[ロビンソン・クルーソー] [ガリヴァ旅行記] [トリストラム・シャンディ] [フランケンシュタイン] [自負と偏見]
放送大学岐阜学習センター 平成17年度2学期 面接授業  内田勝(岐阜大学地域科学部)
翻訳で読む18世紀イギリス小説 第4部 (2005年12月11日 10:00-12:15)
シェリーの『フランケンシュタイン』
引用文中の「…」は省略箇所、[ ]内は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]メアリー・シェリー(1797-1851)の小説『フランケンシュタイン』(1818)の主人公、ヴィクター・フランケンシュタインは、子供を産みたいという欲望にとりつかれた男です。文芸批評家のバーバラ・ジョンソンが言うように、「フランケンシュタインの物語は結局のところ、女性の役割を奪いとり、文字どおりに子どもをこの世に送りだす男の話である」といえるでしょう。(内田「フランケンシュタインの『花嫁』」)

[2]シェリー Mary Wollstonecraft Shelley 1797-1851 イギリスの女流作家で詩人P.B.シェリーの 2 番目の妻。政治哲学者W.ゴドウィンと女権拡張論者M.ウルストンクラフトとの唯一の子としてロンドンに生まれた。彼女を出産して数日後に死んだ母の生き方を理想とし、家庭を顧みぬ父を嫌ったという。しかし父のもとに出入りする多くの学者や作家から知的刺激を受け、後年夫となるシェリーとの出会いもそうした環境から生まれた。二人の結婚は彼の前妻を自殺に追いやるという悲劇を土台に 6 年でついえたが、夫から得た文学上の影響は大きく、21 歳のとき完成させた処女作《フランケンシュタイン》(1818) も彼の示唆と指導の下に書かれたという。この作品は、夫やバイロンらロマン派詩人が社会から疎外される姿を人造怪物の悲劇に託して語り、悪疫で世界が滅びる黙示録的未来を扱った《最後の人》 (1826) とともに、恐怖小説ならびに SF の先駆とされる。……。(荒俣宏「シェリー」『世界大百科事典』[平凡社、有料サイト『ネットで百科@Home』(http://ds.hbi.ne.jp/netencyhome/)より]

【『フランケンシュタイン』は「ゴシック小説」の最高傑作の一つとされている。】

[3]ゴシック小説 Gothic novel イギリスの18世紀後半から19世紀初めにかけて流行した一群の小説。恐怖小説ともいう。中世のゴシック風の屋敷、城、寺院、修道院などを背景に超自然的怪奇性を主題とする。人物、道具立てに一定の型があり、たとえば、迫害されて長年の間監禁された女性に、圧制的な夫や叔父などが配される。屋敷や財産がその間簒奪[さんだつ]されて正統な相続人が苦難を味わう。舞台はイタリア、フランス、スペイン、ドイツなどで、迫害の一手段として宗教裁判が用いられることもある。古めかしい道具立てながら、当時の新しい美意識、政治感覚によって支えられた。創始者はホレス・ウォルポールで、『オトラントの城』(1764)はこの種の小説の原型をなす。以後、クレアラ・リーブ『老イギリス男爵』(1777)を経て、1790年代に絶頂期を迎える。この時期を代表する女流作家がアン・ラドクリフで、その代表作『ユードルフォーの怪奇』(1794)、『イタリア人』(1798)は広範な読者を得た。これらの作品にはいずれも迫害される女主人公が登場し、リチャードソンに始まる小説の系譜に属する。フランス革命に共鳴したウィリアム・ゴドウィン【メアリー・シェリーの父】の『ケイレブ・ウィリアムズ』(1794)も迫害を受ける人物を扱い、ゴシック小説とみなされる。マシュー・グレゴリー・ルイスの『修道士』(1796)はドイツ文学の影響が強く、近親相姦[そうかん]、親殺しなどセンセーショナルな主題が扱われている。メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』(1818)やチャールズ・マチューリン『放浪者メルモス』(1820)など後期ゴシック小説は作者の分身的人物の創造を特色とし、作家の目は人間心理の内奥に向けられている。……。(榎本太「ゴシック小説」『日本大百科全書』[小学館、有料サイト『ジャパンナレッジ』 <http://www.japanknowledge.com/> より])

[4]……【『フランケンシュタイン』は】ゴシック小説のもつ欠点——あまりにもあざといとか、現実から遊離しているという欠点は見事にクリアしてしまっている。本来もっている魅力——たとえば、恐怖、悪夢、追いつ追われつのハラハラドキドキ、といったゴシック小説のもつ面白い魅力はそのまま温存して、途方もない、不条理というか、子どもだましのあざとさをクリアしていったという点では、たしかにゴシック小説のいいところをうまく取り上げて、悪いところをうまく修正してつくりあげた、一つの頂点と言っても構わないと思います。だから今日、現代的なテーマが、いまだにわれわれを魅了しているということになるでしょうね。(小池『ゴシック小説をよむ』pp.142-3)

[5]【妻のいる詩人シェリーと駆け落ちしたメアリーは】イギリスにいると不倫として、社会から指弾されますから、二人でヨーロッパへ逃げた。たまたまあるとき、スイスのレマン湖畔にある、詩人バイロンの家にしばらく厄介になって逗留したんです。非常に美しい自然に囲まれた場所で、しかもバイロンもシェリーも詩人でしょう? だから、早くスイスの山へ登りたいとか、いろんな夢があった。
 ところが運の悪いことに、そのときものすごく天気が悪くて、毎日毎日嵐で、せっかくの美しい山が何も見えない。家のなかに閉じこめられて、退屈で退屈で困っちゃった。そこで……みんなが集まって、退屈しのぎにゲームをやろうと企画しました。
 それはどういうゲームかというと、この家には、ドイツ語で書かれた恐怖小説がいっぱい置いてあったんです。……このころイギリスのゴシック小説はどんどんヨーロッパへ伝わりまして、あちこちで恐怖小説が氾濫していたのです。ドイツ語で書かれたゴシック小説、恐怖小説をみんなで読んだのですけれども、さすがに文学者の眼から見ると、ばかばかしくて読むに耐えない。じゃ、われわれが書こうじゃないか。……ひとつ、みんなで小説を競作しよう、コンクールをやろう、と言いだしたんです。……皮肉なことに翌朝、夜が明けてみたらカラッと晴れて、ものすごくいい天気。青空の下アルプスの白い峰々が、人の心を招くようにそびえ立っている。それで言いだしたご本人のバイロンもミスター・シェリーも、小説競作などけろりと忘れちゃって、自然探索のほうにみんなつり込まれて行っちゃったんですが、奥さんのメアリーだけが、その晩夢を見た……それが、人間が人造人間を作るという物語だった。だから明らかにこれは、ゴシック小説批判から書かれたゴシック小説なのです。安っぽいゴシック小説を読んで、なによ、ばかな、それなら私が本物のゴシックを書いてやるわよという野心から生まれたことは確かです。(同書、pp.141-2)

