案内 検索法の開発期は18世紀後半でよいと思うのですが、それに先立って動きがあるのではないかとも思い、少し見てみたものです。
はじめに 『新増節用無量蔵』(元文二〈一七三七〉年刊。国会図書館亀田文庫本、香川大学神原文庫本)は、各部言語門において仮名二字目のイロハ順で語を配して部分的なイロハ二重検索を実現した節用集である。が、子細にみるとき、さらにいくつかの、検索法にまつわる工夫がなされていることに気づく。それらを合わせ考えるとき、本書が、語の検索のしやすさについて総合的に改良をほどこそうと企図したことが知られる。 節用集史上における検索法の本格的な展開は『宝暦新撰/早引節用集』(宝暦二〈一七五二〉年刊)の刊行にはじまる。その衝撃と影響力をみれば(佐藤一九九〇ab)、検索法の発展期を一八世紀後半から動かす必要はなさそうである注1。が、その萌芽とでもいうべき動きが、先立つ節用集諸本になかったとは言い切れない。また、展開期のより確実な位置づけのためには、その胎動の有りようを確認しておくことが不可欠でもあろう。 右のごとき工夫をもつ『新増節用無量蔵』は、胎動期の重要な存在として看過できないものがありそうである。そこで、本稿では、『新増節用無量蔵』の工夫がどのようなものであるかを見、いかに近世節用集中に定位できるかを検討しようと思う。 一 門内部の細分標示 『新増節用無量蔵』の一大特色が、各部言語門における仮名二字目のイロハ順配列である。そのことを明示するため、たとえば、イ部言語門の最初の語「色節」には、その左傍に「ろ」字を陰刻標示する。イロハ二重検索は、さすがに現代の多重五十音順に慣れた目からは変則的に見えるが、当時の節用集では、仮名二字目のイロハ順配列を採らないのはもちろん、言語門内部の細分基準は明示されないので注2、大きな進歩と評価してよい。 ただし、この配列は、ロヘリヌルワヨレネラムノヤエテユメミモの一九部では施されない注3。おそらくは、これらの部は所属語数が少ないので、細分の必要がないと判断したのであろう。この判断は、ある点では評価すべきである。語数が少ないなかに細分標示まで示したのでは、見た目にも煩わしいように思うからである。が、やはり、不徹底との見方もありうるわけで、標示があるに越したことはない。また、なにゆえ言語門にかぎるのかも問題となろう。仮名二字目のイロハ順配列を採るかどうかは、所属語が半丁強以上あるかどうかによるらしいが、カ部草木門・気形門のように、その基準に近い所属語を擁する門もある。それらにも及ぼさなかったことを考えるとき、『新増節用無量蔵』は、不徹底との評価に甘んじなければならないと思う。 さて、仮名二字目のイロハ順配列とそのための標示を、意義分類(門)内の細分化と見れば、乾坤・衣食・気形・草木の各門に施されることのある丸印も、同じ機能を果たすものと認められる注4(図版参照)。これには二種類あって、丸印だけを示すものに、イ衣食・イ気形・ハ衣食・ニ気形・ニ衣食・ホ気形・ヘ衣食・ト気形・ヌ衣食・ヲ衣食の一〇例があり、丸印のなかに意義を標示したものに、イ草木(草・木)・ハ乾坤(天・地)・ハ気形(虫・魚。他に丸印のみが二つ)・ニ乾坤(天・地)の四例がある。注5 『新増節用無量蔵』以前の節用集においても、各門の内部に、下位分類のような意義ごとの語のまとまりが認められる。ただ、それらには何の標示もないので、節用集に親しく接した、文物や言葉に関心のある利用者だけが知りえたものと思われる。それを明示的に標示したのが、本書の工夫ということになる。 ただし、それが、前半部にもいたらぬヲ部で終わるのは不審である。ここにも不徹底な面が認められるが、あるいは、ヲ部までは丁寧に示しておき、それ以下の部では、これにならって引かせるつもりなのだろうか。