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*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19971108
■ゆたかにする用例
『誰でも作れる俳句』というのはよい本だそうであるが、正しくは「作られる俳句」たるべきである。 「作れる」は片言である。
森銑三・柴田宵曲『書物』岩波文庫
この本、はじめて公刊されたのは昭和19年。
現代では正しい五段活用由来の可能動詞も、このころにあっては、人によっては、上のような感想をいだかせるものだったらしい。
ある言語変化について研究するとき、どうも初出例とか最初の変化とかに目がいきがちである。
それはそれで研究上、貴重な注目点であって、私だって気になる。
でも、引用したような情報を何とか生かして、ゆたかな記述にしたいという思いもある。
ま、さがしているときには見つからないので、メモ代わりに記しておきましょう。
そのうち使うかもしれないし。
ところでこの本、ほかにも結構、問題を提供してくれる。早速、明日にも二つ目を。
19971109
■「仮字遣(かじづかい)」
しかもまた書名に文字や、文法仮字遣(かじづかい)の誤用のあるなど、以ての外といわねばなるまい。
森銑三・柴田宵曲『書物』岩波文庫65ペ
『日本国語大辞典』までみれば「仮字(かじ)」はあり、江戸時代の用例も挙げられる。
が、『広辞苑』にはなく、それだけ特殊な語なのではないかと疑われる。
一方、江戸時代の仮名遣い書などでは「仮字」をカナと読むのはごく普通のこと。
たとえば、『広辞苑』をざっとひいてみても「仮字遣(カナヅカイ)奥山路」
「倭片仮字反切義解(ヤマトカタカナハンセツギゲ)」「仮字本末(カナノモトスエ)」や「じおんかなづかい【字音仮字用格】」などがでてくる。
「かな【仮名・仮字】」「ま‐がな【真仮名・真仮字】」という見出しもある。
また、次の例はさすがに「かじ」とは読むのはふさわしくない。
これに接したときに、「仮字=かな」という発想がでてもよかったように思うのだが。
活字本で育てられて来た人は、草体の文字を知らず、変体仮字を知らぬ。 (中略)多少の草体の文字と変体仮字とを覚えるくらいは、外国語の学習に較べたら実に何でもないことである。
同81ペ
また、これだけのことをいう筆者(この部分は森銑三)なら、江戸時代的な「仮字」と「かな」のむすびつきは、ごくごくあたりまえのことだったはずだ。
おそらくは、振りがなもふる必要がないと判断するほどに。
というわけで、「仮字遣」に「かじづかい」という振りがなをあたえたのは、筆者とは別人(岩波書店の校正係?)であり、かつ、あやまりなのではないかということである。
その背景は分からないではない。現代となっては限られた漢字と読みとの組み合わせから、『日本国語大辞典』を(おそらくは)唯一のよりどころとして、機械的に選択したのではないか。
19971110
■引き寄せ効果の不安
11月4日付け「こどもの言語獲得と引き寄せ」を読まれたある方から手紙をいただきました。
了解をとってないので差出人の氏名は明かせません。
同記事については「説得力があっていい」との評価でした。
が、『引き寄せ効果』全体については、守備範囲が広いがために、一抹の不安を覚えるといったようなことを書いて下さってました。
実は、私も不安を感じているんです。多分、その方と同質のものだと思います。
端的にいうと、あまりに普遍的な現象ということになると、それは「あたりまえのこと」と思われる危険があるのではないかということです。
多分、これが「引き寄せ効果」の最大の弱点かもしれません。
ただ、救いは、そのような考え方で、説明されたことが(あまり)なかったという事実を強調できることでしょうか。
「コロンブスの卵」という箴言も勇気を与えてくれます。
ひとつの結論を言い表した言葉というものはたくさんありますね。
「人間は考える葦である」しかり、「我思う、ゆえに我あり」しかり。
最近の動物行動学では「生物はエゴイスティックである」というのが最終見解のようです。
「引き寄せ効果」もそんなのができると、分かりやすくなりますかね。
「人間の認知行為は磁石である」?。ちょっとこなれませんね。
「人間は磁石のごとく認知する」‥‥‥ 磁石から離れられない‥‥‥
などと先回りしたりして。果たして「非難」はあるか。
まだ、10人くらいしか知らないでしょうしね。
「引き寄せ効果」なんてこと言ってるヤツがいるなんて。