[6]【『フランケンシュタイン』の「あらすじ」】
冒頭に北極探検の航海に出たイギリス人、ウォルトン船長の手紙が紹介される。彼が北極海の真唯中で、流氷の上にそりに乗ったまま漂流している一人のヨーロッパ人を救って船に乗せてやる。すると、そのみ知らぬ男は何故たった一人でこんな所にいるかを説明するために、自分の異常な身の上話を船長に物語るのであった。
         *       *       *
 私はスイスのジュネーヴの名門の家の長男として生まれた、ヴィクトル・フランケンシュタインという者です。子供のときから何一つ不自由なく、両親の愛情の下に平和に育てられました。
 私が子供の頃、両親と一緒にイタリアに旅行しましたが、その時母が貧しい農民の家を訪れ、そこで養われている可愛らしい少女に会いました。
 ミラノの貴族の娘なのですが、母は娘を生み落とすと死に、貴族の家も没落して、とうとう貧しい農民に養われることとなったのです。私の父母は同情してその少女、エリザベート・ラヴェンツァを引きとり、養女として、わが子と全く同じに育ててやりましたので、私は彼女を実の妹のように思って成長しました。
 彼女は姿形が美しいだけでなく気だてもよく、誰からも愛されるような少女に成長しました。
 私の両親はいつか彼女を私の妻にしたいと考えていたようですし、私も彼女を妻とすることを何の不自然もなく受け入れ、彼女を愛するようになりました。
 私が大きくなるにつれて、大学で学問を完成させることになり、インゴルシュタットの大学で自然科学を専攻しました。そして私は科学、特に化学に対する向学心に燃え、一心不乱に勉学に励みましたが、その熱意のあまりとんでもない野望にとりつかれてしまったのです——すなわち、無生物に生命の火を灯すことを、科学の力で可能ならしめたいものだ、と。
 そこで私は下宿のてっぺんの部屋で、こっそり実験を始めました。解剖室や屠殺場から死体の断片を持ち込んで、いろいろ試みているうちに、遂に私が完成させた人造人間が生命を持つようになったのです。目が開き、呼吸をし、手足を動かしはじめました。
 が、実験が成功した途端、この醜悪怪奇な生物が動き出した途端、私は喜ぶどころか、大変な嫌悪感に襲われ、まるで悪夢にうなされているかのように、部屋から逃げ出してしまい、その夜は家に戻る勇気が出ませんでした。
 翌朝、おそるおそる私の部屋に戻ってみると、怪物はおらず、部屋は空っぽのままでした。
 私はほっと安心した途端に、これまでの精神的肉体的な疲労と緊張の反動からでしょうが、どっと重い病気になってしまいました。
 そして回復して歩けるようになったら、勉強を中断してジュネーヴのわが家に帰ろうと思っていたのですが、その時私のいないわが家で恐ろしい事件が起こりました。戸外で遊んでいた私の小さい弟が、何者かに惨殺されてしまったのです。
 私がジュネーヴに戻ってみると、女中の一人ジュスティーヌが容疑者として捕らえられていました。しかし私は偶然なことから、弟を殺したのは、ほかならぬ私自身の造った怪物であることを知ってしまったのです。
 私は悩みました。私が行った神をおそれぬ仕業を皆に打ちあける勇気はとてもありませんでしたし、かりに真相を話しても、誰も私の言葉を信じてはくれないでしょう。私の気が狂ったとしか思いますまい。しかし、その一方ジュスティーヌが無実の罪で死刑にされるのを、むざむざ見殺しにすることも、とても耐えられません。
 私はエリザベートと一緒に彼女を慰め、彼女の無罪を立証するべく必死の努力を始めますが、状況証拠が彼女に不利なため、とうとう裁判で有罪と宣告され、処刑されてしまいました。
 私は真相を打ちあけなかった自分の卑怯を自ら責める気持で、半狂乱でした。エリザベートをはじめ、誰もが私を慰めてくれましたが、もちろん弟の死の責任が私にあることは知るはずもありません。父は私の病気がまだ完治していないと思い、病気が治り次第私とエリザベートを結婚させ、私の精神を安定させようと考えました。
 そうしている間にも、あちこちで謎の事件が起こります。人びとは五里霧中ですが、私にだけはわかっていました。その下手人があの怪物であるということが。とうとう責任を感じた私は、怪物に会うため、モンブラン近くの氷河へ出かけ、そこで私と怪物が対決しました。そして、私は怪物の口から意外な、しかし恐ろしいことを聞かされたのです。
 怪物は私にこう告白しました。私の部屋を飛び出した怪物は、決して人間に敵意を持っていたわけではないのです。むしろ淋しがりやで、人間とつき合いたい、人間に愛されたいと願っていました。ところがその醜悪な形のために、出会う人間のすべてから憎まれ、攻撃され、顔をそむけられ、逃げられてしまいました。
 このように一方的に人間から悪意と攻撃の矢を浴びている日が続くにつれ、孤独と絶望から遂に怪物は創造主たるフランケンシュタインを怨み、呪い、復讐を誓うようになってしまったのです。私の弟を殺したのも、その復讐の手はじめでした。そして孤独に苛まれ、愛に飢えた怪物は私に迫るのでした。
「おれが生きるに必要な同情を交換し会うために、女の人造人間をおれのために造れ。それが出来るのはお前だけだ。それをおれは当然の権利としてお前に要求するのだ」
 私は怪物を哀れに思い、自責の念を感じましたが、この要求に応ずるわけにはいきません。もし怪物に妻を造ってやって、その後次々に子孫が生まれたら……と。考えるだけでもぞっとしたからです。
 怪物は私に復讐を誓い、その後私の身の上に次々と不幸が訪れました。そしてエリザベートとの結婚の日が近づくにつれて、私の不安は増々強くなりました。なぜなら、怪物は「お前の結婚の夜、おれはお前のところに行ってやるからな」と脅迫していたからです。
 しかも私の不安を誰にも、最愛のエリザベートにすら知らせることができない私の苦悩はどんなだったでしょう。
 遂に私はエリザベートと結婚しました。が、その晩、幸福は一気に不幸のどん底へと転落しました。怪物が彼女を殺してしまったのです。
 絶望と復讐の炎で燃えさかる私は、たとえ世界の果てまでであろうとも、あの怪物を追いつめ破壊する決心でした。そして遂にロシアの北端へ、さらにそこから犬ぞりに乗って張りつめた氷の海を北極へと向かったのです。
 そりを曳く犬は次々にと倒れて行きました。そして突然氷が割れて私は流氷の上に置き去りにされました。
「ウォルトン船長、あなたの船が南ではなく北に向かおうとしていると聞いて、私は狂喜しました。いよいよ私の追跡も終わりになる時が来ました。私の最期も近いと思います。もし私が仕事を果たさずして倒れたら、どうかあなたが私の代りにあの怪物を仕とめて下さい。お願いです」。
         *       *       *
 最後にもう一度ウォルトン船長の手紙に戻る。
 このようにして半分死にかけたフランケンシュタインを乗せた船は、北極をめざしてさらに進んで行った。
 しかし、氷山に閉じ込められ、危険が迫るにつれて、危険を覚悟で志願して来た船員たちも恐怖のために動揺し、ウォルトン船長に、もし氷山から脱出できたら即時北極行きを断念して、南に向かって脱出せよ、と強硬な要求をつきつけて来た。
 船長は長いこと迷ったが、結果これに同意せざるを得なくなった。次第に弱って行くフランケンシュタインの残っている船室に船長が入って行った時、彼は世にも恐ろしい怪物が病人の上にのしかかっているのを見た。
 すでにフランケンシュタインは冷たくなっていた。怪物は恐怖のために身動き出来ない船長に向かって、こう言った。
 これでおれの仕事は終わった。これ以上不必要な罪を犯すつもりはない。だからお前たちには何の危害も及ぼさないから安心せよ。おれはこれから氷の筏に乗って北極に向い、そこをおれの墓場とするのだから。
「おれをこの世に生み出した男は死んだ。だから、おれが死ねば、おれたち二人についての記憶もすぐに消えることだろう」
 こう言い残すと怪物は船室の窓から外に飛出すと、それきし姿を消した。
(小池「フランケンシュタイン」pp.135-7)

