまえの鉄柵めがけて。
「臆病者め!」と、ドアを勢いよくあけながらホームズ医師は叫んだ。レイツィアは窓へ駆け寄って、見た。そして理解した。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.264-5)

[48]【ピーター・ウォルシュが、若いころのクラリッサが言っていたことを思い出す。】
バスに乗ってシャフツベリ・アヴェニューを走っていたとき彼女は言った、自分があらゆる場所に存在している感じがするの、と。[…]。だからわたしなり誰かなりを知るためにはその人を完成させている人たちを、そしてその人を完成させている場所も、見つけださなければならないのよ。一度も話しかけたこともない人、たとえば通りを歩いている女やレジに立っている男にも、わたしは奇妙な親近感を感じる。木々や納屋にさえ。そして結局それはひとつの超越的な理論になってゆくのだった。その理論のうえに立って、そしてそこには死の恐怖も働いていたが、彼女は(その懐疑的傾向にもかかわらず)こう信じていた、あるいは信じていると言っていた。外なる現象としてのわれわれ、われわれの目に見える部分は、それとはべつの目に見えない、広々と広がっている部分とくらべればひじょうにはかないのであり、その目に見えない部分はわれわれの死後も残り、どういうかたちでかあれやこれやの人にむすびついたり、ある場所にとりついて生きつづける、と……たぶん、そうかもしれない。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.271)

【ピーターは迷った末に、やはりクラリッサのパーティに顔を出す。クラリッサが二階の客間に向かう階段の上で客たちを出迎えている。】

[49]「お会いできてとても嬉しいわ!」とクラリッサ。彼女は誰にでもそう言う。お会いできてとても嬉しいわ! 彼女のいちばん嫌なところだ——不誠実なほど感情たっぷりに言うところ。来たのはまちがいだった。ホテルで読書でもしていればよかった、とピーター・ウォルシュは思った。ミュージック・ホールに行くのもよかった。やはりホテルで過ごすべきだった。知らない人ばかりだ。
 ああ、きっと失敗に終わるわ。完全な失敗に。親愛なるロード・レクサムがバッキンガム宮殿の園遊会で風邪をひいてしまった妻の欠席を詫びるのを聞きながら、クラリッサはそう確信した。あそこ、あの部屋の隅で批判的に見つめているピーターの姿が目の端に見える。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.297)

【階段の上でパーティの客たちを出迎えていたクラリッサは、かつての情熱的な恋の相手、サリー・シートンと再会する。サリーの容貌はすっかり変わり、かつて濃密なキスを交わしたころの若々しい美女の面影はない。】

[50]なんていう名前? レイディ・ロセター? だけどレイディ・ロセターって誰のことだったかしら?
「クラリッサ!」その声は! サリー・シートンだ! サリー・シートン! なんて久しぶりかしら! 靄のなかから昔の面影がぼうっと見える感じ。だってこんなじゃなかったもの、サリー・シートンは。昔、洗顔用のお湯入れをもって、あの人がこの同じ屋根の下にいる、この同じ屋根の下にいる、この同じ屋根の下に! と思ったことがあった。あのときとはまったく違う!
 ころがるように飛び出してきた言葉が、まごつき、笑いながら、互いに重なりあった。途中ロンドンに寄ってみたら、クレアラ・ヘイドンから聞いて。あなたにお会いできる絶好の機会! それでお邪魔したのよ——招待をうけていなかったけれど……
 いまなら洗顔用のお湯入れをもって興奮することもないだろう。かつての輝きは彼女にはないから。だけど再会できたのはほんとうに意外。年をとり、幸福になり、かつてほどの美しさではなくなった彼女と。客間のドアのそばでふたりは片方の頬に、それからもう片方の頬に接吻しあった。そしてクラリッサは両手でサリーの手をとってふりかえり、お客でいっぱいの部屋を見、がやがやと話しあう声を聞き、大燭台や、風に揺れるカーテンや、リチャードから贈られたばらの花を見た。
「大きな息子が五人もいるのよ」とサリーは言った。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.304-5)

