気になることば
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*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある、 「人間が言語にどうかかわっているか」に力点を置いているつもりです。 |
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棚の前には薄い緑色の幕を引かせたので、一種の装飾にはなったが、壁がこれまでの倍以上の厚さになったと同じわけだから、室内が余程暗くなって、それと同時に、一間が外より物音の聞えない、しんとした所になってしまった。(森鴎外「かのように」。『新潮文庫 明治の文豪』CD-ROM版。強調、佐藤。青空文庫版) |
さらにこの種の例だと、「−引く」の部分の意味も変わるように思います。より分かりやすい例をあげれば「式場には紅白の幕を引くのが通例だ」(作例)。これだと、「−引く」の部分は、動作がいま現に進行しつつある場合も表せるでしょうが、どちらかといえば動作の結果(幕が設置された状態)に表現の中心があるように感じられます。
ん〜、「幕を引く」の背後はなかなかに面倒くさいですね。あるいはそれも含めて「古臭い」。そういった表現に、外来語「カーテン」をよこすべりさせづらい、という気持ちはよく理解できるように思います。
殊に、海岸に並ぶ家々には、強引な方法がとられることになっていた。家族は、一人残らず家に閉じこめ、その上雨戸をたてさせ、窓にはカーテンを引かせる。そして、警戒隊員を一戸に数名ずつ配置させて、住民たちを厳重に監視させる方法も予定されていた。
(吉村昭『戦艦武蔵』。『新潮文庫の100冊』CD-ROM版。強調、佐藤) |
吉村昭の「カーテンを引」くは、あきらかにカーテンを閉めるわけですが、林芙美子の例はカーテンを開けるのでしょうね。そしてそこに「押し入れのような寝室」が現れるのでしょう。う〜ん、同じ表現で正反対のことが表せるのですね。困ったこまった…… いやいや、面白い。
もちろん、理屈をいえば「引く」は、(ある部分との接触をたもちながらそのものを)一方から他方へ移動するという意味ですから、カーテンなら「閉める」にも「開ける」にも使えるわけです。だから、「引く」という動作はカーテンのもとの状態いかんによって「閉める」「開ける」が決定することになります。
が、しかし、私は、「カーテンを引く」をみたら「閉める」方をまず思い浮かべます。ですから、林の例をみたとき、ちょっととまどった。なぜなんだろうと考えたら、「幕を引く」からの連想だと気付きました。
野も丘も雨に煙っていた。風と音が来て、雨が幕を引くように、片側から風景を打ち消した。(大岡昇平『野火』。『新潮文庫の100冊』CD-ROM版。強調、佐藤) |
そうそう、こういう使い方です。幕を閉じるわけです。そのように風景が片方から見えにくくなっていく。辞書でも、「幕を引く」は「幕を閉じる」の意味として説明しています(例)。もちろん、辞書に載っているから「正しい」「どうだ、偉いだろう!」というのではありません。辞書に載るということを、その表現が一般性を獲得した熟した言い方であることの目安にしたいというだけです。
それはともかく、おそらく、カーテンも幕の一種のようなものですから、本来「カーテンを引く」も、閉めるの意味で使われていたのではないでしょうか。では、それがなぜ、開くの意味にも使えるようになったのか。もちろん、「引く」という動作が、開閉両用にも使えないことはないからですが、やはり、そこは「理由は複数」と見込んで考えてみましょう。それではまた明日。
そこでドイツの新教神学のような、教義や寺院の歴史をしっかり調べたものが出来ていると、教育のあるものは、志さえあれば、専門家の綺麗に洗い上げた、滓のこびり付いていない教義をも覗いて見ることが出来る。それを覗いて見ると、信仰はしないまでも、宗教の必要だけは認めるようになる。そこで穏健な思想家が出来る。(森鴎外「かのように」。『新潮文庫 明治の文豪』CD-ROM版による。強調、佐藤。青空文庫版) |
さて、この例はどうでしょうか。「しっかり調べた」と「洗い上げた」が呼応しているので、「生まれたての赤子のように綺麗に洗いあげられた」と同じようにも考えられます。ただ、単に調べただけに済まないような気もします。