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[7]【『フランケンシュタイン』の冒頭。途方もない夢を抱いた青年が、平凡に暮らす姉に手紙を送っている。】
 手紙 I
イングランド サヴィル夫人宛
一七——年十二月十一日 ペテルブルクにて
 悪い胸騒ぎがすると言って姉さんが心配しておられましたが、つつがなく計画着手の運びとなったと聞いたら、喜んでくれますね。昨日こちらに着きました。そこで手初めに、ぼくの愛する姉上に安心してもらおうというわけです。ぼくは元気です。そして、この企ての成功にますます確信を強めています。
 ここはもうロンドンのはるか北。ペテルブルクの街なかを歩いていると、冷たい北の微風が頬にたわむれて、神経をひきしめ、ぼくを喜びで一杯にしてくれます。この気持、姉さんにわかるだろうか? これからおもむく地域から渡ってくるこの風は、あの凍[い]てつく気候の予感をぼくに運んでくれるんです。この約束の風にあおられて、ぼくの白昼夢はいよいよ熱をおび、生き生きとしてきます。極地は氷ばかりのさびれた場所だと思いこもうとしても、だめなんだ。空想に現われる北極はいつも、美と歓喜の地。そこではね、マーガレット、太陽がつねに見えている。大きな日輪がちょうど地平をかすめながら、永遠の輝きを放っている。そこでは——姉さんに失礼して、先輩の探険家たちをちょっと信用させていただくと——そこでは雪も氷も追いはらわれて、凪[な]いだ海を船で渡れば、人の棲む地上でかつて発見されたどんな土地にもまさる、不思議で美しい陸地に行くことができるのです。(シェリー『フランケンシュタイン』pp.19-20)

[8]手紙を読み進めるうちに読者は、ウォルトン【北極点到達を目指す探険家】の口調から、サヴィル夫人が、愛情深い優しい姉であることを知らされる。したがって読者が要求されているのは、一八世紀のロンドンに住む中産階級の教養ある女性と近似した立場に立って、寛容な理解力ある態度を保ちつつ、ウォルトンの手紙を読むことだということになる。……。このようにウォルトンの手紙によって読者の反応が操作されたうえで、フランケンシュタインの語りが始まる。それは、異常な物語を読み進めながら、読者がフランケンシュタインへの共感を保ち続けるための、作者の側の戦略だと言えるだろう。(廣野『批評理論入門』pp.139-41)

【北極を暖かい夢の国と信じて危険な航海に乗り出すウォルトン隊長も、人工生命の創造に夢中になっておのれの行為のおぞましさに気がつかないフランケンシュタインも、ちょうど『ガリヴァ旅行記』第三篇に登場するラピュタの学者たちのように、現実世界の常識を忘れて理想の世界に舞い上がっている。フランケンシュタイン物語の最初の読者であるサヴィル夫人は、ジェイン・オースティンの小説に出てくるようなイングランドの屋敷から、彼らの無茶な冒険を危うげに見守っている。理想に舞い上がる男と、現実に引きとどまる女。】

