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*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19971101
■買書病?
昨日(10月31日)は、学祭の休講措置だったので、名古屋の古書展に行った。
たしか、以前、『合類節用集』(延宝8、1680年)の端本3冊を1000円だったか300円だったかで買った会である。
値段並に汚れた本だったが、ないよりは随分マシ。脈ありとみて、多少は期待していってみた。
ところが、先週より悲惨。江戸時代の和本はまったくなく、洋装本も買いたいものがなかった。
そのまま帰るのも癪なので、『柳沢 越後 黒田 加賀 伊達 秋田騒動実記』(昭和版帝国文庫。1000円)と、『片言付補遺 物類称呼 浪花聞書 丹波通辞』(日本古典全集。1000円)を買った。
後者はいまさらですね。なくても困らない。前者は、明治版帝国文庫よりはいいだろうと以前何冊か買ったとき、買い漏らしていたもの。これも多分なくても困らないだろう。底本は何なのかな。静岡大の小二田氏にでも聞いてみましょう。
こちらは買う気で、つまりは、なにがしかの金子を払う覚悟で行ってるとき、こんな風にあまり必要でもなさそうなものを買ってしまう。
節用集も、毎月一冊買おうと志を立てて、10年ほどになる。
で、やっぱり、なにがしかの出費は覚悟している。
ところが、そこそこ集まってくると、買うべきものが少なくなってくる。
すると、相場より数段高いことは分かっていてもつい手をだすことがある。
むむむ、ちょっと危険な兆候ですね。
どなたか、「実家の蔵に古ぼけた本があった」という記憶のある方は、一度、改めてみては?
江戸時代の辞書だったら、ひょっとすると思わぬ値段でお引き取りするかも知れませんよ。
(いやいや、鑑札もないのに買ったら手がうしろにまわるかな。あぶないあぶない)
えっ、われわれ、まだ奨励研究出せたんですか。無理だと思って書類も取り寄せなかった‥‥‥
岡島昭浩さんの
「目についたことば」10月31日分への、詮ないレスです。
しかし、あまり気持ちのいいリンク(被リンク?)ではありませんね。(同レス)
19971102
■「科研」
昨日は、第18回の中部日本・日本語学研究会で、岐阜教育大学へ。
しかし、18回とは続いたものだ。
3回でつぶれるのではないかと言われつつ(「言いつつ」かな。^_^;)、
お付き合いしてきたが、めでたく6周年。
ひとえに藤田保幸氏(滋賀大学)の努力と根性と人脈のいたすところと思っている。
顕彰する意味で、ホームページを作ってあげようかな。当分、間借りということになりますが。
今日の発表も得るところがあり、質疑も活発だった。
出席者は、人数こそやや少なめだったが、東は東京から西は岡山市までと多彩。
これは、発表者についてもそうだが、第1回からの特徴である。
工藤力男氏(成城大学)が初参加。
懇親会での挨拶で、ある人が、「来週の金曜に科研の研究会があるので」云々とおっしゃっていた。
文部省科学研究費補助金のことを「科研」と言われたのである。
まえにも聞いたことがある言い方だが、私はいまのところ「科研費」としか言わない。
同じ文脈でもそういってしまうだろう。
その1。「費」がつくと金があらわになるので、避けようとした言い方なのだろうか。
その2。あるいは、略語の作法として、漢字二字にまとめようとしたのだろうか。
もちろん、一方では、同じく略語の作法として4拍にまとめたカケンヒ(科研費)もあるわけで、
近い将来、どっちに転ぶかは分からないところ。
何だか、まえにどこかで見たような展開ですが。
その3。似たようなものに『日本国語大辞典』(小学館)を「日国」「日国大」というのがある。
こちらは、「日国」が一般的で、「日国大」が東北大学系・九州大学系(一部か)だったと思う。
地方差というか社会差というべきか。「科研」「科研費」もこの伝でいけるかもしれない。
ただ、「日国」「日国大」の場合、九州大学には金沢大学から伝播したとの説
(岡島昭浩さんからうかがった)があるものの、ほぼ同時多発的にできたような印象がある。
これに対して、「科研」「科研費」は、「科研」があとから生まれたという印象だ。
とりあえず、〈その2〉で行ってみましょう。
こういう場合、新しい方が残る確率が高そうである。
