気になることば 86集 一覧(ミニナビ) 分類 | 「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある「人間と言語の関わり方」に力点を置いています。 |
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20020316
■「アリバイ」
うっ! しまった。つい、使ってしまった。でも、辞書には意味記述がない。勇み足?
ちょっと鬱々としています。論文で「アリバイ」という語を本来の意味ではなく使ってしまったんです。大抵の辞書を引いても「アリバイ【alibi】(もとラテン語で「他の所に」の意) 犯罪が行われた時、被疑者・被告人がその現場にいなかったという証明。不在証明。」(広辞苑)としか出てこない。
が、私が使ったのは転義ですね。明らかに。「権利などを主張するための根拠となる最低限の行為」くらいの意味で使っています。アリバイは「現場不在証明」ですが、それは自分が犯罪を行なっていないことの証明であり、無実を主張する根拠(の一つ)です。そこから転じた用法なわけです。
いやぁ、こまったなぁ。なんせ、3回も校正して、そのたびに「ま、大丈夫だろう」と思って修正を加えませんでした。転義の用法も容認されているだろうと思って。が、校了後になっていくつかの辞書を引いたら、この体たらくです。鬱々。
が、しかし。『日本国語大辞典』(第2版)には載ってました! さすがに第2ブランチですが、「A一般に、身にとって不利な事実を打ち消すために示す、もう一つ別の事実や理由」とあってホッとしました。用例にも安心。平野謙『文学読本・理論篇』からです。
彼らをささえる唯一の矜持は芸術家としての誠実性以外になかったのである。辛うじてその誠実性を唯一のアリバイとして、彼らは極貧の生活にもたえしのんだ
1951年刊行というのもありがたい。ずいぶん前から使われていたことになりますから。ひとまずセーフ?
大阪の「アリバイ通り」も、「現場不在証明」というより「行ってきた証明」ですね(で、結果として不在が証明される…… あ、あたりまえか)。→説明・画像
20020314
■我が師の恩
言葉とは関係ありませんが。ふと思い出したことなど。
3月14日とくれば3.14。そう、円周率の日である。ホワイト・デー? 何ですか、それは。
仕事場のドアを閉めた瞬間、円周率のことが思い浮かんだ。π=3.141592653589793(ん?)84626433832795028841…… むむ。昔は50桁くらいまですらすら言えたものだが。
小学5年生のおり、クラスメイトが揃いもそろって個性的で、なのに「覚えよう!」ということになった。まずは円周率の値が出ている本をさがし、それで覚える。子供用の百科事典だったか。子ども向けの数学本なども出てきたっけ。その御蔭で「幾何学」などという言葉も覚えた。ピタゴラスはいうに及ばず、ガウスなんかの名も知っていた。科学ブームみたいなものが背景にはあったのかもしれない。普通の公立の小学校だったけどね。変な児童だったかも。腕白ではありました。しかし、そういう子どもがなぜ国語学をやっているのか…… ま、人生、いろいろある、ということで。
が、ひょっとしたら、円周率との出会いは、小学3年生のときだったかもしれない。担任の鳥山重樹先生が「人間の記憶はバカにできないよ」とかおっしゃって、黒板の左半分に数字をどんどん書きはじめた。「今度は左側を見ないで、右側に同じ数字を書くよ」とおっしゃって書き始めた。左右、きちんと合っている! 子ども心に大したものだと思った。で、ふりかえれば、こういうことのできそうな数字列といえば、円周率か平方根だろう。平方根よりは円周率の方が、なんとなく魅力を感じる。それで、あのときの数字の羅列は円周率だったのだろうと思っている。
人間のすごさのようなことを、身をもって教えてくれたわけである。こんなことができる人が目の前にいる事実。小学3年生にとっては、かなりショッキングだったのだろう。なんせ、今でも覚えているくらいだから。その時の記憶が、2年後、開花(?)して、駆り立てたのかもしれない。
冗談の好きな先生で、下手なシャレを言っては、私たちを笑わせていたっけ。私が病欠の日、たまたま雨が降っていた。「サトウ君は欠席です。登校中に溶けちゃったのかな」と言ってたと、後日、クラスメイトに教えられた。ちょっと淋しい気もしたが、話題になったことは嬉しかった。そうしたことも今思えば、先生一流のコミュニケーション手段だったのだろう。私はといえば、授業中に真似して、よく叱られたものです。間の悪い子どもだったんだね。
そういえば、よく、本を読んで下さった。内容はすっかり忘れきっているが、つい、せがんでしまうような内容だったと思う。今の小学校の先生方も読み聞かせされているのだろうか。『小公子』なんか、どう?(ちゃっかり宣伝)。
