[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
放送大学岐阜学習センター 平成21年度第1学期 面接授業 内田勝(岐阜大学地域科学部)
映画で読むイギリス小説 第8部 (2009年04月19日 15:15-16:40)
マキューアン原作『つぐない』[後半]([前半]はこちら)
*参照した映画:ジョー・ライト監督『つぐない』(日本公開2008年)
引用文中の[…]は省略箇所、[ ]内の文字は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]1940年5月10日、ドイツ軍は第一次大戦時と同様、中立を侵犯してベルギー、オランダ、ルクセンブルクに侵入した。連合国軍は不意をつかれ、5月15日オランダ軍は降伏し、オランダ国王と政府はロンドンに亡命した。同月19日、ドイツ軍はイギリス海峡【英仏間の海峡】に達し、英仏軍を南北に分断した。28日ベルギー国王は軍とともに降伏した。北部に孤立した英仏軍33万は、6月4日までにダンケルク【フランス北部の港町】からイギリス本土に撤退した。翌5日、ドイツ軍はパリに向け総攻撃を開始し、14日パリを占領した。(吉田輝夫「第二次世界大戦 - 大戦の経過 - フランスの降伏」『日本大百科全書』[小学館、無料オンライン百科『Yahoo!百科事典』<http://100.yahoo.co.jp/>より])
[2]ダンケルク撤退作戦:第2次世界大戦初期、1940年5月27日から6月4日にかけ、ドイツ軍の猛攻下の連合軍をダンケルク付近から英仏海峡越えに、イギリス本土に撤退させた作戦。ドイツ軍は5月10日にその西部国境から攻勢を開始し、英仏連合軍主力はこれに応じ、ベルギー、オランダでこれを迎撃しようとした。しかしアルデンヌ森林地帯をひそかに前進してきたドイツ装甲部隊が、セダン付近で英仏軍の戦線を突破、西進して作戦開始10日後(5月20日)には英仏海峡に達し、英仏軍主力を海岸地域に包囲した。英仏軍は対抗措置も奏効せず、またベルギー軍が降伏していよいよ苦境に立ち、5月26日撤退(ダイナモ作戦)開始が命令された。大小のイギリス民間船を含む850隻が海峡地区に集められ、ドイツ軍の空陸からの猛攻撃下、8日間で33万8000人(うち11万2000人はフランス兵)を乗船撤退させた。困難な作戦にもかかわらず成功したことは〈ダンケルクの奇跡〉とも称せられるが、ヒトラーが5月24日装甲部隊の海岸諸港に対する突進を停止させたことに助けられた面が大きい。(前原透「ダンケルク撤退作戦」『世界大百科事典』[平凡社、有料サイト『ネットで百科@Home』<http://www.mypaedia.jp/netencyhome/> より])
【ロビー・ターナーは、ダンケルクからイギリス本土への撤退を目指す英仏軍33万人のうちの一人だった。】
[3]この作品【『贖罪』】では「フィクション」の罪が問われると同時に、「歴史」の罪も問われている。1940年のイギリス軍ヨーロッパ撤退は歴史で名誉ある戦略上の撤退と規定されているが、実は惨めな敗退であったことがこの物語の圧倒的な力で露わにされている。「名誉」と「恥辱」が歴史という「フィクション」の中ですり替えられている事態をマキューアンは鋭く指摘しているのだ。(服部「フィクションの『つぐない』」p.752)
【「第二部」では、将校ではなく一兵卒として第二次世界大戦に参加したロビーが、伍長二人とともにフランスからの撤退をめざす悲惨な行軍が、ロビーの視点から語られる。】
【撤退すべき方角の分からないネトル伍長とメイス伍長は、一兵卒でありながら学があって地図も読めればフランス語も話せるロビー・ターナーと行動をすることにする。】
