気になることば
77集
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| 「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある「人間と言語の関わり方」に力点を置いています。 |
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20010220
■和本の綴じ方
ひごろ、和本に接していると、いろいろ、おもしろいことに気づきます。下図のように枕のように厚い本、どうやって綴じるのか。これ一つとってもおもしろい。
普通の厚さのものだと、糸だけで綴じてあるように見えますが、大抵の場合、もう少し手がかかっています。まず、表紙・裏表紙以外の部分を紙縒(こよ)りで綴じるのです。これにあとから表紙・裏表紙をつけて糸で仕上げる、という手順です。
ただ、これほどの厚さになると、それだけでは支えきれません。そこで、竹ひごを綴じしろ部分に貫通させています。これがないと、背が湾曲して見づらくなるのですね。大福帳などでは、竹ひごを通してないものもあるようで、背が湾曲しているのを見かけることがあります。
ただし、竹ひごは2本。1本では、それを中心に回転する力が加わわるとねじれが生じますので。
竹ひごと紙縒りで仮綴じしたものに表紙をつけるのですが、これが実はそう簡単ではない。短い針では役に立ちません。きっと、この本の厚さよりも長い針があったはずです。私も、以前は、製本の悪くなったものを直していましたが、縫いぐるみ用の針を使いました(手芸屋さんで、しかも縫いぐるみ用の針を買うのは勇気がいります)。
さて、順序は逆になりますが、仮綴じ前後のことを。実は、これを書きたくて画像も載せたのです。上の図を見ると、縞模様ができていますが、その縞を作っている部分、微妙にゆれているのが分かるでしょうか。特に左端の帯状になるはずの部分の出入りが激しいですね。右端はさほどでもない。
実際に本を手にすることを想像すると、左端の帯は紙面上方に、右端の筋は紙面下方にきます。ということは、右端(下方)の筋を合わせるように仮綴じしたのだろうと想像できます。版木ですったものから切り出すときに、下方の枠からどれだけ離して切り、上はなりゆき、という風に加工したのではないでしょうか。そして、下を底にしてトントンと平板な作業台のうえで凹凸をならしていったのでしょう。
ただ、現代の製本だったら、非常に緻密にできるので何でもないことですが、上のやり方の場合、切り方の精度がどれほどのものであったか、気になります。大抵の本で下の筋があっていることを思えば、あるいは、筋にあわせて製本してから天地を切り落としたのかもしれません。
20010208
■節用集集め15年
年も世紀も改まったことですし、ちょっと自分の収集をふりかえってみました。企画的には一と月おくれですが、やっと今年の初買いもできたので、やる気になった次第。
数でまとめると左図のようです。ベタの四角は2冊、白抜きは1冊を示します。色分けは、1年平均1月1冊を目標にしていて、それがクリアできたら黄色、幸運にも2年分以上集まったら赤にしてみました。
15年まえから集めていたんですねぇ。我ながら、よく続いたな、と思います。1985年、仙台の古本屋で、刊記の欠けたものながら、院生の分際でも買えてしまったのが運の尽き。「買えるものなんだ」と知って以来の収集です。
1年12冊を目標にしてますが、波があるものですね。さすがに赤は1年しか記録してませんが、1冊という年もあります。ちょっと分析してみましょう。
まず、1990年。岐阜に移ってから2年めの年です。この年から、通信販売の方の成績ががくんと落ちました。以前も書きましたが、仙台よりも岐阜の方が郵便事情が悪いのかもしれません。岐阜中央郵便局の管轄からはずれているのがいけないのかもしれませんが。もちろん、住所が変わったことなども影響しているのでしょう。
これではならじ、と関西方面に買い出し(?)に出かけて1月1冊にもどしはじめたのが翌年以降。功を奏して92年から94年にピークを迎えます。関西の研究会に顔を出すようになって、友人も増え、情報の交換はもちろん、買っておいてもらったりなどしたお蔭です(ありがとう!)。このころは、京都・大阪の古書展に誘い合って(競い合って?)行ったり、午前と午後で京都と神戸の古書展に行ったり、あまった時間で散策したりと、楽しいことが多かった。もちろん、成果も充実。
