気になることば
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| 「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある「人間と言語の関わり方」に力点を置いています。 |
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「(中略)このバッティング・センターは、たまたま手に入ってしまっただけで。儲かりもしないけど、損もしないというだけのものです。まぁ、そんなところを任されて、山内君にすれば役不足だったでしょう」
役不足という言葉が正しく使われるのを、久しぶりに聞いた。最近は、九分九厘が反対の意味で用いられている。(有栖川有栖『朱色の研究』角川文庫)
困ったな。こういうのが目に入ると、(ちょっとだけ)動揺しちゃうじゃないですか。
白状しましょう! 滅多に使わないのですが、もし使うとしたら「九分九厘」の方です。すなわち、ある役目に当たる人の力量が足りない、の意味で使うでしょう。言葉に対する私のスタンスは「研究者であるまえに言語使用者である」ですので、誤用で通してしまって一向にかまいません。
が、しかし。ちょっとだけ気になる。というのは、「役不足」には、その沿革を追った論文も出てるくらいなので、正しい用法も知らないわけではないんです。とすると、厄介なモンダイが…… 〈誤用〉の方を使うと「その論文を読んでないらしいゾ」と思われそうですし、正しい使い方をすると「九分九厘」を占める人たちから「物を知らない」と思われるかもしれません。えーい、ままよ! 誤用をつらぬこう! なんといっても「研究者であるまえに言語使用者」なのですから。
ところが、またモンダイが。小説にも上のような指摘があるとなると、すでに多くの人が、「役不足」が誤用されがちだと知っているかもしれません。そうなると、「役不足」の誤用を通すのもいかがなものか。「私がお着きになりました」と言っているのとそう変わらないことになりそうです。これでは、社会人としての常識・良識はおろか、精神状態までうたがわれかねません。ん〜、困った困った。
まえにもちょっと書きましたが、最近、「一生懸命」が「一所懸命」と書くのをよく見かけるようになりました。「情けは人(「他人」?)のためならず」も、正しい用法にもどりつつあるようです。でも、多分、きっと「役不足」はまだそこまでは行ってないと思います。そういう自分の感覚を信じて(苦しいですねぇ)、行く先が見えてくるまで「役不足」は使わないでおきましょうか。
え? 弱気だ? 無責任? 正しい用法を支持しろ?
残念ですが、私の研究者としての態度は、いまのところ、「言語現象の変化には、積極的に手を出さない」です。いいんです。有栖川もその辺は理解してくれそうですし。
「うまい説明だから、言うと六人部(むとべ)さんはそれを肯定する。それはまずいだろう? (探偵役の)俺が関わることで、真相の追求に影響が出てしまう」
「量子物理学の観察者問題、か」(有栖川有栖『朱色の研究』。括弧内は佐藤の注記)
20001010
■「 1)」
今日から後期の授業がはじまりました。多くの人がそうだと思うのですが、10月10日が休みではないというのがちょっとだけ違和感がありますね。晴れの特異日なので天気もいいようですし、ちょっと心ここにあらず、といった感じです。そこで、簡単な話題で失礼します。
最近気になっているのは、「1)」の読み方。会議などで資料を読み上げるとき、どう読むかを注意してたりします。いまのところ、ハンカッコ(半括弧)・カタカッコ(片括弧)が多いようですが、ほかの読み方はあるのでしょうか。ちょっと知りたくなります。
私? 私はただカッコイチとしか言いません。じゃぁ、次のようなときどうするか‥‥‥
(1)お月見の団子の作り方
1)上新粉をダマにならないよう、少しずつ水を加えて練る。
2)手にくっつかない程度になったら、丸める。
3)お湯で、てんぷらを揚げるようにゆでる。
やはり、恐れず、「(1)」も「1)」も、カッコイチと読み上げます。変かな?