対象の性質上、高度で複雑な判断を要するものでしょう。その点を重視するなら「洗練する」に近い感じはします。が、それは、この例の場合にあてはまる、文脈に支えられた意味ということになるでしょう。「しっかり調べた」と明記されていることですし、やはり「調べる」の方にぐっと近い例なのでしょう。
ただ、「洗いあげる」が、学問的な営為とみてよいことがらにも使えるのであれば、「洗練する」の意味で使われるようになる必要条件が満たされたことになるかもしれませんね。
たぶん、「洗う」の4番目の意味に「しらべる。せんさくする」を挙げるので、「洗いあげる」も平行して考えたのでしょうか。だとしても、「洗う」が「しらべる。せんさくする」の意味を持つのはなぜか、という問題は残ります。
さいわい、あるいはこれかな、と思わせる例にいきあたりました。
「(略)それから『組織』はその二十六人一人ひとりについての詳細な資料を作りあげました。生いたち・学校の成績・家族・性生活・飲酒量……とにかく全ての点についてです。あんたがたは生まれたての赤子のように綺麗に洗いあげられたわけですな。だから私もあんたについてはわがことのようによく知っておるです」(村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』「25」。『CD-ROM版 新潮文庫の100冊』より。強調、佐藤) |
ふむふむ。丸裸にする、ということか。あるものを理解するためには、夾雑物を介しない、ありのままの姿を見る必要があります。その夾雑物を取り除く行為は「洗いあげる」で表せそうです。思えば、推理小説などで出てくるものも、仮の姿や虚像から、名誉や肩書きをはぎとって、より人間的な本質に近づこうとする、そのために徹底的に調べる、ということのようですね。もちろん、このような用法から派生して、単に調べることを「洗う、洗いあげる」という場合も多いようですが、それにしても、なるほど、なるほど、です。
さらに、もう一例見つけました。この例は、「洗練する」の意味ともかかわりを持つもののようで、「洗いあげる」の「転じ」方を、立体的に見せてくれそうです。それはまた明日。
いいですか、学者の論文というのも、新しい事をいわないと仕事にならないという面があるでしょう。(北村薫『空飛ぶ馬』創元推理文庫1994より「織部の霊」) |
そうなんですよね〜。調査の範囲を広げれば、その分だけ新しいことが分かりますが、逆にいえば、その分だけしか新しくならない。それまでの考え方を改め、飛躍しなければ、本当に新しくなったとは言いにくい。そのためには殻を破る必要がでてきます。というわけで、殻を破りつづけるのが仕事、みたいな面があります。
そのためにはどうするか。他分野の情報や考え方を学んでみる、というのも効果があります。が、学んでも活かせるかどうかは、こちらの有りよう次第。触媒は反応をすすめますが、反応する条件が整ってなければ意味がありません。学んで応用できるのが何なのか、ピンと来るようにしておく必要があるように思います。
また、突拍子もないこと、裏付けも取ってないことをあれこれ想像するのも一法かもしれません。いつもの思考パターンから離れることが「殻」を破ることにならないか…… なんか短絡的ですが、「自分」とは結局「自分の考え」でもあるわけですから、まぁ大目に見てください。また、このように自由に考えることが、「ピンと来る」ための練習問題になるかもしれませんし。
たとえば、こんな風にあらぬことを考えます。
104華語助動詞の研究(印有) 鳥居鶴美 昭32 五、〇〇〇 |
104の「華語助動詞」とはなんだろう。「華語」は中国語だよな。中国語に助動詞があるのだろうか。あまり聞いたことがないな。ま、専門外だから知らないだけで、あるんだろうな。以上、終わり…… だと面白くありません。「知らないだけで」といった穏当な判断は、この際、やめておきましょう。考えるのは自由なのですし、突拍子もないことを考えてみるのが目的ですから。
もとい! 106に「助辞」とあるぞ。これは聞いたことがある。ひょっとすると、104の助動詞とは助辞のことではないか? ではどうして助辞としなかったのだろう。そういえば、幕末・明治には、文法用語と考え方を西欧から移入したと聞いている。「主語」というのもその一つだと先生は言っていたっけ。「日本語の主語は主語らしさにとぼしい」とも言ってたな。とすると、その「主語」と同じように、この「助動詞」も無批判にとりいれた名残りかもしれない。うんうん。この本の書名は、そういったことが昭和30年代でも存在することを証明するのではないか。これはこれで学史上の問題だゾ…… そうそう、その調子!
