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*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19980331
■著書の回顧と笑い
人は、自分の来し方をふりかえるとき、苦笑をすることがある。
何やって来たんだろう、もっとできたんじゃないか‥‥‥
そういう思いがからむとき、ふと笑ってしまうのだろう。
そういう吐露が、学者の口からも漏れる。
立派な業績を積まれた方がふとふりかえってもらす苦笑なので、次元は異なるかも知れない。
それが、洒落という、他の人の笑いもさそう形になることがあっておもしろい。
「集成」が始まった当初、私は大きな過ちをおかしている。 近世の役者評判記史を三期に分け、一期を享保末、二期を寛政末、それ以降を三期と三区分にした。 一期は予定通り完結した。二期を始める段になり、十冊では明和末年までしか収まらないことがわかった。(中略)せめて二期寛政末年までは活字化したいとだけの願望であった。それが三期にかからないと寛政(完成)をみられないとわかって意気が上らなくなった。
鳥越文蔵「役者評判記「集成」と「総目録」」。岩波書店『歌舞伎評判記集成 第二期』第10巻月報所収
あれだけの業績をあげた方をして、このように言わしめるだけに、私などはどうしたらよいのか‥‥‥
もう一つ挙げてしまおう。
ところで、二十年ものあいだ、よくもアクセント史の論文を書き続けて来られたものだと、我ながらそう思う。 このあいだは私にとって、文字どおり「悪戦苦闘史」(アクセント史)そのものだった。
桜井茂治『古代国語アクセント史論考』桜楓社(現、おうふう)「あとがき」
こういう洒落がキマる業績を残したいものである。
NHKの『レディース囲碁』が最終回。辰巳琢郎と穂坂繭二段の9路盤3子局。 実況にまわった梅沢由香里初段と小林泉美二段が、ここぞとばかりにつっこむのが面白かった。
梅沢「繭先生、かなり容赦ないですね。小細工、してますからね‥‥‥ 今日の繭先生は本気ですよ」
小林「どんなに顔が可愛くても、やさしそうに見えても‥‥‥」
梅沢「ええ。やることは厳しいですからね」
小林「ギャップにね。驚いたりしますね」
梅沢「顔にだまされちゃだめですからね。辰己さん、気をつけてくださいね」
日頃、いじめられているので仕返しというわけでもないだろう。
こういうことが言い合える人たちの番組が終わるのはちょっと惜しい。
別の形で再開する話しも聞いているので、期待しようかしら。
19980401
■「X橋」
最大の韻書の写真をさがしていたら、左の写真がでてきました。
場所は仙台駅の北側。
Yを尻合わせにした形ながら、X橋と呼んでます。
あれ? 地図で見ると橋らしくないけど、取り壊されたのだろうか。
あるいは線路の方が高架になったのか。
土地・構造物の形に注目した命名はよくあることですが、アルファベットに「橋」をつけるとはちょっと大胆かつ面白いので、ご紹介におよんだ次第。
ほかの土地でも同じような地名はあるのでしょうね。
ただ、その場合、より広い地名を冠しているような気もします。
固有名詞化している例にお気づきの方は、お教えください。
そういえば、普通名詞のX橋もありました。
小学生のころ歌った落書き歌のなかに。
全部思い出したのですが、アカハラで訴えられるのもなんなので省略にしたがいます。
X橋の正式名称も気になりますが、仙台駅北陸橋とか事務的な名前が出て来そうですので調べないことにしましょう。
バス停と言えば、友人から聞いた笑い話を一つ。
京都の市街地からバスに乗って大原三千院にいく。
それらしきバスが来たので乗り込んで、運転手に確認。
「三千院まで行きたいんですが‥‥‥ 」
「ええ、途中まで行きますよ」
「あ、どうもすみませんでした」
と下車。「途中」は三千院の先の地名なのである‥‥‥
でも本当に「途中」止まり便ってあるのだろうか。
手元のちょっと古い観光案内だと路線Lのよう。
19980402
■「ふわふわ」
おととい、見るともなくNHKを見ているとBSの『我がこころの旅』の再放送。
ねじめ正一が、ゴンザ編『新スラブ・日本語辞典』を片手に、サンクト・ペテルブルクのゴンザの足跡をたずねる。
ついこのあいだ、ここでも漂流者と識字のことをちらっと書いたところだし、『国語学』の最新号にもゴンザの資料を使った方言アクセント史の研究があった。
そこでついつい見てしまった。
唯一残るゴンザの日本語資料も映った。
漢数字のところばかり写していたのがもどかしい。
もっとほかのところを見せて! 識字の程度をかいま見たい。
さて、お食事の場面。『新スラブ・日本語辞典』と対照してみせる。
ハムをシヲシタブタ(塩した豚)、ウォッカをアヲモリ(泡盛)。
