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気になることば 第7集   バックナンバー   最新
19961021

■使える用例



 いやしくも焚き火を趣味とするからにはふだんの精進が求められるのだ。自慢ではないが、私の頭の中では片時も「燃えしろ」なることばが離れることはない。「糊しろ」「縫いしろ」などの言葉から私が連想した用語で、「燃えるもの」ほどの意味だ。庭を掃除する際は、燃えしろになるか、ならぬかで対象を区別しているのである。(長野泰一「内証の話焚き火道楽」」『耳ぶくろ '83年版ベストエッセイ集』文春文庫・153ぺ)
 この例は、新たな言葉(単語)を作った人の証言が現れている点で面白い。前にも書いたようになかなか新しい語の作り手にはなれなかったり、言語変化の最初の人をつきとめるのは難しいが、こういう例があると助かる。ただし、ある程度の使用者を獲得した言葉でないととりあげにくいのではあるが。

 けれども、この例は別の役にたつ。概論で、「言語とは何か」のような話をしなければならないことがある。「差異の集合・体系だ」ということに話題が及ぶ。このときになかなかうまい具体例がでない。ところが、「燃えしろ」は、燃えるか否かで「対象を区別」するときの言葉である。まさに「差異」を顕然するために語を作った例ではないか。「使える用例」とするゆえんである。


19961022

■変化の途中



 滋味というのは、うまい味、うまい食物のことをいうのであって、のちに比喩的にこの言葉を文章や話のほうにもってきて、滋味あふるる講話などというようになった。しかし、いかにうまい話でもそれを聞いてうまいものを食ったような気分にはてれないんだから、話のほうは大変にお上手な、結構なお話でしたといったほうがよく、滋味は食物専門にしておいたほうが紛らわしくなくていい。(田中雅夫「滋味あふれる法話と蛤」『午後おそい客 '84年版ベストエッセイ集』文春文庫・161ぺ)
 1年生の概論などでは、「言葉の乱れ」についてなにがしかの話をする。まぁ、だいたい、目くじらを立てないで冷静に判断しましょうや、と話す。

 一方で、今までの言語変化といったものをしょっているから「言語は文化である」というのも頷けるね、などと強引に話を進めることもある。つまり、言語変化に適合する人とそうでない人があり、それらが折り合いを付けていく中で次代の日本語が培われていく、そんな営みを「文化」と呼んでもいいんじゃないか といった体のことである。

 まぁ、こんな無理な展開で話を進めるのも、「言葉の乱れ」云々という人々の「乱れ」とみる基準について、非常に疑問をもつからにほかならないのだが。ま、詳細は他日。

 で、適合する人とそうでない人の例として「滋味」をかかげたけれど、この種の例が意外に多いことはご承知のところ。たまたま目についたので載せました。
19961023

■幸福な辞書



 『日本古書通信』の10月号の早川勇氏「英学落穂拾い」はなかなか面白かった。小見出しだけならべると、

最初の英語辞書 英語で書かれた最初の日本紹介本 日英対訳会話集 英語にける日本語借用語の初出年 最初に印刷された英和語彙集  最初に印刷された日本人の英文 英語辞書に最初に収録された日本語
 普段、あまり首をつっこまない分野だけに、再確認したり、新たな知見が得られたりで勉強になった。

 で、随分、「最初」というのが多いけれど、一つには、オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリィ(OED)の用例を基準として、それよりも早い例をとさがしているとこうなる、ということかもしれない。もちろん、ほかにもいろいろ業績があって、雑誌向きのテーマで一括したらこうなりました、というのが本当のところだろうが、OEDの影響は陰に陽に働いているだろう。

 「英語における日本語借用語の初出年」では、彼の調査によると「あわび」のようにこれまで1889年初出とされてきたものが、なんと1616年にまでさかのぼらせることができるという。「昆布」も1884年から1618年。ううん、それだけのことでも何だか感じ入ってしまう。ことに、英語圏とのつきあいは幕末からと思いがちなので1800年代と書かれると、結構早いなと思ってしまう。けれども、実は17世紀初頭の例があることの驚き。三浦按針(ウィリアム・アダムス)の手紙とか、漂流民を救出した船の航海日誌(あるのかしら)などを利用するのかな。

