『小公子』第十一回本文
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『小公子』初出本文のHTML化について

○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。

○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤がHTML化した。



小公子     若松しづ子
   第十一回(甲)

フオントルロイが、老侯と共に広野の方から見ては、如何にも画に書いた様な景色と思つた小村の中へ、近く立入つて、貧民どもの有様を視察したエロル夫人は、見ること、聞くことに哀れを感じることが多く有升た。
どの様なものでも、近くで見れば、遠方で見たほど全備しては居らぬもので、此村内にも、人々が其業務に勉めば、自然、衣食住も満ち足る可きに、万事に鈍く、怠惰に陥つた結果には、貧困者が多く見当り升た。
暫くする中に、此エールボロといふ村は其近辺で最とも疲弊した評判の村といふことが分りました。
夫人は内情の困難なことと救済の道の殆んど絶へて居つたことを、モドント教師からも聞き、自分にも発明し升た。
村長を撰挙するにも、侯爵のお気に入りさうなのを撰らんだので、小民どもの貧困に堕落した有様を矯正するものは、一向に有ませんかつた。
況して軒は傾ぶき、住民は意気地なく、宛がら半病人の如き者斗り居るエールス、コートの哀れな有様は、侯爵家にとつても、外聞な程でした。
夫人が始めてこヽへ行つた時などは、実に戦栗する様でした。
場処の醜猥なことと人々の遣り放しなることと極貧のことなどは、田舎は都より又一層甚しい様に思われ升た。
ソコデ都は兎に角、田舎ではかふいふことは仕方のつけ様がある筈と思ふにつけ、罪悪の中に畜生ほど、投げやりに育つ穢らしい子供を見、壮麗な城内に王子の如くに保護られ、侍かれて、布望とて叶へられぬことはなく、富裕、安楽、美麗でないことは見聞もせぬほどの境界にある我子を思ふて居る中に、恰悧に優しい母心の中に、フト勇毅た目論見が起り升た。
さて子供にとつては大幸にも、不思議なほど侯爵のお気に入つたことは、人も見、又母にも段々分つて来升た。
さうして、子供の望む処は、何ことでも侯爵の拒み玉ふことは、殆んどないと云ことも分つて来升た。
それ故、モドント教師に、

侯爵さまは、セデーの気随な望みまでも叶へてお遣なさらぬことは御座りませんものを、そのお与へなさる自由を、他人の為に用ゐたとて、何の障りが御座りませうか、
この事は是非、手前がひとつ心配いたして見ませう。

優しい幼な心を知りぬいてゐる母は、エールス、コートの話しを篤として聞かせなば、申さずともセデーは、祖父に其話を持つて言つて伝へるは必定、さうすれば、望み通りの結果があるだらうと待つて居升た。
然るに、思つた通り、好結果の有つたことは、人々が怪しむほどでした。
侯爵を動すに預つて大に力あるものは、孫息子が自分に対する心置なき信任でした‥‥‥即ち、セドリツクが、お祖父さまは、いつも、仁義のある処をお行なさるといふことを堅く信じて居つたことでした。
侯爵さまは、自分の心には、人に対して慈善を施し度心持は一切なく、善悪などに係はらず、いつでも自分の思い通りにし度のだといふ内実を、介わず孫息子に悟れる気にはどふもなれませんかつた。
人類にとつての大恩ある人、又は総べて高尚なるもの理想の如くに崇られて居る心に得る楽しみは、格別な者故、優愛に満ちた茶勝な眼で、ヂツト見詰られながら、「おれは勝手、乱暴な不埒な者で、一生涯、人に慈善を施たことの覚もない老人、エールス、コートも、貧民も、介ふものではない」と明さまに言とも、矢張そういふと同一な結果になることを言て快しいとはどふしても思ませんかつた。
金色の愛嬌毛を房つかせて居る小息子の可愛さには、例に戻つて、たま\/は慈善的なことをしても仕方がないと断める様にもなり升た。
それ故、自分で、自分が可笑い様でしたが、少し考へたあとで、ニウーヰツクを呼びに遣わし、コートのことを長\/と談議し、必竟、彼のボロ\/長屋を取り崩して、新たなのを建築することに諦観りました。
例の淡泊な調子で、

ナニ、実はフォントルロイの建議で、是非にと主張するのだ、始終は為に好しいといつてナ、
店子どもにもフォントルロイの発議だといつて聞かせるが好かろう。

言ひながら、毛革の上に横になつて、ダガルと遊んで居る若侯を見下ろして居られ升た。
例の大犬は、此小供の始終の友達で、歩行の時は、厳然として威儀正しくて闊歩して跡に随ひ、馬や、馬車の上ならば、凛然其後ろを追ふて走り升た。
田舎の人も、町の人も、借屋改築の噂を早くも伝へ知り升て、始めはそれを事実と信ぜぬものが多くあり升た。
併し、一と揃ひの職人が来着して、踉いてゐる様な見すぼらしい借家を引倒し始め升た時に人々はまたもフォントルロイどののお蔭で、こふいふ結構なことにな頑是ない執成でエールス、コートの醜聞も消へることと漸くに分り升た。
フォントルロイは此人々が行く処に自分の噂をなし色々に賞めたて、生立の上は成し遂げるだろうといふ、大したことの預言を聞升たならば、嘸驚くことでしたろう。
併し自分はこふいふことがあらうとはサツパり知りませんかつた。
矢張り、相変らず淡泊で、気軽るな子供らしい生涯を送り升た。
樹苑に跳ね廻つたり、兎を追廻して穴へ追ひ詰たり、柴生の木影に横たわつて見たり、書斎の毛革の上へ寝て見たり、珍奇しい書物を読んで、お祖父さまにも又母へも其話しをしたり、ヂツクやホツブスに長い手紙を書いて、それ相応な返事を貰つたり、お祖父さまと一所か、又はウィルキンスを供に連れて、馬に乗つてあるいたりして居升た、
人が市に集まる町を通る時分に、人々は振り反つて見ては脱帽して礼をする時大層悦ばしさうなのに、気が付き升たが。これは全く、お祖父さまと一処だから、みんなが、悦こぶのだと思ひ升た。
一度は例のさえ\゛/した、笑ひ顔で、御前のお顔を見ながら、