会議の席などの言い方を聞いていると、「(1)」もリョウガッコイチと特別な読み方をしていて、言い分けているようです。フタエガッコというのも聞いたことがあるような気がしますが、ちょっと違うかな、という感じです。フタエマブタのようにやはり二重になっていないと。
そういえば、今日は「目の日」だったでしょうか。なお、上記の団子の作り方はうろ覚えです。信頼のおける料理本で御確認ください。
孟宗汁といっても、大きめに切った孟宗と、これもやや大きめのサイの目に切った生揚げ(土地ではこれを油揚げといっている)でミソ汁をつくり、これに酒粕を加えて味をととのえるだけのものである。(藤沢周平「孟宗汁と鰊」『ふるさとへ回る六部は』新潮文庫)
いや、びっくりしました。昨日、寝るまえに読んだ本に、生揚げが出てくるとは思いもよりませんでした。で、その勢いで、ちょっと書いてみます。
「土地では」とありますが、これは藤沢周平氏の郷里・山形県庄内地方のことです。そちらでは、生揚げをアブラアゲと呼んでいるのですね。そうすると油揚げはなんと呼んでいるのか、気になります。庄内地方出身の方に聞いてみたくなります。
また、引用の箇所からは、藤沢氏は、まず郷里でアブラアゲ(実際は、アブラゲという短い形かもしれません)という呼び方を学び、ついで、(おそらくは東京に出てきてから)ナマアゲという呼び方を知り、文章にも書く、というようです。アブラアゲは方言、ナマアゲは共通語という分け方があるようです。
この辺、私とちょうどベクトルは同じだけれど、語形が入れ代わっているのが面白いですね。くりかえせば、私の場合は、ナマアゲを捨てて、アツアゲを使おうとしています。それは、より広く使われているものにしたがっておこう、ということにありました。藤沢氏がナマアゲを使うのと(おそらく)同じ心理でしょう。言葉が異なるのは、やはり、生揚げの呼称が変化しつつあるから、ということになります。
これは、なかなかいいですね。生揚げにおける語形変化が、単に、語形が変わったよ、というだけでないのがいいです。二人の人間の、生揚げを表す言葉の扱いを垣間見ることができたのが収穫です。言語の変化の細部──あるいは、単に私的な側面かもしれませんが──をビビッドに描けたから、というと恰好をつけすぎかもしれませんが、そういう部分はおおいにあります。
もちろん、学術的には、いろいろ調査が必要になってきます。それは、私の頭のなかでのできごとが、それこそ一個人での変化という私的なものなのか、それとも、より一般に広く敷衍できることなのかを確かめるためにですが、私個人としては、これまで書いてきたようなことで、そこそこ、納得しています。
ところで、あなたは、ナマアゲ? アツアゲ? アブラ(ア)ゲ?
20000919
■「」
以前から気になっていた岐阜県揖斐川町に行ってきました。揖斐川といえば、関西アクセントの東限の一画をなす固有名詞として名高いわけですが、それはあくまで川の下流の方でして、揖斐川町の方は上流にあって、アクセントとはちょっと離れます。
実は、趣味の町並み歩きの方面で気になっていたのです。とある町並み本に揖斐川町の名が挙がっているのですが、町並みの規模・保存状態などが気になりました。国道の一本北側の通りに、それらしきものがありました。和風の町屋が3・4軒続くと、4・5軒めは鉄筋とかモルタル造りという感じでちょっと残念でしたが、昔ながらの酒屋や「創業/寛永拾参年」(1636年!)の看板を掲げる染物屋さんもあり、まずまずと言ったところで…… いやいや、言葉の話をしなければいけせまんね。(^^ゞ
気を取りなおして。
その通りを歩いていると、祭りの山車を保管した蔵がありました。かたわらに、左のような、県が立てた標があります。「芸」とは面妖な用語ですが、歌舞伎風の演劇舞台を備えた山車(揖斐川町)のようです。そして、もちろん、私の注意は「」に集中します。
この字は、いわゆる熟字訓の一つ「山車(だし)」を一字化したものでしょう。ただ、やはり、あまり見かけない字なので、何か、別の事情があって、一字になってしまったのではないか、とも考えてみました。この標を発注する際に、どのような字を書くかという指示書を県が業者に出すのでしょうが、その指示書を読み誤ってしまったとか……
