[ロビンソン・クルーソー] [ガリヴァ旅行記] [トリストラム・シャンディ] [フランケンシュタイン] [自負と偏見]
放送大学岐阜学習センター 平成17年度2学期 面接授業  内田勝(岐阜大学地域科学部)
翻訳で読む18世紀イギリス小説 第5部 (2005年12月11日 13:05-15:20)
オースティンの『自負と偏見』
引用文中の「……」は省略箇所、[ ]内は原文のルビ、【 】内は私の補足です。
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[1]ブリジット・ジョーンズ(レニー・ゼルウィガー)は32歳、出版社勤務、ロンドンのアパートで独り暮らし。今年の元旦もまた、二日酔い、しかも独身のまま目覚めてしまったから機嫌が悪い。夜、実家で開かれた〈新年ターキー・カレー・パーティ〉では、「恋人は?」「結婚は?」と失礼な質問責めにあい、バツイチの弁護士マーク・ダーシー(コリン・ファース)を押しつけられる始末。ちょっぴりハンサムなマークに一瞬惹かれるも彼のダサイ服装やセンスのない会話に幻滅。「やっぱり私は一生独身の運命なんだ・・・」とロンドンに戻ったブリジットは新年の決意を固める。「日記をつけ、体重とお酒とたばこを減らし、すてきな恋人を見つけよう!」。そしてもう1つ、会社の上司ダニエル・クリーヴァー(ヒュー・グラント)への過剰な関心もやめること! 実はブリジットはセクシーな上司ダニエルが気になって仕方がない。 そんな時、司会に抜擢された出版記念パーティーでいいとこなしの彼女にダニエルが 急接近し、パーティーを抜け出そうという。突然のチャンス到来に戸惑いつつも、2人は食事の後、彼の部屋へ・・・。やったぁ! 恋人ができた! 週末旅行に出かけた先で2人はマークとその同僚 ナターシャに鉢合わせするも恋する女、ブリジットは幸せ気分一杯だ。 しかし、そんな幸せも束の間、ダニエルにアメリカ人の婚約者がいることが わかる。やっとつかんだと思った、幸せはスルリと指の間をぬけ、イッキに奈落の底へ。傷ついたブリジットはテレビリポーターの 職を得て、彼に辞表を叩きつけた・・・新しい職場で失敗しながらも 頑張る彼女に、マークとの再会が訪れた。33歳の誕生日を目前にひかえ、 仕事に恋に大揺れのブリジット、いつになったら落ち着けられるの?!
(映画『ブリジット・ジョーンズの日記』[2001年]公式サイト[http://www.uipjapan.com/bridgetjones/]より、ストーリー紹介[改行を省略])

【映画の原作であるヘレン・フィールディングの小説『ブリジット・ジョーンズの日記』(1996年)は、オースティンの『自負と偏見』(というかそのドラマ化)を「元ネタ」にして書かれたという。玉の輿に乗る事を夢見つつ、二人の対照的な男の間で揺れ動く女性を描いた物語は、どんなふうに『自負と偏見』に似ているのだろうか?】

[2]オースティン Jane Austen [1775-1817] イギリスの女流小説家。12月16日、ハンプシャーの小村スティーブントンに牧師の娘として生まれ、文学好きの家庭の雰囲気にはぐくまれ、少女時代からS・リチャードソン風の書簡体小説や風刺的なパロディーを試みていたが、しだいに本格的な小説を書くに至った。1801年に父の隠退とともにバースに移り、さらに父の死後、母姉とともにサウサンプトンに移った。その間二、三の断片的な作品を除いてあまり創作はしなかったが、09年故郷に近いチョートンへ移ってからふたたび創作活動に専念した。まず以前の原稿に手を加えて、11年に『分別と多感』を、ついで13年には若いころ『初印象』の題で想を練っていたらしい小説に手を加えて『自負と偏見』を出版した。以後14年には『マンスフィールド・パーク』、15年には『エマ』が出版され、油ののった創作活動がなされた。しかし翌16年より健康の衰えがみられ、17年5月にはウィンチェスターへ行き病気治療に専念したが、同年7月18日、生涯独身のまま同地で没した。翌年遺作『説きふせられて』と、初期の作で出版の機会がなかった『ノーザンガー寺院』が同時に出版された。
 彼女の小説は18世紀の多感な(女)主人公の苦悩を扱った小説やゴシック小説などに対する批判から出発して、そうした小説に多い、型にはまった筋書きや人物と意識的に異なったものとなっている。彼女の作品では、田舎[いなか]の数家族を中心とした上・中流の男女の恋愛と結婚の物語を通じて、やがて女主人公が多くの間違いから目覚めていく過程が中心となっている。……。(榎本太「オースティン」『日本大百科全書』[小学館、有料サイト『ジャパンナレッジ』(http://www.japanknowledge.com/)より])

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【『自負と偏見』の前に、オースティンの初期の作品『ノーサンガー・アベイ』(1798年執筆)について】

[3]ジェイン・オースティンは十八世紀の終わりから十九世紀の初めにかけて生きた人でありまして、『ノーサンガー・アベイ』というのは一八一八年、死んだあとに出版されました。しかし、書かれたのはもっと前……ほんとに十八世紀の世紀末に書かれたものであろうと推定されます。そうすると、まさにゴシック小説の黄金時代です。
 どういう小説かというと、ゴシック小説の完全なパロディーなんです。主人公キャサリンという若い女の子が、当時の女の子のつねとして、ゴシックにすごくイカれている。当時の良家のお嬢さんはみんなそうでしたが、寄宿舎制の女学校の生徒で、夏休みに友達の家に誘われて、ひと夏滞在するんです。その友達の住んでいるお屋敷が「ノーサンガー・アベイ」という、まさに中世の修道院の廃墟みたいな名前で、彼女はわくわくして、うれしくてしょうがない。自分の好きなゴシック小説を、本当に体験できるのではなかろうかと。
 ゴシック小説の色眼鏡で見ると、周りの人がみんなうさん臭くみえるんです。親父は暴君で、どこか地下牢にだれかを監禁しているんじゃなかろうか。ひょっとしたら、私はあの親父に襲われるんじゃないかしら。ゴシックの病気にとっぷりつかった女の子ですから、見るもの、聞くもの、みんなゴシック的に見えてくる。
 ところが実際には、なんのことはない、ごく当たり前の家だった。たしかに家だけは昔の修道院を改造した家だったかもしれませんが、そこに住んでいる人間は、まったくふつうの日常的な、常識的な人間で、そこの親父も、見たところはたしかにちょっといかつい、悪党面[づら]をしているけれども、なんでもないふつうの人間であるし、ましてや彼女が処女を奪われることもない。このように、ゴシックという病気にかかって、なんでもかんでもゴシックの眼で見ようとする女の子が全部裏切られて、結局、人生は平凡でしかないという悟りに達します。
 ジェイン・オースティンとはそういう作家なので、ゴシックのような、情念過多の小説に対して、はっきりだめだという審判を下した人なんです。小説というのは、そういうものであってはいけないのだ、もっと良識の産物でなきゃいけない、というのがオースティンの考え方であり、彼女のほかの小説を読んでも、はっきりそれが読み取れるわけです。(小池『ゴシック小説をよむ』pp.181-2)

[4]【『ノーサンガー・アベイ』の冒頭。薄幸の美女が悪漢に迫害される、というゴシック小説の紋切型を逆手に取って、正反対のヒロインを設定している。】
キャサリン・モーランドを子供時代に見かけたことのある人なら、誰も彼女がヒロインになるために生まれた人だなどとは思わなかっただろう。彼女の身の上、両親の人となり、彼女自身の容姿、気質、どの点を取ってみても、これは無理な話だった。父親は牧師だったが、【ゴシック小説の登場人物によくあるように】世間から見放されているわけでも、貧乏でもなく、非常に立派な人物であった。……それに、娘を幽閉する趣味などは持ち合わせていなかった。彼女の母親というのは、実用的な常識を備えた女性で……誰でも期待するように、キャサリンをこの世に送り出すときに死んでしまう代わりに……生き続けてさらに六人の子供をもうけ——その成長を見守り、自身もおおいに健康に恵まれた。(オースティン『ノーサンガー・アベイ』p.8)

[5]【主人公キャサリンは、知人のティルニー家の古風な邸宅「ノーサンガー・アベイ」に招かれるが、当主ティルニー将軍の行動にあらぬ疑いをかけてしまう。】
だが、いくら仕事があると言い張ろうと……キャサリンはどうしても、将軍が充分な睡眠をとるのを大幅に遅らせるのはまったく別の目的のためだろうと、考えてしまうのだった。……。家のものが寝静まっているときでないとできないようなことが、行われるに違いない。ティルニー夫人がまだ生きていて、何かわからない理由で幽閉されており、無慈悲な夫の手から夜ごとの粗末な食事の配給を受けるのだという可能性が、当然の帰結として考えられた。(同書、p.206)

