気になることば 88集 一覧(ミニナビ) 分類 | 「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある「人間と言語の関わり方」に力点を置いています。 |
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20040715
■山茶花化(サザン化?)
「雰囲気」を「フインキ」と発音する傾向については8年近く前にとりあげました(そんな昔だったのか)。その後、広まってるらしく岐阜でもそうだし、金沢でも学生諸君が反応してくれました。
実は、この種の変化、すでに私たちは経験しています。というより、変化後の形が正規の形になっています。「山茶花」をサザンカと読むヤツです。パソコンで「さざんか」と入力すると「山茶花」が出てきますね。でも、「山茶花」を虚心坦懐に(って大袈裟な)音読みすればサンザカではありませんか!
変化前 変化後 山茶花 サンザカ サザンカ sanzaka sazanka 雰囲気 フンイキ フインキ fun’iki fuinki フインキとサザンカは同じ理由によるものではないか? 「同じ」といっても観点によりけりですが、とりあえず共通点を挙げてみます。移動したンを中心にすると、元の形フンイキ・サンザカに共通するのは「ンが2拍目」であり、「ンの直後に有声音(i・z(dz))」が来ることです。ンの直前は母音があるのが普通なので、単純に「有声音(母音を含む)に挟まれたン」とするのもありでしょう。
もちろん、今後、語例が増えるにしたがって、捉え方を変える必要が出てくるかもしれません。
そのような位置のンが直後の拍と入れ替わる、というのが共通する変化です。ただ、もっと踏み込むと、ンの直後がキ・カになるわけで、ともにkなんです。無声子音なんですね。変化前と大きく変わるのはこの点だと見ることもありえます。つまり、ンは有声音に挟まれるのを嫌って、その位置を変えることで、無声子音の直前に来た、と。
あるいは、単にンと子音kとは相性がよく、隣り合いになりたがる、ということも考えられないではない。たとえば、やはり特殊拍の仲間に入れられる促音ッですが、その出現位置が、無声子音の直前に限定されるように。
ただ、イタリア語の発音を反映してラ行音の前に促音が表記されることもありますが、例外的なものでしょう。
ともあれ、もう少しいろいろな見方をしてみたいところです。
20040714
■換算、知っとく?
……と便利だと思うのですが、よい智恵が浮かばない。いえ、江戸時代の貨幣価値を現代のに置き換えるにはどうするか、という話です。
自分の関心事である江戸時代の節用集を、当時の人々の中に置きもどして考えようとすると、まず、そのあたりが問題になるように思います。つまり、気楽に買えるのか、無理しないと買えないのか、とか。それが分かっただけでも、辞書を買うという行為を、当時の言語生活中に位置づける、大切な手がかりになるように思うのです。
米価での換算を見かけますが、どうなんでしょう。品種も、江戸時代は少なかったでしょうが、現代ではいろいろです。高級米にしてよいのか、標準価格のものにするのか、一番安いのでもよいのか。そうなると外米の方が安い? いやいや、江戸時代に米の輸入なんてありえないんだから除外、除外…… ?
一杯のかけそばの値段で換算するという人がいました。現代でも、おそらくは江戸時代でも、そう大きく位置が変わらないものかもしれないですね。贅沢品でもないし(もちろん、モノによるのでしょうが)。
ただこれも問題が。かけそばは20文前後らしいのですが、節用集は匁単位の値段。1匁は108文というのが大体の相場ですから、単位のうえで約100倍は異なるわけです。かけそばからの換算値にに誤差が含まれていたら、それもそれだけ拡大されます。これでは、節用集の値段を換算してもあまり意味がないか……
とすると、やはり高橋克彦『北斎殺人事件』(講談社1986)方式がよいのかなと思ったりしてます。
「まあ、卵は冷蔵庫のない時代に貴重品だったから当然の値段だ。当時の卵が二十文で、今が五十円だからといって単純に一文が二円五十銭になるなんて計算は成立たないよ。米だっておなじだ。ありあまって田を休ませている現代と、江戸時代とじゃ比較にもならないさ。基本的に価値に差のないものを選んで現代の物価と較べてみなきゃ本当の感覚は掴めない」(42〜3頁)
そして、現代とあまり価値の変化がなさそうなものを複数選んで換算してみると、結構、似たようなものになる。こうなると誤差も相応に小さくなるようにも思います。
「かけ蕎麦の場合は大体一文が二十円か。串だんごは十六円。大工月収は二十五円。ほら、極端な差がでてこないじゃないか」
ひらめ寿司は二十五円、裏長屋家賃二十五円。女子内職二十円。木賃宿二十六円。風呂三十五円。冴子は次々に計算されていく一文の価値を見詰めて何度も頷いた。風呂料金の三十五円を除けばたいていが二十五円前後になっている。