[4]階級はターナーのほうが下だったが、ふたりは彼のあとを歩き、彼の言うことすべてに従って、面子[メンツ]を保つために彼を冷やかしつづけた。ふたりにとっては気まずい状況だった。ターナーは将校のように振る舞っていたが、徽章[きしょう]には少尉の一本線すら入っていなかった。最初の晩、焼け落ちた学校の自転車小屋に隠れていたとき、ネトル伍長が言ったものである。「お前みたいなただの兵隊が、なんでお坊ちゃんみたいな言葉遣いしてやがるんだ?」(マキューアン『贖罪[下]』pp.12-3)
【ロビーは、出獄と入隊の間にロンドンで一度だけセシーリアに会った日のことを回想する。】
[5]看護婦のケープをまとってカフェに入ってきた彼女をみて、彼はここちよい放心状態から覚め、あたふたと立ち上がって紅茶を引っくりかえした。[…]。ふたりは腰を下ろし、たがいの顔を見つめ、ほほえんで目をそらした。[…]。
バスが来たが、彼女は手を放さなかった。ふたりは顔を見つめあって立っていた。彼は軽くキスし、それからふたりは身を寄せ合った。舌が触れあったときには、彼の肉体から抜け出した思考が、ひとつの絶望的なありがたさを覚えていた——これで自分は頼るべき記憶ができた、これから何ヶ月のあいだあてにできる記憶が、と。そして今、フランスの農家の納屋で横になった夜更[ふ]け、彼はその記憶に頼っているのだった。(マキューアン『贖罪[下]』pp.33-5)
【ロビーはセシーリアとの文通を回想する。二人の夢は、イングランド南西部のウィルトシャーにコテージを借りて、二人で休暇を過ごすことだった。】
[6]ガートン・カレッジの友人のつてでウィルトシャーに借りられるコテージを彼女が見つけていたので、ふたりは空き時間にはそのことしか考えられなかったが、手紙でいたずらに夢想することは慎んだ。[…]。彼を不安にさせたのは、戦場に送られる可能性ではなく、ウィルトシャーでの休暇という夢がおびやかされることだった。(マキューアン『贖罪[下]』pp.36-8)
[7]【セシーリアは事件以来、家族といっさい会おうとしない。彼女はロビーに宛てた手紙で家族のことを語る。】
「あの人たちがあなたの人生をぶちこわしたとき、わたしの人生もぶちこわされたのです。あの人たちは、愚かでヒステリックな少女の証言を信じるほうを選んだのです。それどころか、あの子を追いつめてけしかけたのよ。たしかにあの子はほんの十三でしたけれど、わたし、あの子はもう話したくありません」(マキューアン『贖罪[下]』p.39)
[8]【ロビーがフランスの戦場で最後に受け取った手紙で、セシーリアはブライオニーの近況を語る。】
「わたしに会いたいそうです。自分が何をしたか、それがどういう意味を持っていたか、やっとはっきり分かってきたらしいの。大学に行かなかったのは、明らかにそれと関係があります。[…]。看護婦になったのは悔悛[かいしゅん]の苦行のつもりじゃないかとわたしは見ています。[…]どうやらあの子は証言を取り消したいらしいの。公式に、あるいは法的に、証言を撤回したいのだと思います」(マキューアン『贖罪[下]』p.44)
[9]無実が立証されるかもしれないという知らせには、愛のような純粋さがあった。その可能性を味わっただけでも、これまでいかに多くのものが枯れしぼんでいったかが思い出された。[…]。罪をすすぐことは生まれ変わること、輝かしい復帰をとげることだった。ふたたびあの自分に戻れるのだ。かつて一張羅のスーツを着て、人生の希望に足取りも軽くサリーの田舎道をゆき、邸[やしき]に足を踏み入れて、明快な情熱をもってセシーリアを愛した自分に[…]。あの夕方、自分が歩きながら計画した物語が再開できるかもしれないのだ。自分とセシーリアはもはや孤立しないでいられるだろう。(マキューアン『贖罪[下]』pp.68-9)
【ロビーは、ブライオニーが執拗に自分を陥れようとした原因を考えて、彼女が10歳のときに二人で川に行った日のことを思い出す。】
[10]彼女は言った。「わたしが川に落ちたら、助けてくれる?」