どふも、みんながお祖父さま好だことネ、
お祖父さまみると、あんなに嬉しがつてゐるの御覧なさいよ、
こんだ、僕もあんなに好になつて呉れると好けどネイ、
一人なし皆んなに好がられヽば大変好でせうネ、

といつて、左程に珍重され、愛せられる人の孫だと思へば、大威張りだと考へ升た。
貸家を建て始め升た時分には、フオントルロイはお祖父さまと一処に見に行\/し升て、フォントルロイは大層熱心でした。
自分の小馬を降りて、職人と知己になりに行升て、建築のことや煉瓦の並べ方に付て、色々質問したり、米国でのことを話して聞せたりし升た。
二三度もかふいふ話しをしてから、家に帰へる道すがら、煉瓦置の秘訣を侯爵に教へることが出来る位でした。
そうして、後でこう言ひ升た。

僕はかふいふことが聞いて知つて居度んですよ、
ダツテ人はいつどんなになるか知れないつてネ。

(以上、『女学雑誌』第二八五号)


小公子     若松しづ子
    第十一回(乙)

フォントルロイが行つてしまい升と、職人たちの仲間で噂さをしては、妙なあどけない言葉を笑ひ\/し升た。
此人たちも、フォントルロイが好で、手をポツチツトの中へ入れ、帽子をチゞレ髪の下つてゐる後ろの方へ推し遣り、幼な顔を仔細らしくして、立ながらの話しを聞くことが大好でした。
さうして互に、

あんなヽアめつたにねへナア、
それにハキ\/物をいつて、心持が好ワ、
いけねへ奴等(貴族を指す)の種ダタア思へねへやうだナア。

といひ\/しましたが、それから又家へ帰つて、其話しを女房どもにして聞せる。
女房どもは亦他の女たちに話しをして聞かせるので、フォントルロイの若君がどふして、かふしての話しを、何かしら聞いて知つてゐない者はない位になり升た。
さうして、追々には、侯爵どのヽわるがとう\/可愛がるものが出来たといふこと、頑固、隠嶮な老人の心情を動かし、暖ためるものが漸くに見付かつたといふことを、誰も知らぬものヽない様になり升た。
併し其心がどの位暖まつたかといふと、此老人が生涯に始めて信用されて見て其子供に心の覊が日に\/堅く結びつけられるのを御自分でも、それ程と、分らぬ位といふことを、とくと知るものは有りませんかつた。
侯爵はセドリツクが美事成人して血気盛んな若者となり、前途の望が遥か向ふにある時分を追想して見て、今に異ならぬ優愛な心を持つて、人に望を属されたらば、どの様な手柄をたてるであらう、自分についた資力、権力をどの様に働かせるだらうかと、頻りに想像され升た。
子供が暖室炉の前へ横になつて、何か大きな書に眼をさらして、余念もない処へ、光線が映じ入つて、風情を添へてゐるのを御覧じてゐて、お眼はさゑ\゛/とし、お顔の色が、いつもになく色づくことが有ました。
さういふ時分には、心の中に、

この子ならば、何をさせても出来る、出来ないことといふはあるまい。

といつて居られ升た。
併し、セドリツクに対する自分の情愛のことなどに付ては、口へ出して何とも人に仰つたことは有ませんかつた。
何かの拍子で、人にセドリツクのことをいふことが有れば、態と例の渋さうなホヽ笑みを見せて居られ升た。
然るに、フォントルロイはお祖父さまが自分を愛して下さつて、いつも、側に居るのをお好みなさるといふこと、例へば、書斎に居れば、お祖父さまのお席近く、食卓に着てならば、お祖父さまのまん向ふに、馬や、馬車に乗るとか、手広い物見で晩景、逍遥するとかの時には、お側近くゐるのがお好きといふことを直きに知る様になり升た。
ある時、セドリツクが彼の毛革に横になりながら、見て居た書物から眼を挙げて、

お祖父さん、僕が来た始めての晩、二人仲が好くなきやアつて、いつたの覚へて入つしやるの?
お祖父さんと僕ほど仲の好い人はどこへ行たつて有りやアしませんわネ、

サウサ、随分仲の好い方だらうな、
一寸、こヽへ来い。

フォントルロイは掻たくる様に側へ寄升た。
スルト侯爵様が、

貴様、まだ何か不足があるか、ないもので、欲しいものが?

此時、子供は彼の茶勝な眼を大きく開け、言度て、言兼るといふ塩梅に、お祖父様を見詰め升た。
そして、

アノ、たつた、ひとつ有るんです、

それは又何んだ?

