平成7年度岐阜大学公開講座「性を見つめる—文化の中の女と男—」(1995年10月21日〜11月18日)配付資料より

 

第1回/後半(10月21日)

フランケンシュタインの「花嫁」──博士と怪物、その妻と妊娠

 

   内田勝(岐阜大学教養部講師・英文学)

 

 ある女性写真家が出産間近の妊婦たちのヌードを撮影した、『臨月』【*1】という写真集があります。ぼくは男でしかも独身なので、妊婦の裸体をつぶさに眺める機会がなかったものですから、妊娠した女性の身体が持つ迫力にただただ圧倒されてしまいました。大きくせり出した腹、その腹に上からのしかかるように突き出た二つの巨大な乳房、その先端の親指ほどもある乳首……。自分の身体がここまで変形してしまうということだけでも、子供を産むということ、新たな生命を創り出すということは、独身男の想像に絶する物凄いことなのだろうと思います。しかしそれと同時に、裸の妊婦たちの笑顔を見ていると、ぼくは自分で自分の子供を産める女性たちがうらやましくもあるのです。

 メアリー・シェリー(1797-1851)の小説『フランケンシュタイン』(1818)の主人公、ヴィクター・フランケンシュタインは、子供を産みたいという欲望にとりつかれた男です。文芸批評家のバーバラ・ジョンソンが言うように、「フランケンシュタインの物語は結局のところ、女性の役割を奪いとり、文字どおりに子どもをこの世に送りだす男の話である」といえるでしょう。【*2】生命の根源を突き止めようと大学で研究に没頭したヴィクターは、ついに命の発生の謎を解き明かし、無生物に生命を吹き込む力を手に入れます。さっそく彼は人間の創造にとりかかりますが、《純然たる機械的工程として完璧にコントロールされた出産》とも言うべきこの作業の結果、できあがった生き物は、材料となる人体の断片を納骨堂の屍体から集めてきたこともあって、ヴィクターの理想とはほど遠く、見れば嫌悪感を抱かずにはいられないほど醜い怪物だったのです。

 「フランケンシュタイン」と聞いてわれわれがすぐに思い浮かべる、四角い頭の、目のくぼんだ、首の両側から電極が突き出している、ほとんど知能を持たない大男というイメージは、ジェイムズ・ホエール監督の映画『フランケンシュタイン』(1931)でボリス・カーロフの演じた怪物によって作られました。シェリーの原作に出てくる怪物は、流暢なフランス語を操り、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』やミルトンの『失楽園』を愛読する知的な人物です。そういったことは、「原作に忠実な映画化」という触れ込みで公開されたケネス・ブラナー監督の『フランケンシュタイン』(1994)でロバート・デ・ニーロが演じた怪物をご覧になった方ならとうにご承知ですね。

 人間と変わらない内面を持ちながら、その容姿が(人間にとっては)あまりに異様であるために迫害され続けた怪物は、ついに人間に絶望し、生みの親であるヴィクター・フランケンシュタインにある要求を突きつけます。

 

「自分はひとりで、そしてみじめだ。人は誰も交わりを持とうとしない。だが自分と同じくらいに醜く恐ろしい生き物なら、自分を拒むことはないだろう。自分の伴侶は自分と同じ種族のもので、同じ欠陥を持たねばならぬ。そういう生き物を創ってもらわなくてはならぬ」【*3】

 

 ヴィクター・フランケンシュタインは、怪物の《花嫁》を創ることを一度は承知しますが、彼を思いとどまらせるのは、女の怪物は子供を産むという恐るべき事実です。「あの悪魔が渇望する共感とやらが最初にもたらす結果のひとつは、子供たちだ。やがては悪魔の一族が地上にふえひろがることになり、人類の存在そのものが恐怖に満ちたあやういものになりかねない」そう言ってヴィクターは、ほとんど完成していた女の身体をずたずたに引き裂いてしまいます。表向きは「人類を危機から救うため」という大義名分があるものの、もともと女性から産む役割を奪い取る欲望にとりつかれている彼にとって、それは《産む女》を葬り去る行為に他ならないといえます。

 《花嫁》を奪われた怪物はヴィクターに対して怒りを爆発させ、「おまえの婚礼の夜に、きっと会いにゆくぞ」と言い残して去って行きます。しかしヴィクター・フランケンシュタインは、自分の《花嫁》となる女性、エリザベスが殺されようとしていることに気がつきません。婚礼の夜に殺されるのは自分だと思いこんでいます。結局彼は妻となったエリザベスを守ることもできず、彼女はあっさりと怪物に殺されてしまいます。一見この辺りの筋立てはいかにも不自然で、この小説の欠陥のように思えるのですが、実はここでも、ヴィクターは《産む女》を葬り去っているのかもしれません。自分の《花嫁》となったことによって、妊娠し子供を産む可能性を持ったエリザベスを、いまや彼の分身ともいうべき怪物に殺させた、と考えることができるのです。

 ケネス・ブラナー監督の映画は、原作に忠実な映画化であることを主張していますが、実際には原作の筋書きに一つ重大な変更を加えています。すなわちこの映画のヴィクターは、死んだエリザベスの首を別の女性の屍体とつなぎ合わせてそこに生命を吹き込み、第二の、しかも女性の怪物を作り上げてしまうのです。