「助けるとも」
答えたときバスケットにかがみこんでいた彼には、水音は聞こえたが、彼女が飛びこむところはみえなかった。タオルが土手に落ちていた。プールに広がってゆく同心円のさざ波のほかには、ブライオニーは影も形もなかった。[…]。選択の余地はなかった——靴もジャケットもすべて身につけたまま、彼は水に踏みこんだ。ほとんど一瞬でブライオニーの腕を見つけ、脇[わき]の下に手を回してすくい上げた。驚いたことに、ブライオニーは息を止めていた。そして嬉[うれ]しそうに笑いだし、彼の首にしがみついた。[…]。森から出て庭の小門を抜けたとき、彼女は足を止めて振り返った。[…]。
「どうしてあなたに助けてもらいたかったか分かる?」
「いや」
「分かるでしょ?」
「分からないね」
「愛してるからよ」
ブライオニーは顎[あご]を上げてずばりと言い、自分が明かした事実の重大さに眩惑[げんわく]されたかのように続けざまにまばたきをした。(マキューアン『贖罪[下]』pp.75-7)
[11]ブライオニーは自分を名指した——彼女の言葉を疑ったのは、彼女の姉と自分の母親だけだった。彼女の衝動、悪意のひらめき、子供らしい破壊願望、それらは彼にも理解できた。驚くべきはあの少女の恨みの深さ、自分がワンズワース刑務所に送りこまれるまでひとつの物語にしがみつきつづけた彼女の執拗[しつよう]さだった。(マキューアン『贖罪[下]』p.80)
[12]一行は午後じゅう歩きつづけ、そしてついに、二キロ先、灰色と黄色の煙が周辺の野原からたなびいているあたりに、ベルグ=フュルヌ運河を渡る橋が見えてきた。[…]。煙とともに、腐肉の臭気も漂ってきた——何百頭という軍馬が殺戮[さつりく]され、野原に積み上げられているのだった。[…]。路肩に駐[と]められた二台の救急車は後ろのドアが開いていた。中からは負傷者のうめき声や叫びが聞こえてきた。そのひとりが何度も繰りかえし叫ぶ声には、苦痛よりも怒りがこもっていた。「水、水くれよう!」他の兵隊たちと同じく、ターナーもそのまま歩きつづけた。(マキューアン『贖罪[下]』p.94)
【負傷したまま行軍を続けたロビーたちは、ようやく救出船が来てくれるはずの浜辺のリゾート地にたどり着く。】
[13]無秩序な退却が行くところまで行くと、こうした状態になるほかないのだ。ほんの一瞬で理解できた。何千、一万、あるいは二万という兵隊が、広大な浜に散らばっていた。遠くから眺めると、黒い砂粒を撒[いた]ようだった。けれども、船といっては、一艘[そう]の横転した捕鯨船が沖合で波に揺れているだけだった。引き潮どきだったから、波打ち際までは二キロ近くあった。長い突堤に船はなかった。彼はまばたきして眺めなおした。突堤と見えたものは人間の長い列で、六列から八列の縦隊となって、膝[ひざ]まで、腰まで、あるいは肩まで水につかりながら、遠浅の海に五百メートルばかりも伸びているのだった。彼らは待っていたが、見えるものといっては、水平線上の黒い点がふたつみっつ——空襲を受けて炎上している船——だけだった。(マキューアン『贖罪[下]』pp.102-3)
[14]【傷が悪化して熱に浮かされたロビーの混沌とした意識の中で、ブライオニーの罪と戦争の罪が混じり合う。】
ブライオニーは証言を変更し、過去を書きかえて、罪あるものを無罪にするだろう。けれども、今の時代に罪がなんだろうか? 罪など、ごく安っぽいものでしかない。人間すべてに罪があり、同時に誰にも罪はないのだ。証言の変更で救われるものはいない——なぜなら、すべての目撃者の証言を記録してもろもろの事実を勘案するには、人手も足らず、紙やペンも足らず、根気も平和も足りないからだ。目撃者たちにも罪はあった。一日じゅう、われわれは他人の犯罪を目撃してきた。[…]おまえは今日、何人の人間を見捨てて死なせた?(マキューアン『贖罪[下]』pp.124-5)