新しい言い方が生まれる背景には、従来の言い方に何らかの不備があるとか、
十分でないとか、それなりの、乗り越えられるべき欠陥がある場合が多いからである。
というわけで、「科研費」の場合、欠陥をつきとめていないけれど(あるいは〈その1〉か)、
「科研」が生き残るような気がする。
何だか今回の懇親会はよかったなぁ。いろいろ実のある話ができたからかな。
あれ、岡島さんも「科研」派だったのですね。奨励研究の研究計画が2年になったのは昨年からです。
過去6回、奨励は通過率100%でしたが、昨年、惜しくもはねられました。
どうも、従来どおりに、報告書を作成する費用を計上しなかったのがいけなかったようです。
19971103
■ネチケット以前
一昨日の研究会の懇親会で、藤田保幸氏(滋賀大学)が、岐阜に泊まって、翌日(11月2日)に岐阜県谷汲村の横蔵寺のミイラを見にいくといっていた。
かねてからおっしゃっていたし、一度は、私が案内することになっていたのを、体調不全でキャンセルしたことがあった。
これは是非にも案内せねばと、10時30分か11時ごろ電話をください、と言っておいた。
当日、いつでも出かけられるようにして、電話を待っていた。
が、まだ時間がある。ホームページのオマケの色見本をしあげることにした。
秀丸エディタのおかげで、行を無視して長方形での範囲選択ができるので、作業はらくちん(ほかのエディタでもできますか)。
とりあえずしあがったので、FTPしようとPPP接続をする。
これが不幸のはじまりである。
接続が確立すると、メーラーとかWebページの更新チェッカーが起動するようにしてある。
日記系のチェックを終えると、更新したページをのぞくのが最近の習慣。
ところが、ダウンロードしているときに、接続が勝手に切れてしまった。
えいっ、とばかりに再接続。あの日記を読むのだぁ〜、という念しかない。
もうお分かりでしょうが、「接続が勝手に切れてしまった」瞬間、どうやら藤田氏から電話があったらしいのです。
さらに悪いことに、キャッチホンにしているので、おそらく藤田氏の電話口では、呼出音がなりつづけていたことでしょう。
つまり、藤田氏からみれば、佐藤は、電話がくるのを知っているはずなのに知らんぷりして不在にしている状態にある、ということになる。
これは信用問題。しかし、上のような状況に気づいたのは、1時間もあと。
真っ青。ともかく、名鉄・谷汲駅へ向かうしかない。
愛車を駆る、駆る、駆る、駆る‥‥‥ 4回も書いてしまった。
愛車は4駆ではないが。それでも疾駆。
もちろん、状況からして泣きながら。シクシクシク‥‥
あああああ、ほとんど病気(sick)だぁ。こんなときに駄洒落の回路がつながるとは。
幸い、岐阜から谷汲への鉄道は、本数が極端に少ないうえに、スピードがおそい。
そのうえ、長方形の長辺を西へいき、短辺を北上するかっこうになる。乗り換えもある。
が、道路は、ほぼ対角線状にたどることができる。
成算はないが、五分五分の確率で出会えると踏んではいたが。
途中、新道ができたのをしらずにあらぬ方向に行きかけたり、
ほとんど走ったことのない道にもかかわらず、渋滞をさけるために迂回して、
結局、反対方向に走ってから戻ったりした。
その分だけ、分はわるくなる。とても間に合いそうにない。
やっとの思いで谷汲駅につくと、下り電車がちょうど到着したところだった。
まさか。この乗客のなかにはいないよな。これで出会ったらドラマだよなぁ。
いくら何でももっと早い電車だよなぁ。
ところが、いた。藤田氏が乗客のあいまから歩いてきたのである。
聞けば、宅急便の発送やらなにやらで、予定の電車を逃したとのことだったが、やっぱり感動的ではある。
というわけで、いくつかの偶然がかさなってメイクドラマの主になったのだが、そういうハメになったのは‥‥
みなさん、どうぞお気をつけあそばせ。
スキャナ(SHARP JX250W2)のドライバがバージョンアップ。速い速い。
スキャン開始のボタンを押してから、次に押せるまでの時間がなんと15秒(400dpi。モノクロ2値。B5。たぶんA4でも大差ないだろう)。
理想的な状態なら25分で100枚、実際には30分と余裕をみて100枚のスキャンがこなせる。
まぁ、はじめがおそかったのかもしれない。
3月のドライバだと、スキャンするたびに接続をいちいち確認していた。
ハードディスクから各種SCSI機器までの接続を調べるのである。