[9]……『フランケンシュタイン』の場合は、ウォルトンの手紙のなかに、彼が綴った手記が含まれ、これが作品の大部分を占めている。それは、フランケンシュタインが数日間にわたって断続的に語った物語を、ウォルトンが編集したものである。フランケンシュタインを語り手とする物語のなかには、また、怪物の物語が含まれている。これは、怪物がフランケンシュタインと対面して、数時間にわたって一息で語った談話である。
 このように『フランケンシュタイン』の語りは、三重の枠組み構造から成り立っている。言い換えれば、物語が特定の固定された位置からではなく、複数の視点から眺められているということだ。つまりこの作品は、異なったものの見方や声が混在した小説なのである。(同書、p.24)

[10]【科学者ヴィクター・フランケンシュタインの語りの冒頭。家柄から語り出す典型的な自伝の語り方。】
わたしはジュネーヴの人間で、家はかの共和国でも屈指の名門のひとつです。先祖は顧問官や地方判事を長年やっていましたし、父も公職にいくつもついて名誉と評判を得た人でした。父を知る人はみな、その高潔な人柄と公務へのたゆまぬ専心ぶりを敬いました。若い日を国の仕事に追われて過ごし、またいろいろ事情もあって、早い結婚はできず、夫となり一家の父となったのは晩年も近づいてからのことでした。(シェリー『フランケンシュタイン』p.42)

[11]【ヴィクターは両親の愛情を一身に受けて育つ。のちに「親」となったヴィクターが何をしたかを思えば、つくづく皮肉な描写。】
優しい母の愛撫と、父がわたしを見るときの慈[いつく]しみあふれる微笑が、わたしの最初の思い出です。わたしはふたりの玩具、ふたりの偶像、そしてもっとすばらしい——ふたりの子供。天からさずかった無辜[むこ]のたよりない生き物。良い人間に育て、将来を幸せにしてやるも不幸にするも彼らしだい。この子への義務をどう果たしおおせるかで決まるのです。こんなみずから生命をあたえた子への義務の自覚の深さに加え、活発な思いやりの精神に富む父と母でしたから、幼児期のすべての時間を通じてわたしが忍耐と慈愛と自制の心を教えこまれたことは、ご想像いただけるでしょう。(同書、p.45)

[12]生命の根源を突き止めようと大学で研究に没頭したヴィクターは、ついに命の発生の謎を解き明かし、無生物に生命を吹き込む力を手に入れます。さっそく彼は人間の創造にとりかかりますが、《純然たる機械的工程として完璧にコントロールされた出産》とも言うべきこの作業の結果、できあがった生き物は、材料となる人体の断片を納骨堂の屍体から集めてきたこともあって、ヴィクターの理想とはほど遠く、見れば嫌悪感を抱かずにはいられないほど醜い怪物だったのです。(内田「フランケンシュタインの『花嫁』」)

[13]わたしが労苦の完成を見たのは、十一月のとあるわびしい夜のことでした。苦しいほどの熱意に駆られ、わたしは足もとに横たわる命のない物体に生命の火花を吹きこむべく、生命の器械をまわりに集めました。すでに午前一時。雨がぱらぱらと陰気に窓を打ち、蝋燭は今にも燃えつきようとする、そのとき、なかば消えかけた微かな光に、わたしは生き物のどんより黄色い目がひらくのを見たのです。それは重く息をつき、痙攣[けいれん]が手足を走りました。
 この大詰めのわたしの感情を語ることなどできるでしょうか。どう描いたらいいのでしょう、計り知れぬ苦心と用心をかさねて創りだそうとしてきた、このあさましい生き物を? 四肢は均整がとれ、容貌も美しく選んであった。美しく!——これが美しいと! 黄色い皮膚は下の筋肉や動脈の作用をほとんど隠さず、髪は黒くつややかにすらりと伸び、歯の白さは真珠のよう。だがそんな贅沢は、いっそうおぞましくきわだたせるばかりでした。はめこまれた薄茶の眼窩とほとんど同じ色に見えるうるんだ目、やつれたような顔の色、一文字の黒い唇を。(シェリー『フランケンシュタイン』pp.74-5)

[14]【怪物が目覚める瞬間。ヴィクターが「死んだ母を抱く夢」を見ているのにも注目。】
眠りはしました。しかし、無茶苦茶きわまる夢に邪魔されました。健康ではちきれそうなエリザベス【婚約者】が、インゴルシュタット【現在ヴィクターがいる大学町】の街を歩いているのを見たように思い、わたしは驚き喜んで彼女を抱きしめます。ところがその唇に最初のキスをあたえたとたん、それは死の鉛色に変わってしまうのでした。面立ちも変わって、わたしは死んだ母のなきがらを腕に抱いているようでした。経帷子[きょうかたびら]がからだを包み、フランネルの襞を蛆虫が這っているのが見えました。恐怖にぞっとして目をさますと、冷たい玉の汗が額をおおい、歯はガチガチと鳴り、手足はことごとくひきつっていた、と、そのとき窓のよろい戸の隙間からさしこむおぼろな黄色い月明かりに、わたしはあいつを見たのです——わたしが創造した破廉恥な怪物を。そいつはベッドの帳[とばり]をかかげていて、目は——あれが目と呼べるものなら——じっとわたしを見ていました。あごをひらいて何やらわからぬ音を出し、歯をむいて頬に皺を寄せました。しゃべったのかもしれない、だがわたしは聞いていませんでした。片手を伸ばして押しとめようとするらしいのを、逃れて一目散に階下へ駆けおりました。……。おお! 人の身であの顔の恐ろしさに耐えうる者はおりますまい。(同書、pp.75-6)

[15]【さまざまな事件が起った後、モンブラン近くの氷河で科学者は怪物と再会する。】
「失せろ! そのいやらしい姿がおれに見えないところへ、行ってしまえ」
「こうすれば見えなくなるぞ、創り主よ」とそいつはおぞましい両手でわたしの目をおおいました。わたしはその手を力まかせに払いのけました。「こうすれば嫌な姿があんたには見えない。それでも話は聞けるし、おれに哀れみもかけられる。昔持っていた美徳にかけて、おれはあんたに要求する。話を聞け。長く不思議な身の上だ。……おれが永久に人の住む地を去って害のない暮らしをおくるか、あんたたち人類の鞭となり、あんたにもすみやかな破滅をもたらすか、それはあんたしだいで決まるのだ」(シェリー『フランケンシュタイン』pp.135-6)