[15]【ロビーは遠のく意識の中で、セシーリアのことを思う。】
あなたを信じている、信頼している、愛している、と告げたときのセシーリアは、必死に泣くまいとしていた。忘れない、とだけ自分が言ったのは、彼女にどれだけ感謝しているかを告げるためだった——ことにそのときの自分が、ことに今の自分が。すると彼女は手錠に指を触れ、恥ずかしくなんかない、恥ずかしいことなんかない、と言った。ジャケットの折り返しをつかんで軽く揺さぶり、そして言ったのだ。「待っています。戻ってきて」と。彼女は真剣にそう言ったのだ。時がたてば、彼女の真剣さが証明されるだろう。それから、警官たちが自分を車に押しこむと、もはや抑えられない嗚咽[おえつ]がはじまるまえに彼女は早口で言ったのだった——あのことはふたりのもの、ふたりだけのものだと。言うまでもなく、それは図書室での出来事を指していた。ふたりのものだ。誰にも奪わせはしない。「わたしたちの秘密よ」と、彼女は一同の面前で叫んだのだった。ドアがバタンと閉まるまえに。(マキューアン『贖罪[下]』pp.128-30)
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【「第三部」で描かれる年は第二部と同じ1940年、場所はブライオニーが看護婦として働くロンドンである。】
【18歳のブライオニーはセント・トーマス病院の見習い看護婦として、毎日厳しい訓練に耐えて働いていた。】
[16]心を自由に漂わせてよい時間は少なかった。薬局に使いに出されて、薬剤師が戻るのを待たなければならないことがある。そうしたときには[…]自分が書きあげて雑誌に送った長めの短篇小説[ストーリー]のことを考えるのだった。プリムローズ・ヒル【叔父の屋敷】に泊まっていたあいだ、ブライオニーは叔父のタイプライターを借り、ダイニングルームを占領して、二本の人さし指で最終稿を書きあげたのだった。(マキューアン『贖罪[下]』p.153)
[17]【母から来た手紙の中で、運命的なマイセン磁器の花瓶の末路がさりげなく語られる。】
かわいそうなベティは、クレム叔父さんの花瓶を運ぶ途中、階段で落として粉々にしてしまいました。手で持っているうちにぽろっと割れて落ちたというのですが、まさかねえ。(マキューアン『贖罪[下]』pp.149-50)
【やがて大勢の傷病兵が病院に運ばれてくる。病棟は野戦病院のようにごった返し、ブライオニーは懸命に働く。】
[18]彼女は思った——こうした兵隊たちのひとりがロビーであってもおかしくはないのだから、自分がロビーと知らずに傷の手当てをし、脱脂綿でやさしく顔を拭くうちに、見なれたロビーの顔が現れ、ロビーが感謝をこめてこちらを向き、ブライオニーだと気づいて手を取り、無言で握りしめて、そして罪を宥[ゆる]してくれるということはないだろうか。それからロビーは、ブライオニーがやさしく寝かせつけるのを認めてくれるのでは。(マキューアン『贖罪[下]』p.181)
[19]ありとあらゆる人体の秘密が開示された——肉をつらぬいて飛び出した骨、あられもなく剥[む]きだされた腸や視神経の眺め。この新しい、肉迫的な視点から、ブライオニーは、自分も他のものたちもうすうす知っておりながら眼をそむけてきた単純明快な事実を実感した——人間とは、まず第一にひとつの物体であって、たやすく裂けるが修復は難しいのだ。(マキューアン『贖罪[下]』p.191-2)
【フランス語が少し話せるブライオニーは、リュックという重傷の若いフランス軍兵士のベッドの傍に座って話し相手になることを命じられる。リュックは意識が混濁していて、ブライオニーを故国の誰かと間違えている。】
[20]「変なことを教えようか? ぼく、パリはこれが初めてなんだ」
「リュック、ここはロンドンよ。すぐおうちに帰してあげるわ」
「パリの人間は冷たくて不人情だときいてたけど、ぜんぜんそんなことないね。すごく親切だよ。君もすごく親切だね、また会いにきてくれるなんて」[…]。