フォントルロイは又暫時躊躇ひ升た。
そして独り屡思屈して居た故で、余程仔細の有さうな様子でした。
侯爵は復び、催促して、

何んだ、\/

フォントルロイは、漸くに、

アノかあさんです、

老侯は少しくたゆたつて、

ダガ、貴様、毎日の様にお袋に逢ふじやないか、それでも、まだ足りないのか。

デモ、先には、いつでもかあさん見てゐ升たもの、
夜る寝る時「お休み」いひに行けば、キスして呉れたし、朝起きて見れば、いつでも、そこに居たし、それから、取置ずに、何んでも、話しつこ出来たんですもの、

此時両方沈黙で眼と眼とを見合せ、侯爵の方では、稍眉を顰められました、そして、

貴様、そんなら、お袋のを忘れたことは一切(言葉に力を入れ)ないのか?

エー、決してないんです、さうして、かあさんも、僕決して忘れないんです、
ダツテ僕、お祖父さんと一処に居なくなつたつて、矢つ張り忘れやしないじや有ませんか、ネイ?
僕なほ、お祖父さんのこと考へ升ワ、

老侯は、猶暫らく、ヂツト考へて、

イヤ、こりやアさうだらう、さうに違ひあるまいナ、

全体フォントルロイが、母を慕ふことに付ては、多少羨ま敷思われて居られる処、かう聞いて、一層其感じが強くなつた様でした、
これは固より老人が子供を寵愛されることが、いよ\/深くなつた故でした。
然るに、幾程もたヽぬ内に、まだ\/忍び憎い心痛の事件が起り升て、暫らくは、嫁が憎いといふことさへ忘れる程でした。
さて其事の起りといふは、亦至つて不思議なことで、実にこれらが青天の雷電とでも、いひさうな事柄でした。
エールス、コートが落成する前、ある夜、ドリンコート城に大宴会が有升た。
かふいふ会合は、此城にも近年稀な位のでした。
其数日前には又、サア、ロリデールが、夫人ども\゛/此城へ来遊され升たが、此夫人といふは老侯の一粉の姉妹で、此時の来遊は、怪有のことで、市中などでは、殊に大評判で、例の荒物やの呼鈴が夢中にガラ\/と鳴りも止まなかつた訳はロリデール夫人は三十五年といふ昔し結婚して此来、ドリンコート城へ只一度の外は絶へて訪問されたことがないからでした。
此婦人は白髪がよくも風采を装ほふて、頬には愛嬌の笑窪と桃色の去りやらぬ立派な老夫人で、人品も中々好い方でしたが、兄弟の欠点を非難することに於ては、世の人と異つたこともなく、それ已ならず、確乎とした説を立てヽ、遠慮なく之を主張する性質てしたから、自然、老侯と屡々論することもあり、随て多年疎遠になつて居り升た。
この通り、兄妹の間が隔離つて居る中に、夫人は侯爵に付て快からぬ風説を聞くことも度\/でした。
第一妻に対して、優しくないこと、続いて同人が不幸な生涯を終つたこと、侯爵が子供に付て無頓着なこと、総領、次男が人好のせぬ上に、荏弱、無頼で、為に父にも家にも名折だといふこと、此二人に取つて此夫人は叔母ながら、一度も対面したことがないのでした。
然るにある時、十八歳斗りの丈高く、歴気とした、立派な壮年が邸へ尋ねて来て、夫人の姪セドリツク、エロルと名乗り、母の話しに聞いた叔母さまに、一度おめに掛り度さに、近隣を通つた幸ひ、お尋ね申すと云ひ升た。
ロリデール夫人は、此若人を見て、いとゞ、懐かしさに、万づを忘れ、強ひて一週間程引止め、こよなき者の如くに寵愛し、饗応して帰へし升た。
此若人は気立も優しく、快濶で、其上有為の気象が見えて居るので、帰つた其後も頻に顔が見度く思つて居り升た。
然るに其後は、打絶へて茲を訪ふたことのないといふ訳は、エロルが帰城した時、折あしく、父君が不機嫌で、ロリデール、パアグへ再び足踏みすることを固く禁じられたからでした。
併しロリデール夫人はエロルを思ひ出す度に、心に優しい情を起し、米国の結婚は向ふ見ずな処業と思ひはしても、父が断じて家から切り離して、何処の果に、どの様な暮らしをしてゐるか分らぬと聞いた時、怪しからぬ次末と、ひどく慍り升た。
其中死去した噂を聞込み、続いて、不思議に他の二人も卒去したので、米国生れの子供を尋ね出して、新なるフォントルロイ殿として、迎へるのだといふことが又聞こえ升た。
其時夫人は、夫に向つて、かふいひ升た。

大方、他の子供と同然、怪しからぬ人間にされてしまふのでせうよ、
それとも、お袋が立派な人物で、正当な教育が出来る丈の確乎した処が有れば好う御座い升が。

然るに、其母をば子供と引別けるのだと聞いた時は、又も言葉もない程に残念に思い升た。
そして、かふいつて歎き升た

どふも怪からん、一寸、あなた考へて御覧ん遊ばせ、
そんな年の行ない小供をお袋の手を離して、私の兄弟の様な人間の合手に致すつて、マア飛でもない事じや御座いませんか?
それこそ、子供をみぢめに扱ふか、さもなければ、途方もないもて余し者にする迄に吾侭放だいをさせ升よ、手紙でも遣つて忠告して詮が有ればですが‥‥‥

さうするとサア、ロリデールが、

ナニ、おまへそんなことが益に立つものか?