それならそれでスマートな行き方だが、引くたびにヲ部までの本文をながめるとは限らないので、やはり不徹底との評価は打ち消せないだろう。 以上、門内での工夫を見たが、いずれも、所属語数の多い場合に、どうすれば求める語にたどりつけるかという点で統一された意図を感じさせる。ただ、「統一」というなら、いっそ他の門でも仮名二字目のイロハ順を施してもよかったはずである。その点、『新増節用無量蔵』への評言として「統一」とともに「不徹底」が必要になりそうである。 ただ、そうした評価を下すのはよいが、そのまえに留意しておくことがある。仮名二字目のイロハ順配列を評価するのは、我々が、のちにイロハ二重検索を全編におよぼした節用集の開版を知っていたり(佐藤一九九一)、現代の多重五十音引きに慣れていたりするためかもしれない。たしかにそれらは優秀な検索法であり、その価値は絶対的とも言える。が、近世の節用集について考えるとき、当時の通念にも配慮する必要があろう。 当時の節用集では、イロハ分けの下位を意義分類するのが一般的であったから、さらに細分するときも意義分類を適用するのが自然である。たとえば気形門を鳥・虫・獣・魚などと意義で細分するのは自然である。意義で細分できる門には、仮名二字目のイロハ順をほどこす必要がなかった、あるいはイロハ順に思いいたらぬほど、通念として脳裏を支配していたかもしれない。こう考えれば、逆に、言語門を仮名二字目のイロハ順で細分するのは不自然なことに見えてこよう。つまり、なぜ、通念にしたがって意義で言語門を細分しなかったのか、が問われてよいことになる。 節用集の言語門には、純粋に言語表現として特徴的な語・表現を収めるポジティブな面と、他の門に入れない語・表現を取りこんでおくというネガティブな面とがある。そのような雑多な集合を細分する一律の尺度、しかも意義上の尺度は、なかなか見つかりそうにない。もちろん、やってできないことはないだろうが、知的に高度・複雑なものになりそうである。それでは、購買者が受けいれるかどうか心もとない。近世節用集の存在が営利出版に依存する以上、検索法が簡便か否かは切実な問題である。 したがって、『新増節用無量蔵』が言語門で仮名二字目のイロハ順配列を採用したのは、実のところ、意義で細分するという通念を貫けなかった苦肉の策、ないし通念と簡便さとの板挟みから出たなけなしのアイディアなのであろう。もちろん、その結果は、より引きやすい検索になったのだから評価に値する。結局、言語門における仮名二字目のイロハ順配列は、限定された範囲での適用ながら、相応の英断であったと評価できそうである。 二 門名標示の行頭集中 『新増節用無量蔵』をながめるとき、節用集を見慣れた者ほど、整然としているとの印象を持つことだろう。これは、他の節用集は、門の変わり目に門名を標示するが、それを『新増節用無量蔵』では行頭にかぎる傾向があるからである。門名標示の陰刻が行頭横一線に並び、頭書付録との境界を強調するようにも見え、行と門とのはじまりが一致するのも切りがよい。(図版参照) 門名標示が行頭に来ない例はわずかに四七である。 ロ部官位・支体・名字・器財 ニ部名字(重出のうち前部) リ部人倫・支体 ヌ部支体 ル部草木・気形・支体 ワ神祇 ヨ神祇・名字 タ神祇 レ名所 ソ名字 ネ名所・人倫・衣 食 ナ支体 ラ時候・草木 ム時候 ノ名所・神祇・支体・ 名字・気形 ク官位 マ名所 ケ官位・名字 フ時候 エ名 字・衣食 テ神祇・名字 サ名所 キ草木 ユ気形 メ衣食 ミ名字 モ時候・官位 セ時候 ス気形 列記すれば多く見えるが、平均すれば、各部に一例強、丁数上でも二丁に一例あるかないかである。こうした整備が偶然のはずはなく、相当の関心と労力をもって臨んだことは容易に想像できる。