この換算値をもとに、北斎の総収入を計算し、従来言われていた北斎貧乏人説をくつがえし、新たな問題へと挑んでいくことになります。そう、現代の貨幣価値に直すことが、効果的に働いているわけです。それを節用集でもやってみないと始まらないのではないか、と思ってはいるのですが。
○「当時の卵が二十文で、今が五十円だから」は、たとえ、なんでしょうね。
○ 久しぶりに書いてみました。この直前は2002年4月1日から5日までちゃんと連続して書いていたんですね。それがぷっつり切れてしまった。我ながら不思議です。何があったんだろう(笑)。まだタバコは吸っていたよう。
○今回の小見出しは「換算、知っとく?」。下書きだけは随分前に書いていて、当時は「一本、行っとく?」とかいうフレーズの入ったCMがありました。それに懸けたわけですが、実はもう一つ懸けています。さて、何でしょう。ヒント? 流行よりは古典の力(って分かりますよね。簡単だ)。
20020405
■「類字函」
また、『図書』(2002・3)からです。
ちなみに、與清の弟子筋にあたる山崎美成も随筆『海録』のなかで、與清が案出して普及させた、と主張する〈類字函〉(メモ類を整理する箱か)は古くから唐土にあり、伊藤東涯がそれにならって作ったのが初めで、決して與清の発明ではないと指摘している。(逢坂剛「江戸随筆のおもしろさ(上)」『図書』2002・3)
與清(ともきよ)は小山田與(与)清で、江戸時代の考証家です。ずいぶんけなされてますが、そういう一面もあった人のようです。
「類字函」というのは何やら面白そうな発明ですね。「類字」は似た字というよりは、「字で分類する」と読んだ方がよいでしょう。メモした紙片に標題を付け、その標題で分類整理するようにした箱ではないか。
パソコンが情報整理に活用される前には、いろいろなタイプのカード類が重宝しました。そのなかでも、パンチカードは便利でした。カードの回りに小さな穴がたくさんあけてあるのですが、必要に応じて鋏を入れて外辺まで切り落とす。どんどん書いては必要な部分を切り落としていく。そうしたできたカードの束の穴にまっすぐな針金を通すと、切り落としのあるものは落ち、ないものは残る。こんな風にして分類・整理をしたのでした。
不精者にはなかなかに便利でしたが、いま思えば、これでもずいぶんと手間がかかる。手書きしなければならないし、切り落としもしなければならない。現代ならパソコンにどんどん書いていって、あとは、専用の検索ソフトや、エディタなどに付属する検索機能で縦横無尽に検索できる。
それにしても「類字函」。ずいぶん前から情報の整理のための工夫はあったのだなと改めて思いました。ときおり古道具屋などでみかける、小さな引き出しが一面に設けられた薬種箪笥みたいなものでしょうか。あるいは、薄い引き出しが沢山あって、引き出しの中も細かく仕切ってあるようなものでしょうか。
20020404
■左右混ぜ書き
屋内池誠「右か左か(一)」『図書』(2002・3)から、もう一つ。
さまざまな例を示してあるのが面白いですね。ことに、『小阪グラヒック』創刊号(1926・8)の図版は壮観です。見開きにわたって役者の紹介があるのですが、右ページは右からの横書き、左ページは左からの横書きになっています。そしてさらに、縦書きの紹介文もあるのですが、それも、右ページは右から左へ行移りし、左ページは左から右へ行移りするのです。見事というほかありません。
さすがに、欄外とおぼしい位置の「小阪グラヒック」の文字は、右上端・左上端ともに左からの横書きです。これはやはり、見開きという単位とは別に、すべてのページを統一しようという方針があるからでしょう。
混用の類例に、東京科学博物館地階食堂の古いマッチのラベルをあげています。たしかに、建物を描いた面の図では左から「東京科学博物館」とありますが、別の面では「館物博学科京東」、「堂食」とあります。が、これには少々注釈が必要かと思いました。
実は、「館物博学科京東」「堂食」は、30度ほど右上がりに書かれているのです。もう少し言うと、それぞれ、上から見た飛行機の輪郭の主翼・尾翼に書かれるのですが、飛行機自体、やや左に傾けてあるので、主翼・尾翼も30度強ほど右上がりになっているのです。書き記すスペースが傾いていたので、右から左と解せるが、実は、上から下に書いたと見るべきではないか、ということです。しかも、飛行機の右には、縦書きで「上野公園御大節典(?)」のように書かれており、これに合わせたことも考えられそうですし。
20020403
■先頭からの横書き
さて二冊目のPR誌は、岩波書店の『図書』です。屋内池誠「右か左か(一)」より。
ここ「気になることば」でも、横書きや縦書きの方向については、折に触れて感じたことを書いてきましたが、組織的に扱ったエッセイがあったとは。挙げられる例も、図版によっているので説得力はいや増します。
われわれは乗り物を自らの身体になぞらえて、その進行方向から頭や尻を見てとる。文字の列にも書き読む順序によって「行頭」「行末」を認める。乗り物の頭に文字の列の末尾がくれば、落ち着きの悪さを感じざるを得ない。(中略)当時の日本語にはすでに左横書きも右横書きも存在していた。「先頭からの横書き」が生まれる端緒は、ここにあったのだろう。(屋内池誠「右か左か(一)」『図書』2002・3)
