19961202
■和語+「的」
最近話題になりつつあるのが、「〜的」という言い方だという。〜の部分には何でも入ってしまう。
ことに中年層に多いらしい。ことばの乱れとか言われる議論では若い年代が槍玉にあがるが、中年層
とは面白い。私自身も、つい使ってしまう。だから、あまり抵抗はないように思っていたが、
自分が使わない言い方を他人がしているのをみるとやはり気になる。たとえば
「乱妨人」、今の表記ならば「乱暴人」となろうが、(中略)吉田神主宅を襲った 「物取(ものとり)」と、そのしわざ的には変わりがない。 (小林千草『応仁の乱と日野富子』中公新書 13ぺ)
〜的のバリエーションにもいろいろ(いや無限かな)あるのだろうが、 和語+的は少ないようにおもう。そのうえ「しわざ」は、私の感覚からいくと古めかしいものの部類に はいりそうなことばである。その場限りの用法なのかもしれないが、「的」の造語力、恐るべし。
昨日は初雪の癖に16センチも積もったので、研究室にいけませんでした。でも、一応、今日、 更新したので興味のある方はどうぞ。→なじまない辞書。
桃栗続報。大阪のYTさんより「柚子の大馬鹿十八年/柚子は九年で成りかかる/柚子は九年で花ざかり」 という言い方をなさる方がいらっしゃるとの情報を寄せていただきました。ありがとうございました。
19961206
■事故の顛末
わ〜ぃ。やっとつながった!
火曜日以来、パソコンがLANアダプターを認識しなくなった。そりゃ、前日、ボードをいくつか
入れたり出したりした私が悪いと言ってしまえばそれまでなのだが。でも、おまえさんの子供なんだから
ちゃんと認知しろよ、と思ってあれこれいじってもだめ。バックアップしていた設定ファイル
も効かない。何度セットアップしても、ドライバーが足りないと言ってくる。
95の修復セットアップでもだめ。
ああ、フォーマットからやらなあかんかなと思っていたところ、プラグ・アンド・プレーBIOSが
いかれているのかもしれないと思いついた。最後の手段で、LANアダプターのPnP機能を殺して、
ハードウェアウィザードを起動したら、今までの苦労が嘘のように簡単につながってしまった
。ほかのボードは健全に働いてくれてるので、PnPBIOSの部分的な欠損のようである
(そんなことあるんかいな)。
それにしてもあぶない。クラッシュの前兆でなければいいのだが。
今後、急に更新しなくなったら、トラブルが本格化したものと思って下さい。
ふぅ、もう余力がない。午後9時54分。研究室にて(前日)。
永き眠りの果てに
19970506
■教師失格の弁‥‥‥上代特殊仮名遣いをどう教えるか
がらにもなく大仰だが、表記のような問題。だれかいい案があったら教えてください。
だいたいこの季節では、奈良時代の言語の話しをする。が、そのメインイベントともいうべき
上代特殊仮名遣いをどう教えるか、いつも悩み、そして今年も敗北感にうちひしがれながら
教室から戻ってきた。
奈良時代、キケコソトノヒヘミメ(モ)ヨロに異なるニ種の発音があったと見られる文字遣い
がある、ということなのだが、では、そのニ種の音たるや如何なるものや、などと問われると、
ちょっとあたふたする。一種はいいとして、もう一つがいま一つはっきりしてないからだ。
これでは学生もとまどう。ヂジズヅの四つ仮名やワ行音だったら現代も仮名が残っているので、
別音だったろうと推測もしやすいし、ちょっとヒントを与えれば実際に発音もできる。しかし、
上代のキケコ‥‥は、そういった手がかりが学生側に一切ないのだ。
こんな状態では、それぞれの音価(実際の発音)の諸説などを紹介したら、消化不良をおこすことは
明らか。で、仕方がないので、あたりさわりのない講義になってしまう、というのが例年であり、
今年もそうであった。
わからない、ということを正直に伝えるのが勤めだ、というのもわかる。が、一方では、
「分かる」話し方を目指すという欲もある。うううん、やっぱり教師は失格だな。
19970507
■母音の無声化
私は関東の出身。したがって、はなはだしく母音が無声化する。
この場合の「声」とは声帯の振動。母音は原則としてこの声をもっているのが特徴である。
が、イ・ウなどの口の開きの小さい母音が、無声子音(カサタハパ各行の子音)に挟まれ
たり、文末だったりすると、「声」が消えてしまうことがある。関東の人はほとんど規則的に
そうなる。(ほかにも無声化する環境はあるが省略)
最近ではパソコンにしゃべらせようというソフトが多くなったが、このあたりがやはり気に
なる。音声を拍(ほぼ仮名一字に相当)単位でデータ化して、それを再編成してテキストを
読ませたりするという手順らしいが、ときどき、無声子音に挟まれていないのに母音が無声
化していて聞き取りにくいことがある。
岐阜に来てバスに乗って、ああ、西日本に来たのだなぁと思った。それは、アナウンスで
「キクチめがね柳ヶ瀬店はこちらでお降りが便利です」というのだが、キクチのなかの
母音すべてがちゃんと「声」を伴っているのだ。私なんか、全部無声化する。
で、共通語の無声化しない発音にあこがれたりする。単純に言うと深みのある発音という
べきか。たとえば、以前、朝の連続テレビ小説「かりん」にでていて(テーマ曲はカナディ
アン・アコーディオンでしたね。私の数少ない持ち歌です)、いまは個人破産製造機の一種「縁(円?)