そののち、2回めのバージョンアップでこの成績。やっぱり、おどろこう。
まだ不満はあるけどね。よろしくお願いしますよ。シャープさん。
岡島さん。「科研・科研費」のレス、ありがとうございました。
使い分け、とっても興味深いです。
19971104
■こどもの言語獲得と引き寄せ
中部日本・日本語学研究会(11月1日)ネタ。
懇親会で、矢島正浩氏(愛知教育大学)と、ここで何回か触れている「引き寄せ効果」の話しをした。
言語のみならず、社会現象や差別問題、神経症まで説明でき、人間の存在状況とでも言うべき哲学的なところまで手がとどきそうだ、などととてつもない大風呂敷を広げているので、いろいろ確認したいこともあったようである。
いえ、私だって、今後の展開をどうしようか考えているんですが、どう展開していけばいいかわからないので、ともかくいろんな現象のなかに、未知事項の既知事項への引き寄せ(=同一視)の有無を確認している段階なのです。
で、矢島氏との話しは、子供の言語獲得に進んだ。
子供たちは、本当に、涙ぐましいまでの引き寄せの試行錯誤をやっている(岡島さんの「目についたことば」へ)。
では、最初の一語を獲得するときはどうなのか、と。
なるほど、最初の一語を獲得するまえだと、言語上の既知事項が一切ないから、
引き寄せでは説明できない、ということですね。
その席では、たしか、考えてみます、と答えたと思います(酔っぱらってたからなぁ。(ジンジャエールで酔える私))
で、いまは、引き寄せはあると思います。
というか、むしろ、引き寄せのないほうが不自然のように思います。
ただ、私自身、まだまだ勉強中なので、満足のいく回答が、多分、できないとは思いますが。
このところ(でもないのかも知れないが)、
言葉を獲得する以前に赤ちゃんに何が起きているのかが、多角的に研究されている。
手っとり早くは、『月刊言語』93年4月号「特集・ことば以前のことば」の諸論文や、
正高信男『0歳児がことばを獲得するとき』(中公新書)などが参考になる。
それらで知られるのは、赤ちゃんと母親が言語以外の方法でコミュニケーション(らしきこと)を行っている、あるいは、そのように考えられる現象が確実に存在する、ということのようである。
お母さんの声と複数の他人の声を別々に聞かせながら授乳すると吸い方が異なるとか、
抱いていて揺すらなくなるとクーイング(cooing)を発するとか。
より言語に近いものなら、唇の形状の模倣から音の別の認知にいたる過程がいいかもしれない。
お母さんは積極的に赤ちゃんに信号を発している。
たとえば赤ちゃんの発声「アー」を真似て「アー」とおうむがえしをしたりする。
すると、いずれの赤ちゃんも、おしなべて成長するにつれて、おかあさんの音と同じ響きの声を、 より高い確率で出すようになることが判明したのだ。正高信男・前掲書。49ペ(このような−−佐藤注)変化は、ある時期にかなり劇的に起きている。 おかあさんは、赤ちゃんに対して少なくとも一カ月以上も以前から、 いつもおじようにおうむがえしで答えてやっているのだけれども、 赤ちゃんのほうはそれまでは「同じである」、つまり「おかあさんが、ぼくを真似ている」ということが理解できていない。ところが、あるときかなり唐突に、「あっ、おうむがえしなのだ!」 というニュアンスを把握するにいたる。 音が返ってくるという事実だけではなく゛音の質そのものに注意が行き届くようになる。同。50ぺ
まだ「言語」ではない段階だが、このようにして、赤ちゃんはいくつかの音声を獲得していく。
それらの音声は、まるで、A.マルチネの言う第二次分節(意味は付随していないが言語を構成しうる音声)を獲得しているようにも見える。
その意味で、赤ちゃんたちはコトバを準備している、と言えるかもしれない。
さて、最初の一語。多分そして実際にも、それは、一種類の音節(拍ではなかろう)による語だろう。
つまり、赤ちゃんがすでに獲得した音声1つによるもの、ということである。
赤ちゃんは、あるとき、自分がすでに持っている音の一つに、
実は、意味があるということをさとるのではないか。
あるいは、こういった方がいいか。
「いつもオッパイをくれ、視界からなくなると寂しく思う、優しい人」という意味(概念)はすでに認知されているだろう(先の、お母さんの声と授乳、が参考になるか)。
一方で、「マー」とかの音声も獲得ずみ。
でも、その二つが記号という形式で結びついているとは知らない。