その見やすい例として、行の越境とでもいうべきものがある。現代の国語辞書の語釈でも、直前の行の空白に鍵印でみちびいて書きつぐことがあるが、『新増節用無量蔵』でも同趣のことが認められるのである。以下、全四例につき、説明をほどこす。 エ部器財門では所属語を示すのに一行ではたりず、「閻浮檀金」を直前の草木門行末に配し、境界として二重横線を配する。ハ部官位門はやや高度で、一行で表示しきれず、最後の「防鴨河使」を次行末に配し、境界の横線一本をほどこす。が、この行は名字門の最初の行であり、しかも名字門はなお三行連続する。つまり、「防鴨河使」は、名字門中に突出するように配されたのであり、そのために名字門一行目は本来の行末ではない箇所で改行させられたのである。カ部人倫門はさらに高度である。同門は五行では足りず、横線一本で境界を示しつつ、「衡鹿・甲士・乞児・離支」の四語を直前の官位門行末に配する。ところが、この四語は割行表示なので、やはり割行表示をとる人倫門最終行の「父母」以下一〇語に接続するものと見られる。結局、人倫門の最後に来るはずの四語が、最初の行に配されたことになる。この発展形にニ部名字門がある。二二丁表五行目行頭に「名字」と標示し、「釈迦牟尼仏」以下一〇語を一行に配するが、直前の二一丁裏三行目支体門末にも「名字」と標示して「鳰」以下六語を配するのである。この六語は「釈迦牟尼仏」以下一〇語に接続するのだろうが、前後に手ごろな空白がなかったため、さかのぼって分出されたのであろう。ところが、この二つの語群の間には、草木・気形・衣食・器財の四門が介在するので、区別のために新たに門名を標示せざるをえなかったのであろう。 このように、門名標示を行頭に集中させるため、強引な手段に依ったことが知られる。そこに、編者の改編意志が強く現れているわけだが、一方では、より簡便な手段(語の増補・削除、一行表示の割行化、割行表示の一行化など)を援用したであろうことは容易に想像される。ただし、それを明らかにするには『新増節用無量蔵』の原拠本を特定しなければならない。いま、その暇がなく、すべてを明らかにできないのは残念である。 三 柱における部名標示 『新増節用無量蔵』では各丁の柱にも工夫が認められる。 まず、柱下部に記された丁付けの直上に丸印をほどこすが、巻頭付録では黒丸、辞書本文では白丸と使い分けるのが注目される。検索性の向上をはかるには、いかに求める語・項目以外の余計な部分を見ないで済ませるか、との視点からアプローチする必要があるが、その点、辞書領域を見極めるのに巻頭付録も見なければならないものよりも、小口を見るだけで知られる本書の工夫は便利なものと思われる。 辞書本文では、部名を標示するという意匠も施される。本を開ききり、本文を読んでから何の部かが知れるより、柱部分を見るだけで知れた方が目的の部に早くたどりつける。機能的には、現代の国語辞書の小口における五十音の行別標示に似るもので、相応に便利な工夫である。 柱題直下に平仮名で部名を標示するのだが(図版参照)、白丸内に平仮名を陽刻するもの三九丁、黒丸内に平仮名を陰刻するもの四四丁がある。ただし、部名を標示しないものが一七丁あり、これはやはり、不徹底と見るべきものであろう。また、本文末部で標示を欠く例が多いので、編集意図が巻頭に強く巻末に弱くなる、他書にもまま見られる現象とも考えられる。 さて、陽刻と陰刻のあることが問題だが、なんらかの差があるかどうかは判然としない。次に最初と最後の部分について模式的に示してみる。白丸は陽刻、黒丸は陰刻、二重丸は陽刻で二部標示することを、罰点は標示を欠くことを示す。右傍に部名を記したが、柱に標示されたものではなく、実際にどの部が占めるかを示したものである。 