[6]【平凡な真相を知って、自分の早とちりを反省し、しょげるキャサリン。】
彼女は今なお、根拠のない恐怖にとらわれて自分が感じたり、やったりしたことばかり考えていたが、少しすると、それはすべて自分から招き、自ら生み出した幻想にすぎないこと、ちょっとした状況の一つ一つが、驚こうと決意した想像力のせいで重みを増してしまったことがはっきりと分かってきた。すべては、恐怖を味わいたい一心であったために、彼女がアベイ【ティルニー家の屋敷】に足を踏み入れる前から、その目的に向かって曲げられてしまっていたのだ。……すべては彼女がバースで読み耽っていた【ゴシック小説の】本の影響にまで、たどれるように思われた。(同書、p.218)

【この授業で取り上げた小説はどれも、「他者についての勝手な思い込みは、人迷惑で馬鹿馬鹿しい」という主題を、直接的または間接的に持っている。『ノーサンガー・アベイ』で思い込みの滑稽さを笑ったオースティンは、『自負と偏見』でも(タイトルからして見え見えだが)、他者への勝手な偏見が巻き起こす騒動を喜劇的に描いている。】

【「高慢」と「偏見」を笑う、あるいは弾劾する、というのは、今回の授業全体のテーマと言えるかもしれない。】

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[7]【『自負と偏見』の「あらすじ」】
【ハートフォードシャー(ロンドンのすぐ北にある州)に住む】5人の年頃の娘をかかえたベネット(Bennet)夫人は、近くに青年資産家ビングリーが越して来ると聞き、娘婿の候補到来とばかり期待に胸をはずませる。気立ての優しい長女ジェインは、母親の思惑どおり彼と恋仲になるが、才気煥発な次女エリザベス(Elizabeth)は、彼の親友ダーシー(Darcy)に舞踏会の席で軽んじられ、由緒正しいペンバリー館の若当主に反感を抱いた。
 ベネット氏の財産相続人コリンズ(Collins)がエリザベスに求婚し、彼女はその恩着せがましい申し出を断る。そして、懇意になった士官ウィカム(Wickham)からダーシーの高慢で嫉妬深い性格を聞くと彼女はますますダーシーに対する反感を強めていった。姉ジェインと相思相愛の仲と思われたビングリーが、突然ロンドンへ帰ってしまった時も、彼女はダーシーが2人の仲を引き離したと考えるのだ。
 親友シャーロットがやがてコリンズと結婚し、新婚家庭を訪れたエリザベスはここで再びダーシーと出会う。彼はエリザベスの自由闊達さや、生き生きした黒い瞳に魅了され、2人の家柄の違いを承知の上で、と前置きして彼女に求婚する。その尊大さに怒りを爆発させたエリザベスは、にべもなく彼の申し出を断った。
 だが、翌朝、彼女は自分が好意を抱くウィカムが実は不埒な放蕩者だと知って、愕然とする。この時初めて、彼女は自分が美男子のウィカムに優しくされて有頂天になり、ダーシーに初対面の舞踏会で自尊心を傷付けられて憤慨し、2人に対し無知と偏見の虜になっていた自分に気付いたのだった。
 エリザベスはその後叔父夫婦とダービシャを旅し、立ち寄ったペンバリー荘園の美しいたたずまいや、一行を丁重にもてなすダーシーの優しい心遣いに感動する。その直後、妹リディアがウィカムと駆落ちし、ベネット一家は醜聞に巻き込まれるが、エリザベスはダーシーが事件を収拾し家族を窮地から救ってくれたと聞いて、改めて彼の愛情の深さを知るのだった。別離に耐えたジェインとビングリー、次第に相手の美質を理解するにいたったエリザベスとダーシー、2組はやがて周囲の祝福を受けめでたく結婚する。(中村ほか編『たのしく読めるイギリス文学』p.78)

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[8]【『自負と偏見』の冒頭。】
 独りもので、金があるといえば、あとはきっと細君をほしがっているにちがいない、というのが、世間一般のいわば公認真理といってもよい。
 はじめて近所へ引越してきたばかりで、かんじんの男の気持や考えは、まるっきりわからなくとも、この真理だけは、近所近辺どこの家でも、ちゃんときまった事実のようになっていて、いずれは当然、家[うち]のどの娘かのものになるものと、決めてかかっているのである。(オースティン『自負と偏見』p.5)

[9]……「必ずや妻を必要としているに違いない」と云うのは「是非とも妻を必要としていてもらいたい」と云うことなのである。勿論その背後には「独身であまり財産のない娘はどうしても財産のある夫を掴[つかま]える必要がある」と云う苦い現実がある。「世に遍く認められた」と云う云い方にも作者の皮肉な眼が光っていて、実はこの「真理」、淑女が結婚出来ずに暮しのために働かなければならないようなことにでもなれば、それは身を落とすことになるのだと云う通念の行渡った、狭い紳士階級とその周辺にのみ通用する真理なので、世の大部分を占める庶民階級にはおよそ無縁な真理なのである。それにしてもこの書出しは見事なものである。結婚喜劇と云う全篇の主題を簡潔に呈示するとともに、機智と皮肉に富んだ全篇の色調をも巧みに暗示しているからである。(大島『ジェイン・オースティン』p.173)

[10]【上で引用した冒頭の文章のすぐ後にくる、ベネット夫妻の会話。夏目漱石に倣って長く引用する。】
「ねえ、あなた、お聞きになって?」と、ある日ミセス・ベネットが切り出した。「とうとうネザフィールド・パークのお邸[やしき]に、借り手がついたそうですってね」
 さあ、聞かないがね、とミスター・ベネットは答える。
「いいえ、そうなんですのよ。だって、今もロングさんの奥様がいらして、すっかりそんなふうなお話でしたもの」
 ミスター・ベネットは答えない。
「あなたったら、借り手が誰だか、お聞きになりたくないんですの?」奥様のほうは、じりじりしてきて、声が高くなる。
「お前のほうこそ話したいんだろう? むろん聞く分には少しも異存はないがね」
 待ってました、というところだ。
「ねえ、あなた、その借り手というのがね、ロングさんの奥様の話なんだけど、まだ若くて、えらいお金持だっていうんですのよ。なんでも北イングランドの方ですって。月曜日に、四頭立の馬車[シェイズ]で下見に見えたんだそうですけど、たいへんなお気に入りようで、さっそくモリスさんとの話を決めちまって、ミカエル祭【9月22日】までには引き移ってくるんだそうですって。それに召使たちは、もう来週中にも移ってくるような話なんですのよ」
「名前は?」
「ビングリーさんとか」
「世帯持ちなんかね、それとも独りもの?」
「まあ! もちろん独りもんですわよ。独りもので、大金持で、なんでも年四、五千ポンドだかの収入はあるとか。素敵じゃありません? 家[うち]の娘たちのことを考えても」
「そりゃまた、どうしてだね? 家の娘とどんな関係がある?」
「まあ、じれったいたら。あなたって人は、どうしてそうなんでしょうねえ。よござんすか、わたしはね、もしかして家の娘のだれかと結婚するようなことにでもなればと、そのことを考えてるんじゃありませんか」
「そんなつもりで、引越してくるのかい?」
「つもりですって! バカバカしい、よくもそんなことがおっしゃられますわねえ。でも、どうかした拍子で、家の娘と恋に落ちるということだって、結構考えられますわよ。だからね、あなた、引越して見えたら、さっそく挨拶[あいさつ]に行っていただきたいの」
「そんな必要ないねえ。それよりか娘たちを連れて、お前が行きゃいいじゃないか。それとも娘たちだけでやるか。そのほうが、もっといいかもしれない。というのはね、娘たちよりは、お前のほうがきれいかもしれないからな。万一先方でさ、お前がいちばん気に入ったなんてことになると困る」
「おやおや、ご馳走[ちそう]さまですこと。そりゃわたしだって、ねえ、あなた、昔はこれでも十人並くらいの自信はありましたわよ。でも、いくらなんでも、もう今じゃねえ。女も、大きな娘の五人もあるようになっちゃ、もう顔のことなんぞ考えてる暇ありませんものねえ」
「そりゃもう考えるもなにも、かんじんの顔のほうがいっちまってるからな」
「でもね、あなた、とにかくビングリーさんが見えたら、さっそく行ってみてくださらなくちゃ」
「そいつは、どうも約束しかねるね」
「だって、あなた、娘たちのことなんですのよ。どの娘[こ]がそうなるにせよ、それこそ願ってもない話なんですもの、それくらいのこと考えてくださらなくちゃ。ルーカスさんのお邸でも、ご夫婦お揃[そろ]いでお出かけになるつもりなんですって。もちろん理由[わけ]は、ただそのためよ。だって、ほら、新しく引越してきた人があるからって、あの人たち、決して訪ねて行ったりする人じゃないんですもの。とにかく行ってくださいますわねえ、あなた。だって、そうしてくださらなくちゃ、わたしたちだって、行けないじゃありませんの」
「これはまたバカにやかましいんだね。なに、ビングリー君のほうじゃ、喜んで迎えてくれるにきまってるさ。なんなら一筆書いて、お前にことづけようか、どの娘[こ]なりと、どうか選[よ]り取り見取り、喜んで差し上げます、とでも書いてな。もっともリジー【=エリザベス】だけは、とくに一言推奨しておかなくちゃなるまいが」
「そんなことしていただいちゃ、困りますわ。リジーなんて、ほかの娘と比べて、ちっともいいとこないじゃありませんの。器量からいや、ジェーンのほうがよっぽど上だし、気立てからいや、リディアのほうが、これもよっぽど朗らかですわよ。だのに、あなたったら、なにかというと、きっとあの娘[こ]のひいきをなさる」
「だって、ほかの奴[やつ]らときたら、どうだ、いずれを見ても山家[やまが]育ち。バカで、無学で、そんじょそこいらの娘たちと、どこに選ぶところがある? そこへゆくと、リジーの奴は、ほかの連中よりは、たしかに頭のいいところがある」
「あなた、よくもそんなふうに、自分の子どもの悪口が言えますのねえ! いいえ、あなたって方は、わたしをいじめては面白がっていらっしゃるのよ。わたしのこの苦労性に対しても、あなたって人は、まるで同情がおありにならないのねえ」
「そりゃ迷惑な誤解だよ。お前の苦労性に対しては、満腔[まんこう]の尊敬を払っている。なにしろもう長いお馴染[なじ]みだからな。そうだ、わたしは少なくとも二十年間、なにかといえば苦労性、苦労性と、まるで腫[は]れものにでもさわるみたいな言い方を聞かされてきたんだからね」
「いいえ、あなたって方は、わたしのこの苦しみがちっともおわかりにならないのよ」
「なに、今に快[よ]くなるさ、そして大いに長生きしてさ、これからも年収四千ポンドの青年諸君が、わんさと近所へ引越してくるのを見ることだねえ」
「いくらきたって、なんにもなりゃしませんわよ。いくら言っても、訪ねて行ってくださらないんですもの」
「なに、大丈夫だよ、そんなにうんとくりゃ、わたしは一人のこらず訪ねて行ってやる」
(オースティン『自負と偏見』pp.5-9)