エー、どうも無益でせうよ、
ドリンコート侯はそれが益に立つ様な人物ならば結構ですが、
併し、どふ考へても、無法な処置ですよ。

(以上、『女学雑誌』第二八六号)


小公子     若松しづ子
   第十一回(丙)
小フォントルロイの噂をした者は、貧民や、百姓たち斗りでなく、まだ外にも伝へ聞いたものが有升た。
其評判する者が多く、又其容色の好いこと、気立の優しいこと、人望のあること、侯爵を左右する権力のあつたことなどに付て一口話の世間に流布まつてゐることが多いので、其噂が田舎住ひの紳士の耳へまで這入り升て、其名の遠く及んだことは、英国中の一郡一郷に限られませんかつた。
宴会の席には人々が其話をし合ひ、婦人たちは其母を憫然と労わり、其子が評判ほど容色が好かなどヽ心配し、男子たちの方で侯爵の平常を知つてゐる者は、其息子が御前の慈善心を信じ切つて居る話をしては、抱腹しました。
ある時、アツシヤウ、ホールのサア、タマス、アツシといふ貴族が、エールボロを通ふり掛つて、フト侯爵が孫息子とも\/馬に乗つて居らるヽに出逢ひ、乗物を止めて、挨拶をして御血色の打て変つて好くなつたこと、酒気症の平癒をしたことを悦びに申し升た。
あとで此人が其時の話しを人に語つて、

イヤ、其時、御老人も余程天狗になつて御座つた。
併し、さうあらう筈ですよ、孫どのがあの容色と品格じやア。
僕などもあヽいふのはとんと見た覚へは御座らんからネ、
骨柄の立派なこと、そして小馬に跨がつた塩梅は、丸で、騎馬武者かなんぞの威勢でネ、

この通り故、ロリデール夫人も追\/に其子供の話を聞込み升た。
其話しの内には、彼のヒツギンスのことや、跛の息子のこと、エールス、コートのこと、其外に尚さま\゛/有升た。
それ故、どふかして、其子供を一度見度と思つて居た処へ、突然、城主から、良人とも\゛/ドリンコートへ御来遊あれといふ書状を得て、並\/の驚きでは有ませんかつた。

誠に夢の様ですこと、あの小息子がとんと魔法でも遣つたかの様に物事も変へたといふ話しでしたが、これを見ると本当かと思ふ様ですネ。
私の兄弟は子供に夢中で、少の中も見ずに居られない程だと人が申し升よ、
さうして、余程の自慢ださうですから、矢張り、私どもにも見て貰度のでせうよ。

といつて、早速招待に応ずる旨を申送り升た。
さて夫と共にドリンコート城へ達し升た時は、はやタ日が西に入る頃でしたから、直ぐ用意の間へ通り、兄弟に逢はぬ中に、装服を繕ひ、客間へ這入り升と、暖室炉の前には侯爵の厳しい姿が見え升た。
其側に黒天鵞絨の服に、立派なレースの襟飾りを着けた小さな児が坐つて居升た。
この小息子の丸いさえ\゛/した顔が殊に見事で、夫人に向けた眼がいかにもあどけなく、美しかつたので、驚ろきと嬉しさで、思はず声をたて升した。
それから、侯爵と握手する時分に、ともに子供であつた時分から、絶へて用ゐたことのない幼な名を呼び升した。

オヤ、モリノーさん、あれがお話しの子ですか?

イヤ、カンスタンシヤか、その通りだ、
これ、フォントルロイ、貴様の大伯母のロリデール夫人だぞ。

すると、フォントルロイが、

サウ、大伯母さん、御機嫌はいかゞ?

いひ升と、ロリデール夫人は、其肩へ手を載せ、暫時上へ擡げた顔を眺めてから、大層可愛いといわぬ計にキスをし升た、

わたしは、おまへのカンスタンシヤをばだよ、
おまへのおとうさまは、わたしの秘蔵だつたが、おまへは亦大層よふ似ておいでだよ、

僕、とうさんに似てるつて、いわれるの大好ですよ、
ダツテ、みんなとうさんが好だつた様ですもの、
かあさんとおんなじこつてすよ、みんなに好かれて、丸でかあさんの通りですネ‥‥‥
カンスタンシヤをばさん、(と少しロ篭つて)

ロリデール夫人は大悦びでした。
又も一度下を向いて、キスをし升て、その時からは、両人が誠に親くなり升た。
あとで、兄に向つて、人知れず、かふいひ升た、

マア、モリノーさん、こちらで注文したつて、これに越したことはありませんネ、

侯爵は、いつもの浮かぬ調子で、

おまへのいふ通りだ、
中々見処のある奴で、大分おれとは仲よしだ、
おれを此上もない気の好い、慈善家だと思つて居のさ、
それはさうと、カンスタンシヤ、おれが言ずと、キツト知ることだから、先へ白状して置が、実はおれも、あれにかけては、いくらか、子供返りのした老翁になりさうなんだ、

ロリデール夫人は例の卒直な調子で、

それで、あのお袋はあなたをなんと思つて居り升。

侯爵少しく顔を顰めながら、

まだそんなことは、尋ねて見たことはなしだ。

さうですか、先遠慮のない処を始めつから申上て置升がネわたくしは、どうもあなたの御処置に不同意ですよ。
デ、わたくしは早速エロル夫人を訪問する積りですから、若しあなた御異存があるなら、おつしやつて頂戴したう御座い升よ。
どうも評判を聞升と、子供の人となりも全くあの婦人の教育ひとつで、あの通りだと思はれる様ですし、御領内の民たちも神様か何かの様に尊敬してゐるといふ噂が、ロリデール、パークに居てさへ聞え升もの。