[16]「フランケンシュタイン」と聞いてわれわれがすぐに思い浮かべる、四角い頭の、目のくぼんだ、首の両側から電極が突き出している、ほとんど知能を持たない大男というイメージは、ジェイムズ・ホエール監督の映画『フランケンシュタイン』(1931)でボリス・カーロフの演じた怪物によって作られました。シェリーの原作に出てくる怪物は、流暢なフランス語を操り、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やミルトンの『失楽園』を愛読する知的な人物です。そういったことは、「原作に忠実な映画化」という触れ込みで公開されたケネス・ブラナー監督の『フランケンシュタイン』(1994)でロバート・デ・ニーロが演じた怪物をご覧になった方ならとうにご承知ですね。(内田「フランケンシュタインの『花嫁』」)

[17]【怪物の語りの冒頭。意識が生まれた瞬間の時点から語り出すという、通常の自伝ではあり得ない語り方。】
「自分の生涯の初期のころを思い出すのは、かなり骨の折れることだ。あのころの出来事はみな入りみだれ、ぼやけて見える。数知れぬ不思議な感覚が自分をとらえた。自分はいっぺんに見、触れ、聞き、嗅[か]いだ。そしておのおのの感覚の働きを識別できるようになるまでには、じつに長い時間がいったのだ。だんだんと強い光が神経を圧迫しだしたので、目をつぶらずにはおれなかったのを覚えている。そうすると暗闇がせまってきて、自分は不安になった。だがそう感じるまもなく、今思えば目をひらいたのだったろうが、またもや光がどっと射[さ]してきた。自分は歩いた。それからおりたように思う」(シェリー『フランケンシュタイン』p.137)

[18]【しばらく森で木の実を食べて暮した怪物は、食べ物を求めて人の住む村へ来てしまう。】
「自分はなかでも立派な家のひとつに入っていった。ところが戸口を入るやいなや、子供たちがわめきだし、女たちのひとりが気絶した。逃げる者があり、攻撃してくる者があり、とうとう自分は石やら何やらの飛び道具でさんざん怪我をさせられて、野原に逃れ、こわごわ一軒の屋根の低い小屋のなかににげこんだのだ。がらんとして、村の大邸宅を見たあとでは見るからにみじめなものだった。それでもこの小屋にくっついて小ぎれいで気持よさげな田舎家があったのだが、ついさっき村で手痛い経験をしたばかりだから、そっちへ入る勇気はなかった。自分の隠れ家は木造りで、ただ屋根が低いため真っすぐ坐るのがやっとだった。地面には木を敷かず地べたがそのまま床だったが、かわいているし、無数の隙間から風が入ってくるとはいえ、雨や雪をしのぐ場所としては悪くない。……。自分の住処を調べてみると、その一部がもと母屋の窓になっていたのを、板でふさいであるのが見つかった。一か所に小さくてほとんど人目につかない、ちょうどむこうが見えるくらいの隙があり、この穴から、しっくい塗りの清潔だが家具がなくがらんとした小部屋を眺めることができた」(同書、pp.142-4)

【こうして怪物は、田舎家の母屋に隣接した狭い納屋の中に引きこもり、壁の隙間から、母屋に住む人々の暮らしを貪るように覗き見て日々を過ごす。まるでミニチュアのドールハウスをうっとり眺めて夢見る人のように。あるいは、まるで孤独な人がテレビの向こうの幸せな世界に憧れるように。】

【田舎家の主は目の見えない老人ド・ラセーで、彼には若い息子フェリックスと娘アガサがいた。パリで不幸な事件に巻き込まれてフランスを追放されたド・ラセーの一家は、互いを優しくいたわりあって生きていた。ある時、フェリックスの恋人であるアラビア娘サフィーがはるばるやって来て、彼らと暮すようになり、彼らはサフィーにフランス語を教える。それをいつも壁の隙間から覗いている怪物は、流暢なフランス語を身に付けることができたのだった。】

[19]「この人たち【ド・ラセーの一家】の完璧な姿かたちに自分は感嘆したものだ——その優美さ、その美しさ、繊細な肌の色。だがこの自分の姿を透明な池のなかに見たときの恐ろしさは! 一瞬自分はぎくりと身をひいた。鏡に映ったのが本当にわが身であるとは信じられなかったのだ。そして自分が現実にこのとおりの怪物であると納得するにいたったときには、落胆と屈辱のにがい思いがこみあげてきた」(シェリー『フランケンシュタイン』p.151)

[20]よく湖や泉に映る自分の姿を見た時など、思わず自己嫌悪と恐怖の念にかられて顔そむけたほど、まだしも普通のヤフーの姿の方がずっと我慢ができた。(スウィフト『ガリヴァ旅行記』p.371)

【「美しい」精神と「醜い」身体のずれ。ガリヴァーとフランケンシュタインの怪物はねじれてつながっている。】

【さらにフランケンシュタインの怪物は、「アタマの価値観」と「生身のカラダ」とがずれてしまったあらゆる人々の象徴となって、底知れぬ恨みを蓄積していく。男中心の文化が作り出す価値観に染まった女、宗主国の文化が作り出す価値観に染まった植民地人、上流階級の価値観に染まった下層階級の人々、美しさの理想に過剰反応して自らの容姿を「不細工」と思い込む人々、学校が強制する価値観に染まりつつ適応しきれない劣等生……】

[21]「自分は彼ら【ド・ラセーの一家】を自分の未来の運命を決定する、よりすぐれた存在として眺めていた。空想のなかで幾度となく、彼らの前に姿を見せ、受け入れてもらうときの図を描いた。彼らは嫌悪をもよおすだろう、だがやがて自分の優しい振舞と友好的な言葉とで、まずは好意を、それから愛をかちえることができるだろうと想像した」(シェリー『フランケンシュタイン』p.152)