 蘇ったエリザベスは非常に興味深い存在です。彼女はすでに生身の女ではなく、ヴィクターによる《純然たる機械的工程として完璧にコントロールされた出産》を経て生まれた人造人間です。男の願望が刻み込まれた女の人造人間という点で、彼女の存在はもう一つの代表的な人造人間小説『未来のイヴ』【*4】につながり、『フランケンシュタイン』の物語がもともと備えている「独身者の機械」【*5】としての性格をより一層濃厚にします。彼女はヴィクターにとって理想の花嫁になったことでしょう。しかしそれと同時に、ヘレナ・ボナム・カーターが演じるこの怪物の容貌は、ロバート・デ・ニーロが演じる怪物と見事に対をなしていて、彼女はまさに怪物が求めていた伴侶でもあるのです。博士と怪物、二重の意味で「フランケンシュタインの花嫁」となったエリザベス。しかし彼女は両者の期待を裏切り、『未来のイヴ』のアダリーのように炎の中に消えてしまいます。

 メアリー・シェリーの小説に戻りましょう。この作品の成立について特筆すべきことは、この物語が18歳の妊婦によって書かれていたという事実です。のちに彼女の夫となる詩人のパーシー・シェリーは、別の女性の夫でしたが16歳のメアリーと駆け落ちをしました。やがて二人の間には女の子が産まれますが、この子は生後間もなく死んでしまいます。第二子の男の子は順調に育ち、『フランケンシュタイン』を書き始めたころには、メアリーは第三子となる女の子を身ごもっていました。彼女の処女作となる小説を執筆中のメアリーは、乳児の母であると同時に妊婦であったわけです。ヴィクター・フランケンシュタインが自分の創造物を見て激しい嫌悪の念を抱き、逃げ出してしまうのは、分娩後の憂鬱感や新生児に対する母親の拒絶を表していると見る批評家もいます。その他この物語のエピソードの端々に、彼女がかつて体験した、そしてこれから体験する、出産の不安がにじみ出ているといえるのです。

 さらに出産についてのメアリーの原体験は非常に深刻なものでした。彼女の母の女権思想家メアリー・ウルストンクラフト【*6】は、のちにメアリー・シェリーとなる赤ん坊を身ごもったことで、赤ん坊の父親である思想家ウィリアム・ゴドウィンと結婚し、分娩後の出血がもとで出産の10日後に死亡しました。あたかもメアリー自身が、両親の婚礼の夜に現れ、花嫁を殺した怪物であるかのように。

 《産む女》であった母を殺してしまったのではないかという心の傷を抱いて育ち、自身《産む女》であることの不安を感じていた女が産み出した、出産を管理された機械的工程に還元することでそれを女から奪い、《産む女》を抹殺しようとする男の物語──これほどまでにフランケンシュタインの物語は、妊娠そして出産にまつわるさまざまな問題をはらんでいるのです。

 

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【*1】野寺夕子『臨月』(かもがわ出版、1995)

【*2】バーバラ・ジョンソン「わたしの怪物/わたしの自己」『差異の世界』(紀伊國屋書店、1990)所収。

【*3】メアリ・シェリー著、森下弓子訳『フランケンシュタイン』(創元推理文庫、1984)より。今回の講義で使用するこの小説の引用はすべてこの版からのもの。

【*4】ヴィリエ・ド・リラダンの小説(1886)。邦訳は『リラダン全集 第二巻』(東京創元社、1977)所収。絶世の美女だが性格の悪い女を恋したイギリス青年に、発明王エディソンがその女と寸分たがわぬ肉体を持った人造人間アダリーを与えるが、大西洋を渡って輸送する途中で船が火事になり、アダリーは焼けてしまう。

【*5】文芸批評家のミッシェル・カルージュがその著書『独身者の機械──未来のイヴ、さえも……』(邦訳ありな書房、1991)で提唱した、近代の文学・美術などの作品に繰り返し現れるイメージの体系。そこでは異性との関与や交感を欠いた「独身者」によって、性的なものが純然たる機械的工程に還元されてしまう。カルージュはシェリーの小説『フランケンシュタイン』とその1931年の映画版を、ともに「独身者の機械」の例として認めている。

【*6】メアリー・シェリーを産んだ母親(1759-97)。フェミニズムの思想的先駆者とされる。その主著『女性の権利の擁護』(1792)では、結婚を「合法的な売春」と呼ぶなど、男性の支配に服従していた当時の女性の生き方を批判するとともに、男女に平等な教育を与えることで、女性を精神的・経済的に自立させることを説いた。彼女の人生については、フランシス・シャーウッドの小説『紳士たちに挑んだ女──メアリー・ウルストンクラフトの生涯』(新潮社、1995)を参照。


内田勝「フランケンシュタインの『花嫁』──博士と怪物、その妻と妊娠」(1995)〈https://www1.gifu-u.ac.jp/~masaru/uchida/frankenstein.html〉
(c) Masaru Uchida 1995
ファイル公開日: 2004-10-01
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