侯爵は腮でフォントルロイの居た処を指し示して、

ナニ、此れを崇拝してるのだ、
併しエロル夫人も一寸美人で、其容色を子供に遺伝した丈は忝く思つて居るのだ、
おまへいつて逢ふなら、差支の有る筈もない。
たゞコート、ロツヂに引込んで居つて呉れて、おれが対面することさへ、御免蒙れば、それで構ひはないのだ。

と仰つて、また少し眉を顰められ升た。
夫に向つて此後かふいひ升た。

併しネ、先ほどはあの婦人を憎んで居ない様ですよ、
わたくしにそれ丈は分つて居り升。
そしてネ、あの人も多少変つて居り升よ、
そして、不思儀な様でも、あのあどけない、人懐こい小息子のお蔭で、どふかかふか、人間ら敷されて行く様だと思ひ升よ、
マア、あの子が亦た虚の様に懐いて居るのですよ、
坐つてる倚子のそばだの、膝だのへ(馮+几)れ掛つたりしましてさ。
兄の子供たちなぞは、虎のそばへ寄添ふ心持でなければ、あんなことは、出来ませんでしたらうよ。

其翌日は早速、エロル婦人を訪問に行ました。
帰つてから、兄にかういひ升た。

モリノーさん、マアあの夫人の様な様姿の好のに、私しは逢つたことが御座いませんよ。
声といつたら、銀の鈴の様にさえ\゛/してゐて、そして、あの子をあれまでにしたのはあの婦人の功名ですよ、
余つぽどお礼を仰しやらなくちや。
あなたが仰しやる様に容色の好い処を譲つた位なことじや有ませんよ。
そして、あなた、勧めてこヽへ入れて、何かの取締をしてお貰ひなさらないのは、大間違ひですよ。
私はロリデールへ呼とらうかと思ひ升ワ。

あのこを離れて、どこへ行くものか。

そんならば、あの子も一処に連れて行なかつちやなり升まいよ。

とロリデール夫人が、笑ひながら言ひ升たが、併しフオントルロイは、中々自分に預けられることなもなとないことは、充分承知してゐて、祖孫の間がいかにも睦まじく、殆ど離し難いこと、傲慢、頑固な老紳士の将来の希望も、愛情も、一に其子供一身に集つて居て無邪気、優愛なる此子供が此上もない信任と忠実を以て其慈愛に報ひて居つたことと日に\/承知し升た。
その外、今度宴会を催されたのも、自分の孫なり、跡取なりを世の人に示して、兼て人の評判に罹つた其子供が、噂に勝る人品と人々に知らせ度が最大目的といふことも承知して居り升た。

ビーヴィスや、モーリス(侯爵の子息)は、いかにも外聞のわるい子供でしたからネ、誰も知らぬ者は無いのでしたもの、
可愛がる処ではなく、親ながら憎くヽなつた様子でした、
それに此度は又、大威張りに威張れるといふのですから、

と夫に申し升た。
此宴会に招待を受けた人の中で、フォントルロイ殿を見度く思ひ、此宴会に出席するだらうか如何だらうと思ひつヽ来ない人はない位でした、侯爵は此時に、

行儀はよし、人の邪魔なることなどはあるまい、
子供といふは全体馬鹿でなければ、うるさいものだ、おれのなどは両方だつた、
併しあれ丈は人に物を言れヽば、返答もし、さもなければ、黙つて居るから好い、
人の気障りには必ずならん奴だ。

と仰いました。
(以上、『女学雑誌』第二八七五号)


小公子     若松しづ子
   第十一回(丁)
併し、フォントルロイは久しく口を開かずに居られませんかつた。
みんなが何かしら言葉を掛けては、話しをさせたがり升た。
婦人たちは可愛がつて頻りに、色々なことを問ひかけ、紳士たちも話しかけたり、冗談を言つたりすることは、地中海を渡た時分と同じ塩梅でした。
フォントルロイは自分が返事をする度に人々が笑ふ様なのを不思議に思ひ升たが、又考へて見れば、自分の真面目な時に人が面白がることは度々あるので、格別気に掛けはしませんかつた。
そして其晩は始めから終りまで、誠に愉快なことだと思つて居升た。
いとゞ壮麗を尽した、広間が、此晩は数知れぬ灯でキラ\/してゐ、花は多く、人は皆浮々してゐる、婦人たちは身に珍らしい美事な着物を着、頭や脛には燦びやかな飾を付けて居りました。
さてロンドンに交際社会の賑き季を過ごして来た若い婦人が有つて、余り美麗な婦人なので、人が目を離すことが出来ない位でした。
此婦人といふは、一寸丈高く、凛として高尚な風采が有つて、髪は柔らかく、真黒で、其さえ\゛/した眼は、紫の蝶花の色に似、頬や唇の色は薔薇に似て居り升た。
着物は美事に純白で、頚には真珠の飾が有ました。
此嬢君に付ては、ひとつ不思議なことが有升た。
紳士たちが幾人も側へ立つて居て、其機嫌をとらうとして心配してゐる様子でしたから、フォントルロイはお姫さまの様な人かと思ひ、自分も頻りに引寄せられる様な心地がして、我知らず、段々側へ近づき升た。
スルト、とう\/此婦人が振り向いて、言葉を掛け升た。
可愛らしくホヽ笑みつヽ。

フォントルロイの若様、一寸こちらへ入らつしやいましな、
そして、あなたがそんなにヂツト私を見て入して、何を考へて入つしやるか伺ませう、

若様は一向臆面なく、

僕、あなたがどふも奇麗な人だなと、考へてたんです、

といふのを聞いて、紳士たちは一同抱腹し、彼の嬢君も少し笑つて、ホンノリとした顔の色が一層紅になつた様でした。
そして、一番高笑ひをした紳士の中で一人が、

イヤ、フォントルロイ、今の中、言ひ度事を沢山いふが好い、
今に、成人すると、それ丈のことをいふ勇気がなくなるから。

フォントルロイはます\/、無邪気に、

ダツテ、誰だつてさう言はずに居られないでせう、あなたなんか言はずに居られ升か?
あなた(力を入れ)あの方奇麗だと思ひませんか?