[22]「一家の人々の徳と善意を自分はたたえ、上品な物腰と温和な気質を自分は愛した。だが、彼らとの交際から自分は閉めだされていて、できるのは見られもせず気づかれもせず、こっそり近づくことだけだった。仲間の一員になりたいという願いは、それで満足させられるどころか、かえってつのる一方だった」(同書、p.159)

[23]「自分には子供のころを見守ってくれた父親も、ほほえみと愛撫をあたえてくれた母親もいない。……。自分に似た生き物にも、つきあいを求めてくる者にもかつて出会ったためしがない。自分は何物なのだ?」(同書、p.160)

[24]「ある夜のこと……地面に革の旅行鞄があるのを見つけた。なかには衣類が数点と数冊の書物が入っていた。自分は夢中で獲物をつかみ、それを納屋に持ち帰った。さいわい書物は自分がこの家で初歩を学んだ同じ言語【フランス語】で書かれていた。それは『失楽園』と『プルターク英雄伝』の一巻そして『若きウェルテルの悩み』とからなっていた。この宝を持つ嬉しさはたとえようもないものだった。……。これらの本の影響はとても語りつくせない。それは新しい概念や感情をかぎりなく心に生みだした。……。『若きウェルテルの悩み』では、単純で胸を打つストーリーが面白かったというほかに、自分にはそれまでわかりにくかった諸問題についてさまざまな見方が考察され、いろいろの光が投げられたので、この本は思索と驚異のつきることのない泉となった」(同書、pp.167-8)

[25]【出生の秘密を知ってしまう怪物。】「小屋に着いてすぐのことだが、あんた【ヴィクター】の実験室から持ってきた服のポケットに、なにやら書類が見つかった。初めは気にもかけなかったが、書いてある文字が判じられるようになったものだから、せっせとそれを勉強しはじめたのだ。それは自分の創造にいたるまでの四か月間の日記だった。……この身の呪われた起源にかかわることがひとつ残らず書いてある。……。読んでいるうちに吐きたくなった。『この身が生を受けたその日が憎い!』苦しさのあまりにおれは叫んだ。『呪われた創り主よ! おまえまでがむかついて顔をそむける、そんなおぞましい怪物を、なにゆえに創り出したのだ?』」(同書、pp.170-1)

[26]【自分の生みの親への恨みがつのる一方で、ド・ラセーたちに愛してほしい気持は一層つのる。】
「心はこの愛すべき人々に知ってもらいたい、愛されたいとあこがれた。あのうるわしいまなざしが愛をたたえてこちらに向けられるのを見ることが、自分の究極の野心であった」(同書、p.173)

[27]【怪物は、目の見えないド・ラセー老人が一人でいるとき、ついに愛の告白をする。】
「戸をたたくと、『どなたじゃな』と老人が言った——『お入り』
「自分は入った。『お邪魔して申し分けない』と自分は言った。『旅の者だが少し休みたいのです。ほんのしばらく火の前にいさせていただけたら、たいそうありがたいのですが』
「『入りなさい』とド・ラセーは言った。『要るものがあれば、わしにできることは何でもしてさしあげよう』……。
「『……わたしは不幸な、見捨てられた者なのです。まわりを見ても、地上に縁者も友もいない。これから訪ねる優しい人々はわたしをまだ見たことがなく、ほとんど知ってもおりません。わたしは不安でたまらない。そこでうまくいかなかったら、永久に世界ののけものになってしまうのですから。……。わたしは善良な性格で、今まで害もなさずに生きてきた。人助けも少しはしました。それなのに致命的な偏見があの人たちの目を曇らせていて、心ある優しい友を見るべきところに、忌わしい怪物しか見ないのです』
「『それはなんとも運の悪い——だがあんたに罪がないのが本当なら、偏見を除くことはできないのかね』
「『それにこれからとりかかろうというのです。だからこそこんなふうに、いろいろなひどい恐怖にとりつかれているのです』……。
「『お友だちの名前と住まいを聞きたいものだが』
「自分は黙った。この一瞬で決まるのだ……。気力をふるって返事をしようとあがいたが、その努力が、残っていたなけなしの力までも砕いてしまった。自分は椅子にくずおれ、おいおいとむせび泣いた。ちょうどそのとき、若い庇護者たち【フェリックス、アガサ、サフィー】の足音がした。一刻の猶予もならなかった。自分は老人の手をつかんで叫んだ。『今です!——どうか守ってください! あなたがた一家が、わたしの訪ねてきた友人なんです。この試練のときに、わたしを見捨てないでください!』
「『何だって!』と老人は叫んだ。『あんたはどなたです?』
「そのとたん、家の戸がひらいてフェリックスとサフィーとアガサが入ってきた。彼らが自分を見たときの恐怖と動転ぶりは言語を絶するものだった。アガサは気絶し、サフィーは友を介抱するどころではなく、戸外に飛びだした。フェリックスは突っこんできて、人間わざとは思えぬ力で、自分をむしゃぶりついた父親のひざからもぎ離した。彼は怒りに逆上して自分を床にたたきつけ、棒きれで力まかせにひっぱたいた」(同書、pp.174-8)

[28]「世にある無数の人間のなかに、おれを哀れみ、助ける者はひとりもいない。敵に対して優しい心を持てというのか? 否。その瞬間から、おれは永遠の戦いを宣言したのだ。人類に、そしてとりわけ、自分を創り、このしのびがたい苦悩のなかへ送りだしたその男に」(同書、p.179)

[29]「自分はひとりで、そしてみじめだ。人は誰も交わりを持とうとしない。だが自分と同じくらいに醜く恐ろしい生き物なら、自分を拒むことはないだろう。自分の伴侶は自分と同じ種族のもので、同じ欠陥を持たねばならぬ。そういう生き物を創ってもらわなくてはならぬ。……。自分のために女を創造してもらいたい。ともに暮らして、生きるのに必要な心の共感を交わせる相手を創ってほしい。それができるのはあんただけだ。……。おれと性の違う、同じくらいおぞましい生き物を創れと言うんだ。満たされるものはちっぽけだが、受けとれるものはそれしかないのだから、それでおれは満足しよう。なるほど自分たちは怪物で、世界じゅうからつまはじきにされるだろうが、それでおたがいいっそう深く結ばれることになるだろう。幸せな暮らしはできまいが、害もなさず、今のようなみじめさは味わわずにすむだろう。おお、わが創り主よ、幸せにしてくれ、ひとつだけでも恩を受けたと、感謝させてくれ! おれに同情を寄せてくれる生き物もいると、見せてくれ。この頼みをはねつけないでくれ!」(同書、pp.189-91)