たとえば、指示書には文字が横書きされていたのを、標で縦書きにする際に一字化したとか…… これはだめですね。横書きなら当然左から書きますから「芸山車」と書くでしょう。これを縦書きにしたら山偏になるはずですから。あるいは、指示書は縦書きであって、「山車」の部分だけ割り注(本来一行のところを二行に割って小さい字で記すこと)にしたとか…… これも苦しい。「山車」の部分だけそう書く必要性が考えにくいからです。とすると、やはり、「」は「」で一字だということになりそうです。
実は、どこかで見たような記憶がかすかにですが、あります。民俗学関係の本のような気がしますが、追跡するのは面倒ですねぇ。あるいはと思い、漢和辞典や国字の字典類をざっとみたのですが、載っていないようです(整理が悪くてラインマンさんの字典が見つけられないのが残念、というか情けない)。とりあえず、私の記憶の追跡は後回し。
「「芸」とは面妖な用語ですが」と書きましたが、これは、その山車の呼び名として、古くから土地に伝わる用語とは別に、その意味を抽出するような漢字を(無理に?)当て、新たな用語を作ったのではないか、と思ったためです。とすると、逆に、民俗学というか、古典芸能を守備範囲とする学問分野では、「」が普通に使われている、という可能性もありそうですね。専門用語ならぬ専門用字でしょうか。
20000918
■「生揚げ」
大学に入ったころ、仲間と居酒屋などを飲み歩くたびにちょっと気になることがありました。豆腐を厚めに切って揚げたものを「厚揚げ(あつあげ)」と呼んだり書いたりしているからです。私の言葉としては「生揚げ(なまあげ)」だったので。いや、実際、心細いものです。人に聞いたりもするのですが、大抵は「厚揚げ」と答えますので、自分の家だけ変なのか、と思ったことです。
で、ちょっと調べてみると、『日本国語大辞典』(小学館)には、「なまあげ」しか載せられていません。『新明解国語辞典』(第五版。三省堂)も、「あつあげ」を立項しませんが、「なまあげ」の語釈の最後に「あつあげ」とあります。『大辞林』(第ニ版。インターネット版)は、立項しているのですが、「「生揚(なまあ)げ」に同じ。」と、やはり冷淡です。もちろん、私にとっては、心強い(?)ことです。
ところで、「なまあげ」というのは、「あつあげ」にくらべると、言葉の成り立ちが分かりにくいですね。「あつあげ」は、厚く切った豆腐を揚げたから、というのが語源でしょう。あるいは、薄い油揚げに対して、厚い油揚げということかもしれません。いずれにせよ、分かりやすい語源です。
が、「なまあげ」の方はどうなんでしょう。「あげ」はいいとして、「なま」は? 何に対しての「なま(生)」なのかがまず気になります。「干す」? 「焼く」? 「煮る」? その辺のことがもう一つ分からない。
国語辞典で「なまあげ」を引くと、「揚げ方が不十分なこと(もの)」(新明解5)という語釈も出てきます。これを踏まえれば、豆腐の「なまあげ」とは、揚げ方が不十分なことを「なま」で表しており、不十分なために豆腐の部分が残っているもの。これに対して、すっかり揚げたものが「油揚げ」で、もとの豆腐らしさはほとんど残っていないもの、と考えられます。言ってみれは、「なま油揚げ」と言うところを短く「なまあげ」にした、ということかもしれません。
これで私自身はすっきりしました。一応、語源のうえでも、「なまあげ」がちゃんとした言葉である(可能性が十分にある)と安心できたので。とはいえ、やはり、現代では「あつあげ」の勢力の方が強いように思います。そうなら、私は、人と話すときは「あつあげ」を使うでしょうね。
それはそれとして、先日、帰省したおり、私が幼いころから店を張っている豆腐屋さんに「生揚げ 140」という値札があるのを何年ぶりかで確認し、ほっとしました。
燃える石炭の炎だけが紅一点の、古色蒼然たる車両ではあるが、改修した箇所もある。(略)トイレも、囲いは昔のままであるが便器は撤去され、床板が張られて車掌室になっている。
入り口の扉の横に何か書いてある。老眼鏡をかけないとよく見えないのだが、声を出して読んでみた。
「便所修繕、名古屋工場、昭和25年」
そう読めた。