[11]Jane Austen【ジェイン・オースティン】 は写実の泰斗【たいと(=名人)】なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る【ぎ、しんにいる】の点に於て、優に鬚眉【しゅび(=ひげを生やした男)】の大家を凌ぐ。余云ふ。Austen を賞翫する能はざるものは遂に写実の妙味を解し能はざるものなりと。例を挙げて之を証せん。【ここで『自負と偏見』の冒頭にあるベネット夫妻の会話(上の引用箇所)を長々と引用】……Austen の描く所は単に平凡なる夫婦の無意義なる会話にあらず。興味なき活社会【(=現実社会)】の断片を眼前に髣髴せしむるを以て能事を畢る【のうじをおわる(=事足れりとする)】ものにあらず。此一節のうちに夫婦の性格の躍然として飛動せるは文学を解するものゝ否定する能はざる所なるべし。夫の鷹揚にして婦【つま】の小心なる。夫の無頓着にして婦の神経質なる。夫の和諧【わかい(=穏やかさ)】の範を超えずして、しかも揶揄【やゆ(=からかい)】の戯を禁じ得ざる、婦の児女【むすめ】の将来を思ふて咫尺【しせき(=貴人に拝謁すること)】の謀【はかりごと】に余念なき——悉く筆端に個々の生命を託するに似たり。……。即ち此一節は夫婦の全生涯を一幅のうちに縮写し得たるの点に於て尤も意味深きものなり。(夏目『文学論』pp.453-9)

[12]【ベネット家の娘たちは、舞踏会に現われたビングリーと仲間たちに出会う。】
ミスター・ビングリーは、なるほど好男子で、りっぱな紳士だった。明るい顔、くつろいで、気取りのない態度、それに姉妹というのが、また美人で、一分と隙[すき]のない服装[みなり]をしている。……友人だというミスター・ダーシーにいたっては、背の高い見事な骨柄[こつがら]、ととのった眼鼻立[めはなだ]ち、上品な物腰、おまけに彼が入ってきて、ものの五分とたたないうちに会場全体に広まってしまった、なんでも年収一万ポンドはある金持だという噂が、たちまち満座の注意を彼ひとりに集めてしまった。男たちは、じつにいい男ぶりだというし、女たちは女たちで、ミスター・ビングリー以上だと噂する。そんなわけで、その晩も半ばごろまでは、すっかり感嘆の眼で見られていたのだが、そのうちに、彼の態度は妙に反感をそそるということで、人気の風向きはすっかり変ってしまった。理由は、お高くとまって、一座のみんなを見下している。面白そうな顔もしない、というのである。しかもそうなると、もはやダービシャーに持っているという広大な土地も、なんていけ好かない面[つら]つきだとか、ミスター・ビングリーに比べては、物の数ではないだとかいう非難悪評から、彼を救う力はまったくなかった。(オースティン『自負と偏見』p.16)

[13]【舞踏会でエリザベスは、ビングリーとダーシーが自分について話しているのを聞いてしまう。】
【ビングリーが言った。】「お世辞じゃない、僕は今夜ほど愉快なお嬢さん方にたくさん会ったことはない。ほら、ずいぶんすばらしい美人だっているじゃないか」
「ところがだよ、中でたったひとり美人だと思うのは、君自身が相手をしてるじゃないか」とミスター・ダーシーは、【ベネット家の】長女のジェーンのほうを見ながら言った。
「そうさ、僕もあんなきれいなお嬢さんには会ったことがない。だけど、まだその妹がひとり、君のすぐうしろにいるじゃないか。どうして美人だし、気心もとてもよさそうだぜ。僕の相手のあのジェーンさんに言って、紹介してもらってやろうか?」
「どれだね、いったい?」とミスター・ダーシーは振り向いて、ちょっとエリザベスを見たが、視線がぶつかると、つと眼をそらせて冷やかに言った。「まあ相当じゃあるねえ。だが、とても心を動かされるほどのもんじゃない。おまけに、ほかの男から無視されているような女に、いまさら僕が箔[はく]をつけてやる気は、いまのところないねえ」(同書、p.18)

[14]【舞踏会の後、ジェーンとエリザベスはビングリーの印象を語り合う。】
 ジェーンとエリザベスは、二人になると、これまでビングリーの噂が出ても、控え目であまりほめなかったジェーンが、にわかにとてもすばらしい方だというようなことを、妹に向って言い出した。
「理想の青年っていうのかしら。頭がよくて、朗らかで、生き生きしてて、それにあの態度物腰ったらないわねえ! ちっとも気がおけなくって、それでいて、ちゃんと隙[すき]のない育ちのよさってものは、身についているのねえ!」
「それに第一、いい男よ」とエリザベスが相槌[あいづち]を打つ。「若い男の人って、できることなら、あああってほしいわ。それではじめて完璧な紳士といえるんだもの。……。だから、お姉様、好きになってもいいわよ、許してあげる。お姉様ったら、今までもっともっとくだらない人ばかり、好きになるんだもの」
「まあ、ひどいわ!」
「だって、お姉様、お姉様って方は、すぐ誰でも好きになる性質なのよ。……。お姉様みたいに頭がよくて、それでいてどうして他人の欠点だとか、バカさかげんだとかいったものが、そんなにからっきしわからないんだろうなあ! ……他人のいいところだけ見るばかりか、しかも実際以上に見てやってさ、悪いとこのほうはいっさい口にしないなんて——こればっかりはお姉様のお家芸だわ。だから、お姉様は、あの【ビングリーさんの】姉妹だとかいったあの人たちも、きっと好きなのねえ」(同書、pp.21-3)

【エリザベスはビングリーの姉妹たちの高慢さを見抜いている。】

[15]「……わたしはね」とミス・ルーカス【エリザベスの年上の親友シャーロット・ルーカス】が応じた。「あの人【ダーシー】の高慢ちきが、ほかの人の場合ほど腹が立たないのよ。だって、結構理由[わけ]があるんですもの。あれだけりっぱな青年で、その上、家柄[いえがら]、財産、そのほかなにもかもいいことずくめというんじゃ、得意になるのも当り前じゃありません? 妙な言い方かもしれませんけど、いわば高慢になる権利があるんですもの」(同書、p.30)

[16]【ジェーンやエリザベスの妹メアリーが、自負心(pride, プライド)について語る。】
「そもそも自負心なんてものはね……人間誰でもの弱点なんだと思うわ。……すぐ得意になるのが、人間生まれつきなのよ。あること、ないこと、なにかきっと自分に偉いところがあるような気がして、すっかりいい気持になるのねえ。そうでない人なんて、まあほとんどいないと思うわ」(同書、p.31)