【ヴィクター・フランケンシュタインは、怪物の《花嫁》を創ることを一度は承知するが、彼を思いとどまらせるのは、女の怪物は子供を産むという恐るべき事実である。】

[30]今また別の生き物を創ろうとしているが、その性質について無知なのは今度も同じでした。あるいは連れあいより一万倍も性悪で、殺人や悪行をそれだけのために喜ぶかもしれない。人の住む地を去り、荒野で暮らすとあいつは誓ったが、こちらは違う。女のほうも思考のできる理性ある生き物になるはずだが、自分の創造以前に交わされた契約などには従わないと言うかもしれない。彼らがたがいを憎むことさえありうるのだ。すでに生きている怪物は、わが身の醜さをいとわしく思っており、それが目の前に女の姿で現れたなら、いっそう激しい嫌悪を抱きはしないだろうか。相手もまた彼を嫌って、よりすぐれた人間の美を求めようとするかもしれず、女は去り、彼はまたひとりになって、自分と同じ種の生き物にまで見棄てられたと新たな怒りを燃やすことになるかもしれない。
 たとえ彼らがヨーロッパからいなくなり、新世界の荒野に住むことになったとしてもだ、あの悪魔が渇望する共感とやらが最初にもたらす結果のひとつは、子供たちだ。やがては悪魔の一族が地上にふえひろがることになり、人類の存在そのものが恐怖に満ちたあやういものになりかねない。……。とそのとき、ふと顔をあげたわたしは、月明かりの窓辺にあの悪魔の姿をみたのです。ぞっとするような笑みに唇をゆがめ、自分の課した仕事をわたしが坐ってやりとげるのを眺めていました。そうです、そいつはわたしの旅についてきていたのです……。見ていると、その顔にはこのうえもない悪意と裏切りの色が浮かびました。あれと同じものをまた創る約束をしたのだ、そう思うとわたしは気も狂わんばかりになり、激情にわななきながら、自分の造りかけていたものをずたずたにひきちぎりました。やがて生まれるその生き物に怪物はおのれの幸福を賭けていた、それをわたしが壊すのを見ると、悪魔じみた絶望と復讐の叫びをあげて、立ちさりました。(シェリー『フランケンシュタイン』pp.217-8)

【こうしてヴィクターは、ほとんど完成していた女の身体をずたずたに引き裂いてしまう。表向きは「人類を危機から救うため」という大義名分があるものの、もともと女性から産む役割を奪い取る欲望にとりつかれている彼にとって、それは《産む女》を葬り去る行為に他ならないといえる。】

【《花嫁》を奪われた怪物はヴィクターに対して怒りを爆発させ、「おまえの婚礼の夜に、きっと会いにゆくぞ」と言い残して去って行く。しかしヴィクター・フランケンシュタインは、自分の《花嫁》となる女性、エリザベスが殺されようとしていることに気がつかず、婚礼の夜に殺されるのは自分だと思いこんでいる。結局彼は妻となったエリザベスを守ることもできず、彼女はあっさりと怪物に殺されてしまう。】

[31]……絶望にもだえ、彼女【怪物に殺されてしまった妻エリザベス】を見おろしていたときに、わたしはふと顔をあげました。部屋の窓は前には閉まって暗かったのが、薄黄色の月の光が部屋を照らしだしているのにぎょっとしました。窓はあけ放されていました。わたしをおそった恐怖は、とうてい口では言えません。ひらいた窓のところに、世にもおぞましい、憎むべき姿を見たのです。怪物は顔に笑みを浮かべ、嘲笑うように、むごたらしい指でわたしの妻の亡骸をさしてみせました。わたしは窓に駆けより、胸の拳銃をひきぬいて、発射しました。が、敵は身をかわしてその場から跳びのくと、稲妻のようなすばやさで走りさり、湖に飛びこんでしまいました。(同書、p.258)

【一見この辺りの筋立てはいかにも不自然で、この小説の欠陥のように思えるのだが、実はここでも、ヴィクターは《産む女》を葬り去っているのかもしれない。自分の《花嫁》となったことによって、妊娠し子供を産む可能性を持ったエリザベスを、いまや彼の分身ともいうべき怪物に殺させた、と考えることができるのだ。】

[32]ケネス・ブラナー監督の映画は、原作に忠実な映画化であることを主張していますが、実際には原作の筋書きに一つ重大な変更を加えています。すなわちこの映画のヴィクターは、死んだエリザベスの首を別の女性の屍体とつなぎ合わせてそこに生命を吹き込み、第二の、しかも女性の怪物を作り上げてしまうのです。
 蘇ったエリザベスは非常に興味深い存在です。彼女はすでに生身の女ではなく、ヴィクターによる《純然たる機械的工程として完璧にコントロールされた出産》を経て生まれた人造人間です。男の願望が刻み込まれた女の人造人間という点で……彼女はヴィクターにとって理想の花嫁になったことでしょう。しかしそれと同時に、ヘレナ・ボナム・カーターが演じるこの怪物の容貌は、ロバート・デ・ニーロが演じる怪物と見事に対をなしていて、彼女はまさに怪物が求めていた伴侶でもあるのです。博士と怪物、二重の意味で「フランケンシュタインの花嫁」となったエリザベス。しかし彼女は両者の期待を裏切り……炎の中に消えてしまいます。(内田「フランケンシュタインの『花嫁』」)