ところが、96年からは一転して情けないことに。98年などわずか1冊で、悲惨の極みです。95年からでしょうか、ちょっと無理をして、身体をこわしてしまったのでした(医者が病名をつけてくれないので、自律神経失調症としました)。それまで皆勤に近かった関西の研究会や国語学会にも行けない日々が続きました。死亡説まで出ていたとか(まったく!)。「働き盛りなのに」という焦燥感もありましたが、それも空回り。これでは、古書店の目録を見る目も弱るのかもしれません。
ただ、この前後から、関西の古書展や古本屋さんに行っても、節用集にめぐりあいにくくなった、ということはあります(単に、早い時間帯に行けなかったからかもしれませんが)。あるいは、運がなくなっただけかもしれません。もちろん、運とは言っても、足を運ばなければつかめないものなので、やはり、体調不良による出無精がたたったと思っています。
さて、1999年・2000年と、なんとか旧に復することができました。これはそのまま、身体の復調を意味するとみてよいかな、と思っていますが、また別の要因もあるかもしれませんね。それはまたいずれ。
20010202
■「フィルム」
あと5年もすれば、完全に時代遅れの話題になるでしょうから、今のうちに。
「フィルムは大丈夫だろうね」(中略)
「三十六枚撮りのリバーサルを二十本持ってきましたが……それじゃ足りませんか」(高橋克彦『歌麿殺贋事件』講談社文庫 1991)
この「フィルム」は、「三十六枚撮りのリバーサル」とありますから、おそらく、35ミリ一眼レフ・カメラ用のものなのでしょう。もっと大きな中型・大型カメラ用では、「三十六枚撮り」とう言い方はしないでしょう。また、「リバーサル」(ポジ、ポジティブ。スライド、印刷原稿用)なので、同じ35ミリ判が使えるカメラでも、コンパクトというのも不自然でしょう。ちなみに、最初の話し手は美術研究家、二番目は雑誌編集者です。
それにしても、年長の高橋氏まで……
実は、私の「フィルム」は、動画なんですね。静止画つまり普通の写真用は、フイルムといいます。ただし、マイクロ・フィルムはそのままフィルムとなります。あるいは、複合語になるとフィルムというかな…… めったには使わない言い方ですが、もし言うとしたらネガ・フィルムとなりそうな気がしますね。
姿形は複合語ですが、一方では、そう単純じゃないのでは、とも思います。「○○フィルム」という複合した言い方は、フィルムなりフイルムありの下位概念で、それを言うからには相応に専門的だ、という判断もできそうです。そのあたりがひっかかっている気がするのですが、詳しくはいつか改めて。
あるいは、リバーサルというプロがよく使う種類のものだから、高橋氏も「フィルム」としたのかな、と漠然と思っている次第です。
20010131
■「遠望」と「望遠」
自分の趣味に近いことがらには、ちょっとのことでも気になるものですね。
彼方の男に目を凝らす。コールが始まる。紀藤のカメラは最大遠望で男の姿に寄った。(野沢尚「殺されたい女」。日本推理作家協会編『殺人者 ミステリー傑作選38』講談社文庫 20ぺ)
「寄った」とありますから、ズーミングして、「男の姿」を大きく映したのでしょう。それを「遠望」と言うと、ん? と感じます。遠くにあるものを大きく拡大するのに「望遠レンズ」を使いますから、これも「最大望遠」の方が私にはなじみます。また、「遠望」では遠くにあるものをみはるかすという意味になります。それをカメラで実現するには、広角レンズというのがふさわしいので、「最大遠望」は、やはり反対の意味になってしまいそうです。
が、しかし。
この短編集のいいところは、作者の略歴がのっているところ。野沢は、日本大学芸術学部映画科卒。はじめ、脚本家としてデビューし、小説も書くようになったそうです。1960年生まれですから、まだまだ若いですね(^^;)。映画科卒となると、「望遠」と「遠望」を取り違えることはなさそうです。とすると、「遠望」という言い方は、映画関係の専門家には通用しているかもしれない。
また、カメラのレンズの方で、ちょっとこんがらかるのもあるんです。
小さいものを拡大してみせるレンズがあります。接写などに使われるマクロ・レンズです。各メーカー、この名前でだしていますが、ニコンだけは「マイクロ・ニッコール○○」と、マイクロと呼んでいます。微細なものを見るためのレンズ、ということでしょう。ならば、マクロの方は、大きくみせるレンズという意味なのでしょうが、望遠レンズとの区別が付きにくいですね。そのあたりから、ニコンはマイクロを使っているのかもしれません。こうなると、輸出用の名称を確かめたくなりますが、ともあれ、ニコンとニコン以外とで、正反対の言い方をしていることになります。
引き寄せる「望遠」と見はるかす「遠望」は、正反対の関係ですが、だからこそ、こんがらかります。「マクロ」と「マイクロ」のように。専門用語としての通用ぶりが知りたいところです。
