19970512
■「におって」
日曜に見るともなく「笑っていいとも」増刊号を見ていた。出された物の使用目的をあてるコーナーで(「見るともなく見ていた」ので自信なし)、関西出身とおぼしいタレント(20才代なかば(?)の女性)が、「匂ってもいいですか」と言っていたのが印象に残った。「匂う」を「匂いをかぐ」の意味で使ったのである。関西の方言らしい。活用は、共通語・東京語と同じ五段活用だろう。
念のため、牧村史陽『大阪ことば事典』(講談社学術文庫)をみると「におぐ」とある。ははぁ、「におう」と「かぐ」が混交したのだなぁと納得しかけたが、待てしばし。「におぐ」なら「においで」となりそうなものだが、さきの例は「におって」。別語だ。
そこで、国研『日本言語地図』2で「匂いをかぐ」をみると、ニオウは岡山・山口・福岡あたりに分布し、関西にはほとんど分布していない。(なお、ニオグもなかった)『日本言語地図』は30年前の老人の回答を載せている。『大阪ことば事典』もやはり古い情報だろう。とすると、関西の若い人の間では、岡山・山口・福岡あたりから入ってきたニオウ(匂いをかぐ)を使うようになっているのかもしれない。
東京を発信源として全国に広まった(らしい)「〜ジャン」は、もともと東海地方(静岡あたりだったろうか。横浜との説もあるが)の方言だったものが東京に流入したという。そうするとニオウも同様のメカニズムで関西語に組み入れられたことが考えられないではない。
ただ、番組の性格を考えると、おもしろおかしい表現が、その場限りで使われることもある。現にタモリも復唱していた。方言というほどには根づいた言い方ではないのかもしれない。
19970513
■言語変化はないはずだ!
言語は変化せずにはおれないものだという意見が支配的だ。たしかに、何の予備知識もなく『万葉集』や『源氏物語』は読めない。へたをすると同時代の人間でも、老人と若い人とでことばがちがったりする。たしかに言葉は変化する。
しかし、ちょっと考えてみると、言葉は変化しない方が好都合なのだ。たとえば、犬という単語は、イヌという音声と/いぬ/という物とを結び付けたものである。/いぬ/はイヌイヌと鳴いてるわけでもないのに日本語話者の都合でイヌと呼ばれているのだから、あきらかに「結び付け」られたものです。そして、この結び付けは、日本語を話すもののあいだでは守るべき約束ごとなっている。だから、われわれは、イヌと聞けば/いぬ/を、/いぬ/を伝えたければイヌという音声連続を、条件反射的に思い出すようにまでしている。そう、忘れてはならない約束ごとなのだ。とすれば、言語変化というのは、いままでイヌと呼んでいたものを、別の音声連続に置き換えること、すなわち、約束の変更ともいえるものだ。
約束の変更。考えるだけでもいやになる。同窓会の日取りを前もって約束してあったのに、それを変更することになったらどうか。幹事さんにとっては悪夢だ。全員に伝わるかどうか、間違いなく開催できるかどうか、心配で眠れなくなるだろう。下手をすれば、一生恨まれることだってある………約束の変更にはいろいろしなくてもいい労力がかかるものだ。したがって、労力のかかることはしないにこしたことはない。だから言葉も変化しない方がよいのだ。もっといえば、もともと変化しないという性格を言語は持っているのである。
にもかかわらず、言語は変化している。この矛盾を追求するところに、言語変化研究の醍醐味があるといってよい。いや、大風呂敷を広げたついでだ、もっと言ってしまおう。人間(あるいは、その集まりとしての社会)の不思議を追求する、一つの手掛かりでもあることになるだろう。
何だか力んでますね。ウィスキーはいけません………
19970514
■「えらい」の語源珍説
某氏の論文で引かれているのでここで改めて紹介するのも何だが、やっぱり面白いのでやってしまおう。『日本国語大辞典』は語源に関しては比較的寛容で、「語源説」として代表的なものや可能性のあるものは、あまり取捨選択せず挙げている。(よっぽど滑稽なのはあげないんでしょうけどね。頭の黒い兎が首をはねられて、頭と胴がそれぞれ鳥になって飛んでいった。この鳥をウ・サギというのだ、など。)
享保年間に、兵庫の浦で大鯛がとれ、あらの料理を受け持った一人が、鰓(えら)を切るときに指に怪我をした。その口合に、「ああ痛い、これはエラ(鰓)イタイ(痛)、さてもエライ鯛じゃ」と言った。それが広まって以後、大きな物でさえあれば、エライ、エライ物と言うようになり、日本国中の俗語になった。[世間仲人気質・摂陽奇観](*丸括弧は佐藤の補足)ただこのエピソード以前に「えらい」の用例があるらしいので否定されるのは惜しい。が、実は、それさえなければこの荒唐無稽の語源説もあなどれないと思っている。いや、むしろ、荒唐無稽でなければならないとさえ言い切ってもいい。
19970515
■「あぐり」
NHK連続テレビ小説の題名。日本語離れした感じがしておもしろい。「盛岡」がロシア語みたいに聞こえる人もあるらしいが(さて何を下敷きにしているでしょう)、アグリは何語だろう。なぜ主人公がアグリと名付けられたかは、NHKの「タイトルの由来」をごらんください。このページ、gooで探したんですが、「あぐり」で880もヒットしました。
で、語源が気になる。『日本国語大辞典』だと菅江真澄の随筆をひいている。東北方言に「あふれる」の意味でアグルがあって、それにちなんだ女性名がそちらの方に多いという(『あぐり』の方は岡山だが。他に、喜田貞吉という人が「あまり」の転じたものと言ってるそうだ)。私はまた、双六のゴールは「もうこれでお終い」の意味でアガリというから、アガル・アゲル・アグ(上)などと関係があるのかと思ってた。でもアグリだと活用形としてはでてこない。別語だ。(どっかで見たような展開だ)。