とはいえ、本当にこういうことが役に立ってるかどうかは自信がありません。考え方を柔軟にする頭の体操にはなるでしょうか。一番アイディアが浮かぶのは、原稿を依頼されたときかもしれません。自分に書けるテーマかどうか考えたり、構想を練ったり…… 他人様(ひとさま)からたのまれるのですから、必死に考えてます。
ん? これは面白い。依頼ということは、自分とは別の人格からの提案ですね。こりゃ、殻をやぶれますね。そうか! 雑誌の特集テーマを見て、自分に課してみればいいんだ! うんうん。依頼されたと妄想するわけですね。
といったことを、書いているうちに気付きました。たしかに書いているときも考えが浮かびます。
なお、文中に『華語助動詞の研究』をけなしているかのような部分がありますが、あくまで架空の妄想のなかでのことですので御容赦くださいませ。
20000420
■理由は複数
目先の珍しい言葉を聞いて「変化だ! 変だ! 乱れてる!」とさわぐのがかまびすしく思うためもあるかもしれないが、私は、言語は変化しないものだと思っている(参考)。
だから、変わっていくことばとは、「変化しない性格」という重い重い扉を押し開けたものだけだと思っている。扉を開く力が、言語変化の理由。重い扉を開くのだから、理由は複数ある方が、その変化そのものを得心しやすい。
新しい名前ができるときも似ている。ある音の連続とある意味とが、「実は結びついているんです、そういう約束をしました」とこの世に送り出すのだから。ただ、そういう例はなかなかお目にかかれない。いや、もちろん、先学たちの研究をみればいくらもあるのだが、それをそのまま紹介したのでは芸がない。かといって、的確な例がふっと思いつくわけでもない。
仲居さんたちが「スミダさん」と呼んでいたその韓国の人たちは、年に二度くらい釜山から船でやってきて十日ほど逗留をする私の旅館の常客であった。彼女たちが彼らをスミダさんと呼んでいたのは、他愛のないことだが、彼らの使う韓国語の中にしばしばスミダという意味不明な言語がでてきたことによるらしい。ちょうどそのころ姉が通っていた小学校の担任が住田という名前でそのこともスミダが彼らの名字として定着する一助になったのだと思う。(藤原新也「スミダさんのこと」。文芸春秋編『心にのこる人びと』文春文庫) |
旅館という狭い範囲でのことだが、それでも社会は社会。約束ごととして、「スミダさん」という音の連続が「その韓国の人たち」と結びついた。その主な理由は彼らの会話のなかに「スミダ」という要素がよく聞かれることである。が、そのうえに、担任の先生が住田であったから、というのが面白い。「スミダという音の連続は、姓をあらわすことがある」と知り、それを裏付けとして「スミダさん」と呼ぶことにした、と読めるからである。
「変化しない性格」を具体的に示した例として、阪倉篤義「国語史の時代区分」(松村明編『講座国語史 1 国語史総論』大修館書店 212ページ)がありました。逆の例もでてますけれど。(4月22日補)
「トーザイ、このところ相勤めまするは、『菅原伝授手習鑑』四段目の切、寺子屋の段、相勤めまするは大夫竹本綱大夫、三味線竹澤彌七、人形出遣いにて相勤めまーす。トーザイ、トザイ、トーザイ──」 (山川静夫「人形遣いの兵次さん」。文芸春秋編『心に残る人びと』文春文庫1996) |
まず「トーザイ」。これは興行ものの口上に特徴的なもの。『広辞苑』には「相撲で東から西までお鎮まりなさいと言ったことに始まるという」と補足があります。劇場版「静粛に!」でしょうか。
「相勤めまするは大夫……人形出遣いにて相勤めまーす」も面白い。電車などでの「止まります駅は、A、B、Cの各駅に止まります」のようなアナウンスを思い出します。短い文のなかで重出しているわけですが、口上といい、電車のアナウンスといい、同じような条件があります。口頭で大事な情報を伝えるわけですが、相手は多人数です。なかには注意散漫な客もいるでしょう。そういう人にも聞かせたいとき、このような重複(余剰)は効果的です。こう考えるのは、「トーザイ」で注意を喚起していることからも確かかと思われます。
重複のおかしさを指摘するのは簡単ですが、こんな風に、積極的な側面を評価する行きかたもあっていいでしょう。口上には口上のルールがある。いわば「口上の文法」というものを認める方が現実的です。アナウンス研究の古いテーマに「切符の切らない方はありませんか」(東京市電の車掌の呼びかけ)という表現がありました。これを、橋本進吉は、「切符を切らない方はありませんか」「切符の切つてない方はありませんか」の二つの表現がまじりあったものと考えました(「「切符の切らない方」の解釈」。『国語法研究』岩波書店1948)。そう判断した背景には、やはり、市電の車掌の任務にふさわしい「誤解の虞も無く口調もよい」という、現場・環境に応じた言語使用という視点がありました。
さて、口上にもどります。さらに面白いのは、同じ「相勤めまするは〜」で、別の性格の情報を告げている点です。かたや「相勤めまするは、『菅原伝授手習鑑』四段目の切、寺子屋の段」と演目を紹介し、かたや「相勤めまするは大夫竹本綱大夫、三味線竹澤彌七、人形出遣いにて」と演者を紹介しています。現代なら、「演目は〜、出演は〜」など、情報の内容を先取りした要素を先に立てるところでしょう。
これなども、「口上の文法」という存在を考えないと、理解できないところかもしれません。もちろん、「口上の文法」などと恰好をつけずとも、習慣・言い習わしで十分ですが、ともかく、何らかのルールがあると見ることになります。最初の「相勤めまするは〜」で演目を、二度めでは演者を、といったルールがある、ということになりましょうか。あるいは、わずかに差をつけている「このところ」に、情報の差を託すこともできるかもしれません。その場合でも「口上の文法」がはたらいていると考えることになります。