こういうのを杞憂というのかもしれませんね。
ま、私の名前(貴裕)のしからしむるところだったりして。
昨日分につき、岡島さんよりレスあり。 昭和23年の増補版の「仮字遣」には、(やはり)振りがながないそうです。 それにしても、よくぞ持っていてくれたものです。脱帽。
19971111
■「お蔭様をもちまして」
洋式各室はもとより、社交室、洋料理室の設備に至るまで、すべてをこれ、文明開化の泰西に模し、本邦最初の洋風温泉旅館たらしめんと、一意普請を急ぎ居候処、此の度、おかげ様をもちまして無事落成仕り候。つきましては、その開館記念に、日頃特別の御愛願賜わりました皆様に五日間全館を開放し(下略)
小国英雄『或る夜の殿様』(昭和21年、東宝)。『日本シナリオ大系2』より
以前にもふれた表現。
この例は、「パンパンという音と共に、この案内状が被れ、花火のはじける空になる、と同時に『明治十九年』の文字−−」という映画の冒頭部分の描写に出てくる「案内状」の一節。
へりくだった文体に見合うように(?)、出てきたのだろう。
最近のコンビニの店員にも学んでほしいものである(どうして、ああ無愛想なのだろう。ま、店や人にもよるが)。それにしても昔からあったんですね。
というのは、少し正しくないかもしれない。
「お蔭様で」と「お蔭をもちまして」という表現が使われている時代なら、臨時的にいくらでもあらわれうるからである。
しかし、語史を記述するとき、果たして臨時と常用の区別がどこまでつけられるかは、本当にやっかいな問題である。
ちょっと嘆息。
念のため、gooでも引いてみた。
全部入力してもどれだけ正しくヒットするか分からないので、「お蔭様を」で引いてみる。
54ページあることが知れる。もちろん、こちらのように7例もあるページもあるので、もっと多いとみるべきだろう。
しかし、7例とはおそれいった。このページ(の作成者)では常套句として定着しているのね。
何だか、ひょっと、自分でも使いそうな気になってきた。
19971112
■「鋏と糊で」
鋏(はさみ)と糊(のり)とで拵えるという言葉は、地方新聞から始まったかと思うが、 糊も鋏も使わずに、あちこちの書物を壊して、それらを取合わせて、大部な叢書がつぎつぎと作られたりしている。森銑三・柴田宵曲『書物』岩波文庫 126ペ
「鋏と糊で」といえば、卒論の枕詞のようなものだが(はは、うちでは通りませんよ)、
地方新聞からのものでしたか。
裏付けになるような別の証言とか、いつごろできたのかも知りたくなりますが、
それにしてもこの本、話題が豊富だなぁ。
当分、ネタ切れにならずに済むかもしれません。
ただ、この表現、私は「糊と鋏」の順番になる。
切ってから糊付けするのだから、まずは鋏がないといけない、という理屈は分かっているが、
そうなってしまうものは仕方がない。
そう思ってみれば、「糊も鋏も使わずに」の部分はこの順番になっている。
どっちが本家なんでしょうかね。で、現在の勢力分布は?
手元のテキストを「(糊|のり)と(鋏|はさみ)」「(鋏|はさみ)と(糊|のり)」でGREPしてもでてこないので。
19971113
■不肖の弟子
今日、話題にするはずの資料を忘れてしまったので、本の話でお茶をにごします。
先週、生協の書籍部で片野達郎・佐藤武義編『歌ことばの辞典』(新潮選書)を見つけた。
待ったなしに買おうかと思ったが、ふとやめた。
『フォーカス』での人権侵害問題がいまだに尾を引いているわけではなくて、数年前、ちょっと所用があって大きな歳時記を二つ買ったためである。
まぁ、題は章をかねるではなく、大は小をかねるということもあったかもしれない。
が、より低い次元での、いつも頭を支配している、置き場所の心配の方が強かった。
小さいものも集まればあつかいにこまる。そこで常々、省スペースを考えざるをえないということ。
大きな歳時記のひとつは講談社の『日本大歳時記』。全5冊本だったのが1冊本になったのがある。
その分、紙が薄いのか、裏が透けなくもないのが難点だが、省スペースなのが何より。
もう一つは集英社の『大歳時記』全4冊。講談社のが網羅指向なのに対し、こちらは重点主義。
しかも『花実』なんていう巻がある。
「歳時記」というと四季の風物・景物を中心に編まれるが、そういう範疇ではない「人生」とか「人物」とかいうくくりで一巻をしたてている。
たしかに、詩歌をつくるとき、あるいは鑑賞するとき、そういった視点からなにごとかが得られれば、豊かな創作・鑑賞が可能だろう。
