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*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19980217
■「○○を発生する」
ううぅぅ、また衝動買いしてしまった。『究極版 逆引き頭引き日本語辞典』(講談社+α文庫)である。文庫で辞典というのは買っちゃうんだってば。
なにが「逆引き」でどこが「頭引き」なのかが、不思議ではある。
「○○を〈動詞〉」という表現を文学作品などから集めに集めたものらしい。
で、動詞からも○○の名詞からもひけるようにしたので「逆引き頭引き」ということらしい。
でも、「洗い流す」に出てくる「油臭さ」は立項されていない、というような揚げ足とりはしないでおこう。立項基準はあるようですね。やはり。
で、標記のような言い方が気になったことがあったので「発生する」を引いてみる。
ないだろうと思っていたのだが、「ガス。酸素。蒸気。熱」が出てきた。
問題は、「を発生する」で出てくるか「を発生させる」で出てくるのかなのだが、よくわからない。
でも、「ガス。酸素。蒸気。熱」を見ていたら「を発生する」でもいいんじゃないかと思えてきた‥‥‥ 内省不感症になりそうだ。
あるいは気体やそれに類似したもの(熱)なら、もう使ってもいいのかもしれない。
もう少しいえば、気体のごとく「降って湧くようなもの」ならいいのかもしれない。
ん? 「降って湧く」はちょっと違うかな。
その次にくるのが「電気」でしょうかね。
自然界にあるものだけど、人間が使うにはつくり出す必要があるもの。
そうして少しずつ用法を拡大していくと、「最新型エランS2は、160 馬力を発生するいすゞ製のターボ付4気筒エンジンを搭載する」という表現にたどりつくのだろう。
「○○馬力」となると、「降らせて湧かすようなもの」の気味が強くなるわけですが、まぁ、そうやって言語変化は進んでいくのだろう。
とりあえず、こんなところで。
バレンタインデーも終わりましたね。
今年は三つでしたか(;_;)。
あ、「バレンタインだからカニを送るっ!」という篤志家もいらっしゃいました。
ありがたきこと、限りなし。
しかし今週はモロに忙しい。試験・採点・査読・試問・会議の嵐である。
19980219
■「○○を発生する」続
「○○を発生する」について「generateの訳語の可能性があるかもしれない」と福田嘉一郎さん(熊本県立大)からサジェスチョンをいただきました。
なるほど。使用が理系に傾きがちなのも、うなずける気がします。
あとは、「を発する」とのかかわりをどう見るか、というところでしょうか。
「光・ガス・電気(電流・電圧?)」そのほか、言えるものは多そうですが、「馬力」はどうかな。
19980221
■「ジャス」の存続
日本農林規格ではなく、日本エアシステムでもありません。
仙台市などでジャージのことをジャスといいます。
いわゆる新方言なのでしょうが、どうしてジャスというようになったかは定かではありません。
あるいは、シラビーム的な発音で長音が消え(ジャジ)、母音iとuが非常に近い発音なのでジがズになり(ジャズ)、語中での濁音化が行われる地域なのでそれを過矯正してジャスになったのでしょうか‥‥
以前、もう使われなくなってきた、と聞いたことがありました。
ところが、赤尾千波さん(元同僚)が、仙台のテレビ局の放送をみて、情報をくれました。
ジャスはまだ生きている、と。
たとえば「ジャス下」。
ジャスシタではなく、ジャスサゲ(あらぬ想像をされませぬように)でももちろんなく、ジャスゲ。
ジャスを着たまま、履いたまま、下校することだそうです。
対になる「ジャス登校」もあるそうだけど、「ジャス登」とは言わないそうな。
「アンダージャス」。
女子生徒が、防寒のため、スカートの下に履くこと。ハニワみたいになるんですね。
「ボンジャス」。股下部分をずっとさげてだらしなく着ること。
赤尾説によれば、ボンタンのボンではないかと。
たくましく生きているんだぁ。こんなに複合語を作ってしまって。
見直しました。
ただ、このジャス。ジャージのすべてを言うのかと思ったら、使い分けもあるようです。
すきっとかっこいいのはジャージで、掃除などのときに着用する格下のものをジャスという向きもあるようです(参照)。
教育現場でのことばには、けっこう地域性のあるものがありますね。
岐阜だと模造紙を「B紙」、学区は「校下」(だったかな)と言ってます。
柴田武先生や井上史雄さんの調査などでご存じの方も多いでしょう。
そういえば、仙台では□のなかに1が入った記号を「ハコイチ」と言ってましたね。
福田嘉一郎さん(熊本県立大)からの情報だと、熊本では、学籍番号を「○○番」と言わずに「○○号」と言うそうです。
他県のものが聞くとドキッとしますね。
19980223
■テレビ出演の反響
先週の水曜日、放映されたのだが、反響はまったくなかった、と思っていた。
が、今日、うちの院生から面白いことを聞かされた。
平家物語の修士論文を提出した院生の話である。
放映の日は試問もあった。
その院生が、朝、テレビを見ながらの食卓で、家族に試問のことを話していたそうだ。
A先生とB先生と佐藤先生という人がね、試問するのよ、などと話していた折りも折り、画面に私が登場したのだという。
面白いでしょ?