それをさとるのが、最初の一語の獲得ということになるのではないか。
ん〜、でも普通の引き寄せとはちょっと違うかな。
あるいは、引き寄せ効果の裏作用に似ているか。
それにしても、こう考えてくると、言語獲得以前の赤ちゃんは、未知の世界にポツンといるのではなく、
意外にも多くの既知情報を身につけている、と見るほうが良いように思う。
もちろん、その情報の質は、私たちの「情報」とか、それを構成する「単語」とかよりも次元の低いものには違いないけれども。
いや、だからこそ、赤ちゃんの引き寄せは「ちょっと違う」のがあたりまえなのだろう。
ま、発展途上の考えですので、とりあえず、こんなところでしょう。
貴重な問題点を直視する機会ができて、ありがたかったです。改めて矢島氏に御礼申します。
よく知らないけど、「人間は、先天的に言語使用できるようになっている」といった大胆な仮説がある。
それを言うまえに、研究しなければならないことはたくさんあるように思う。
このような「神のみぞ知る」「人知では窺い知れぬことがある」的な発言は、
世間知としてはともかく、研究の世界では、最後の最後に言うべきことだろう。
うううむ、今度はチョムスキー批判か‥‥‥ 収拾つくんだろうか。
ほんとうにひさしぶりに、バージニア大学の電子テキストアーカイブにいってみたら、バージニア大学・ピッツバーグ大学・日本語テキストイニシアチブというのができていた。まだ、小倉百人一首だけですが、
今後に期待するかな。あ、今年の1月にはあったんですか。本当に久しぶりだったのね。
19971105
■「蘭奢待」
これまた、11月1日ネタ。ただし、研究会がらみではない。
朝、テレビをつけっぱなしにしていた。
近鉄提供『真珠の小箱』という番組で、正倉院展の紹介をしていた。
今回の目玉でもある「蘭奢待」も流していた。
大河ドラマ『秀吉』で信長の横暴を描く材料にされていた香木とご記憶の方も多いはず。
で、この番組ではじめて知ったのだが、「蘭奢待」の中に東大寺が読み込まれているという。
蘭に東、奢に大、待に寺。そこで別名を東大寺ともいうそうな。
『日本大百科全書』にも書いてあった(有名な話なんでしょうね。知らないとはちょっと恥ずかしい)。
聖武天皇もなかなかおちゃめであったらしい。
曲亭馬琴(と書きましょうね。山東京伝を岩瀬京伝と書かないのとおなじ理屈です)作『南総里見八犬伝』のように、へんてこりんな名前・表記ばかり続くと、さすがにアナグラムだと知れる。
たとえば、飼い犬と感応して八つの玉を産む「伏姫」は人(イ)と犬をあわせて「伏」、
「丶大法師」は犬を丶(チュという漢字です)と大に分けたもの。
「沼藺」でヌイという人もいましたね。イヌを引っ繰り返しただけです。
何だか、マンガの『奇面組』(古いか)みたいですね。
ま、馬琴もこのことはどこかで明かしていたはずです。名詮自性とか言って。
いずれにしても、蘭奢侍には不意打ちをくらったというわけ。
昨日の『こら!なんばしよっと3』(NHK 銀河テレビ小説)で、訪れた陶芸家に母親(桃井かおり)が
「使えんようなセトモン作るっちゃ、‥‥‥ 」(細部自信なし)と悪態をついていた。
ヤキモノ(ヤキモン)が普通かと思ってました。
そうそう、新明解の第5版、でましたね。なにか面白いことはありますかね。
あったら買おうかと思ってます。それにしても、あの白い「特装版」てのは何なんでしょうね。
白と赤と二冊そろえて、おめでたい‥‥‥ うううん、饅頭じゃないんだからね。
初刷限定の装訂ということかしら。だったら買おうかな‥‥‥ おっと、それが戦略かな。
でも、書棚から本をさがすときというのは、けっこう表紙の色なんかが手掛かりになっている。
赤系だったと頭にあると、ちょっととまどうことになるかもしれない。
白と頭にいれると、講義の直前あたりのバタバタしたときに、
『新選国語辞典』(小学館)を持っていきそうだ。
19971106
■食わずぎらいですみません
「そこのけ、子供よ。のかぬか‥‥‥ 質問に答えたらじゃと? ちょこざいな、名を名乗れ。
赤胴鈴ノ進じゃと? 姓氏はおろか名前まで音訓まぜるとは。親御の顔がみたいの‥‥‥
なに、古いと申すか。頑迷固陋が売り物の三流国学者じゃ。あ、三流は余計じゃ。
そこまで言わせるでない。
漢語の和化の故とな。ほう、少しはできるようじゃな。話してみぃ。
「ニンチゲンゴガク? ほう、旨いかそれは。旨いはずがないと?