あともう一種。角川だったかのものがあればいいと思っているが、まぁ、上記ニ種で大抵のことはこなせそうな気がする。
そんなこんなで『歌ことばの辞典』もとりあえず買い控えてしまったが、
今日、佐藤先生から書籍小包で届いてしまった。
ラッキー! と言いたいところだが、やっぱり不肖の弟子なんだなぁ、としみじみ感じてしまった。
岡島さんから、昨日の記事がらみの情報いただきました。ありがとうございました。
三国一朗『鋏と糊』(ハヤカワ文庫)という本があること、そのもと本は『ハサミとのり(私のきりぬき帖)』(自由現代社)であること、さらにその本で戸板康二「ノリとハサミの楽しみ」という文章に触れているということなどでした。
やっぱり「糊・鋏」派もいたんですね。よしよし‥‥ しかし、片仮名書きもあるなぁ。検索のときは気をつけないと。
19971114
■誤植の背景
彼女の家がどこか分かりませんが、都内か近県であることは間近いありません。 逢いたいという意志があれば二時間もあれば行ける筈でしょう。
北村薫『空飛ぶ馬』創元推理文庫 8版 343ペ
太線部、私のミスタッチではない。
単行本は未確認なので、文庫固有のあやまりなのかどうか、さだかではない。
ただ、単行本は、北村の実質的なデビュー作なので、相応に入念な校正があったのではないかと思う。
少なくとも、すべてを編集者にまかせるのではなく、自身もじっくり目を通したのではないかということ。
逆に、新人だから適当にやられたことも考えられないではないが、良質なミステリーを主力とする出版社(注)だから、その可能性は低いように思う。
注:同社の本を全部読んだわけではないので確言できませんが、これまでの経験や世評などからの判断です。一言でいえば、ミステリーの読み巧者がやってる出版社。もうすこし言うと、読者には知らされていなかった人物が終局直前にひょっこりでてきて犯人になるようなものを書いたり(居るんです。それも多作な(だった?)作家で)、はじめの1/4読んだら犯人が分かってしまうようなものを書いておいて次作で「前作はわかりやすすぎましたかね」などと書けてしまう手合い(昔「本格物の新星」みたいに言われたいた人)には書かせないと思われる出版社、くらいの意味です。
またそれだけに、この誤植(これも死語でしょうか)の背景は気になる。
もちろん、ことばの問題として。
正しくは「間違い」だろう。これだけで、随分ヒントになる‥‥‥
などと書くとすごいことを考えていると思われそうで、おもはゆい。
実は単純なことしか考えてない。
でも、入力の段階だけでも、けっこういろいろ考えることはある。
その1。手入力の可能性。「まちかい」と入力し、変換した。
単行本を文庫化するのにわざわざ手入力するかな。ちょっと可能性が低いかもしれない。
また、「まちがい」を「まちかい」と入力する可能性も低いように思う。
ローマ字入力や親指シフトなどでは考えにくい。
もし、そのようなキーボードで入れたとしたら、よっぽど日本語に習熟していない人がいれたと考えるほかない。
濁点つきの仮名(例、が)は、平均的な中学生なら、すでに濁点のつかない仮名(例、か)とまったく別字として読み書きしているだろうから。
もちろん、カに濁点でガだということは知っているだろうし、連濁などの現象にもそのような関係を知らないうちに見いだしているだろう。が、別字と認識する程度に習熟していなければ、日本語はあやつれないだろう。
濁点が別打ちになるJISキーボードのかな入力が一番可能性が高いが、プロでそうしている人、どのくらいいるのだろう。
あるいはM式キーボード? そうなるともう分からない。
その2。OCR。元本があるのだから、こちらの方が歩がありそう。
しかし、よっぽど認識率のわるいものということになるが、原稿がかすれていたり、なにかの拍子に紙片のようなゴミがスキャナと原稿にはさまることはありうる。
当然、注意はしているだろうが、343ぺージなのだから、緊張の糸もほぐれよう。
校正段階の話しになるが、何だか、疲れてきてしまった。
シンニュウが共通しているので見落とす。黙読のせいだろう。音読すればわかるが、300ページ以上ではさすがに疲れるからやらないだろう。それに、すぐ上に「近県」がある。一種の錯綜(引き寄せといってもいい。^_^;)が起こった。もちろん、「間近にせまった」のようにマヂカへの誤った引きあても考えられる‥‥‥
これくらいで。
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