最初の二七丁分 イ イ イ イ イ イ イ イロロハハ ハ ハ ハ ハ ハ ハニニ ニホ ホ ホヘヘ ヘト ト ト ト トチチ ○○●●●●●●◎×○○●●○○●●○○○○●●○○● 最後の二七丁分 テ テアア ア アササ サ サキキ キ キユユメメミミシシ シ シ シ シヒヒ ヒ ヒモモセセ セスス ス ●●●●●●●●●●○○○○○××××○××●×××× イ部のありようからすると同部後半が陰刻かとも思われるが、それはハ・ト部には当てはまらないので、部との関連はなさそうである。あるいは、規則的に交替するなら、視覚の混乱を防ぐ効果もあろうかと思うが、それでもなさそうである。凡例などに何らかの説明がありそうだが、表紙見返しから辞書本文の直前までには見あたらない。あるいは目録題簽などに何らかの説明が載っていたのでもあろうか。なお、『大新増節用無量蔵』では部名標示が全丁に徹底され、すべて陽刻で記されている。このことからすれば、陽刻と陰刻の差は特に機能差を反映したものではなかったとも想像される。 『新増節用無量蔵』における部名標示は右のようなものだが、先行例はある。『真草増補節用集』(延宝三(一六七五)年刊)において、柱上部に部名を片仮名で陰刻(まれに陽刻)するのが早い例かと思われる。折り線を境界として左右すなわち丁の表裏ともに標示する丁寧なものである。また、『大益字林節用不求人大成』(享保二〈一七一七〉年刊)では、当該部名がはじまる丁にのみ片仮名で標示する。その部のはじまりが丁の表でも裏でも当該丁に記すのだが、その位置は柱題直下に右寄せにするので、丁の表左端に標示される。こうした標示方針・標示位置のため、当該部が丁裏からはじまる場合にとまどうが、袋綴じの折り線がかからないので見やすい。意義分類をイロハに先んじて立てるものでは、『鼇頭節用集』(貞享五〈一六八八〉年刊)が、当該門のはじまる丁にのみ門名を標示する。丁裏から新たな門がはじまる場合は次丁の柱に記される。ただし、標示のない場合もある。『広益字尽重宝記綱目』(元禄六〈一六九三〉年刊)では、全丁の柱右側すなわち丁表左端に門名が施され、しかも現代の辞典のように、門を追うごとに下部に記すという周到な工夫を採っているようである。 四 頭書付録で 辞書本文の検索からはなれるが、頭書付録にも興味深い工夫がみられるので、一瞥しておきたい。 通常、付録の年号一覧は年次配列をとるが、『新増節用無量蔵』の「本朝年号紀略」はイロハ順である。言語門に仮名二字目のイロハ分けをほどこした本書らしい工夫と見られる。また、その記事は、「貞享 百十三代 四年/元年甲子より/享保廿迄五十二年」のように年号・代数・年数・元年干支などを記すのだが、諡号の代わりに代数を記すのが特徴的である。これは、頭書付録「和朝王代皇統之順」が、代数・諡号・在位年数の順に記すのを利用してのことかと思う。一種、索引的な用い方に、本書の指向性が反映されているようで興味深いのである。 ついで、頭書の付録に付された通し番号にも注意がいく。付録の見出し直上、匡郭外に数字を陰刻するものである。凡例の類に説明はないが、おそらく、目録題簽にも番号があり、相応じて検索の便に備えたのであろう。たしかに、一八世紀前半の節用集では付録が増えてくるので、その検索にも便法が求められていたと思われる。その点で、付録の通し番号は、ある程度有効な工夫だったかもしれない。 とはいえ、不審な点がないではない。頭書付録の通し番号と、それが付された付録名は次のようだが、 一・天神七代(初ウ) 二・地神五代 三・和朝王代皇統之 順(二オ) 四・九十六/光厳(一四オ) 五・本朝年号紀 略(二二オ) 六・中興武将略伝(五二オ) 七・禁中故実 (五五ウ) 八・堂上方御名寄(六〇オ) 九・御門跡方 (六五ウ) 十・百官(八一オ) 十一・東百官(八三オ) 十二・武家諸役名目(八五オ) 十三・日本国異名(八六ウ) 「四・九十六/光厳」は「三・和朝王代皇統之順」の一項目(光厳天皇)であり、「九・御門跡方」も「八・堂上方御名寄」の中見出しである。