リュックは頭に手を上げて顔をしかめた。そして、声を低めて言った。「頼みがあるんだけどね、タリス」
「ええ、何でも」
「包帯がえらくきついんだ。ちょっとゆるめてもらえないかな?」[…]。
ブライオニーは包帯を取り去るつもりはなかったのだが、包帯をゆるめるとその下の分厚い無菌タオルが滑って、傷口に当てられた血まみれのガーゼの一部がはがれた。リュックの側頭部には穴が開いていた。失われた頭蓋骨[ずがいこつ]片の周囲の毛髪は、広く剃[そ]り取られていた。骨が描くぎざぎざの線の下から、紅色のスポンジのようにぐしゃぐしゃした脳がのぞき、その幅は十センチ近くあって、頭頂からほとんど耳まで広がっていた。ブライオニーはタオルが床に落ちるまえにつかみ、それを握りしめて吐き気が去るのを待った。[…]。リュックは唾[つば]を飲みこむのが難しいらしく、眉にも、包帯のきわにも、鼻の下にも汗がつぶになりはじめた。ブライオニーはそれを拭[ぬぐ]い、水に手を伸ばそうとしたが、そのときリュックが言った。
「君、ぼくを愛してる?」
ブライオニーはためらった。「ええ」他の答えは不可能だった。それに、この瞬間のブライオニーはじっさいリュックを愛していたのだ。このかわいい青年は、家族から遠く離れた場所で死のうとしているのだ。(マキューアン『贖罪[下]』pp.194-9)
【ブライオニーが小説を投稿した雑誌の編集長シリル・コノリー(実在の有名な批評家)から返事が届く。雑誌に載せることはできないと言いながらも、彼女の作品を褒め、有益なアドバイスをいくつも書いてくれていた。】
[21]「噴水のそばの人影ふたつ」ですが、一気に読ませるだけの力強さはあると思います。社交辞令ではありません。[…]。貴作の中には、印象的なイメージがいくつかありますし——わたしは「ライオンの毛皮を思わせる晩夏の黄色が忍びこんだ長い草」に感心しました——思考の流れをとらえ、人物の性格を浮かび上がらせるために微妙な変化をつけて描き出すことに成功しています。[…]。ただし、ミセズ・ヴァージニア・ウルフのテクニックに負うところが多すぎるのでは、というのがわれわれの意見です。(マキューアン『贖罪[下]』p.206)
【ここで読者は妙な感覚を覚える。『贖罪』第一部の文章には「長く伸びた草にはライオンの毛皮を思わせる晩夏の黄色がすでに忍びこんでいる」(上巻 p.68)という一節があったのだ。】
[22]未解決の感情をわだかまらせているのが明白な若い男女が噴水のそばに立ち、明朝[みんちょう]の花瓶を取りあって壊してしまう。(複数の評者が、明朝磁器は戸外に持ち出すには貴重すぎると感じたのですが、どうでしょう? この目的のためなら、セーヴルかニンフェンブルクのほうが適当では?)(マキューアン『贖罪[下]』p.207)
【第一部に登場するタリス家の花瓶は、あまりに貴重な明朝磁器ではなく、それよりは身近なマイセン磁器だった。】
[23]女は破片を取りもどすため、服を着たまま噴水に入る。眺めている少女が、磁器が壊れたのに気づいていないことにしたほうがよくはないでしょうか? それにまた、女が水に潜ることにすれば、事態はいっそう謎めいて見えるでしょう。(マキューアン『贖罪[下]』pp.207-8)
【第一部のブライオニーは磁器が壊れたのに気づかず、セシーリアは水に潜った。】
【ブライオニーの小説の欠点は、情景や心理の描写に凝りすぎて、明確な筋のある物語が語られないことだった。その小説では、花瓶が壊れた事件を少女、男、女の視点から描くだけで、その後の展開が描かれずに終わったらしい。】