[17]【エリザベスの親友シャーロット、独自の結婚観を語る。】
「ビングリーさんは、もちろんあなたのお姉様が好きなのよ。でも、やっぱりお姉様のほうからなんとかなさらなくちゃ、向うでもこのまま、好きというだけで、終ってしまうおそれだってあるわよ。……お姉様としちゃ、たとえ三十分間の時間でもうまく利用して、少しでもあの人の注意をひくようにしなきゃ嘘[うそ]よ。とにかく相手の心をつかんでしまうのよ。……結局幸福のチャンスなんてものは、一年かかって相手の人間を研究してみたところで、同じことなんじゃないかしら。結婚生活の幸福なんて、まったくの運次第だわ。どんなにお互い知り合っていたところで、またどれだけ結婚前に気が合っていたところで、それだけで幸福が増すわけじゃ、ちっともないんですもの。たいていの場合が、結婚したあと、どんどん性格ちがいの人間になっていって、気まずい思いばかりしてるんじゃないの。そう思えば、むしろ一生いっしょに暮らそうという人の欠点など、できるだけ知らないでいるほうがいいのよ」(同書、pp.33-5)

[18]【ダーシーは次第にエリザベスに惹かれていく。】
批評的な目で見ると、たしかに彼女の容姿には、完全な均整を欠く欠点がいくつかある。だが、それにしても、全体として容姿の軽快さは認めざるをえない。またその作法は、とうてい上流階級のそれではないと言ってみても、さてそのいたずらぽくって、屈託のない様子を見ると、なんとなく心惹[ひ]かれざるをえないのだった。そんなことは彼女自身は一向に気づいていないらしい。彼女にとっては、彼はただどこへ行っても人好きのしない男、そして自分のことを、踊りの相手とするにも足りないほどの不美人と見てくれた、ただそれだけの男だった。(同書、p.36)

[19]【ベネット氏の甥で限定相続指定人のコリンズ牧師から、一度訪問したいという手紙が届く。】
「……差出人というのは、ミスター・コリンズといって、わたしの甥[おい]、つまり、もしわたしが死んだら、この男が、いつでも好きなときに、お前たちをこの家から追い出すことができる、というわけなんだな」
「まあ、なんですって!」と奥様が頓狂[とんきょう]な声をあげた。「そんな話、わたし、聞く耳持たないわ。
……あなたの財産の相続権がですよ、娘以外の人間に限定されるなんて、いったいそんなひどい話があるものかしら。もしわたしがあなたでしたらばね、もっととっくの昔に、なんとか早く手を打ってたと思いますわ」
 ジェーンとエリザベスは、しきりに限定相続というものの性質を、母親に説明した。いや、これまでにも何度か、やり出したことはあるのだが、これがまたこの母親の頭では、ついにわかる問題ではなかった。(同書、pp.98-9)

[20]……ジェイン・オースティンも心得ていたように、限定相続とは決定的に重要なものだったのだ。
 十九世紀イギリスの富と地位と権力の基盤は、それまで何世紀にもわたってそうであったように、基本的には土地であった。そしてイギリス人の生活を支配する土地所有大家族にとって最大の関心事は、その広大な所有地を無傷のまま次々と子孫に伝えていくことにより、彼らの影響力と富を長年にわたって維持し続けることであった。実をいうと、これを実行する方法はすでに見出されており、それには二つの要素があった。一つは長子相続権というもので、これは、それぞれの世代における土地が、すべての子に分割して与えられるのではなく、長男だけにまるごと与えられることを意味する。もう一つが限定相続である。なぜそういうことをするかというと、彼が死亡したとき、今度は彼の長男が不動産を無傷のまま相続することを保証し、その不動産が抵当に入れられたり、分割されたり、たとえば父親が売却したために——そんなことがあってはたまらないが——全く手に入らなかったりするのを防ぐためである。……。限定相続に含まれる諸制限……は、所有地を固定し、相続人が土地を売ったり抵当に入れたりせずに、そこから上がる収入だけを受け取るようにするための手段であった。……【長男が相続した土地の】使用は彼の存命中だけに限られ、所有地に関する彼の権利は制限……されたのである。(プール『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう』pp.125-7)

【親の土地は長男だけが相続する。土地を相続した長男は、その土地が生み出す収入を得ることはできるが、その土地を売ったり借金の抵当に入れることはできない。】

[21]この仕組み【長子相続・限定相続】に関しては、あと一つだけ物理的な——しかし重大な——問題が残る。それは、子供がすべて女だったらどうなるかという問題である。これはまさに『自負と偏見』の気の毒なミスター・ベネットが抱えていた問題であったことが思い出される。……女の子が財産を相続すると、【その子が結婚するか、結婚せずに死んだ時点で】家名は消滅してしまう。このような場合どうすればよいのだろうか。その答えとしてしばしば取られた手段は、財産相続を限定する証書や遺言書のなかで、男の子を持った別の傍系家族に横滑り的に譲渡することを明記することである。(同書、pp.128-9)

[22]長男がすべてを相続することが裕福な者たちの一般的ルールとなっているような社会では、男と女がほぼ同じ割合で生れてくる……とすると、相対的に少数の長男をものにしようとして、娘たち——あるいはその母親たち——のあいだですさまじい争奪戦が繰り広げられたことだろう。……その反面、次男以下の息子は誰からも望まれなかった。自分もその一人であるフィッツウィリアム大佐【ダーシーのいとこ】は、『自負と偏見』のなかで、「次男以下の男は思うように結婚できないものですよ」とエリザベス・ベネットに語っている。(同書、pp.131-2)

[23]……ジェイン・オースティンの男の作中人物に牧師と軍人が多いのも、この時代のこの階級の慣習の可なり忠実な反映と云える。当時、地主階級の次男、三男は英国国教会の牧師か陸軍または海軍の軍人になるのが一般的だったからである。(大島『ジェイン・オースティン』p.43)

[24]この時代のこの階級では、女性が生活のために働くことははしたないことと考えられていた。精精許される職業は、知的な職業と云うことで住込みの女家庭教師ぐらいであったが、概して待遇はよくなかった。土地財産は長子相続制であり、娘達は親の収入に応じた動産が貰えるだけであったから、将来の生活を安定させようと思えば、少しでも条件のいい紳士と結婚することをどうしても考えざるを得なかった。そして結婚し損ねた女性は老嬢として動産の利子で細ぼそと生きざるを得なかった。このような社会的条件が判ってみると、ジェイン・オースティンの作品世界で繰展[くりひろ]げられる結婚喜劇も、なかなかどうして深刻な側面のあることが判ってくる。よく結婚で終る作品は素朴に過ぎる、真のドラマは結婚から始ると云うようなことが云われるが、ジェイン・オースティンの場合、そう簡単に素朴とのみは云い切れないのである。これは譬[たと]えて云えば、今日の日本の子女の多くが、受験地獄がどうの学歴社会がこうのと云われながらも、少しでも将来の生活に有利な大学に入ろうとするのと同じことなので、『自負と偏見』で娘達の尻を叩くベネット夫人は、今日の日本へ持って来れば、まさに「教育ママ」もいいところなのである。(同書、pp.42-3)

【『自負と偏見』の女たちは、将来の安定した生活を確保するため、地主階級内のかなり明確に定められたルールに従って、できる限り条件のいい男を捕まえるために、日々奮闘努力しているのだ。】

[25]【コリンズ牧師は、裕福なパトロンのおかげで】いまではりっぱな家もでき、収入もたっぷり入るので、こんどは結婚のことを考えだした。こんどロンボーン【ベネット家のこと】へ和解を申し入れたについても、狙いはもちろん結婚にあった。もし世評通りの美人で、かわいい娘だったら、さっそくその一人を、妻に選ぼうという魂胆だった。限定相続に対して、その補償——あるいは罪亡[つみほろぼ]し——をしたいなどと言いだしたのも、わけはといえば、それだった。しかも当人としては、大得意だった。釣合[つりあ]いからいっても満点であり、また彼のほうからいえば、無私無欲、まことに高潔な処置であるはずだ、というのである。(オースティン『自負と偏見』p.112)

[26]【ベネット家の娘たちは、知り合いの義勇軍の将校から、友人の新任将校ウィカムを紹介される。】
……【ウィカムは】これで軍服さえ着せれば、申し分のないいい男と言いたいほどの青年紳士だった。第一、男ぶりがよかった。りっぱな顔形といい、すばらしい容姿といい、それにまことに感じのよい応対ぶりまで加わって、言ってみれば美男の最大条件は、すべて具[そな]えていると言ってよかった。……そのときふと馬の蹄[ひづめ]の音がするので、気がついてみると、ダーシーとビングリーが、馬に騎[の]ってやってくる。……。が、そのときだった、突然、【ダーシーが】例の未知の紳士【ウィカム】の姿を見ると……二人とも、さっと顔色が変り、一人はまっ青に、一人はまっ赤に、なってしまったのである。一瞬たって、ミスター・ウィカムは、かるく帽子に手をかけるし——ダーシーも、ほんのちょっとだけ会釈をかえした。いったい、どうしたというのだろう? どう考えてもわからなかったが、同時に、なんとか知りたい好奇心も、いっぱいだった。(同書、pp.115-6)