ここまではいい。が、「卵料理をフワフワ。ゴンザのひょうきんな面がうかがえるようです」とナレーションがはいった。
ラーメンをすすっていたのではっきりとは聞き取れなかったけれど。
卵料理をフワフワというのは、全然ひょうきんでも何でもない。
江戸時代の料理名としてはまったく普通の呼び名である。
当時の料理書にもフワフワが正々堂々と載っている。
玉子(たまご)ふわ\/ たま子をあけて玉子のかさ三分一だし〈出汁〉たまり〈溜〉いりざけ〈煎酒〉をいれよくふかせて出し候。かたく候へばあしく候。
『料理物語』(寛永20年刊)○ふわ\/は 則玉子をいふし煮る事也
○料理ふわ\/とは 右玉子かいやきに同前 右貝やきふわ\/なへにて出すこと也 常のふわ\/に取合を入ると心得べし
『古今料理集』(延宝ころ刊)。以上『翻刻江戸時代料理本集成』による
擬態語からできたことばだから、「ひょうきん」と感じてしまっても仕方がない面もある。
赤ちゃんが、擬音語で臨時的なことばを作るのと似ていると見たのだろう。
また、一度、これと思った思いつきは、なかなか見直せないこともある。
やいのやいの言うつもりはない。
19980404
■「W坂」
「X橋」の記事をよまれた、むらとやよいさんから、金沢市内には「W坂」がある、とお教えいただきました。
多分、位置は、こちらでいいでしょう。
「桜橋南詰」直下のぐにゅっと曲がった短い盲腸のようなところではないでしょうか(あまり自信なし)。
こちらにその写真があります。
「金沢桜百景」というところ1コーナーです。
X橋とはうってかわって、あちこちのサイトで触れられている、有名な地名のようですね。gooでもすぐにでてきました。
う〜ん、さすがに「W坂」バス停はないか。
でも、別名が多いですね。
桜百景の説明によると、「石伐坂・清立寺坂・吹屋坂・くの字坂」とも言ったそうな。
イシキリザカが現在の正式名称のようですね。
「上に石工たちの職人町がありました」(桜百景)が語源でしょう。
クノジザカはW坂同様、形からきたのでしょうね。
ただ、現代の「く」ではなく、より原字「久」に近い、草書の方でしょう。
「二つ文字、牛の角文字、直ぐな文字、ゆがみ文字とぞ、君は覚ゆる」の「ゆがみ文字」ですね。
セイリュウジザカはわかりません。
あがったところが寺町なので、以前はそこに清立寺があったのか、あるいは現存するお寺の別名でしょうか(誰しも思いつきますね)。
フキヤザカも。近くで鉄の精錬でもしていたことがあったか。
さて、ダブルザカ。「旧四高生が付けたと言われています」(桜百景)。
なるほど。これは納得しやすい。
じゃぁ、なぜ「旧四高生が付けた」のか。
ヒントがこちらに載っていた。
引用すると、
小説家・井上靖が旧制四高の学生だった頃、柔道の練習に疲れた体に大変こたえる坂だったと、「北の海」のなかで描かれています。当時、旧制四高の校舎は現在の香林坊の石川近代文学館であり、井上靖の下宿は寺町にありました。W坂は通学路だったわけですね。
井上靖の例だけでこんなことをいうのは乱暴きわまりないのですが、下宿が多かったのかもしれませんね。寺町近辺は。
それにしても、インターネットだけで、こんなにいろいろ言えるとは思いませんでした。
しかもアルファベット+汎用地名(坂)で。
写真館、ここ数日で大幅増補しました。
19980405
■「お買いまわりください」
私のアパート近くのスーパーでは、「お買い得商品を多数並べていますので(以上、取意)、どうぞごゆっくりとお買いまわりください」とアナウンスしている。
これは、ここで初めて聞いた言い方である。
第一印象、見さかいなく、品物を買いあさる自分の姿が脳裏に浮かぶ。
が、(本音はどうあれ)まさかそういうことをしてくれ、という意味ではないだろう。
ともあれ、辞書を引いてみた。
ところが、『広辞苑』クラスでも載ってない。
やっと『日本国語大辞典』で「かいまわす(買回)に同じ」とあり、「かいまわす」に「手回しよく買う。諸所から買い集める。」とあった。
「まわす」の部分は、たとえば「大家族の家計を切り回す」「若手とは思えぬ見事な打ち回し(囲碁)」と同じである。
スーパーのアナウンスとはちょっと意味が違うようだ。
『広辞苑』クラスの辞書にも「買い回り品」ということばはある。
「客が、品質・価格・意匠などを十分に調べてから買うことを決める品。値段がかなり高く、たびたびは買わないような家具・洋服など」(学研国語大辞典)。
前半部分はいいが、後半はスーパーらしくない。
したがって、この語から、「買い回り」を析出するのはむずかしいように思う。
やっぱり、単純に「買うために見て回る」「見て回って買う」なんでしょうね。
臨時的な造語で。
他の土地でもこの言い方、聞かれますか?