[24]目の前に展開された情景を少女が完全に誤解し、あるいはそれによってまったく困惑させられたのであれば、そのことはふたりの大人の生活にいかなる影響を与えるでしょう? 少女はふたりのあいだを割く災厄となるのでしょうか?[…]。彼女がふたりの関係をふと暴露してしまうというのはどうでしょう——たとえば女の両親に?[…]。あるいは、若いふたりが少女をメッセンジャーとして使うようになるという筋は?(マキューアン『贖罪[下]』pp.208-9)
【第一部の物語は、まさにこのアドバイスの通りに進んでいた。あたかもブライオニーが過去に犯した罪は、現在この批評家の助言によって生み出されたかのように。】
[25]考えてみればこの手紙は、それと意図することなしに、彼女個人を痛烈に非難しているのだった。「少女はふたりのあいだを割く災厄となるでしょうか?」まさにそのとおり。実際そうしてしまった以上、薄っぺらな小ざかしい小説をでっちあげて虚栄心を満たすために雑誌に送りつけたところで、その事実がもみ消せるわけがあろうか? あの短い小説のごまかしは、まさしく自分の人生のごまかしなのだ。自分が直面したくないと思ったことは、すべて小説からも抜け落ちていた——あの小説には、それこそが必要だったというのに。(マキューアン『贖罪[下]』pp.220-1)
【ブライオニーは父からの手紙で、従姉のローラとチョコレート王のポール・マーシャルが結婚することを知る。ブライオニーは結婚式に呼ばれていないが、当日勝手に教会に出向き、目立たない物陰から式を眺める。ブライオニーを利用してロビーに罪を着せ、自分を強姦した真犯人と結婚するローラを、ブライオニーは激しく嫌悪している。】
[26]ブライオニーによみがえってきた記憶、針のように尖鋭[せんえい]なその細部は、彼女の膚[はだ]を打つ鞭[むち]のよう、投げつけられる泥のようだった。半泣きで部屋にやってきたローラ、こすれてみみずばれになった手首、ローラの肩とマーシャルの顔についた掻[か]き傷。[…]。彼女は子供時代の制約をすべて捨て去ることを望んでいたのであり、恋をすることによって——あるいは、自分は恋をしているのだと言いきかせることによって——強姦[ごうかん]の屈辱から逃れようとしていたのだから、ブライオニーが証言と告発のすべてを引きうけたときにはわが身の幸運が信じられない思いだったろう。そして、子供でなくなったとたんに身体[からだ]をこじ開けられて奪われたローラにとって、強姦の犯人と結婚するというのはなんという幸運であろうか。(マキューアン『贖罪[下]』pp.226-7)
[27]こちらがわを歩いていたローラがブライオニーのまえを通り、ふたりの眼が合った。ローラのヴェールはすでに開かれていた。そばかすは消え去っていたが、他はあまり変わっていなかった。[…]。ブライオニーはただ相手を見つめた。望みといっては、自分がここに来たのをローラが知り、その理由を考えることだけだった。日ざしのせいではっきり見えなかったが、ほんの一瞬、花嫁の顔が不快のしわを刻んだようにも思えた。(マキューアン『贖罪[下]』p.231)
【ローラの結婚式を眺めた後、ブライオニーはさらに足を伸ばして、バラムの町に住むセシーリアの部屋を尋ねることにする。姉に会うのはあの事件以来のことだった。】
[28]自分は面接を受けようとしているのだ、愛される妹というポストを手に入れるために。
カフェを出てコモン【公園】を歩いてゆくと、こうしてバラムに向かっている自分と、病院に戻りつつある自分のどちらが本物か分からないままに、距離だけが広がってゆく気がした。バラムへと足を運んでいるブライオニーこそ、想像の産物あるいは幻影ではないのか。(マキューアン『贖罪[下]』p.236)
[29]「話があるの」とブライオニーはつぶやいた。
セシーリアは立ち上がりかけて、気を変えた。「どうして断わってから来なかったの?」
「手紙に返事がなかったから、とりあえず来てみたの」
セシーリアはドレッシングガウンをかきよせ、ポケットを触った——煙草があるかと思ったのだろう。顔色は以前よりずっと黒く、手も茶色くなっていた。探し物はポケットにはなかったらしいが、さしあたり立ち上がろうとはしなかった。(マキューアン『贖罪[下]』p.239)