[33]この作品の成立について特筆すべきことは、この物語が18歳の妊婦によって書かれていたという事実です。【下の年表を参照。】のちに彼女の夫となる詩人のパーシー・シェリーは、別の女性の夫でしたが16歳のメアリーと駆け落ちをしました。やがて二人の間には女の子が産まれますが、この子は生後間もなく死んでしまいます。第二子の男の子は順調に育ち、『フランケンシュタイン』を書き始めたころには、メアリーは第三子となる女の子を身ごもっていました。彼女の処女作となる小説を執筆中のメアリーは、乳児の母であると同時に妊婦であったわけです。ヴィクター・フランケンシュタインが自分の創造物を見て激しい嫌悪の念を抱き、逃げ出してしまうのは、分娩後の憂鬱感や新生児に対する母親の拒絶を表していると見る批評家もいます。その他この物語のエピソードの端々に、彼女がかつて体験した、そしてこれから体験する、出産の不安がにじみ出ているといえるのです。
 さらに出産についてのメアリーの原体験は非常に深刻なものでした。彼女の母の女権思想家メアリー・ウルストンクラフトは、のちにメアリー・シェリーとなる赤ん坊を身ごもったことで、赤ん坊の父親である思想家ウィリアム・ゴドウィンと結婚し、分娩後の出血がもとで出産の10日後に死亡しました。あたかもメアリー自身が、両親の婚礼の夜に現れ、花嫁を殺した怪物であるかのように。
 《産む女》であった母を殺してしまったのではないかという心の傷を抱いて育ち、自身《産む女》であることの不安を感じていた女が産み出した、出産を管理された機械的工程に還元することでそれを女から奪い、《産む女》を抹殺しようとする男の物語──これほどまでにフランケンシュタインの物語は、妊娠そして出産にまつわるさまざまな問題をはらんでいるのです。(同)

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[参考]【メアリー・シェリー関連年表。次の年譜を参考にした。Scott, Peter Dale. "Mary Wollstonecraft Godwin Shelley and Frankenstein: A Chronology." The Endurance of Frankenstein: Essays on Mary Shelley's Novel. Ed. George Levine and U. C. Knoepflmacher. Berkeley: University of California Press, 1979. xvii-xx.】
月日 事件
1797 8.30 (0歳)メアリー・ウルストンクラフト・ゴドウィン、ロンドンに生まれる。父は急進的な思想家ウィリアム・ゴドウィン、母はフェミニズム運動の活動家メアリー・ウルストンクラフトである。
9.10 メアリーの母、メアリー・ウルストンクラフト、分娩後の出血がもとで死亡。
1801 12.21 (4歳)父、ウィリアム・ゴドウィン、メアリー・ジェイン・クレアモントと再婚。継母の連れ子であったジェインは後にクレアと改名してクレア・クレアモントとなる。
1814 7.28 (16歳)妻のある詩人パーシー・ビッシ・シェリーと駆け落ち。クレア・クレアモントも行動を共にする。
1815 2.22 (17歳)女児を出産。未熟児であった。
3.6 その女児が死亡。
3.19 この日の日記には次のようにある。「赤ちゃんが生き返った夢をみた。赤ちゃんは冷たくなっていただけだから、私たちが暖炉の前でさすってあげたら、生き返った」
1816 1.24 (18歳)男児を出産。ウィリアムと命名。
5.3 パーシーおよびクレアと共にスイスへ出発。10日後にジュネーブ着、当地で詩人のバイロン卿および彼の侍医であったポリドリ医師と合流。
6.15-16 おそらくこのころ、バイロン卿が「我々ひとりひとりが幽霊話を書いてみるのはどうだ」と提案、ポリドリ医師の『吸血鬼』およびメアリーの『フランケンシュタイン』が誕生するきっかけを作る。【なおこの逸話は、メアリー・シェリーを主人公にしたケン・ラッセル監督の映画『ゴシック』(1986)で悪夢的に描かれている。】
7.24 日記に「わたしのお話を書く」とあり、『フランケンシュタイン』への初の言及とされている。
10.9 (19歳)メアリーの異父姉(メアリー・ウルストンクラフトの娘)で親友だったファニー・イムレー、自殺。
12.5 この日付の手紙に「フランケンシュタインの第4章を書き終えました」とある。
12.6-9 亡き母メアリー・ウルストンクラフトの主著『女性の権利の擁護』を読む。
12.10 パーシー・ビッシ・シェリーの妻ハリエット、ロンドンのハイド・パークにあるサーペンタイン池で入水自殺。
12.30 パーシー・ビッシ・シェリーとロンドンで正式に結婚、メアリー・シェリーとなる。
1817 9.2 (20歳)女児を出産。クララと命名。『フランケンシュタイン』はこの子を妊娠しているときに書かれていた。
1818 1. 『フランケンシュタイン』を匿名で出版。怪物に最初に殺される幼児の名はウィリアム。
9.24 (21歳)娘のクララが死亡。
1819 6.7 息子のウィリアムが死亡。
11.12 (22歳)男児を出産。パーシー・フロレンスと命名。メアリーが産んだ子で成人するまで生き延びたのは彼ひとりである。
1822 6.16 (24歳)流産の際に死にかける。
7.8 パーシー・ビッシ・シェリー、乗っていたヨットが転覆して溺死。
1831 10.15 (34歳)『フランケンシュタイン』第三版への序文を書き、その中で『フランケンシュタイン』の成立事情を語る。
1836 4.7 (38歳)父、ウィリアム・ゴドウィンが死亡。
1851 2.1 (54歳)メアリー・シェリー、ロンドンで死亡。
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【引用した資料】

●メアリ・シェリー著、森下弓子訳『フランケンシュタイン』(創元推理文庫、1984年)[原著1831年(初版1818年)]

●内田勝「フランケンシュタインの『花嫁』——博士と怪物、その妻と妊娠」[岐阜大学公開講座配付資料、1995年 ]
https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/frankenstein.html
●小池滋「フランケンシュタイン」『世界の奇書・総解説』(自由国民社、1993年)135-7ページ
●小池滋『ゴシック小説をよむ』(岩波書店、1999年)
●ジョナサン・スウィフト著、中野好夫訳『ガリヴァ旅行記』(新潮文庫、1951年)[原著1726年]
●廣野由美子『批評理論入門——「フランケンシュタイン」解剖講義』(中公新書、2005年)
(c) Masaru Uchida 2005
ファイル公開日: 2005-12-15
ファイル更新日: 2009-4-22(他講義へのリンク追加)
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