こうした区切りの悪いところに通し番号を振る意味がすぐには了解されないのである。 逆に、独立した付録でも番号の付されないものがある。 南朝年号 一三ウ。右記「四」の直前。 年号用字 二一ウ。右記「五」の直前。 日の出入 八六オ。右記「十三」の直前。 大日本国郡名 八七オ〜一三七オ。右記「十三」の直後。 不成就日・願成就日 一三七ウ。右記事の直後。 暦之中段 一三八オウ。右記事の直後。 暦の下段の事 一三九オ〜一六二オ。右記事の直後。 遷都之略紀 一六二ウ〜一六三ウ。右記事の直後。 通し番号が付されなかったのは、分量が少ないためであろうか。たしかに「南朝年号・年号用字」など半丁内に収まるものまで番号を振っていては見た目にわずらわしい。ことに番号付き付録の直前にあるものなら、その番号で代用することもできる。あるいは、「南朝年号」の場合、「光厳」の直前、すなわち南朝を開いた「後醍醐」の直後にあるので、それへの付録とも見られる。「年号用字」も「五・本朝年号紀略」への付録と考える余地がある。いわば付録への付録だが、それにしては「南朝年号」は、見出しをはじめ、各年号が大字で堂々と記されており、「年号用字」も、本体とおぼしい「本朝年号紀略」の直前にくるなど、付録らしからぬ不自然さがあることにはなる。 一方で、「大日本国郡名・暦の下段の事」のように、何十丁にもわたるにもかかわらず、通し番号のないものがある。逆に、番号の付されたものでも「一・天神七代」は半丁、「二・地神五代」にいたっては半丁を満たさず、最終行から「三・和朝王代皇統之順」がはじまるほどである。こうしたちぐはぐな有り様からすると、通し番号の振り方は記事の長短ではない別の原則に依っていることが想定される。あるいは、通し番号が八七丁以下にないことから、本文が進むにしたがって改編が徹底しないという、他書にもまま見られる編集意欲の減退があったのかもしれない。 以上、不徹底の憾みはあるものの、付録記事にまで検索・配列の整備をしようとした点は、辞書本文のそれと軌を一にするものと思われ、注目してよいことがらかと思う。 五 『新増節用無量蔵』への評価 以上、『新増節用無量蔵』における検索の便宜をはかる意匠を見てきた。それらは、かならずしも創案ばかりとは言えないが、複数の工夫を結集したことが『新増節用無量蔵』の真骨頂だと考えられる。辞書本文にかきらず、付録にまで工夫をおよぼそうとしたのは、編者の期するところの並々ならぬことをうかがわせ、画期的と評価すべきものと思われる。こうした本書が、一八世紀後半の検索法の本格的な展開期に先んじることも重視される。 が一方では、いずれの工夫も、その実現において徹底を欠いていたり、不審な点もあったりした。言わば、着想の先行に実現が追いつかないという構図があるわけだが、このことは、各部門序の不整備からも読み取れそうである。たとえば、 イ 乾坤・名所・時候・神祇・官位・人倫・支体・名字・ ロ 乾坤・(欠)(欠)(欠)官位・人倫・支体・名字・ ハ 乾坤・名所・時候・神祇・官位・名字・人倫・支体・ ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ (承前イ)衣食・草木・気形・器財・数量・言語 (承前ロ)気形・衣食・器財・草木・数量・言語 (承前ハ)草木・気形・衣食・器財・数量・言語 のように、隣り合う最初の三部ですら、細部まで一致するわけではない。このようなことは、当時の節用集ではむしろ普通のことだが(米谷隆史二〇〇一)、すぐれた意匠を結集した『新増節用無量蔵』だからこそ、基本ともいえる門序の整備が必要だったとも思うのである。