先生、今でも息災でらっしゃるだろうか。
講義「教師論」というのが設定されていて、来年度は2時間だけ、何か話をしなければならないので、思い出したみたいです。
答え合わせはこちらなど。なお、3月14日が円周率の日だと公式に決まっているかどうかは保証のかぎりではありません。あしからず、ご了承ください。(以下、3月15日補足。記念日協会ホームページによれば、「数学の日」だそうです。大きな記念日になりましたが、やはり円周率に由来するらしい。とするとやはり円周率は数学を象徴するに足る、意義深い数字列ということになるんでしょうね)
20020313
■「チー」
考えてみると、ジャンケンの手の形の呼び名というのも面白い。共通語では
グー チョキ パー
な訳ですが、どうやらこれは、言語使用者のある意識を刺激するもののようです。たとえば、こちらでは、チョキではなく、ピーとかペーとかチーとかいう地域があります。これらの地方では、おそらく
グー ピー パー
グー ペー パー
グー チー パー
とういう風に呼ぶのでしょう(もちろん、グー・パーに独自の言い方がある場合も考えられますが)。共通語とくらべて、どちらがエレガント(整然)か、一見して分かりますね。
「ジャンケンで使う手の形の名だから、何らかの点で共通点があった方がよい」という意識が働くのでしょう。その目でみれば、共通語のチョキはいかにも不都合な形です。そこで、「〈一音+長音〉にととのえよう」として、ピー以下の語形が生まれたのでしょう。これも、システム(体系)として単語を捉えている例です。
そしてまた、だからこそ、岐阜・愛知の専売ではありません。いろんな地方で、独自に同じ語が生まれても不思議ではありません。
私は三分の二ぐらい覗いている自分の膝小僧を見た。そして手のひらで肱を撫でてやりながら、ふと《どうして
「──小僧さん、小僧さん」
また口の中でつぶやきながら肩をすくめたら、前にすっと男が立った。(北村薫「砂糖合戦」。『空飛ぶ馬』創元推理文庫 1994)
そっか。そだ、そだ。うんうん。
なんで「ひじこぞう」と言わないのだろう。言ったらいいじゃないか。なにより「可愛らしい」し。という人が多くなると単語「ひじこぞう」が成立するんでしょうね。
もともと「ひじ」「ひざ」自体、音が似てますね。〔i〕と〔a〕の差しかない。胴体から出た四肢の中間部分の関節の名として、まったくもってふさわしい対応関係です。きっと語源的にも同じなのでしょう(ただし、古くは「ひぢ」なので、似方は薄まり、同源である範囲ないし可能性も小さくなりますが、それにしても四肢の関節が同じ「ひ」ではじまるのは偶然ではないように思います)。
だからこそ、「ひじこぞう」と言わないのが不思議に思えます。なんでだろう。「ひざ」の方が簡単に見られるので、人間の造語欲(??)を刺激するのでしょうか。
ひざ──────ひざこぞう
ひじ(ひぢ)── X X=ひじこぞう
我々は、一種のシステム(体系)として単語を捉えている訳ですが、それがはっきり意識された例として挙げてみました。もちろん、類例はたくさんあるでしょうし、誰しも、一度や二度は似たようなことを考えたことがあるんじゃないでしょうか。
システマティックだからこそ、「ひじこぞう」は〈私〉の専売ではなく、「ひざ・ひじ・ひざこぞう」の3語を知っている人なら誰でも作り出せますね。もうどこかで生まれてるかもしれないし、ある程度、広まっているかもしれません。ほらね。
20020308
■あてどなく、推理
N大学某先生の推理小説のようなタイトルですが、しばしお付き合いを。と言っても、勝手な印象から出発してますので信憑性は大いに疑問あり、です。御注意ください。
画像は、『雅言仮字格・同拾遺』(合冊。文化14・1817年刊。架蔵)です。その最初の丁に「褒与(與)」との朱印があります。何かの御褒美だとは分かりますが、いつ誰が誰にどんな理由で授けたかは、手がかりがなく分かりません。
ただ、なんとなくですが、「褒与(與)」の印が、江戸時代のものではなさそうに思います。清朝体だからでしょうか。自分で言っていて説明がつけられないというのも情けないですが。何となく、寺子屋・藩校よりは、近代的な学校の方がふさわしいように思うのですね。
この印象が正しいなら、かなり時期的にしぼりこめることになります。
『雅言仮字格・同拾遺』は契沖(大辞林第二版web版*)の提示した仮名遣いを受け継ぐものです。ただ、語数は少ないし、漢語(字音語)は原則として載せていませんので、現代の目からみれば整備されたものとはいいにくい。
* 契沖仮名遣、即、歴史的仮名遣いとしてよいかどうか。
時代は、どんどん追い越して行きます。明治になって、さまざまな仮名遣い書が出、辞書も歴史的仮名遣いで記されるようになると、多くの語の仮名遣いが簡便に知られるようになります。そうなれば、『雅言仮字格』はお役御免。ですから、整備された仮名遣い書・辞書が潤沢に出回るまえでないと、『雅言仮字格』が「褒与」に値する価値を持てなくなります。