[30]ブライオニーは、姉と眼を合わせられなかった。「わたし、ひどいことをしたわ。宥[ゆる]してくれるとは思ってない」
「心配しないでいいの」なぐさめるように言ったセシーリアが煙草を深く吸いこむ一、二秒のあいだ、ブライオニーは心のなかにわきあがってくる無根拠な希望にたじろいだ。「心配しないでいいのよ」と、姉は続けた。「わたし、あなたを絶対に宥さないから」(マキューアン『贖罪[下]』p.249)
[31]物音がして、ブライオニーはぎくりとした。寝室のドアが開いて、ロビーがふたりのまえに立っていた。軍服のズボンとシャツと磨いた軍靴[ぐんか]をつけており、ズボン吊[つ]りが腰からぶらさがっている。髭[ひげ]が伸びて髪は乱れており、視線はセシーリアだけに向けられていた。[…]姉の身体[からだ]になかば隠されたブライオニーは、制服のなかに姿を消そうとつとめた。(マキューアン『贖罪[下]』p.251)
[32]「君だったのか」と、ロビーはついに言った。[…]。
セシーリアがロビーに近づいていった。「ロビー」とささやいた。「ダーリン」セシーリアはロビーの腕に手を置いたが、ロビーは腕を引っ込めた。
「どうしてここに入れたんだ」そしてブライオニーに、「はっきり言ってやろう。君の首をここでへし折るか、外に出て階段から投げ落としてやるか迷っているところだ」[…]。
大声は出さなかったが、ロビーの声は軽蔑で張りつめていた。「刑務所のなかがどんなものか知ってるか?」(マキューアン『贖罪[下]』pp.254-6)
[33]【ロビーが厳しい口調でブライオニーに問いかける。】
「いま、君はぼくが従姉[いとこ]を襲ったと思ってるか?」
「いいえ」
「あのときは?」
ブライオニーは言葉につまづいた。「思った、思ったけど思わなかった。確かじゃなかった」
「ならどうして、今さら確かに間違いだったと分かる?」
ブライオニーがためらったのは、この質問に答えるにはある種の自己弁護、理論づけが欠かせず、それがロビーの怒りに油を注ぐかもしれないと思ったためだった。
「大人になってきたから」[…]。
「大人になってきたから」と、ロビーは鸚鵡[おうむ]返しに言った。そして上げた大声に、ブライオニーは飛び上がった。「ふざけるな! 君は十八だぞ。まだ大人になりきっていないというのか? 十八で戦死する連中だっているんだ。道端でのたれ死にしても文句の言えない歳なんだぞ。そのことは分かってるのか?」(マキューアン『贖罪[下]』pp.258-9)
[34]【激昂するロビーを、セシーリアが優しくなだめる。】
セシーリアは両の手でロビーの頬を強くはさみ、力をこめてロビーの顔をこちらに向けさせ、自分の顔に近づけていった。[…]。セシーリアはロビーを抱き寄せ、自分の視線でとらえて、ついに顔が触れあうと、ロビーの唇にそっと長いあいだキスした。何年もまえのブライオニーの記憶に残っている、彼女が夜中に目を覚ましたときと同じやさしさで、セシーリアは言った。「戻ってきて……ロビー、戻ってきてちょうだい」
かすかにうなずいて深く吸いこんだ息をロビーがゆっくりと吐き出すと、セシーリアは手をゆるめて彼の顔から放した。(マキューアン『贖罪[下]』pp.261-2)
[35]【法的手続きについて調べてあったらしいロビーは、ブライオニーが成すべきことを事務的に伝える。】
「できるだけすみやかにご両親を訪ねて、君の証言が偽りだったとふたりが納得するに足るだけのことを話してもらいたい。次の休みはいつだ?」
「次の日曜」
「なら日曜だ。[…]。ふたつ目のことは明日やってもらいたい。セシーリアの話だと、勤務のどこかで一時間の空きがあるそうだな。宣誓管理官の弁護士を訪ねて、署名つき、立会人つきの陳述書を作ってほしい。君がどのようなあやまちを犯したかを述べて、証言を撤回すると明言するんだ。ぼくらに一通ずつコピーを送ってくれ。分かったか?」(マキューアン『贖罪[下]』p.264)