ゼミ生と院生に取材の件は話してあったが、放映されることは言ってなかった。
パニックになったんだろうなぁ。すみませんね、平穏な家庭を乱してしまって。
しかし、この話し、試問のまえに聞かされなくてよかった。
弱みをにぎられたかっこうになるので、舌鋒もにぶってしまう ということはないだろう。
毎週月曜日は、PCバスターズから無料ニュースの配信がある。
今週の分に日本漢字能力検定協会のホームページが紹介されていた。
内容充実、三つ星のサイトだとのこと。
なかには漢字を使ったゲームコーナーもあって、なにがしかの教育効果はありそうだ。
どうもこのところ、忙しいせいだろうか、更新が順調でない。
先月までだと、今日は何を書こうかな、と思っただけですっと話題が出てきた。
出すぎて、次の日分まで書いたりしたものだが。
19980224
■「虫笑い」
赤ん坊が笑うのを、一樹はそのとき初めて見たわけだった。 眠ったまま、何という理由もなくにっこり笑う−−生後間もない幼児にはよくあることで、これを「赤ちゃんのむし笑い」と呼ぶのだということなど、まったく知らなかった。
宮部みゆき「燔祭」『鳩笛草』カッパノベルズ
困ったときには宮部みゆきがあったのだった。
宮部はときどき、大抵の辞書には載っていないことばを使うのでおもしろい。
「むし笑い」もそう。『日本方言大辞典』(小学館)でやっとみつけた。
多分、『綜合日本民俗語彙』(正確かな?)にはありそうである。
こういうことば、本当になくなっちゃうんじゃないだろうか。
それはそれで仕方がないことではあるが、何だかもったいない。
だれか、記述しませんか。
問題は、だれがやるか、ということだが、まえにとりあげた「おとむじり」もあわせて、とりあえず、乳幼児とか成長とかを専門としている方と、国語学者が協力して。
ようするに、その道(分野+言語)の専門家ということで。
19980225
■論文の最後っ屁
数学者・矢野健太郎氏のエッセイだったろうか。
ある微分方程式を証明するのに、それまではどうしても積分を用いなければならなかった。
ところが、ある人が、微分だけでそれを証明した。
その論文の末尾に「微分のことは微分で(やれ)」とあったという話である。
細部は自信なし。なんせ畑違いもいいところですから。
確認のため、gooで検索したが思わしくない。
これはパロディもしくは二番煎じだろう。
これは面白い先生の語録だが、この際、役に立たない。
まぁいいや。
で、国語学ではどうかというと、次のようなものがあるのを思い出しました。
狂言の特色である擬音は、それによって生き生きとした情景描写が行なわれ、楽しい気分を引き起こしてくれるものである。(中略)資料の点で、まだ不十分な点があることはよく承知しているが、これをもって、今回の考察はスッパリスッパリ スパスパスッパリにしよう。
宇野義方「能狂言の擬音をめぐって」『近代語研究』第一集(武蔵野書院 1965)
う〜む、低調はぬぐえないなぁ。
それにしても、gooがなかったら、と思うとゾッとする。
これからもがんばってくださいね。>goo管理者さん
19980226
■山鳥重『脳からみた心』
山鳥重『脳からみた心』(NHKブックス)の一部を試験監督の合間に読んだ。
普段生活していると気づかないことが、ある異常状況におちいったとき、はっきりとわかることがある。
それをかいつまんで集成したものだと見た。
どうしてもことばまわりのことが関心にのぼるが、失語症の例が興味深かった。
ひとつだけ引用しよう。
筆者自身の経験なのだが、この書の筆者ならではの観察だと思う。
筆者は映画館でよくこんな経験をする。 英語の映画の場合だが、始めはいつも、耳からだけで話についてゆこうと勇ましい決心をする。 (中略)たとえば、今ヤクザ風の男が相手になにかを吐き捨てるように言う。 さっぱり分からない。
それで、癪にさわるがチラと字幕に目をやる。「厄介者だった」。 途端にたった今分からなかったセリフがかなりはっきりと耳に再生されるのである。
“You are always a pain in the neck.”
音韻(の連続)が意味を運ぶというが、必ずしもそうではない。
この場合、一応の形ながらも、脳は音声を受信している。
あとから意味がついてきて、音声を音韻に換える、ということ。
私もよく経験する。
たとえば、見知らぬ町でバスに乗って、次々に停留所のアナウンスが流れるのに、なんと言ったかなかなか分からない。
気になって、運行表をさがしたり、停留所の名前を確認しようと外をみたり。
で、やっと表記が知れて「さっき言ってたのはここのことか」と納得する。
さて、言語学の方で失語症というと、すぐにロマン・ヤコブソンの業績が思い浮かぶけれど、彼のは音韻論的な側面が重視されていた(ように記憶する)。
が、山鳥のは語・意味・語形(音形)の関係の種々相が紹介されていて、広がりがあるとともに、近代言語学の出発点であるソシュールの、いくつかの概念規定を裏付ける貴重な事実をも指摘することに成功している。
この本が出たのは1985年。10年以上も前なのだが、触発されること大。
どうしていままで、この本の存在に気づかなかったのだろう。
言語学から足を洗って(^^;、国語学の方に傾注していた時期に重なっていたためか。
左脳と右脳の話が出てくるので、それは角田理論をみたからいいや、ヤコブソン『失語症と言語学』も手元にあるし、などと不遜にも思っていて書店でみかけても手が伸びなかったのかもしれない。
美術館のページって、思ったほどでないのが多いですよね。 とくに画像がちっちゃくて、掲載点数も少なくて。 こちら(東京理科大のミラー、だったかな)はそうではありません。なかなかいいサイトですよ。