 こういうことが行われるのもOEDあればこそ、なんでしょうね。
19961024

■鮮やかな解釈



 抄物では(中略)「ミタムナイ」のみではない、「行キタムナイ」のごとく「動詞連用形+トウモナイ」はほとんど「連用+タムナイ」という形をとる。

 私は翻然と悟るところがあった。現在使う「ダンナイ」はもともと「ダムナイ」なのではなかったろうか。その「ダム」は「ドウモ」なのではなかろうか。(中略)「ドウモナイ」や、「ドモナイ」も今よく使われる。(壽岳章子「私説 抄物研究史」『国語論究5中世語の研究』(明治書院・1994。166ぺ)
 関西の「だんない」の語源についての一節。壽岳さんは、「大事ない」からという語源説を音韻変化の上から、「段ない」からの説を意味・心理の上から無理なものとする。そこで抄物の例を手掛かりに新案をだしたのである。文章にするとわかりづらいが、次のようなことになる。

   〜トウモナイ:〜タムナイ

    ドウモナイ: ダムナイ(推定形。→ダンナイへ)
 素晴らしい論文に出会うと、自分が馬鹿に思えることがあった。手掛かりはすべて提示されていたのに、読み解けなかった場合などはなおさらだ。王手をかけたら、遠くの角行がびしっとこちらをにらんでいたというところか。

 もちろん、そのようには手掛かりが提示され尽くされていないこともある。壽岳さんはその手掛かりを抄物に求めた。あるいは、角行を手に入れた。

 こうなると、「大事ない」説・「段ない」説が一気に色あせ、浅薄さまで露呈してしまうようだ。自分の持ち駒(既存の知識)だけで解釈することは恐ろしい(もちろん、これは自戒の言である。なお、壽岳説に諸手をあげて賛同しているわけではない。細部の詰めをしなければいけない。また、抜き書きしただけなので是非原本を参照されたい)



 と思った、『日本国語大辞典』をみるまでは。ちゃんと載っているではないですか、「たむない」が。さすがですね。しかし、壽岳さんの年代だと『日国大』の編集その他で、用例を提供していたかもしれない。やっぱり、壽岳さんがエライのか。ま、これは未確認情報なので、やめましょう。

 それにしても、『日国大』の再版は是非ともCD−ROMもお願いしたい。EPWINGか電子ブックなら語釈や用例からもひける(たとえばDDwinで)。角行を手に入れやすい、相当使える辞書になるはずである。
19961025

■電話りんりん、テレホンるるる



 木曜日の午後4時50分ころ、NHK第一放送(AM)で、りんけんバンドのリーダー・照屋りんけんさんのお父さんが出演。彼の曲を紹介しながらのインタビュー番組である。曲の「厄介者(やっけーむん)」の紹介でのこと。歌詞(合いの手?)に「りんりん」という言葉がよく出てくる。それをめぐってのやりとり。

司会者「最近の風潮に対するものでしょうかね」

アシスタント嬢「最近あちこちでりんりん鳴ってますからね」
 携帯電話の呼出音とみたようだ。が、いまどきの電話はりんりんとは鳴らない。では、なぜ、電話の呼出し音をりんりんというのか(試しにお知り合いに聞いてみてください。多分、りんりんというのでは? 同趣のことを高橋克彦かだれかのエッセイで読んだような気がする。御存じの方はお知らせください。まさか、フィンガー5とか小泉今日子の影響もあるのだろうか。)

 言語学の前提として、音声の連続(たとえば[neko])とその指す意味(絵が出ないので/猫/とでもします)との関係には必然性がない、というのがある。別にネコネコと鳴くわけではない、でも[neko]と呼ぶことになってる、そう決まってるんだ、日本語を話すならそのつもりでおれ、いや条件反射のように二つを結び付けておけ、と一方的に約束させられている。もちろん、このおかげで語源を意識しないので、たくさんの言葉をあやつることができるわけだが。

 電話の呼出音のような擬声語の場合、語源は明らかだ。というより、その音を写したのだから、語源なんて考えなくてもわかるはずのもの。でも、習慣は恐ろしい。りんりんと言ってしまう。擬声語ですらこのありさまだ。他の言葉の語源に鈍感なのは当たり前のことなのだろう。

 さて、呼出音をるるるなどと言ったり書いたりするのはいつのことか。「電話」をテレホン(テレフォン)と呼びだしたら変わるかもしれない。いたって無責任な推測ですが。
19961026

■説明とは?