スルト、其紳士が、

僕たちはネ、思ふことを言ふのも禁じられてるのだ、

と云ふと、外の者はいよ\/高笑ひに笑ひ升た。
然るに、ヴィヴィアン、へルベルトといふ其美人は手を出して、セドリツクを自分の方へ引寄せ升た。
そして、なほ\/奇麗に見え升た。

フォントルロイ様は、何んでも思しめすことを自由に仰つて下さいまし、
そして、あなたのお言葉は何事もお心のまヽと存升から、誠に有難く頂戴致しますよ。

といつて、頬にキスをし升た。
フォントルロイは感歎に余るといふ、無邪気な眼で、嬢君を見詰め、

僕はネ、かあさんを除ければ、あなたの様な奇麗な人見たことがないと思ふんです、
ダケド、マアかあさんほど奇麗な人有りやしませんからネ、
僕、かあさんは世界中で、一番の美人と思つてるんです。

それはさうに違ひ御座いますまいよ。

とヴィヴィアン嬢がいつて、又笑つて、頬へキスをし升た。
彼の嬢君は其夜宴会の終り頃迄フォントルロイを側へ引つけて置き升たから、両人を中心にしたる一群は誠に賑やかなことでした。
フォントルロイは、自分でも、どふうしてさうなつたか訳が分りませんかつたが、つひ知らぬ中に、アメリカのこと、共和党の集会のこと、ホツブス、ヂツクのことを話す様になり、しまいに、鼻高\/とポツケツトから出して見せた物は、ヂツクの餞別で、即ち赤い絹のハンケチでした。
そして、

今夜はネ、宴会だつたから、ポツケツトの中へ入れたんですよ、
ヂツクが宴会なんかへ持つて出れば、嬉しがるだらふと思つたんです。

そして火の付た様な色の、大きな形のある其品は、いかにも無風流におかしくとも、あまり真面目で、懐かしさうに、かふいひ升たから、聞いてゐる人たちは笑ふことも出来ませんかつた。

ヂツクは僕の朋友なんでせう、ダカラ、僕これが好なんです。

といひ升た。
此通り始終話しかけられ升たが、侯爵の仰つた通り、誰の邪魔にもなりませんかつた。
人の話しをする中は静かに聞いてゐることが出来升たから、うるさいと思ふ人は有りませんかつた、時々お祖父さまの倚子に近く行つて、立つてゐたり、間近に有る足台へ腰を掛たりして、頻に其顔を打守つたり、其お口から出る言葉を聞惚れてゐるかの様に一言\/熱心に耳を立てヽゐるのを見る人の中に、意味有りげにホヽ笑む人がいくらも有り升た。
一度などはお祖父様の倚子の臂掛へ寄係つてゐて、自分の頬がお肩へつく位になり升た時に一同ニツコリしたと気がついた侯爵は、御自分も少し笑われました。
御自分でも傍観者たちが何の心でホヽ笑むかといふことを御承知で、御自分に付て世間一般の考と同じ考へをしても決して不審のない此小息子とー左程迄仲の好のを人に見せるのが愉快な様でした。
ハヴィシヤム氏は午後に来着の筈でしたが、不思議なことに、此夜は少し遅刻しました。
此人物がドリンコート城へ出入りを始めて以来かふいふことは、曽て無かつたことでした。
余り遅いので、客たちは侍たず食卓に着ふとして居り升た所へ漸く来着し升た。
先づ侯爵に会釈しやうとして、近き升た時、侯爵は其顔を打守つて驚かれた様子でした
といふは、氏は平常の沈着と打つて変つて、何かヤキ\/したものか、さもなくば心が沢立つて居るかの様で、艶気のない、俊卒な其老顔は、既に青ざめて居升た。
そして低い声で侯爵にかふいひ升た。

思はず、遅刻いたし升た、
非常な事件が起り升て、

物に動じるなどヽいふは、此厳格、老成な代言人に至つて稀な事でしたが、此時は余ほど非常な出来事と見え升た。
食卓に着升ても、食物が咽を通らぬかの様で、二三度人に話かけられた時も、よく\/放心して居て、ドツキリ驚き升た、食事も中半過ぎて、フォントルロイが坐敷へ出升た時には、何か安からぬ様子振りで、モヂ\/して見詰て居たことが一度ならず有升た。
フォントルロイも其顔を見て、不思議だと思ひ升た。
自分とハ氏は全体、仲が好いので、顔を見合せさへすれば、互にニツコリするのでしたが、ハ氏は此晩に限つてホヽ笑むのまで忘れてしまつた様でした。
実は、其夜の中に、是非老侯の耳に入れねばならぬと決した不思議な凶報の外、何事でも忘れて居つたのでした。
其報告といふは、実に奇有の大事で、万事の体面を変じることと承知して居つたのでしたが、壮麗な広間や、華美な集会を見るにつけ、他のことはさて置き、此美事な若君を見様が為計りに、かく賑々しく集まつて居る処を眺めるにつけ、傲慢な老貴人を見、其側にニコ\/してゐるフォントルロイを見るにつけ、自分が世なれて、情に負けることを知らぬ代言人で有るにも係らず、非常に心を痛め升た。
自分が今報ぜんとする事一ツデ、将に引起さうとする驚歎の恐ろしさよと思つて居升た。
実に山海の珍味を尽して、長\/と引延びた宴会に侍つた、ハ氏は、其始め終りが、どの様で有つたか、夢に辿る者の如く、一向夢中でしたが、たゞ侯爵が不審顔に自分を打守つて居られるのに、フト気がつき升た。
さて会食も終り、紳士婦人は食堂を離れて客窒に移りました。
其折にフォントルロイは近来ロンドンの交際社会で大評判の美人ヴィヴィアン、へルベルト嬢と共に腰かけて居る処でした。
両人は何か画本の様なものを見て居た様子で、フォントルロイは嬢君にこれを見せて呉た礼を言て居た処へ戸が開升た。