【やがてウィカムはエリザベスに、自分はダーシーの父にかわいがられ、教区牧師の地位を用意してもらうはずだったが、息子のダーシー(フィッツウィリアム・ダーシー)の妨害でその望みを断たれてしまった、と語る。】

[27]「でも、いったいどういうわけだったんでしょうねえ?」と、ちょっと間をおいてから、彼女は言う。「ほんとうに、どうしてそんなひどいことをする気持になったんでしょうかしら?」
「つまりね、腹の底から、徹底的に僕をきらってるからでしょうね——もっともそれは、いくぶん嫉妬[しっと]から出ている点もありますがね。もしあの父親のダーシーさんがですよ。あんなに僕をかわいがらなかったら、ダーシー君だって、今まで僕を憎まなかったかもしれませんからねえ。ところが、なにしろ僕は、度はずれにかわいがられた。そんなわけで、彼としては、きっと子どものときから、心平らかならぬものはあったわけでしょうね」(同書、p.128)

[28]【コリンズ牧師はエリザベスに求婚するが、エリザベスは直ちに断る。しかし彼は本気にしない。】
「いや、僕としては、こう考えたいんですねえ。つまり、あなたのお断りというのは、もちろんただ言葉の上だけにすぎない、というふうにね。そう考えます理由というのは、一言で申せばこうなんです——第一に、あなたの結婚相手としてですね、僕がそう不足な人間だとは、ちょっと考えられないということ、第二には、僕の申し上げています家庭生活の条件、これまたそうひどいご不満を買うものだとは、とうてい考えられないのですがねえ。僕の場合、社会的地位からいっても、ディ・バーグ家【コリンズのパトロンでダーシーの叔母、キャサリン・ディ・バーグ夫人】との関係からいっても、そしてまたお宅との関係からいってもですね、すべて僕にとっては、まことに有利なように思えるんですがねえ。その上またとくに考えていただきたいことはですね、なるほどあなたは、ずいぶんいろいろと魅力をもっておいでになると、だが、それにしてもですよ、今後もう二度と、こういう結婚の申込みをお受けになることが、果たしてあるかどうか。まずは決してあるまいということなんですね。残念ながら、あなたの財産分け前はしれたもんでしょうし、おかげであなたの器量も愛敬[あいきょう]も、おそらくは台なしというところでしょうね。それだけに、あなたがいやだとおっしゃるのは、決して本気であるはずがない、と考えざるをえない。したがって、それは、よくしゃれたお嬢様方のおやりになる手ですがね、要するに僕を生殺[なまごろ]しにしておいて、できるだけ僕の恋心をつのらせようというおつもりなんでしょう。そうとしか思えないじゃありませんか」(同書、pp.174-5)

[29]【エリザベスがコリンズの求婚を断ったことにベネット夫人は驚愕し、夫に娘を説得するよう頼む。】
「……お母さんは、お前に、なんでもかでもこの話にはハイと言えと、そう言うんだね。どうだ、お母さん、その通りまちがいないかね?」
「そうですとも。いやだなどと言うなら、わたし、もう二度とこんな娘[こ]の顔を見るのもご免ですわ」
「これは、どうも困ったことになったわけだな、エリザベス。きょうからというもの、お前は両親のどちらかと、親子の縁を切らなきゃならないわけだからな。お母さんは、お前があのコリンズと結婚しなければ、もう二度とお前の顔を見るのもいやだというし、わたしはわたしで、お前がもしあんな男と結婚するようなら、こんどはこのわたしがね、もう二度とお前の顔なんか見るもんかと思っているのだから」(同書、pp.179-80)

[30]【コリンズは直ちにエリザベスの親友シャーロットに求婚する。シャーロットは言わば〈地主階級の結婚市場〉における自らの〈市場価値〉を検討して、結婚に同意する。】
ミスター・コリンズは、どうせ頭のよい男でもなければ、感じのいい人間でもない。いっしょにいても、じつに退屈だし、彼女への愛情などといっても、それはただ頭の中だけのものに違いない。だが、それにしても夫は夫だ。相手の人間だの、財産だのといったことは、いわばどうでもいいのであって、彼女の目的は、一[いつ]に結婚ということだけにあった。高い教育はあっても、財産などはろくにない娘にとって、結婚は唯一[ゆいいつ]の口すぎの手段とも言えたし、たとえ幸福への保証はおぼつかないにせよ、飢えを免[まるか]れる手段としては、いちばんたのしい方法にはちがいなかった。いまやその手段が手に入ったのだ。年は二十七、いまだかつて美貌[びぼう]の自信はたえてなかった女としては、まことにこれは幸運とよろこんでよかった。(同書、pp.197-8)

[31]【ちょっと脱線して、現代日本の結婚事情を論じた本から引用。まるでシャーロットが書いたような文章。】
未婚女性が、まだ結婚しない理由の第一に挙げるのは「適当な相手にめぐり会えない」というものだ。この「適当な相手」という言葉は、晩婚化の深層に迫る重要な言葉である。……。「適当な洗濯機」だと、適当の基準は洗濯機の価格だの、洗濯機を置くスペースだのと、数字に換算できるのである。早い話が、自分の収入や家のサイズで半ば自動的に決まるのである。が、結婚の「適当な相手」を選ぶ時に、人は自分に与えられた値段をみることが難しい。はっきり言えば人にはみな価格がついており、自分の価格に応じた相手が購入できるのだが、みな自分に貼られた値札を見ることができにくいのである。従って、自分が思っている「適当な相手」というのが、他人から見ればしばしば高望みであったり、「適当」を通り越して「夢のように非現実」な製品であったりしても、当の本人には気づかないという滑稽なケースが頻発しているのが実情である。……。結婚とは、女性と男性とが持つ資源の交換であり、自分の資源を棚に上げて、相手にばかり要求水準を高くしても、永遠に「適当な相手」は見つからない。(小倉『結婚の条件』pp.20-8)

[32]【ミセス・ガーディナー(エリザベスの聡明な叔母)は、ウィカムとの交際について彼女に警告する。】
「財産がないということはね、せっかくの愛情までだめにしてしまうことがあるのよ。……。あの人自身は、じつに面白い人だと思うわ。だから、あの人に当然の財産さえ入れば、あんないい結婚の相手はないと思うの。でも、とにかく今のような始末でしょう——空想みたいな恋にひきずりまわされちゃだめよ。あなたは、ちゃんと考えのある人だから、それをよく使ってほしいわ」(オースティン『自負と偏見』pp.228-9)

【ジェーンに夢中だったはずのチャールズ・ビングリーは、突然ネザフィールド・パークの屋敷を去り、ロンドンに行ってしまう。しばらくしてジェーンもロンドンの叔母ミセス・ガーディナー夫妻の家に滞在するが、数週間後、エリザベスのもとに姉から手紙が届く。】

[33]リジー、わたし正直に言うわ。わたしに対するミス・ビングリー【チャールズ・ビングリーの妹キャロライン】の好意だけど、あれはまったくわたしの思いちがいだったのねえ。でも、こう言ったからって、まさかあなた、それごらんなさい、言わないことかって、いい気持になって、わたしをバカにすることなんかしないわねえ。……。キャロラインは、やっと昨日はじめて訪ねてきてくれたの。……そしてきたときもね、うれしそうな様子なんて、薬にしたくもなかったわ。訪問のおくれたことを、ほんのちょっと、まるで形式的な言訳をしただけで、またこの次ぎはなんてことは、一言だって言わないのよ。まるですっかり人間が変ったみたいで、帰って行ったあと、わたしは、もうおつきあいもこれっきりと、はっきり決心したわ。(同書、p.235)

【エリザベスは、コリンズと結婚してケント(イングランド南東部の州)の牧師館に住むシャーロットを訪れる。】

[34]……ミスター・コリンズは、みんなを庭の散歩に誘った。なるほど大きくて、よくできており、庭樹[にわき]の世話などは、すべて彼が自分でするという。庭いじりは、いわば彼最大の楽しみだとのことだったが、それよりもシャーロットが、庭いじりの運動は、まことに身体[からだ]にもいいから、自分もせいぜいすすめているのだと語る、そのときの真面目[まじめ]くさった顔のほうに、はるかにひどく感心した。……【コリンズの】留守中、シャーロットは、妹とエリザベスを案内して、家じゅうをまわったが、こうして夫の手をかりず、ひとりで案内する機をえたことが、よほどうれしいらしかった。大して大きくはないが、便利によくできていた。すべてがじつに小ざっぱりと、しかも調和を保ってととのえられていたが、エリザベスは、これはすべてあなたのお手柄[てがら]ねと、シャーロットをほめた。コリンズのことを忘れていると、すべてがまことに楽しくなる。しかもシャーロットさえ、それをよろこんでいるらしい様子を見ると、これはどうもしばしば彼は忘れられているのにちがいないと、そうエリザベスは思った。(同書、pp.247-8)