小学生のころに見たテレビで、自分の名前の由来を聞いてきなさいという宿題に、勇という子が母親から「もう生まれないと思っていたのに生まれたから『またか』(マ田カ)と付けたのだ」と言われてしょんぼりしていた場面を思い出した。アグリにしても可哀相な名ではある。
アグリの場合、すんなり名付けられたという設定なので、おそらく、先例も少なくなかったということなのだろう。上のNHKのページにも少し上がっている。でも、やっぱり可哀相なので、タイトルの画面では、AGRIと母音を抜いて洋語めかしているのかしら。だとしたら別の意味で問題かも。
岡島さん、ニオグの情報、ありがとうございます。もうすこし他の情報もたまったら紹介したいと思います。「学書言志」が凡例にないことについては何も言ってませんでした。
19970516
■錯誤の背景−−−ヒラドツツジ
キャンパスでは、ちょうど見頃になっているのがこの花である。ツツジのなかでは大きな花をつける。ショッキング・ピンクというのか、なかなかあざやかな色合いで咲き誇っている。まぁ、思いっきりお化粧をした女性という風情だ。野草のニワゼキショウも、可憐で清楚な花を咲かせていて、好対照だが、それはそれでまたいい。
ところでヒラドツツジ、十本に一本くらいのわりで銘板が付けられており、片仮名でヒラドツツジと記されている。赴任早々、なぜか私はこれを「ヒドラツツジ」と読んでいて、一向に怪しまなかった。たしかに枝は不規則に伸びていて、原生動物のヒドラと通じるように思っていた。それに農学部も同じキャンパスにある。きっと、某先生の提言で珍しいツツジが植えられたのだろうと、感心していた。が、あるとき「ヒラド‥‥」だったことに気づいた。う〜む。ま、ここで動植物名を片仮名表記することをとやくかく言おうとは思わない。面白いのは、なぜ私が間違えつづけたか、という点である。
もちろん、片仮名だけの表記ということもあるが、やはり単語をパッと掲げられると即座に読んで読めたつもりになってしまうのだろう。私の場合はさらに、農学部とか枝ぶりとか、それを強化する環境も整っていた。そんなこんなで、長いこと思い違いを引きずっていたように思う。
そういえば、昔の紅白歌合戦で、加山雄三が少年隊の『仮面舞踏会』を「仮面ライダー」と紹介してしまったことがあった。こういう大舞台でやると皆さんの関心を呼ぶらしい。当時の深夜ラジオなどでは理由を説くコーナーまで新設されていたのを思い出した。
19970518
■野口五郎岳
こういう名の山がある。はじめて知った方はびっくりするでしょうね。どんな山かというと、こういう山(松江工業高等専門学校・藤井諭さんのページ)です。富山県と長野県境にあって、北アルプスの裏銀座を形成する山だそうです。野口五郎池(広島市在住・熊野健策さんのページ)というのもあります。周囲はこんな感じの山々(熊野健策さんのページ)があります。
この山、歌手・野口五郎の名の由来となったという話を聞いたことがあります。昨日、テレビをつけていたら、ワイドショー解説みたいな番組があって、野口五郎のお父さんがなくなったとかいう話をしてました。姓は佐藤らしいですね。で、岐阜出身じゃなかったかしら。いろいろ縁がありそうなので(無理矢理だなぁ)ちょっと触れてみたわけです。
山には小石がごろごろしていて、土地の人がゴロ・ゴーロなどと呼んでいたので五郎岳となったようです。で、なぜ「野口」なのかということが気になります。もうひとつ、五郎岳(黒部五郎岳)があったので、区別するためにつけられたという話を聞いたことがありますが、それでもなぜ「野口」が選ばれたのか気になります。山岳方面の参考書を見るとたちどころにわかるのだとは思いますが。
19970519
■佐藤武義著『日本語の風景』(おうふう)
恩師の、日本語をめぐっての随筆集。東北大の国語学研究室関係者に毎年配付される同人誌(?)『いがぐり』掲載のエッセイや、『河北新報』(宮城県の地方新聞)への雑文などが中心。その視点、ときに高く、ときに低く、柔軟。そのために、若々しさ、みずみずしさを覚える。これは賛辞ながら、実のところ、己への自戒にほかならない。
「「違和感」と「異和感」」では、ご自身が「異和感」と書いたのを編集者に「違和感」と訂正されたのをきっかけに書かれたもの。少なからぬ実例を収集・分類するなど、御多忙にもかかわらず、フットワークの軽快さに驚かされる。
「後家異変か」はワープロ体験記。「流行語と商標登録」では、ある流行語(未読の方のために伏せておこう……おいおい、推理小説の解説じゃないぞ!)が商標登録したことに寄せて書かれたもの。「煙草をのむ」は身近な話題から。
佐藤先生は漱石がお好みらしく、「夏目漱石の言葉の風景」として一章を設けられた。語彙を中心に文体・文章まで触れるさまは、さながら「ことばに遊ぶ・ことばと遊ぶ」(ん? どこかで見たなぁ)さまを見るよう。漱石や漱石門人たちが現代日本語文体を形成した可能性にまで及ぶ。
また、時代を反映した話題もあって参考になります。まえにも書きましたが、意外にわからない近代から現代にかけてのことばなのでありがたい。ま、日本語ウオッチャーの方にご一読をお勧めします。
岡島昭浩さんの
「目についたことば」
高本條治さんの
「耳より情報」
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