僕に深切にして下すつて有がたう、
僕はネ、まだ宴会なんかに行つて見たことがないんです、
ダカラ、僕大変面白かつたんです。

余り面白かつた処為か、紳士たちが又\/へルベルト嬢の周囲に集まつて、話しをし始めたのを聞いて居て、笑ひながらいふことを聞きとつて、意味を解さふとしてゐる中に、まぶたが少しづヽ重げに垂れ始め升た。
殆んど眼が閉ぢてしまふ時分には、ヘルベルト嬢の低い可憐な笑ひ声で呼び醒され\/して、又二セコンド程も眼を開いて居り升た。
自分は決して眠るまいと決心しても、頭は後ろにあつた大きな黄繻子の布団に沈づむ様に収まり、まぶたもとう\/垂れ切りに垂れてしまひ升た。
久しく過てからの様に思われ升たが、誰か来て、其頬に軽くキスをした時でさへ、眼が全くは開きませんかつた。
其人といふは、とりも直さず、へルベルト嬢で、帰りがけに、低い調子で、捨言葉をして行ました。

フォントルロイの若様、御ゆつくりお休み遊ばせ、
御機嫌よう。

自分が此時眼を開けやうとして、口のうちで、モガ\/。

お休なさい‥‥‥僕‥‥‥あなたにあ‥‥‥あつて嬉しいんです、
あなたは大変‥‥‥奇麗‥‥‥

といつたのも、朝になつては知りませんかつた。
たゞ此時紳士たちが又何か大笑ひをして、自分では、何事か知らと思つたのを朦朧覚へて居り升た。
(以上、『女学雑誌』第二八八号)


小公子      若松しづ子
   第十二回(戊)   (実は第十一回(戊))

さて客人が一人残らず立去つた後で、ハ氏は火の側を離れ、長倚子へ近寄つて、そこに寝て居る若殿の姿を立つたまヽ眺めて居升た。
フォントルロイは、ゆつくり休息して居りました。
両足は叉の字になつて、長倚子の端に懸り、片手はつむりの上へ投げ出した様に廻り、其静かな顔には、ボツト紅色がさして居て、宛も健康で、気楽な幼子の安眠を画に書いた様でした。
キラ\/と光る髪のもつれが、濡子の布団の上にさまよつて居る塩梅などは、実に画にしても、美事な画でした。
ハ氏は此姿を眺めつヽ、手を挙げて、ツル\/した腮を撫でながら、当惑極まる顔をして居り升た。
突然、後ろに老侯の粗暴な声で、

イヤ、ハヴィシヤム、何事だ?
何か新らしく起つたのだナ、
容易ならぬ一條と申たのは、なにか、いつて聞せるが好い。

ハ氏はまだ腮を頻りに撫でながら、長倚子に後ろを向けて、

御前、凶報で御座り升、
非常な凶報で、手前も誠に申上憎う御座り升。

侯爵は、最前からハ氏のたゞならぬ様子振りを見て、安からぬ思をして居られたのでしたが、此お人は、心に安からぬことが有れば、必ず不機嫌なのでした。
此時も、心中のいらだちを声に現はして、

ハヴィシヤム、なぜ又其子供を左様に眺めて居るのだ?。
全体最前から眼を離さず見て居るのは‥‥‥
コレハヴィシヤム蛇が小鳥を見込んだ様に、子供を眺めてゐる理由を申さぬのか?、
第一、其凶報がフォントルロイと何の関係があるのだ?。

御前、極く手短かに申上ませう、
此凶報と申したのは、一切フォントルロイ殿の関係で御座り升。
其一條を仮に真と致し升れば、彼処に御寝遊ばすのは、フォントルロイ殿ではなく、カプテン、エロルの御子息と申丈に止りますので、
実のフォントルロイ殿は、御嫡子ビーヴィス君の御子息で、現在、ロンドンなる下宿屋に投宿されて居る御方で御座り升。

侯爵は此時両手に青筋が太\゛/と見える迄に椅子の臂掛を握り〆られ、額にも同様の物が顕はれて、其烈しい老顔は、殆んど赤黒くなり升た。
そこで大声にイキマイて、

貴様は何を申す?、
乱心でも致したか?、
さもなくば、誰の欺に乗つたのだ?。

先づ偽と致しましても、誠に実際に類した話で御座り升。
イヤ、いかにも苦\/敷いことで、実は今朝一人の婦人が拙宅を訪ひ升て、六年以前に御嫡子、ビーヴイス君が結婚遊ばされた人と申立て、結婚証明状を持参いたしまして御座升。
其人の申立に、婚姻の一年程後、御両人の間に何か口論が有つた末、とう\/若干の金子を頂戴して、お別れ申すことになり升たのださうで御座り升。
処が、五才斗りの男子を連れて居るので御座り升。
其人と申すは、極く下等の米国人で、先づ無学な方で、昨今までも、其子供が申受けらる可き特権のことも存じ寄なかつた次第で御座り升。
然るに代言人と語り合升して。我が子が正しくフォントルロイ殿で、追つて、ドリンコート城主たる可き者と承知した由で、そこで、手もなく、其権利を主張いたすので御座り升。