[51]【サリーとピーターが話し込んでいるのを、クラリッサが遠くから眺めている。】
彼女とピーター、一緒にすわりこんでいる。おしゃべりしている。とてもうちとけた感じだ——ああしておしゃべりしているところは。ふたりは昔話をすることだろう。あのふたりとはわたしは過去を共有している(リチャードと共有しているよりもっと多くの過去を)——あの庭、あの木々[…]。いつもサリーはそういった思い出の一部を占めている。ピーターも。でも挨拶をしに行かなければ。ブラドショー夫妻があそこに来ているから。嫌いな人たちだけど。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.324-5)

[52]【精神科医ブラドショーの夫人は、夫の患者が今日一人自殺したことを語る。】
レイディ・ブラドショー[…]は、こう囁くように言った、「家を出ようとしたところに、主人に電話がかかってまいりましたの。とても悲しい出来事でしてね。青年が自殺したというのです[…]。軍隊にいた青年なんです」。ああ! わたしのパーティのまっただなかに死が入りこんできた、と彼女は思った。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.327)

【衝撃を受けたクラリッサは、パーティの喧噪を逃れて、誰もいない小部屋に入り、死んだ青年(セプティマス)に思いをはせる。】

[53]窓から身を投げたそうだ。地面がぱっと浮きあがってくる。鉄柵の錆びついた忍び返しが、ぶざまに転落した体に傷口をあけ、刺しつらぬく。地面に横たわる肉体の脳の内部で、どく、どく、どく、という音が聞こえ、その後にいっさいを覆う闇が訪れる。わたしにはそのような情景が見える。[…]。
 わたしは一度、サーペンタイン池に一シリング銀貨を投げ入れたことがあった。でもそれだけ。だけどその青年はそれ以上のものを投げ出したのだ。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.328)

【小部屋の窓から向かいの建物を見ると、ときどき見かける老婆がちょうどベッドに入るところが見える。】

【パーティの数時間前、クラリッサは老婆が暮らす部屋を眺めながら、「実際、まさにこれこそが至高の神秘なのだ——こちらにひとつの部屋があり、向こうにもうひとつの部屋がある、ということが」(p.228)と考えていた。】

【パーティの喧噪やセプティマスの死の衝撃に満たされた彼女の部屋から離れた別の部屋で、安らかに眠りにつく老婆の姿を眺めながら、クラリッサは次第に癒されていく。】

[54]向かいの部屋ではおばあさんがベッドに入るところだ。おばあさんが動きまわり、部屋を横切り、窓辺に近づくのを見るのは、魅力的な光景だ。おばあさんにはわたしが見えているかしら? 客間でいまだに人びとが笑ったり叫んだりしているときに、あのおばあさんが静かにベッドに入ろうとしている光景は、魅力的だ。いまブラインドをおろしている。時計が時を打ちはじめた。その青年は自殺した。でもわたしは憐れんだりしない。時計が打っている。一つ、二つ、三つ。わたしは彼を憐れんだりしない。こちらでは相変わらず喧噪がつづいている。あら! おばあさんが明かりを消した! 家全体が暗くなった、こちらでは喧噪がつづいているのに、と彼女はくりかえした。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.332)

[55]パーティにもどらなければ。でもなんて異様な晩なのだろう! どういうわけか自分が彼に似ている気がする——自殺をしたその青年に。彼がそうしたことをうれしく思う。生命を投げだしてしまったことをうれしく思う。時計が打っている。鉛の輪が空中に溶けてゆく。彼のお蔭で美を感じることができた、楽しさを感じることができた。だけどもどらなければ。人びとのもとへ集わなければ。サリーとピーターを見つけなければ。彼女は小部屋から出ていった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.332-3)

【クラリッサは自分に似たところのあるセプティマスの自殺をきっかけにして、自分が今生きていることの幸運を確認している。セプティマスに対してあまりに残酷だが、そういう残酷さもまたクラリッサの一部なのだ。】

[56]【サリーはピーターに、ダロウェイ夫妻が幸福なのかどうかを尋ねる。】
それで結局、ふたりはしあわせなのかしら? とサリーはたずねた(わたし自身はこのうえなくしあわせだけど)。というのは、たしかにわたしは、あのふたりについてはぜんぜんなにも知らないから、よく人がやるようにいっぺんに結論に飛んでしまうの。しあわせか、しあわせじゃないかって。だって毎日一緒に暮らす人についても、わたしたちいったいなにがわかっているのかしら? と彼女はたずねた。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.344)