NHK『クイズ・日本人の質問』で「お台場仕立て」が採り上げられた。 ふむふむ、これか。 英語をはじめ、外国語では、どういうのだろう。
19980407
■日本語モールス符号表記論?
ここ数年、「大江戸」シリーズで驀進中の石川英輔。
書いてあることは、江戸関係の書籍に出ていることがらが多いが、「エネルギー事情」「リサイクル事情」など、現代的な視点から総ざらいすると本当に読みごたえのあるものができるから面白い。
もちろん、私もすべての江戸関係書に目を通すことはできないので、教えられることが少なくない。
さて、文庫最新刊から引用。
私は最近、からかい半分にいうのだが、もし覚える文字が少ない方が教育の効率が良くなるのなら、ローマ字などという中途半端な文字はやめて、「・」「−」の二つの記号だけで五十音でもアルファベットでも表示できるモールス符号を国字にすればいい。 デジタル時代とやらにふさわしく二文字だけ覚えれば済むのだから、学問が飛躍的に進歩するはずではないか。
石川英輔『雑学「大江戸庶民事情」』講談社文庫
日本語をやめてフランス語にしようとか英語にしようとか、ローマ字表記・仮名表記にしようとかいろいろ論調はあるが、どこかに「引き寄せ」が絡んでいるものだ。
身びいきといってもいい。
そういうのがちらつくので、どうも。
どうせなら、引用した石川のように、徹底したことを言ってくれた方が気分がいい。
気分の問題はさておき、実際にモールス符号に親しんでいる、たとえば、アマチュア無線の電信級の方などはどうなのだろうか。
「・」「−」の組み合わせをぱっとみただけでどんな単語が書いてあるかわかるのだろうか。
それとも一字一字翻字してから「あ、日本語だ、いや、英語だ。おっと、これはサクラだ。これはニュウガクシキ」などと気づくのだろうか。
私が、小学校の高学年から中学校くらいのころには、アマチュア無線が、(一部の)子供たちの憧れでもあったっけ。
同級生にも勉強しているのがいましたね。
(ダイアモンド)ブリッジ回路の計算法とか。
私も影響を受けたものです。
もし、電信級を習得されている方がお読みでしたら、何か情報ください。
いえ、勉強の仕方ではなく、単語や文章を把握するときの感覚について。
NHK教育の日曜日の囲碁講座は「梅沢由香里のレッツ碁」というらしい。 辰巳琢郎(啄郎と書くむきもある。どっちが正しいのだろう?)も「レディース囲碁」から続投とか。 むむむ、許せん!
19980408
■もの忘れがひどい
いやぁ、最近、ものおぼえが悪くて。
具体的な物をどこかに置き忘れるというのはあまりない(時計は別)。
けれど、昔読んだ本とその内容が結びつかないことがしばしばある。
内容だけは妙に鮮明に覚えている。
そのくせ、誰のどの本に書いてあったかが思い出せないのだから困ったものだ。
たとえば、こういう話を覚えている。
テレビかラジオの外国語講座を、ある高名な学者が視聴(聴取)しはじめて、講師の日本語にあきれてしまった。
それは、講師の日本語が方言アクセント・イントネーションのまま、共通語を話したから。
その学者は、講座を聴いていて「恥ずかしい」と思ったそうだ。
そしてこの話をエッセイに書いたのである。
そういう一連の行ない−−教養の高そうな学者が、こと言語に関してはこのような認識しかできないこと−−を慨嘆したという内容である。
たしか田中克彦の本だったと思うのだが、手近にある著作で探してみても見つけられない。
どうしてなんでしょうね。
込み入った筋の方は覚えていて、ただの本の名前を思い出せないとは。
記憶の量からすれば「話の筋」の方が「書名」よりも圧倒的に多いはず。
確率風にいえば、実に、すごいことになる。
まず、過去に生きていた人間もあわせれば、天文学的な数の人間がいることになるが、そのなかの「一人」をとりだす。
人間は、寝て起きてにはじまって、実にさまざま行為・行動をとりうるものである。
そのなかから、テレビ・ラジオの視聴・聴取をとりだす。
そして、アシスタントが美人だとか、放送時間を変えてほしいとか、その番組にまつわる種々の思いがあるなかから、講師の方言アクセントに何事かを感じる、というのを取り出す‥‥‥
高名な学者のこのエピソードが成立するのは、無限分の1の確率になるのではないか。
それを覚えていられるのに、書名が思い出せないとは。
どういう構造になっているのでしょうね。人間の記憶は。
心理学などでは十分に検討されているのでしょうけれど。
福田嘉一郎さんからメール。「辰巳琢郎の「琢」は「切磋琢磨」の「琢」だと本人が言ってました」と。ほっ。
あ、でも、一度「辰己」と書いている! やっぱりだめねぇ。