「学校」はできた、でも仮名遣い書は流布していない時期。そのころの「褒与」だったのではないかと思っているのですが、果たして。
意外にもこの種の調査は進んでいて、「この印章は、○○県○○小学校(あるいは、○○藩藩校○○堂)が、○年○月から○年○月まで使用したものだ」などと分かってしまうのでしょうか。
20020305
■「疑る」
私は、古い人間なんでしょうね。
「こんなことで弁護士さんのお力を借りるつもりはなかったんですけど、夫殺しだなんて警察に疑られては」
(中略)遺骸をワゴン車に乗せて走り回ったということも奇異だが、それ以前に警察に疑られても止むを得ないものがあった。(小杉健治「骨まで愛した」。日本推理作家協会編『殺人者 ミステリー傑作選38』講談社文庫 296ぺ)
ちょっとびっくりしました。「うたぐる」が漢字表記された実例をはじめて見たように思ったからです。「疑う」と「勘繰る」の混淆という知識があるためか、漢字表記はないだろうと決めてかかっていたのかもしれません。ところが、これを書いているときもそうですが、ちゃんとパソコンで「疑る」が出てきました。すでに定着してるのだなと認識を改めました。
でも、やはりしっくりこない部分もあります。私自身が「うたぐる」をほとんど使わないせいだと思うのですが、同じ未然形でも「疑らない」はかなり抵抗があります。そこで、ちょっと変則な活用表を作ってみました。上段は、私には抵抗のあるもの、下段はそれほどでもないものです。
うたぐら・ない うたぐり・ます うたぐる判事 (初めこそ)うたぐれ うたぐれ・!
うたぐら・れる うたぐっ・た うたぐる人 うたぐれ・ば
「疑る」は、私の頭のなかでは活用形(表現形?)がそろっていない未熟な動詞ということになりそうです。
ただ、こうしたことは、ごく普通に使っている活用語にもよく見られること。たとえば助動詞マスの命令形マセは、「いらっしゃいませ」とは言えますが、少なくとも現代では「折ります」は言えても「折りませ」とは言えない、とか。このあたりも、言葉の不思議なところ、興味のつきないところの一つなのでしょう。
この際、仮名漢字変換ソフトですべての活用形(表現形)が出ることから、未熟な動詞ではない、とは言えないと思います。おそらく、ラ行五段活用ということで、機械的に活用形がそろえられているでしょうから。
20020303
■会話における用字の説明
モード越境の続きです。
あるモードの言語表現がなされている場に、(本来、行なわれるはずのない)別のモードの言語表現がなされるという現象は、さかのぼれば、『源氏物語』などにも見られることになるでしょうか。いわゆる「草子地」です。地の文において作者が、登場人物に対する批評を述べたりする部分です。マンガでも、作者がちらりと現れて何事かを言うというのもよく見かけます(手塚治虫からですか?)。
中学生くらいのことでしょうか、「これ、変だよな」「手抜きだよな」と思っていたのが、小説の会話での用字説明。用字を説明してくれるのはよいのですが、前後を読んでも、紙に書いたとか、宙に書くとか、掌に書いて見せるとかしてはいない。実際、そういう会話があるものか、と思うわけです。たとえば、こういうもの。
「そう言えば、太郎さんの家でも、屋号をつけたよ。」と、私は姪に言ってみせた。「みんなで相談して田舎(いなか)風に『よもぎや』とつけた。それを『蓬屋』と書いたものか、『四方木屋』と書いたものかと言うんで、いろいろな説が出たよ。」
「そりゃ、『蓬屋』と書くよりも、『四方木屋』と書いたほうがおもしろいでしょう。いかにも山家(やまが)らしくて。」
こんな話も旅らしかった。(島崎藤村「嵐」。青空文庫版)
「私」の説明に驚くわけですが、答える姪もすごいと思います(ツッコミだと「答えるなよ!」というところでしょうか)。こういう会話を書く以上、作者としては現実にあるだろうと思っているのかとも思いますが、それならそれで、そう考える思考過程が不思議でなりません。
ただ、より現実的に書くとしたらどうなるか。「〈草冠に逢う〉に屋と書いたものか、〈四つの方の木〉に屋と書いたものか」。う〜ん、これはこれでまどろっこしい。文章の流れは確実に阻害されます。「こんな話も旅らしかった」との結びが、ともすると、気障ったらしく見えるかもしれません。それは作者の本意ではないのでしょう。
とすると、読者に対して、言わば確信犯的にモード越境をしたのでしょう。読者は、登場人物間の会話モードと理解しながら読むのですが、用字だけは手っとり早く漢字で記されてしまう。その部分は、読者向けモードなんですね。その代わり、読者は簡潔さを味わえることにはなります。
ただ、藤村の例は、まだよい方かもしれません。「ホーオク」「シホーボクオク」と音読みする可能性があるので。現実の会話として、成り立つかどうかは心もとないですが。