【シャーロットがなぜコリンズに庭いじりを勧めるか、お分かりですな。こうした皮肉な描写はオースティンの魅力の一つ。】

【エリザベスは、コリンズ牧師のパトロンでダーシーの叔母に当たるキャサリン・ディ・バーグ夫人の大邸宅を訪問し、ダーシーの従兄弟フィッツウィリアム大佐に出会う。フィッツウィリアム大佐は、ビングリーと結婚しそうになった娘がジェーンであることを知らないため、うっかりこう語ってしまう。】

[35]「つまりダーシー君の話してくれたというのは、これだけなんです。なんでも彼のある友人というのが、まことに軽率な結婚をしようというので、見かねてうまくつぶしてやったが、ほんとうにいいことをしたという、ただそれだけなんです。人の名前も言わなければ、詳しい話もしないんです。ただ僕としてはですよ、ビングリー君というのが、じつにそうしたヘマをやりそうな男だし、それにまた去年の夏ずっと二人いっしょにいたという事実などからして、単にそんな気がしたというにすぎないんですね」(同書、p.288)

【やがてダーシーも叔母の邸宅を訪れる。彼は最悪のタイミングで、エリザベスに求婚をしてしまう。】

[36]入るや否[いな]や、彼は、あわただしげに見舞いの挨拶[あいさつ]を言いはじめ、きっともういいのだろうと思ってはきたのだが、と言う。エリザベスは、鄭重[ていちょう]ではあるが、ひどく冷淡に答えた。彼は、はじめちょっと坐[すわ]っていたが、まもなく立ち上ると、ぐるぐる部屋の中をまわりはじめた。彼女はおどろいたが、一言も口は利[き]かない。四、五分も、そうした沈黙がつづいたかと思うと、彼は、急になにか興奮した様子で寄ってきて、こんなふうに切り出した——
「ずいぶん抑えに抑えたのですが、だめなんです。もうだめです。僕のこの気持、どうしてももう抑えることができない。ねえ、どうか言わせてください、どんなにあなたを熱愛しているか」
 エリザベスは、ほとんど開いた口がふさがらなかった。(同書、p.293)

[37]【当然、エリザベスはダーシーをはねつける。】
「わたしが【あなたを】きらいだと申し上げるのは、あんなこと【ダーシーがジェーンとビングリーの仲を裂いたこと】のあるずっと以前から、あなたに対する気持は決ってましたの。ずっと前ウィカムさんからお聞きしましたお話で、あなたって人間は、よくわかってましたわ。この問題について、なにかおっしゃることがございます? こんどは、いったいどんな友情論をでっち上げて、言訳をなさるおつもり? それとも、どんな勝手な言い分をお並べになって、また人をだまそうとなさるおつもりなんですの?」(同書、p.298)

【ダーシーはエリザベスに弁明の手紙を渡す。その手紙によれば、ダーシーがビングリーにジェーンとの交際を諦めさせた理由は、(1)ビングリーはジェーンを愛しているが、ジェーンのほうはビングリーを好きな素振りをはっきり示さないこと、(2)ベネット夫人と、ジェーンやエリザベスの下の3人の妹たちが、あまりに不作法であること、だという。ウィカムを教区牧師にしなかった点については、もともとウィカムのほうが、牧師より儲かる職につきたいので法律を学ぶと言い出し、牧師になる権利を放棄する代わりに大金を手にしたのだが、放蕩の挙句にその金を使い果たしたウィカムが、やっぱり牧師にしてくれと頼んできたため、ダーシーはそれを断ったのだという。さらにウィカムは、ダーシーへの復讐のためにダーシーの妹を誘惑して、もう少しで駆け落ちをするところだったというのだ。】

[38]【ダーシーの手紙を読んだ後でウィカムの行動を思い返すと、怪しいところがぞろぞろ出てくる。】
……エリザベス自身に対する出方にしても、今となっては、ゆるしうる動機は、なに一つなかった。彼女の財産を買いかぶっていたものか、それとも、それでなければ、彼女がうかつに示した好意をいいことにして、それをいっそうあおることにより、彼自身の虚栄心を満足させようとしたものか、そのどちらかに相違ない。こうなると、彼に傾いていた好意的努力も、いまは刻一刻と薄れてゆくばかりだった。そして逆に、いよいよダーシーの言うことは正しいとなり、いろいろ見直さなければならないことが、次ぎ次ぎと出てきた……。(オースティン『自負と偏見』pp.320-1)

[39]彼女は、まったく恥入った。ダーシーのことを思い、ウィカムのことを考えると、自分は、なんという盲目で、偏頗[へんば]で、偏見持ちで、バカな人間であることか!
「なんてまたさもしいことをしたんだろう!」と彼女は叫んだ。「人を見る眼[め]を自慢にしていたわたし、——自分の能力を鼻にかけ、人のいいお姉様の鷹揚[おうよう]さを軽蔑[けいべつ]して、いたずらに人を疑っては、虚栄心を満足させていたこのわたしが! いまさらそれに、気がつくことからして、穴にでも入りたいほど恥かしいことだわ! でも、それも当然といえば当然! たとえ恋をしていたって、まさかこれほど、何も見えなくはならなかったと思うわ。でも、わたしのバカだったのは、恋じゃなくて、虚栄心だったんだわ。一方からはチヤホヤされるし、もう一方からは、そもそも知り合った最初から、鼻もひっかけてもらえないという始末で、ついつい私も、無知と偏見だけの女になり、かりにも二人に関係したことになると、理性もなにも忘れてしまったんだわ。いまになって、はじめて自分というものがわかった!」(同書、pp.321-2)

【エリザベスは、叔母のミセス・ガーディナー夫妻とイングランド中部を観光旅行する。ダービシャーにいる叔母の知り合いを訪ねたついでに、一行はその近くにあるペムバリー(ダーシーの屋敷)を見物に行く。】

[40]馬車で行く途中、はじめてペムバリーの森が見え出したときには、さすがにエリザベスは、軽い胸騒ぎを覚えた。そしていよいよ屋敷のほうへ曲ったときには、もはや早鐘【はやがね】を打つようだった。
 荘園[しょうえん]は、たいへんな大きさで、すばらしい変化に富んでいた。彼等は、いちばん低いほうから入って、しばらくのあいだは、ひろびろとつづく美しい森のあいだを抜けて走った。
 エリザベスは、もう胸いっぱいで言葉も出ず、すばらしい眺望[ちょうぼう]がくるごとに、思わず讃嘆[さんたん]の声をあげて眺[なが]めた。半マイルばかりだらだら坂になっていて、それを登りつめると、高い丘の頂きに出た。森はここで尽きて、たちまちパッとペムバリーの邸[やしき]が目に入った。邸は、ちょうど谷をへだてて向い側に建っており、道は急角度のカーヴを描いて、その中に消えている。大きな美しい石造の建物で、丘を相当登ったところに、一面森に蔽[おお]われた高い山脈[やまなみ]を背にして、建っていた。前は、自然そのままの景勝になった流れが一筋、ぐっと大きくふくらんでいたが、といって、人工の跡はなに一つなかった。両側の堤は、妙に改まった様子もなく、またよけいな人手も加わっていない。エリザベスは、すっかりうれしくなった。これほど自然がそのまま生かされ、自然美が、つまらない趣味によって傷つけられていない景色を、今まで見たことがなかった。みんな三人とも、口をきわめてほめたてた。こんな邸の女主人になるのも、まんざらではない! と、そのとき彼女は、ふとそう思った。(同書、pp.369-70)

[41]エリザベスは、ちょっと部屋の中を見まわしてから、窓のところへ行って、外の眺めを見た。いま下りてきたばかりの緑の丘が、こうして遠くから眺めると、いっそう切り立って見え、ひどく美しかった。土地のたたずまいは、すべて申し分がなかった。彼女は、全景——河を、長々とつづく堤の樹立[こだち]を、そして谷のうねりを、眼路[めじ]のきくかぎり、晴れ晴れとした思いで眺めた。部屋から部屋へと移って行くと、そのたびに景観の配置は変ったが、どの窓から見ても、美しい景色に変りはなかった。部屋は、すべて天井が高くて、美しく、家具調度類もまた、所有主[もちぬし]の富にふさわしいものばかりだった。といって、それは、つくづく彼の趣味に感心させられた点であるが、妙にケバケバしかったり、むだに上等だなどというものは、なに一つなく、——【ダーシーの叔母キャサリン・ディ・バーグ夫人が住む】ロージンズ邸のそれと比べて、豪華さこそ乏しかったが、ほんとの優雅さは、はるかにこちらが立ち勝[まさ]っていた。
「このお邸の、わたしが女主人になってたかもしれないわけねえ!」彼女はふと思った。「そしてみんなこの部屋を、毎日朝から晩まで眺めてるところだったんだわ! こんなふうにお客としてじゃなく、自分のものとして眺め、そして叔父様や叔母様をこそ、お客様として迎えるはずだったんだわ」(同書、pp.370-1)