これでは数々の意匠も色褪せよう。 『新増節用無量蔵』における意匠実現の不徹底は、それをそのまま受けとれば、一応の評価をくだすことはできそうである。が、不徹底の理由を考えることで、より深い評価を、さらには当時の節用集刊行の背景を知ることにもなるかと思う。 まず考えられるのは、『新増節用無量蔵』での改良は、あくまで在来型のイロハ・意義分類の節用集の圏内に収めようとの前提があったであろうことである。そのことは、当時の節用集の典型的スタイル──美濃判縦本・巻頭絵入り付録・頭書付録・真草二行表示──を踏襲することにも現れていよう。真に競合他書との差別化をはかるなら、一見して他と異なる形態を採るのがもっとも訴えやすいはずだからである。 では何ゆえ、保守的な前提を持っていた(と筆者が考える)のかが問われることになるが、逆に、他書との形態上の差別化をはからないことが有利なケース・状況を思い描くのが分かりやすい。在来型の典型的なスタイルを踏襲するということは、典型ゆえに購買者にも節用集と認知されやすいという面があろう(佐藤二〇〇二)。このことは近世の節用集にかぎらず、現代のさまざまな商品を見れば容易に理解できる。典型からそれた個性的なものは、独占的な大成功をおさめるか、敬遠されるかのいずれかであろう。近世節用集も同じである。典型の衣装をまとうことが、営業上の安定を約束する面があると考えられるのである。ことに『新増節用無量蔵』が刊行された一八世紀前半では、後半以降よりも形態のバリエーションが少ないので、その傾向は一層強かったであろう。行き過ぎた差別化は、そうした安定を捨てる可能性をはらむ賭けでもあったのである。 二つ目の回答は、版権にからむ作戦として、『新増節用無量蔵』の意匠を見ることである。何らかの意匠が込められていれば、それは新たな節用集として独占的に刊行・販売することができる。そのための意匠は、なにも徹底する必要はないのではないか。意匠自体は量では測ることのできない、質的なものだからである。もちろん、節用集は現実の商品であるから、意匠をほどこしてあると言い切れ、それに誰もが納得するだけの現実的な量を満たす必要はあったことであろうけれど。結局、『新増節用無量蔵』の意匠は、版権を得るためのアリバイだったからこそ、不徹底でありえたと説明できる可能性があることになるのである。 在来の枠組みないし典型から抜け出せなかったとも抜け出なかったとも解されるわけだが、いずれにせよ『新増節用無量蔵』は、在来の枠組みに捕らわれていたことになる。それが不徹底の要因としてはずせないところだろう。つまり、編集過程において、折角の意匠や基本の整備を不徹底のままに済ませることは、一つには、従来型の節用集と同じになることを意味するから、差別化の行き過ぎのための歯止めになることすら考えられる。版権のアリバイの場合は、すでに触れたように、申し訳がたつほどで済ませることが可能なのである。 そして『新増節用無量蔵』は、現に不徹底をかこつことになったわけだが、その『新増節用無量蔵』が、他書に影響したことはあまりなかったであろう。意匠ないし意匠を集合した価値は認められるし、再版本もふくめて何度か版を重ねたことからすれば、相応の成功を収めたのでもあろう。しかし、諸本への実効的な影響力の点では画期的存在たりえなかったと考えられるのである。 では、『新増節用無量蔵』の価値は小さいかといえば、そうではない。工夫をほどこしながらも影響力の小さかった例として他書との比較には有益である。ことに、近世後期以降の節用集に絶大な影響を与えた早引節用集と対比するとき、節用集における改良・改編とそれによる影響力・波及力の何たるかを、強烈なコントラストをもって教えてくれそうだからである。 