 先週の金曜日25時ころ、明石屋さんま司会のクイズ番組で、「埴猪口」の読み方が出題された。クイズ番組程度の読み方の問題なら、大抵クリアできるものだが、恥ずかしながらこれは読めなかった。「猪口」はチョコ・チョク、「埴」は埴輪・埴生の宿のハニ。あるいは、ネバツチ・アカツチなんていうのが、古辞書の訓にあったような気がする。と考えているうちに、正解のヘナチョコが披露されてしまった。残念無念。

 このヘナチョコ。へなへなしてるくせにちょこざいなやつ、くらいに思っていたのだが、どうもそうではないかもしれないのだ。『日国大』でひけば「語源説」欄に

 (1)ヘナチョコ(埴猪口)の義。明治一四、五年(一八八一、二)頃、新聞記者の野崎左文の用いた、外部に鬼面を、内部にお多福面を描き、酒を入れるとじゅうじゅう音がして酒を吸い泡立ったという楽焼の杯から[大言海]
 とあった。物が最初で、「未熟者」などの意味はこの転義らしい。『広辞苑』などもそれによっている。 しかし、なんだか嘘っぽいなぁ、この語源説。かといって、明治以前の例を見つけたわけではないが。

 そうなると「埴」はハニともヘナとも読めることになる。この二つの読み、というより単語と見たいのだが、どういう関係にあるのか。まぁ、得意の「母音交替形」とでもしますか。ただ、この語、数ある術語のなかでも一二を争うくらい使いたくない言葉であり、論文で目にすると、少しだけ気分がそがれることがある。なんだか、関係とか変化とかの説明はしましたよ、もういいでしょ、義理は果たしました、と言われた ような気になるのだ。説明じゃないんだけどな。現象の名であって。

 不思議(でもないか)に、老大家の論文ならさほど抵抗は感じない。しかし、これって権威に弱いということの証明だろうか。私としては、学問的な蓄積を背景に見ているつもりなのだが。
19961027

■異説「1ヶ・2ヶ」

 最近はあまり見かけないようだが、「コロッケ 1ヶ 50円」などと「1個」を「1 ヶ」と盛んに書いていた時期があった。通説では、「箇」の字の初め三画をとったものと 言われているようだ。
 が、漢文学者・阿辻哲次の「たこやき六ヶ一〇〇円」で異説があった。中 国では序数詞(数を数えるときの単位辞。一本・一匹・一羽の類)が複雑なのだが、それ でも汎用できそうなのが「個」。簡化字では「个」だが、戦国時代から俗字として使われ ていたという。
 実際に中国人が手書きで書く時にはすべての筆画を続けて書くから、その字は結果的に はカタカナの「ケ」と非常によく似た字となる。これが日本語て「ケ」を「個数」の意味 で使うようになった由来であり、もともとは中国から輸入された荷物の箱などに「个」と いう字が書かれていたのを、カタカナの「ケ」と誤読したのがその始まりであろう。(『ネ パールのビール '91 年版ベスト・エッセイ集』文春文庫・1994。306ぺ)
 『日本国語大辞典』ではこのコースで日本語に定着したのは「君ヶ代・越ヶ谷・八ヶ岳 」の「が」だということだが。ただしもとの字は「箇(→个)」のよし。

パックナンバーのタイトル索引    先達・岡島昭浩さんの目についたことば



言語学的に興味深い「専門用語の誤用例辞典」(鈴木亮輔さん・京都大学大学院助教授)






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