結び」のCMにでている女優さん(名前忘れた)。そしてNHKの『試してガッテン』に
この三月まで出ていた山本志保アナ。彼女たちの声を使ってデータ化してほしいなぁ。
19970508
■号
すこしは古い本もあるので、蔵書印でも作るか、などと思うことがある。銘文は「〇〇蔵書」より
「〇〇集書」がいいかな。アクティブな感じがするし、心持ち謙虚な気もする。印材は黄楊。
石だと欠けそうだ。でも、それがまた味になるか…… などと思うだけで実行には至っていない。
やっぱり、ちょっと面はゆいんですね。
何かいい号でもできたら作るかもしれない。フランク・ホーレーという蔵書家のコレクションは
かなりの数、天理図書館にあるそうだが、これが「宝玲文庫」。一つ一つの本が珠玉のごとき貴重
さをもちつつ、ホーレーの情熱・愛まで感じられそうな名だ。
しごとがら、岩波書店の『国書総目録』の世話になることが多い。で、ときおり目にするのが
「学書言志」という号。普通は図書館や文庫の名から「図書館・文庫」を除いた部分が表記され
るのだが、「書を学び、志を言ふ」と読めることもあって、「学書言志」ではどちらかが省かれた
という風でない。略称一覧にも、私の見方が悪いのか「学書言志」は見当たらない。
もっと参考書・研究書類を丁寧に目を通せば分かるのだろうが、数年まえに、思い余って、
そして不勉強を恥じつつも岩波書店に手紙を書いてしまった(ああ、本当に恥ずかしい)。
返書は捜し出せないので正確を期せないが(きちんとしまってはあるのです)、
書誌学の某大家(川瀬氏? 長沢氏?)の号(文庫の名?)だという。で、その由来は、
「学・書・言・志」を並べ替えて「書・言・志・学」。一部つづめて、「書・誌・学」!
まさかのアナグラムである。こうなると「吾学国言」(われ、国の言を学ぶ)なんてやったら
二番煎じもいいところ。恥の上塗りも極まれリ、だ。
やっぱり蔵書印はまだやめておこう。
19970509
■「刷り込み」
この言葉、inprintingの訳語として日本語に定着したようだ。私がはじめてこの概念に触れたのは
大学1年の心理学の講義でだったと思う。当時、動物行動学入門書として売れていた『ソロモンの指
鐶(輪?)』がテキストだった。
そういう場だったためだろうか、インプリンティングという外来語の術語が主で、「刷り込み」の
方は、術語理解の補助的な訳として、従の扱いだったように思う。
それが日本語の、しかも和語の術語として定着しているのだから面白い。心理学界には日本語愛
が横溢しているのかもしれない。
数年前に術語の見直しが大規模に行われ、「コンピューター」が「コンピュータ」と表記するよう
になるなどの変化があったが、その際、「刷り込み」に軍配が上がったのかな。
19970510
■「売り号」----和語の語感
チューチューマウスのホームページ
に週一回くらいは行っている。新バージョンのダウンロード
よりも、「最近あった話題」
を読みに行くのだ。今回の最新版は、
ハイウェイテレホンからのメール。詳細はお読みいただくとして、そこから
日本道路公団のホームページに飛んでみた。と、
広報活動の御案内 大石恵
関連ツールなんてのがある。いまでこそ普通のタレントになりつつあるが、お天気おねえさんを
やってたときは天使のように思えましたね、大石さん。
で、このページでは、流した情報を「テレビCF」や「ラジオCM」などとメディアごとにまとめてい
る。ああ、やっぱりCFとCMはちゃんと使い分けるべきなのね、と思ったり、「テレビ・ラジオ」と
あるのなら、CMに統一してもいいんじゃないか、と思いつつ見ていくと、「雑誌」というコーナー
で週刊誌の名があり、発売日で号を記している。それが、「週間ポスト(5/9日売り号)」などと
なっている(「週間」はもとのまま。5月11日12時現在)。
なぜ「発売号」としないのだろう。「売り号」の方が何とはなしに品がないように思えるのだが。
逆に、もともとはニュートラルなニュアンスだったであろう和語が、品のなさまで感じ取らせる
ほど、漢語に浸食されてしまった例でもあるわけだ。もちろん、和語の方がよいニュアンスを保っている
語も少なくない。山梨の銘菓『月のしずく』を『月の水滴』としたのでは買いたくなくなる。
「虫」にさされても軟膏でなおりそうだが、「昆虫」にさされるともう死にそうである。そうなると、
どのような条件の時に、和語と漢語とでニュアンスのプラス・マイナスが起こるのか
ということを問題にしたくもなるのだが、和語とか漢語とかでくくって何かを考えること自体、
そろそろ限界に来ているほどに漢語は定着しているのが現代なのだろう。と、今日も問題を先送り
にする私であった。
岡島昭浩さんの
「目についたことば」
高本條治さんの「耳より情報」