ミンチカツではないのか、源五郎鮒の顎肉の。東の方ではメンチカツというようじゃがな。
時代がちがう? わしは新しもの好きなのじゃ。はは、頑迷固陋とあべこべじゃのぉ。
矛盾するのが人というものじゃて。
「外つ国のことは分からんて。わしは最後でいいのぉ、学ぶのは。なぜと言われてものぉ。
これまでいくつも学問が流れてきたがの、国学になじみとけこんだのは少ないのじゃ。
たとえば、茶飲好もはやったが、何が今でものこったかのぉ。丸大ハンバーグくらいかのぉ。
あれは旨かったぞ‥‥‥ 知らぬか。宣伝しておったろう。
ほれ、ハイリハイリハイリハイリホー‥‥‥ そうじゃそうじゃ、背理法じゃった。
非文(文法上の誤りがある文)の非文たる理由を確定することで、文法適合文の適合性をきわだたせるのじゃ。
どうじゃ、うまかろう。星印がついた例文をみたことがあろう。あれじゃよ。
「エダワカレズ(枝分かれ図)とな。あの栗の木を見よ。枝は分かれるものじゃて‥‥‥
なに、ちがう? そちらの桜のことか。いまだ、枝は枯れず‥‥‥
これも違うか? トリィか。それならそこの神社にあろう。
S S S :sentence 文
/\ /\ NP:noun phrase 名詞句
NP S S NP VP:verb phrase 動詞句
| /\ /\ |
| NP VP NP VP |
| | | | | |
象は 鼻が 長い 私の 愛する クルマ
「ははは、わかっておる。そちらの回路がつながっただけじゃ。案ずるでない。
樹状図じゃな。たしかにあれは文構造を示すには便利じゃが、茶飲好がはじめたものではないぞ。
それに、似たようなものは原仙作『英文標準問題精講』(旺文社)にもあるからのぉ。
第一、深層構造を示すこともないからのぉ、ありがたみも少なくなったのぉ。
というわけで、新しいものは、遠目でながめる癖がついての。
頑迷固陋を看板にするゆえんじゃて。
「それに急に認知と言われてものぉ。
おぬし、「パンも/パンだ/パンが」と言ってみよ。「ン」はすべて同じと思っておるな。だがの、全部ちがうのじゃ。
「パンも」では唇をとじる。「パンだ」では唇があく。舌先・前舌は上歯のうらから歯ぐきにあるがの。
「パンだ」は舌先は下歯のうらじゃが、後舌がもりあがって上の奥歯にふれておろう。どうじゃな。
発音は異なるのに、同じものとみるのは頭のはたらきじゃ。つまり、そのように認知しておるのじゃ。
これまでのことばの学、ことに蘇州流や部室野のものは、いずれ頭脳のはたらき、
認知につながっておるのではないかな。
意識するとしないとにかかわらず。古色蒼然たる雄弁術やレトリックだとてそうじゃろう。
はははは、これは言葉尻をとらえたイチャモンというものかもしれぬがの。
「おぬし、希望するならやってみたらどうじゃ。決して、止めはせぬぞ。
そのかわり、何ごとかを定着せしめて見せよ。
認知言語学でなければできぬことを示して見せよ。
ひとりよがりではならぬぞ。誰の目にも明らかな形での証明がなければならぬ。
よいか。わかったな。
それでは達者でな。
佐藤茂氏(福井大学名誉教授・東北帝国大学出身)が逝去。御冥福をお祈りいたします。 参照
19961107
■自動車の横書き
自動車のボデーなどに横書きで社名などをいれるとき、左側面はいいのだが、右側面の場合に二つの流儀があるのは御承知のとおり。
つまり、普通の横書きのように左からはじめるのと、おそらくは進行方向を考慮してか、右からはじめるのとがある。
テレビのニュースを見ていたら、宮崎県(ですかね)小林市の廃棄物処理場問題で、住民投票がなされることになったと告げていた。
と、そこに住民投票を呼びかける宣伝カーがうつった。
その屋根には、
票投民住
11月16日
との幕があるのに気づいた。かたや右から、かたや左から読むことになる。
やはり算用数字が入ると左から書きたくなりますよね。
そういえば、会社の電話番号は、右からはじめるタイプの場合、どうしているのだろうか。
何だか、まえに『言語生活』あたりで見たような気もしますが。
やはり算用数字入りということで、そこだけ左からになるのか。
あるいは漢数字で右からという荒技(?)もありうるかな。
現代ではあまりはやらないかもしれませんね。
算用数字のまま右からというのが本当の荒技かもしれせまん。
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