クルマなどの右側面での横書きが右から書かれる現象(?)についての考察です。進行方向から順に書くと思っていました。なるほど、進行方向からというのは間接的で、より正確には先頭からという訳ですね。
それにしても、このエッセイのシリーズ名は「縦書き横書きの日本語史」。もう連載9回めだそうです。知りませんでした。ちょっと迂闊に過ぎましたね。大いに反省。
20020402
■「光」字をもつ諡号
PR誌といえば、中学生のとき、社会科の先生が、世の中にこれほど安くて為になる雑誌もないものだ、と紹介したのを思い出します。たしか、『図書』(岩波書店)と『波』(新潮社)。私は真に受けて、なんとなく新しそうな『波』を定期講読しました(変ナ中学生ダ)。1年で 500円だったかな。毎月、私の名前で送られてくるので、ちょっとは誇らしげな気持ちもあったように思います。
当時、阿部公房氏が連載しているのが、半分以上分からなかっただろうけれど、面白かった。夢を見たとたん起きるように習慣付け、手元に用意したノートに夢の一部始終をメモにとる、なんて実験(?)もありました。デジャビュが本当に錯覚かどうかを検証しようというのでしょう。
PR誌を読んでも実益はほとんどありませんでした。ただ、一度だけ得したことはあったかな。県単位でやる高校入試の模擬試験(いわゆる業者テスト)で、なんと『波』掲載のエッセイが問題文だったことがありました! 既読なので要旨は頭に入っていて時間がかせげた。でも、その分の時間を他の科目に回せるわけもなく、ぼぉっとしているだけでしたが。
さて本題に。『本郷』No.38からもう一つ。不思議とこれも名前に関わることです。小谷野敦「謚号『光』の謎」。
天皇家の血筋がそれまで直系だったのが、傍系から着位した場合に「光」字が使われるのではないか、との論。小谷野氏は三田村雅子『源氏物語』(ちくま新書)に刺激されて南北朝の謚号を、三田村氏は伊藤嘉良『中世王権の成立』(青木書店)からヒントを得て奈良・平安朝の謚号を考察し、「光」源氏論へと敷衍しました。伊藤(中世史)→三田村(平安文学)→小谷野(比較文学)という、分野を超えた玉突き型の経過も面白い。
そして、小谷野氏も引かれているのが野村朋弘氏のホームページ。天皇名を詳細に考察しています。どうやら、中国の光武帝(紀元前5〜紀元後57)が先例のよう。彼は、前漢皇帝・平帝を毒殺して帝位をおそった王莽(紀元前45〜紀元後23)を滅ぼし、漢民族による王朝を復したのでした。
小谷野氏は、最後に、昭和の年号が「光文」と誤報された事件に触れてます。もし「光文」の年号が通ったら「光文」天皇になるわけですが、単なる誤報ではなかったのではないかと推論します。離れた皇統からと言えば継体天皇ですが、これは離れすぎていて「光」字だけでは追いつかないので「継体」としたようです。
20020401
■江戸の忌む字
春の休暇でちょっと帰省。少しは混むんじゃないかと、念のため、新幹線の指定をとりました。「指定席は不自由席」と思ってる方ですが、今回は正解。名古屋駅で自由席側の階段をのぼっていったら、いつにない人だかりだったので。
問題は、指定された16号車15番D席。通路側は希望どおりですが、上り列車だから先頭車両の最前席。衝突したらいやですが、目の前の壁も相当気になる。閉塞感があるんです、やっぱり。新幹線もずいぶん利用しましたが、この位置は初めてでしょう。景色が楽しめない。ま、夜の列車なので大して楽しめないのですが。
となると、たまたま書店で手に入れた出版社のPR誌で無聊をなぐさめるほかない。いつもなら、目次を見て、面白そうな記事にざっと目を通すくらいですが、環境のなせるわざか、ほとんど全部の記事を読んでしまいました。
まず、吉川弘文館の『本郷』No.38の神崎彰利「庶民の名前」を紹介します。江戸時代の庶民は、天皇・将軍・領主と同じ名前や字を使ってはいけなかった、とのこと。原則的にこうだったという、なかば武断的な話しではなく、古文書から実例を紹介してくれるので面白く読めました。中国の皇帝などでは有名な話ですが、日本にもいろんなレベルで、いろいろなタイプのものがあったそうです。
代官レベルでもある。任命された代官と同名同字の農民が自発的に改名を願い出、新代官が来るともとの名前に復した例とか。自発的に、というところが面白い。もちろん、強制的に変えさせる例の方が多いようです。将軍家定のときは「文字違いにても、サタと唱え候分すべて相改名申すべく候」と触れられたというから、すさまじい。
神崎氏は「近世の歴史の流れの中における領主権力の発動の具体例」として見ていきたいとのことですが、たしかに、武士は、色々なものをステータスシンボルとして独占しようとしました。封建制を支えた身分制度を、刷り込みに刷り込もうというのでしょう。
時代劇でも、武士と庶民の話し言葉にかなりの差があったことが分かりますが、名前や文字もそうだった。言葉のいろいろな側面で身分差意識の刷り込みが行われていたわけです。こうしたことも、一つの負の遺産として知っておく必要があるな、と思ったことでした。