此時、黄襦子の上なるチゞレ頭が一寸動き升て、寝むさうで長い歎息が開いた唇からソウツト出升て、寝帰りをいたし升たが、少しもモヂ\/したり、心地のわるさうな処は有ませんかつた。
自分が瞞着者で、フォントルロイでもなければ、ドリンコート城主などに登ることは決してないといふ証拠が挙つて、それが安眠の邪魔になる様子は一向有ませんかつた。
たゞ、厳粛に其顔を眺めて居つた老人に、其さうび色の顔を尚よく見せるかの様に向け升た。
老侯の立派な渋ぶいお顔は、見るも気味わるい様になり、それで、極く冷たく、毒気のある嘲笑が見えて居り升た。

イヤ卑劣、破廉恥極まる其処業が、ビーヴィスに有りさうなことでなければ、一言半句も今の話しを真とは信ぜぬが、ビーヴィスにはさも有りさうなことだ、あれは不名誉極まる奴で有つた、
イヤおれの嫡子ビーヴィスほど荏弱で、不正直で、卑劣なことの好きな人非人はないワ、其婦も無学で賎しい者と申すか。

申すも憚では御座り升が、無教育なことは御自分の姓名を記るすさへ漸くで、それで、憚処なく金銭を見込んで此申立をするので御座り升、金銭の外に目指ことも無い様で御座り升。
容貌丈は下品ながら美麗では御座り升が……

嗜好の六ケ敷い老成人は、此時口を鉗み、思出したことが有つたと見えて、身震ひいたし升た。
老侯の額の青筋は、紫の打紐の如くに太\/と現れ、感憤極まつて、冷たき汗の滴りさへ見えて居升た。
今、ハンケチを取出してそれを拭ひ、其冷笑はます\/毒気を帯びて、

然るにおれはモ一人の女を憚つて居たのだ、
アレ‥‥‥あの子供のお袋を、おれはあれさへ嫁と認めなんだのだ。
姓名を記す位は差支のない方を憎くんだが、これが其応報でも有らう。

かふいつて、突然倚子から眺ね挙り、室内をあちら、こちらと歩るき始め、猛烈極まる言葉が其お口から湧出るかの様に発し升た。
憤怒と、憎悪と、非常な落胆が集つて、暴風が木を振るふが如くに、老侯の一身を振ひ動かし升た。
老侯の心の乱脈は見るも恐ろしい様でしたが、さりとて、猛り立つて、最も恐ろ敷い時も、彼の黄繻子の上に寝むる姿を忘れる様子はなく、それを覚す丈の声をも出されなかつたことは、ハ氏も気がつき升た。

イヤ、さもあらう、あいつら(小供たちのこと)は生れた其始からおれの外聞であつたのだ。
おれも、あいつらは大嫌で、あいつらもおれを憎くんだのだ。
其内ビーヴィスは一層わるい奴で有つた。
併し此事はまだ全く信用を置ぬから、こちらも充分探索し通してやらう。
ダガ、考へて見ればビーヴィスには有りさうなことだナア、どふもその位のことは有つたことだらう。

かふいつて又憤激し、頻りに其婦人のこと又証拠物のことなどに付て委細に尋問し、室をあちらこちらと歩みながら憤激の情を抑へやうとしても、顔色は青くなつたり紫色になつたりし升た。
終に一分始終を聞終つて、そして、極く心配になる廉々を了知しました時、ハ氏も老侯の為に気遣つて、お顔を見た位でした。
此時は最早顔色は丸で、青ざめて、落胆極まる様子でした。
老侯は憤怒を発し玉ふ度に、多少身に疲労を覚へられ升たが、此度は又純粋の憤怒でなく、他に情が加り升たから、尚さらガツカリ弱られたのでした。
終に長椅子の側へ帰り、立ちながら、低いよろめいた様な、カス\/した声で、

たとひ人が予めおれに子供を寵愛なさることが有らうなどと申たとて、容易に信じる処ではなかつたが、おれは全体子供は大嫌で、中にも自分のは厭に思つたが、おれは此子丈は誠に可愛く思ふのだ、あれも亦よく懐ついて居るのだ。
(といつて苦々しいといふホヽ笑を口元に見せ)おれは、人望はないのだ、始めから人望はないのだが、此子丈はおれが好だ、おれをこわがりもせず、いつもおれを信じて居るのだ。
此一條がなければ、おれのあとは、余程の勝れ者が城主になつて、先祖の家名を起すことと、おれもよく承知して居つたのだ。

此時腰を屈めて、可愛いヽ寝顔を見詰め、彼のフサ\/した眉を恐ろしく顰められ升たが、少しも容貌に烈しい所は有ませんかつた。
それから手で子供の額からキラ\/した髪を払ひ除け、軈て、振り向いて呼鈴を鳴らされ升た。
彼の丈高き給事がお召によつて立現はれ升た時、老侯は長椅子に指ざし、

ソレ(といつて、少し調子を変へ)フォントルロイを寝間へ連れて参れ。

(以上、『女学雑誌』第二八九号)


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