[42]【ペムバリーの年配の家政婦ミセス・レノルズが、ダーシーを語る。】
「旦那様は、地主様としましても、ご主人様としましても、まずこれ以上の方はいらっしゃらない、と思えるほどの方でございます。このごろのお若い方といえば、自分のことはお考えになりますが、それ以外のことは、もう全然お考えにならないものですが、旦那様は、決してそうじゃございませんの。小作人にしましても、召使たちにしましても、旦那様のことをよく申さないものなどは、一人としてございません。中には、思い上っているとおっしゃいます方もございますが、わたくしは、そんなこと、一度だって拝見しましたことはございません。まあ、わたくしの考えますところでは、たぶん旦那様が、よその若い方のように、そうペラペラおしゃべりにならないせいでございましょうか」(同書、p.376)

【大事件が起こる。ベネット家の末娘で16歳になったばかりのリディアが、借金だらけのウィカムと駆け落ちしてしまったのだ。エリザベスは悩む。】

[43]……こうまで情けない一家の弱点、こうまでひどい不名誉を、目[ま]のあたりに見せては、魅力もなにも消えてしまうのは当然だ。……とうとう彼【ダーシー】からも、あきらめられてしまったかと思ってみても、少しもそれは、彼女の心の慰めにはならなかったし、また苦痛をやわらげてくれもしなかった。むしろ逆に、そうなってみてはじめて、自分の心のほんとの願いが、はっきりわかった。もはやすべての愛情[あいじょう]が、甲斐[かい]なきものとなってしまった今の今ほど、どんなに自分が彼を愛しうる女であるか、こんなにしみじみ感じたことは、ついになかった。(同書、p.418)

【叔母夫妻の助力によって、リディアとウィカムは発見され、ウィカムはベネット氏からの経済的援助を条件に、リディアと正式に結婚することに同意した。ベネット氏はほっとするが、彼には分らないことがある。】

[44]「だが、二つほど、ぜひともどうも知りたい点があってね——つまり、一つはだね、この話をまとめるのに、いったい叔父さんは、どれほどお金を使ったろうかということだし、もう一つは、わたしとして、どんなふうにしてそれを返していくか、という問題だろうな」
「叔父様が! お金をですって!」ジェーンが大声をあげた。「どういうことなんですの、それ?」
「つまりだねえ、かりにも正気のある男がだよ、わたしの生きているあいだ毎年百ポンド、死んだあともたった五千ポンドという、たったそれっぽっちの端金[はしたがね]でだね、いったいリディアと結婚する気になどなるものだろうか、という問題なんだよ、ね」
「そりゃ、たしかにそうねえ」とエリザベス。「わたしも、いままで、ちっとも考えてなかったんだけど。借金を払ってしまって、まだ少し残るなんて! そうだわ、きっと叔父様のなすったことよ」(同書、pp.458-9)

[45]【結婚式を挙げたウィカム夫妻は、ベネット家を訪れて幸せを見せつける。】
粗野で、恥知らずで、じゃじゃ馬で、怖いもの知らずのリディアは、やはりリディアだった。彼女は、一人一人姉たちのほうに向って、祝福を乞[こ]うた。そして、やがていよいよ座につくと、ぐるぐる部屋じゅうを眺[なが]めまわしながら、なんだか少し変ったようね、それにしても、ずいぶん久しぶりだわ、この部屋も、などと、大きな声を出して、笑いながら言う。
 ウィカムもウィカムで、これまたリディアに劣らぬ平然たるものだったが、ただ彼の場合は、なにしろ持ち前の慇懃[いんぎん]さなので、もしこれが彼の人間も、結婚の仕方も、ちゃんとしたものだったら、彼がはじめての親類挨拶[あいさつ]をしてまわっているあいだ、その快い微笑とさばけた態度とは、さぞかし一座の好感を買ったことであろう。エリザベスも、これまで彼が、こんなにも厚かましい男だとは、まさかに思っていなかったので、あらためて席につくと、なるほど、厚かましい人間の鉄面皮さというものは、つくづくとめどのないものだと、すべてこれからは考えることにした。彼女は、思わず顔が赤くなった。ジェーンもまっ赤になっていた。だのに、困惑の原因の当人たちだけは、頬[ほお]の色ひとつ変らないのだった。(同書、p.476)

[46]【金を払ってくれたのはダーシーだった。叔母のミセス・ガーディナーがエリザベスに宛てた手紙。】
ウィカムの負債は、そう、一千ポンドをはるかに越えたものになりましょうが、とにかく払います。それからリディアには、もともとあの人の贈与分の上に、さらに一千ポンドが贈られること、そしてウィカムの士官株も、お金で買ってやることになっています。こんなことまで、ダーシーさんがひとりでお引き受けになるというについては、その理由は……ウィカムという人間が、とんでもなく買いかぶられ、その結果、こんなふうにもてはやされるというのも、もとはといえば、みんな自分が悪かった、つい考えが足りなくて、黙っていたからだと、おっしゃるのです。あの方にせよ、誰にせよ、黙っていたというだけで、果してこんどの事件に全責任があるかどうか、わたしとしては、相当に疑問なのですが、それはともかく、ダーシーさんの主張にも、なるほど、一応の理屈はあるでしょう。(同書、p.491)

[47]手紙を読んで、エリザベスは、胸がどきどきした。もっとも、喜びが先なのか、苦しみが先なのか、それは、自分にもよくわからなかった。妹の結婚をすすめるために、いったいダーシーがどれだけのことをしてくれたか……しかも、それをみんな、自分自身は一片の好意も尊敬も感じていない女のために、やってくれたのだ。結局はわたしのためにしてくれたのだ。心のどこかでは、そんな声も聞えた。だが、ほんのそれは束[つか]の間[ま]のことで、まもなく別の考えが、甘い希望を打ち消した。……それほどまでの愛情を、かつては求婚を断わったこともあるこのわたしに、はたして持っていてくれるのだろうか? それを思うと、いくらなんでも、そこまでの自惚[うぬぼ]れは出なかった。(同書、p.494)

[48]【ビングリーはネザフィールド屋敷に戻ってきて、ベネット家を訪れるようになる。そしてある日……。】
【エリザベスが】扉を開けると、姉とビングリーが、さもなにか真剣な話でもしていたように、暖炉のそばに立っている。かりにそれは、なんでもないとしても、ハッとふり向いて、あわてて離れたときの二人の顔、それだけでもう一切はわかったはず。二人の立場も、ずいぶん間の悪いものだったが、エリザベスのそれも、もっといけなかった。どちらからも、一言も言わず、そのままエリザベスが、引き返そうとすると、逆にこんどはビングリーが、一度はジェーンといっしょに坐[すわ]ったが、すぐまた立ち上ったかと思うと、二言三言なにかジェーンにささやいたまま、駈け出すように部屋から出て行ってしまった。
 ジェーンは、ほかのことならしらず、打ち明けて、それで喜んでもらえるようなことは、すべてエリザベスに話さないではいられなかった。そこで、妹をまず抱きしめると、まるで身体[からだ]じゅう喜びにあふれたような表情で、生れて、きょうほど幸福な日はないと言った。
「もうなんと言ったらいいかわからない! 幸福すぎるわ! こんな、わたしのような女が!」(同書、p.526)

[49]【ジェーンとビングリーの婚約が決まった数日後、ダーシーの叔母のキャサリン・ディ・バーグ夫人が、血相を変えてベネット家に乗り込んでくる。】
「一昨日でしたがね、たいへんおどろいた噂[うわさ]が、わたしの耳に入りましたのよ。あなたのお姉様が、たいへん有利な結婚をなさることになったというばかりでなくね、あなた、つまり、ミス・エリザベス・ベネットまでが、まもなくわたしの甥[おい]のダーシーと、十中八九まで結婚するだろうっていうことなんですの。どうせでたらめのデマだろう、と思ってますし、したがって、それをほんとうだなどと思い込んで、あの人を見下げるなんて、そんなバカなことはしませんがね。……あなたが、みんなの意向に反して、勝手な真似[まね]をしてごらんなさい、ダーシーの身内、親戚[しんせき]から、よく思ってもらおうなんて、それはむりな注文ですよ。あの子の周囲全体から、非難され、爪[つま]はじきされ、バカにされることは決まってますわよ。あなたの名前一つ口にするものは、ぜったいありますまいから」
「ずいぶんひどいことですわねえ。でも、ダーシーさんの奥様にさえなれば、それに伴って、当然いろんな大きい幸福の源があるわけじゃありません? そうなれば、全体からいって、べつに悔むようなことはなんにもないと思いますわ」(同書、pp.537-41)