「更新修繕……」
と名取君が読み直した。
言葉のうえでの錯誤については、随分前にも書きましたが、ちょうどいい例を見つけたのでふたたび。ただ、考え方はまったく同じで(ネタ切れ?)、「ヒマラヤ遊び」と一緒です。
宮脇の頭のなかには、車両のトイレが「囲いは昔のままであるが便器は撤去され、床板が張られて」改造されたことがありました。これは、「ヒマラヤ遊び」では「ヒマラヤ・ヒマラヤ……」と10回ほど言わせるのに当たります。わざわざ「スキーマ」という用語を持ち出さずとも、「先入観」で十分だと思います。
そして、「便所」と「更新」が似ているということも、もちろん、この錯誤にかかわっています。こう文字で書いても結構似ていますね。「ヒマラヤ遊び」なら、「世界で一番高い山は?」という、まぎらわし問いに当たります。
さらに、「更新」の文字の周囲は、いま見ているページのように白地に鮮やかな文字が書かれていた保証はありません。「更新修繕」は昭和25年での記入でしょうから、手垢にまみれていたり、その後、塗装の直しもあったかもしれません。要するに、ストレートに「更新」の文字が見える状況だったとはかぎらないわけです。しかも、老眼鏡もなかった。まぎらわしさは、増幅されていたと見られます。これは、ふと意表をついて、たとえば疲れたときなどに「ヒマラヤ遊び」をしかけるのにあたります。
このような事情があって、「更新」を「便所」と見誤ったのでしょう。普通、ひとつの要因だけで人間は読み誤ることはないだろうと思います。一歩進んで、こう言う方がいいでしょう。要因が多いほど間違えやすく、少ないほど間違えにくいと。
私は、言葉は変化しにくいものだと思っています。それをおして変化するには、それだけの理由が──質でいえばそれだけの衝撃、数でいえば複数──必要だと思います。言葉をめぐる錯誤についても同じようなことが考えられないでしょうか。つまり、人間は、言葉を見間違えたりしないものでしょう。基本的には。見間違えるのは、要因が重なったときなのでしょう。そう考えると、錯誤と言語の変化は似た部分がありそうです。
20000913
■意外な「以外」
古本屋の目録をみて、『内外/懐中節用』(明治28年刊)というものを買ってみました。江戸時代の節用集という用字集は、私の関心のある分野ですが、その成れの果ての一つの姿として面白いと思い、購入しました。
「目録」をみてもわかるように、用字集の面影はひとかけらもありません。これは江戸時代の節用集のある種のものが、付録記事を多数載せ、それがまた売れたために、「節用(集)」と聞けば、便利帳をさすような意識が生まれたことによるのだと思っています。
さて、当然、そこに書かれた言葉にも興味があります。あちこち見ていくと、いろいろ面白いことが目につきました。そのなかで116・117ページに出てくるものを見てみます。
まず、右半分の小包郵便料金の一覧表から。里程と重量で細かくさだめていますが、里程の最後に注目。「三百里以外」というのが、当時の一般的な表し方だったのでしょう。現代なら「以遠」となりそうなところです。現代の「以外」の使い方は、ある範囲を決めておいて、その外側のもの、範囲外のものを意味します。もちろん、三百里圏とでもいった範囲を想定して、それ「以外」という使い方なのかもしれません。ただ、現代の「以外」だと、距離という具体的なものにはふさわしくなく、も少し抽象の度合いの高いものに使うのがふさわしいような気がします。
では、左側。ちょっと目をうたがったりするのですが、旧国名が使われています。明治28年の本にも、いや、その本が依拠した逓信省の刊行物にも、旧国名で記されていたのでしょう。郵便事業は国策でもあったでしょうから、府県名で呼んでいても不思議はなく、むしろ、その方が首尾一貫していると思うのですが。府県名になれていない利用者の数が少なくない、などの事情があって、それへの対応を考えてのことなのでしょうか。それにしても……
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」 漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
ことばにも関心がおあり。