木島は私のトレイからつまみ上げたフライドポテトを口に運び、嗄(かす)れた声でいった。(渡辺容子『左手に告げるなかれ』講談社文庫 178ぺ)
うわっ、なんと汚い! 人間はここまで堕ち…… と思ったあたりで読み返して「トレイか」と安心しました。
言語の性質の一つに、線状性があります。言葉で何事か(意味・情報・内容)を伝えるには、口頭にしろ書記にしろ、時間の経過とともに必要な言語要素を規則にしたがって並べていく、というものでした(詳しくはこちら)。逆に、言葉から意味をとりだすには、並べられたものを順番に解読していけばよい……
たしかにそうです。耳は、それしかできない。ところが、目は必ずしもそうではない。「一目で」いろいろ目に入ってきてしまいます。そこで、いろいろ読み間違いが出てくるのでしょうね。
ただ、たびたび言ってきましたが、そうそう人間は誤解をしないものです。誤解するには少なくとも2つは理由がある。引用したものの場合、片仮名は画数が少ないので一挙に読もうとするのでしょうね。また、「つまみ上げた」という表現もからんでいるでしょう。「つまみ上げる」は、必要最小限の接触でモノを引きあげるときに使いますね。必要最小限の接触となると、対象となるのは、小さいもの、大したことのないもの、汚いものなどになります。私の語感だと、「トレイ」の誤読と相まって「汚いもの」を想起したんでしょう。逆に、「汚いもの」を連想したから、「トレイ」の誤読を正しいと強化した、ということもあるでしょう。
すみません。この手の〈勘違いシリーズ〉、何回か出てきてますね。しかも筋道もほぼ同じ。類例の蓄積だとお考えいただければ、幸いです。
声をかけられた私ははっとして、視線を木島の眼鏡からレンズの中央へと動かした。
「きのう祐美子宛にショーヒンが届いた」
「商品?」
進物のことかと思ったが、話をよく聞いてみると、テレビ局から賞品として婦人用腕時計が届いたとのことだった。(渡辺容子『左手に告げるなかれ』講談社文庫 181ぺ)
ちょっと苦しい、というのが第一印象。
聞き違い、ということなのでしょうが、私のアクセントだと、「賞品」は○●●●で、「商品」は●○○○になりますので、両者を聞き違えることはないだろうと思いました。
が、作者は、ぎりぎりの予防線を張っています。「声をかけられた私ははっとして」です。なにか、別のことを考えていたのでしょう。そこに、ふいに「声をかけられた」。聞く準備ができてなければ、アクセントの差を感じとれないのかもしれません。
そういえば、「ディス・イズ・ア(あったかな?)・サラサラ・ペン!」とダメを押すCMがありますね。ぼうっと聞いていると「ザラザラ・ペン」に聞こえてしまうんですが、私だけでしょうか。
この「サラサラ」は、実際に「ザラザラ」に近い発音かもしれません。[sarasara]の二つめの[s]は、もっとも母音らしい[a]に挟まれているので、声帯が振動して[z]になりそうです。最初の[s]のまえにも、ポーズが入るとは言え、直前はやはり[a]なので(あるいはisの[z]?)、これも[z]になる可能性があります。声帯が振動するといっても「「ザラザラ」に近い」くらいの、微妙なものだとは思いますが、今度は耳を研ぎすまして聞いてみましょう。
20010127
■省名を人名に
標題見ただけで何が話題なのか、分かる方もいらっしゃるでしょうね。
1月27日(土)午後のNHK−FMを流していると、陣内大蔵さんが出てきました。運転しながら、しかも途中から聞いていたので、何で彼が出てきたのか分かりませんが、どうやら、ゲストとして迎えられたようです。で、名前にまつわる話に。
彼のお父さんは、「厚生(あつお)」というのですが、これは、厚生省が出来た日に生まれたからだそうです。そこで、息子の「大蔵」さんは、大蔵省からつけられたとか。兄弟に「文部(あやべ)」さんがいるとか、お父さんは、「自治(おさむ)」「外務(とむ)」もいいな、と言っていたとか……
で、落ちですが、飼い犬が「総理」だそうです。ただ、大蔵省は財務省に変わったので、今がぎりぎり旬の話題! という二段落ちでした。
この話、運転しながら聞いていたので、細部には誤りがあるかもしれません。
大蔵さんの応援サイトに「大蔵SHOW」というのがあるのですが、この話を聞かなければ、洒落が分かりませんでしたね。
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」 漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
ことばにも関心がおあり。