[50]【そしてついにダーシーのプロポーズ。】
「……ぼくの考えていたのは、あなたひとり、あなただけですよ」
 エリザベスは、閉口してしまって、言葉も出なかった。ちょっとした沈黙があって、またダーシーが言った。「それにしても、あなたはりっぱな方だから、まさかぼくをからかうようなことはなさいますまい。だから、もしあなたの気持がですよ、いつかの四月のままでしたら、この際はっきりそう言ってください。ぼくの気持ちや願いは、ちっとも変っていませんが、それでも、もしあなたの一言次第では、もう永久にこのことは、口にしないことにしましょう」
 彼の立場を思ってみると、エリザベスの気持は、いよいよ苦しく、いよいよ不安になるのだった。とうとう思い切って口を開いた。そしてさっそく、あまり流暢[りゅうちょう]ではなかったが、とにかく彼女のほうの気持は、彼の言ったとき以来すっかり変った。したがって、いまの彼の言葉は、深い感謝と喜びとをもってお受けすることができる、という意味のことを述べた。これを聞いた彼の喜び方は、おそらく一生はじめてのものだったかもしれない。それでいて、その場合彼の述べた喜びの言葉は、はげしい恋に生きる男としては、まことに筋の通った、そしてまた心のこもった話しぶりだった。もしそのとき、二人の視線が合っていたならば、きっとエリザベスは、彼の顔にあふれた心からの喜びの表情、それがいかに彼らしいものであったかに、気がついていたに相違ない。見ることはできなかったが、聞くことはできた。そして彼は、いかに彼女が、彼にとって大事な存在であるかを語り、彼女もまたそれによって、彼の愛が、刻一刻に貴重なものに思われてくるのだった。(同書、pp.556-7)

【ベネット氏は、エリザベスとダーシーとの婚約を知らせる手紙を、コリンズ牧師に宛てて書く。】

[51]
拝啓 もう一回、貴殿の祝辞をいただかねばならぬ仕儀に相成り、エリザベスは、近々ミセス・ダーシーに相成るはず。キャサリン夫人のほうは、貴殿より何卒[なにとぞ]よろしく御慰労方お願い申上げる。尤[もっと]も、小生もし貴殿ならば、ダーシー君の肩を持つつもり。勿論[もちろん]彼のほうが、たんまり持ち居[お]る故[ゆえ]なり。   
敬具
(同書、p.585)

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[52]彼女の作品に登場する人物は、まず一人のこらずが弱点、欠点をもっている。そしていかにも人間らしい愚行を演じて見せる。しかもそうした人間の弱点を、彼女はけっして怒らず、悲しまず、むしろ人間本来のありようとして寛容の心で包んでいるといってもよい。もちろん欠点は欠点だから、槍玉[やりだま]にあがる。だが、その諷刺は、自然ユーモアの笑いになる。
 槍玉にあがる筆頭は虚栄心と思い上りである。次ぎには頭のわるいおしゃべり。この小説でいえば、キャサリン夫人、コリンズ牧師、母親ミセス・ベネットなどは、まずいちばん恰好[かっこう]の対象だが、さらに見逃してはならないのは、作者自身好意と愛情を注いでいる人物に対してさえ、彼女はけっして人間放れのした完全人としては描かない。ちゃんと人間らしい欠点をあたえている。いい例は、エリザベスであり、ダーシーだ。エリザベスは、作者自身いちばん愛する女主人公だと告白しているくらいだが、それでいて彼女は、やすやすと「偏見」のワナに陥っているし、ダーシーにしてもそうだ。この愛すべき男らしい人物も、その抜き難い「高慢」を自己克服するまでには、ずいぶんと試練に会わなければならなかった。全体としての人間を写す、そしてそこからは、おのずからすべてを最後はゆるすというユーモアが生れる。これがオースティン最大の魅力なのではあるまいか。(中野好夫「解説」オースティン『自負と偏見』pp.603-4)

[53]物語というとき、私たちはたいてい前後が関係し合い、首尾の一貫した、初めあり、真中あり、終りのある話を意味するが、『高慢と偏見』は、二人の青年の登場という、ちょうど適当な場面に始まり、エリザベス・ベネットと姉のジェインに対するその二人の青年の愛が作品のプロットを形作って、この四人の結婚という申し分のない場面で終っている。……。『高慢と偏見』の場合は、花婿が相当な収入のある男で、広大な敷地に取りかこまれ、どの部屋にも高価で上品な家具がそなえてある立派な邸宅へ、やがて花嫁を連れて行くことが分っているので、読者の満足感は著しく高められる。(モーム『世界の十大小説(上)』pp.140-1)

[54]ジェイン・オースティンの小説は、純然たる娯楽作品である。従って、読者を楽しませることに小説家はもっぱら努めなければならない、とこうたまたま信じる読者は、オースティンを他に類のない作家として扱わなければならない。もちろん、偉大という点で一段と優れた作品は、その後いくつか書かれていることはいる。たとえば、『戦争と平和』とか『カラマーゾフの兄弟』とかがそうであるが、これら偉大な作品は、元気な時に細心の注意を払って読むのでなければ、何の利益も得ることができない。ところが、オースティンの小説となると、どんなに疲れて意気のあがらぬ時に読んでも、かならず読む者の心を魅了してくれるのである。(同書、pp.126-7)

[55]【小説を、今のような小説にしたのは、オースティンである。】
……彼ら【イギリス近代小説の初期の作家たち】のうち誰一人として、平凡な日常生活をそのままに描いた者はいなかった。デフォーは犯罪者とか無人島の漂着者の異常体験を描き……スターンは変人・奇人の常識からの脱線ぶりを描いた。平凡な人間の交際ぶりは誰も描かなかったのである。われわれはオースティン以後の小説に慣れ親しんでいるために、彼女の作品の斬新さに気がつきにくい。日常生活という平凡な状況の中に人物を設定して、それらの人物たちが織りなす人生模様を、客観的な全知の語り手【登場人物すべての内面を知っている、作者の代弁者としての語り手】の目を通して冷静に描くこと、そしてときには作中人物の心の中にまで立ち入ってそれを描き出すこと、われわれはこれが一番普通の小説の形だと思っていて、オースティンはそれをいささか巧みに利用しただけだと思いがちである。しかし一番普通な小説の形をいまのような形に作り上げたのは、じつはオースティンなのである。
 これまでの作家たちのほとんどが、他の文筆活動の偶然の結果として小説を書いてしまったり、あるいは趣味が脱線してロマンスを書いたりして来た。それに対してオースティンは、文学形式としての小説のありかたに正面切って取り組んだ最初の作家であった。そして彼女はこのジャンルに優美な形式を与え、客観的な文体を与え、そして巧みな語りの方法を与えた。(川口『イギリス小説入門』pp.54-5)

[56]最後にオースティンの長所で、いま少しのところで言わずにすますところだった長所が一つある。それは、オースティンの小説はすばらしく面白く読める——さらに偉大で名声も高い小説家のある者よりも面白く読めるということだ。その小説は、スコットも言っているように、平凡な事柄、「日常生活に普通の複雑な事態、感情、人物」を取り扱っていて、どの作品にもこれといって大した事件は起らない。それでいて、あるページを読み終わると、さて次に何が起るのだろうかと、急いでページを繰らずにはいられない。ところが、ページを繰ってみても、やはり何も大したことは起らない。だが、それでいて、またもやページを繰らずにはいられないのだ。小説家で、これだけの読者にさせる力を持っている者は、小説家として持ち得るもっとも貴重な才能の持主なのである。
(モーム『世界の十大小説(上)』pp.146-7)

[57]ある作品が古典であるのは、批評家が賞賛したり、大学教授が解説したり、教室で研究したりするからではなく、数多くの読者が、一つの世代から一つの世代へと、次々に読んで行ってはつねにその作品から楽しみと精神の糧とを得ているからである。(同書、p.136)

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【引用した文献】

●ジェーン・オースティン著、中野好夫訳『自負と偏見』(新潮文庫、1997年)[原著1813年]

●大島一彦『ジェイン・オースティン——「世界一平凡な大作家」の肖像』(中公新書、1997年)
●小倉千加子『結婚の条件』(朝日新聞社、2003年)
●ジェーン・オースティン著、中尾真理訳『ノーサンガー・アベイ』(キネマ旬報社、1997年)[原著1818年]
●川口喬一『イギリス小説入門』(研究社、1989年)
●小池滋『ゴシック小説をよむ』(岩波書店、1999年)
●中村邦夫、木下卓、大神田丈二編『たのしく読めるイギリス文学』(ミネルヴァ書房、1994年)
●夏目漱石『文学論』(大倉書店、1907年)[国立国会図書館近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/img/)にて閲覧]
●ダニエル・プール著、片岡信訳『19世紀のロンドンはどんな匂いがしたのだろう』(青土社、1997年)[原著1993年]
●W. S. モーム著、西川正身訳『世界の十大小説(上)』(岩波文庫、1997年)[原著1954年]

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【『自負と偏見』の映像化作品としては、イギリスBBC制作のテレビドラマ『高慢と偏見』(1995)が有名だが、今年(2005年)もイギリスのジョー・ライト監督によって映画化され、日本でも来年1月に『プライドと偏見』の邦題で全国公開される。】
(c) Masaru Uchida 2005
ファイル公開日: 2005-12-14
ファイル更新日: 2009-4-22(他講義へのリンク追加)
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