おわりに はじめに述べたように、一八世紀後半における検索法開発期への胎動を確認し、開発期の評価をより的確に下そうとの目論見のもと、手はじめとして『新増節用無量蔵』をとりあげてみた。前節では、意匠の不徹底の要因を考えたが、その過程では、当時の状況が、突出したものを作りだせないような環境があったことも想像することもでき、単に『新増節用無量蔵』にとどまらない問題についても考えることができたのは一定の成果と思う。 かつて言語地理学を手ほどきされた恩師から「最良の調査票は、調査終了後に得られる」との至言をうかがったが、まさにそれを痛感している。右の検討で『新増節用無量蔵』に先んじる意匠や萌芽のようなものに言及したが、それらは、必ずしも本稿の目的に応じた組織的調査の結果によっていないからである。したがって、遺漏もあろうかと思う。大方の御高教を待つとともに、補足・充実を今後の課題としたい。 また、『新増節用無量蔵』の総合的な考察ためには、本文系統の決定が欠かせない。基本的には易林本系であろうが、より厳密には、語順はもちろん、「ゑ」部ではなく「え」部を採ること、乾坤・衣食・草木・気形の各門で細分標示をほどこすことなどに注目して比定したい。また、イ部人倫門の最終行「棘人」以下一四語のように(図版参照)、門末に割行表示されたものなどは増補語かと疑われるのだが、その原拠も明らかにする必要がある。幸い、この一四語は『合類節用集』やその系統の節用集と多く一致するので、楽観視している。佐藤(一九九六)で「型と系」からの位置づけを提唱したものとしては、系統を明らかにすることは興味ある課題だが、それだけにとどまらず、本稿であつかったことどもが、別の側面を見せてくれたり、あるいは別の捉え方を迫るようになることもありうると思っている。ともあれ、今後の課題の多いことを記して本稿を閉じる。 注 1 『字貫節用集』(文化三〈一八〇六〉年刊。言語門九分割。詳細は注6参照)、『蘭例節用集』(同一二年刊。イロハ二重・意義分類)、『いろは節用集大成』(同一三年序。イロハ・仮名数・意義分類)などから文化年間まで下げることはありうる。が、この三書の発想は必ずしも目新しいものではない。 2 易林本の言語門において、漢字二字語を先に配列することや(上田万年・橋本進吉一九一六)、割行表示の熟語を頭字の字音別に配列する規則があるとの指摘(菊田紀郎一九七三)がある。もちろん、これらに標示があるわけではない。が、易林本を受けついだ近世節用集にあっては、こうした配列傾向がなにがしか受け継がれている。 3 改修本とも呼ぶべき『大新増節用無量蔵』(安永二〈一七七三〉年刊)もこの点は同じである。 4 先行書にも、門の数自体を多くした『合類節用集』(延宝八〈一六八〇〉年。二四門)、恵空編『節用集大全』(同。一八門)、中村三近子編『悉皆世話字彙墨宝』(享保一八〈一七三三〉年刊。一九門)などがあるので、あまり新味はない。 5 なお、『大新増節用無量蔵』もほぼ同じ門に同趣の標示が認められ、さらに、すべてに意義標示をほどこす点で徹底している。が、逆に『新増節用無量蔵』で記した門以外にはほとんど及んでいないので、徹底といってもその範囲でのこととなる。 6 遠く下るが、意義で言語門を細分したものに『字貫節用集』(文化三年刊)があり、「口・目・耳・鼻・心・体(身)・手・足・雑」に九分する。馴染みやすい身体部位に基準を求め、各部位に関わりの深い語を群化する発想はすぐれている。が、すでに早引節用集が一般化していたはずの時期の刊行で、さしたる注目も引かなかったらしく再版も確認できない。 7 ただし、二二丁目の名字門が一行で終わるのだから、それを二一丁目の名字門の前後に配すれば重出するに及ばない。二一丁目の名字門の前行は人倫門の一行だけで、次行は草木門が行頭からはじまるからである。