【ピーターははっきり答えない。サリーもはっきりした答を求めてはいない。むしろ答は読者に委ねられる。】

【ピーターとサリーは、「分別」と「多感」、あるいは「理性」と「感性」について語り合う。】

[57]若いときには気持ちが高ぶりすぎていて人のことを知ることができないものです、とピーターは言った。年をとると、正確にいえばぼくは五十二歳ですが(わたしは体は五十五歳だけど心は二十歳の娘ですよ、とサリーは言った)、そして成熟してくると、人を観察し理解できるようになる。といって感じる力を失うわけじゃありません、とピーターは言った。ええ、ほんとうにそうね、とサリーは言った。わたしは年ごとにだんだん深く、だんだん情熱的にものを感じるようになっているわ。感じる力は高まってゆくものなんです、と彼は言った。それはおそらく困ったことでしょう。だけどわれわれはむしろそれを喜ぶべきですよ。ぼくの経験では感じる力はいつまでも高まりつづけます。(ウルフ『ダロウェイ夫人』p.346)

[58]【小説の最後の場面。サリーは「頭」より「心」、「理性」より「感性」が大事だと言い残して去っていく。】
「リチャードは昔よりよくなったわね。あなたのおっしゃるとおりだわ」とサリーは言った。「行って話をしてくるわ。お別れを言ってくるわ。心にくらべれば」とレイディ・ロセターは立ちあがりながら言った。「頭なんか問題じゃないのよ」
「ぼくも行くよ」とピーターは言ったが、ちょっとのあいだそのまますわっていた。このぞっとする感じはなんだろう? この恍惚感は? 彼は心のなかで思った。おれを異様な興奮でみたしているのは何だろう?
 クラリッサだ、と彼は言った。
 そこに彼女がいたのだった。(ウルフ『ダロウェイ夫人』pp.347-8)

【ついにピーターの前にクラリッサが現れた時点で小説は終わる。この時点でクラリッサ・ダロウェイという人物の描写が完成するからである。】

[59]「ダロウェイ夫人」という社会的存在としての名をあたえられた一人の人間は、読者がこの作品を読み終わったときにはじめて誕生するのである。作者ウルフは、そこにいたるまで、つまりこの女性が社会的存在として誕生する時まで、その存在を形成する物質的・肉体的素材と、精神的素材の細胞と言おうか、それを少しずつ少しずつ累積していく——その過程がこの小説なのだ。その、仮に細胞と呼んでおくものは、ほんの一瞬の感情や記憶の一片にすぎないような場合もあるが、それらはすべて、最後にダロウェイ夫人となる人物を媒体として時代社会を形成するのである。つまりダロウェイ夫人とは、彼女が生きている時代の社会と文化そのものなのだ。(小野寺「死の影と戦う言葉」p.139)

(『ダロウェイ夫人』[後半]に続く)
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【引用した文献】

●ヴァージニア・ウルフ作、丹治愛訳『ダロウェイ夫人』(集英社文庫、2007年)[原著1925年]
●マイケル・カニンガム作、高橋和久訳『めぐりあう時間たち——三人のダロウェイ夫人』(集英社、2003年)[原著1998年]

●池澤夏樹「幸福感の小説、不幸感の小説」ヴァージニア・ウルフ、ジーン・リース著『灯台へ/サルガッソーの広い海』別刷月報(河出書房新社[池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 II-01]、2009年)
●大石和欣「ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』」工藤庸子・大石和欣編著『世界の名作を読む(放送大学教材)』(放送大学教育振興会、2007年)108-16ページ
●小野寺健「死の影と戦う言葉——ウルフにおける生命力と言語表現の一体性」窪田憲子編著『シリーズ もっと知りたい名作の世界 (6) ダロウェイ夫人』(ミネルヴァ書房、2006年)134-46ページ

(『ダロウェイ夫人』[後半]はこちら)
(c) Masaru Uchida 2009
ファイル公開日: 2009-4-22
[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
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