【ロビーとセシーリアは、ブライオニーを地下鉄の駅まで見送ることにする。だが、配給帳を持って出ようとしたセシーリアが、どこに置いたかを忘れてしばらく部屋のあちこちを探し回る。】
[36]セシーリアが配給帳を探すあいだ、数分が無駄に流れた。ついにあきらめて、セシーリアはロビーに言った。「ウィルトシャーのコテージに違いないわ」(マキューアン『贖罪[下]』)
【なにげない台詞だが、ここで読者は、ダンケルク撤退作戦を生き延びたロビーが、セシーリアと二人で幸せな休暇を過ごしていたことを知る。なぜならこの小説の第二部の最初のほうで、戦争が勃発する直前のロビーとセシーリアは、イングランド南西部のウィルトシャーにコテージを借りて休暇を過ごすことをずっと夢見ていたからだ。】
[37]三人は、三ヶ月後にはロンドン大空襲で恐怖の場所として知られることになる地下鉄バラム駅の前に立っていた。[…]。淡々と別れの挨拶[あいさつ]が交わされた。[…]。ふたりはブライオニーを見つめ、彼女が立ち去るのを待っていた。けれども、ブライオニーがまだ言っていないことがひとつあった。
ブライオニーはゆっくりと言った。「本当に、本当にごめんなさい。恐ろしい苦しみを引き起こしてしまって」ふたりは彼女を見つめつづけ、彼女は繰りかえした。「本当にごめんなさい」
ひどく馬鹿げて不適切な言葉だった。まるで、家族が気に入っている鉢植えを引っくり返したか、誰かの誕生日を忘れでもしたような。
ロビーが静かに言った。「ぼくらが頼んだことを全部やってくれればいい」
「くれればいい」という言葉には和解の響きに近いものがあったが、それは完全ではなかった。今はまだ。(マキューアン『贖罪[下]』pp.269-70)
[38]【ブライオニーは、一人で地下鉄バラム駅のエスカレーターを降りる。】
ブライオニーも戦争も、ふたりの愛を壊すことはなかったのだ。そのことが、都市の地下深くに沈みこんでゆくブライオニーの慰めとなった。セシーリアがロビーを眼で引き寄せた様子。忌[い]まわしい記憶から——ダンケルクから、あるいはダンケルクに通じていた道から——ロビーを呼び戻したときのセシーリアのやさしい声。かつてのセシーリアは、ブライオニーにもあの声をかけることがあった。セシーリアが十六、ブライオニーが六つの子供で、信じられないほどひどいことが起きたとき。あるいは夜に、セシーリアがブライオニーを悪夢から救い出し、自分のベッドに入れてくれるとき。あの言葉をセシーリアは使ったのだった。戻っていらっしゃい。ただの悪い夢よ。ブライオニー、戻っていらっしゃい。(マキューアン『贖罪[下]』pp.271)
(この資料の続き[結末に関する「ネタバレ」を含む]はこちら)
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【引用した文献】
●イアン・マキューアン作、小山太一訳『贖罪[しょくざい]』上下巻(新潮文庫、2008年)[原著2001年]
●武田将明「出口のない世界——イアン・マキューアンの時間感覚」『英語青年』154巻8号[2008年11月号](研究社、2008年)442-4ページ
●服部典之「フィクションの『つぐない』」『英語青年』147巻12号[2002年3月号](研究社、2002年)752ページ
(この資料の続き[結末に関する「ネタバレ」を含む]はこちら)
(c) Masaru Uchida
2009
ファイル公開日: 2009-4-22
[いつか晴れた日に(分別と多感)] [デビッド・コパーフィールド] [ハワーズ・エンド] [ダロウェイ夫人] [つぐない(贖罪)]
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