あるいは、原拠本の段階ですでに名字門が重出していたことも考えられる。 8 『大新増節用無量蔵』では、行頭にない門名標示は、ル部草木門・気形門・ツ部名字門の三例だけだが、行の越境はヌ部名字門・ル部人倫門・エ部器財門の三例に過ぎない。行頭集中のために相当の改編が、よりスマートになされたのであろう。 9 表紙の保存状態が完全な異本を見ることができず、目録題簽については想像するにとどまる。 10 歯切れの悪い記し方になったが、その理由は以下のようである。元禄六年刊本は、架蔵の下巻零本しか見ていないが、上匡郭直下に「下|言|」(「言」字は右寄せ)と記し、以下「|言|」の部分は「言|碁双六・染色・数・書法」と字を替えるにしたがい下方に標示しており、巻末付録部も柱に標示する(一九一丁では「数」とあるべきが彫られずに方形に黒く残る)。なお、木村晟(一九九六)は下巻の「言語并世話」のみの影印なので、右のような標示は知られない。別に架蔵する『大広益字尽重宝記綱目』(寛延二〈一七四九〉年刊)によれば、下巻は元禄六年刊本と同様で、上巻・中巻も「上|天|」「中|草|」とそれぞれ最上部に記し、以下「時・月名・国・名所・家・官・名字・人・支・病」「魚・貝・龍・虫・鳥・獣・衣・食・火・器」と字を替えるに従って下方へと標示する。これらのことから、元禄六年刊本の上・中巻にも同様の標示がなされたと推定する。 11 一人の天皇が複数の年号に当たる場合があるので、省力のために諡号ではなく代数を記したことも考えられる。 12 注9に同じ。 13 なお、『大新増節用無量蔵』では付録の内容も平凡なものとなり、通し番号の類もほどこされない。 14 『早引節用集』においては、重版(無断複製)・類版(意匠盗用)があとをたたなかった。また、いくつかの検索法の案も生まれた。すなわち、影響とは、覚悟の上の盗用や、別案の誕生としても現れうるものであろう。が、『新増節用無量蔵』をめぐっては、そうした事態は見られなかった。 15 『新増節用無量蔵』の依拠本文からのものか、独自の増補かを確認する必要があるのは言うまでもない。 参考文献 上田万年・橋本進吉(一九一六)『古本節用集の研究』東京帝国大学(復刻版 勉誠社 一九六八) 菊田紀郎(一九七三)「易林本節用集言語門の表記」『解釈』一九−三 木村晟(一九九六)『廣益字盡重寶記綱目 言語并世話』汲古書 院 佐藤貴裕(一九九〇a)「近世後期節用集における引様の多様化について」『国語学』一六〇 ────(一九九〇b)「早引節用集の流布について」『国語語彙史の研究』一五、和泉書院 ────(一九九一)「イロハ二重検索節用集の受容」『岐阜大学国語国文学』二〇 ────(一九九三)「書くための辞書・節用集の展開」『月刊しにか』一九九三年四月号 ────(一九九四)「早引節用集の位置づけをめぐる諸問題」『岐阜大学国語国文学』二二 ────(一九九六)「近世節用集の記述研究への視点──形式的特徴をめぐって──」『国語語彙史の研究』一五和 泉書院 ────(二〇〇二)「『錦嚢万家節用宝』考──合冊という形式的特徴を中心に──」『国語論究』九、明治書院 鈴木 博(一九六八)『蘭例節用集 文化一二年』臨川書店 由良善彦(一九八三)『大新増節用無量蔵』(複製)開放経済研究所。刊年は付載の倉持濤峰「仮名変体」による 山田忠雄(一九六一)『開版節用集分類目録』(自家版) 米谷隆史(二〇〇一)「蠡海節用集の形式的特徴をめぐって」『語文』七五・七六(合併号) 付記 神原文庫本の利用につき、香川大学附属図書館には、柔軟かつ迅速に対応していただいた。記して謝意を表します。 本稿は平成七年度文部省科学研究費補助金(奨励研究A)による調査・研究成果を流用したところがある。