『小公子』第二回本文
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『小公子』初出本文のHTML化について

○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。

○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。




  小公子
   第二回(上)         若松しづ子

これから後一週間の間といふものはセドリツクは驚く事許りで、万づ夢の様に感ぜられま した。
第一、おつかさんのいつて聞せて下さる事が皆な不思議でたまらず、二度も三度も聞直さ ない中は会得が出来ませんかつた。
そうしてホッブスおぢはマアなんと思ふだろうかと、自分にも想像しかねてゐました。
先第一に、華族といふことが其話しの始まりでした。
抑も自分のまだ見たことのないお祖父様が、侯爵の華族さまだそうで、それから其跡を継 で侯爵におなりなさる可きおほ伯父様といふが、落馬しておなくなりなさる。
其次には、二番目の伯父様が其爵位をお受なさる筈なのが、是も俄にロームといふ処で熱 病でお隠れになつて仕舞う。
サアこふなつてからは、若しセドリツクのおとつさまが存命ならば、其跡へお直りなさる 可を、みんな此世に入つしやらないで、セドリツク丈が残てゐるのだから、お祖父様のお 跡には、自分が侯爵になることだといふ話でした。
今の処ではドリンコート侯爵の跡を譲得く可き人の予じめ名のるてふフォントルロフ殿な る尊号は、とりも直さず自分の新敷名と云聞せられました。
セドリツクが始めて此話を聞ました時は、思はず顔の色を変へました。

かあさん、僕は侯爵になり度ないよ、ダツテ僕の友だちに侯爵なんかになるものは一人も ないんだもの、かあさん、侯爵にならなくつちやどうしてもいけないの?

といひました。
然るに此事は免かれられぬものと見えて、其晩、二人は表の窓から外の見すぼらしい町を 眺めながら、久敷間其話をしてゐました。
セドリツクは、毎の通り、両手を片膝の週囲へ廻して、低い椅子の上に坐つてゐましたが 、どうやら迷惑そうな其顔は詰めて考へた為かポツト赤らんでゐました。
必竟、お祖父様がセドリックを英国へ来る様にと、迎をおよこしなさつたので、おつかさ んが行なければいけまいと思ふとおつしやるのでした。
おつかさんが悲しそうな眼つきで窓から外を眺めながら、

セデーや、おとつさんが入つしつたら、矢つ張りそうさせ度と思召すだろうとわたしは思 ふのだよ。
おとつさんは大層おうちを恋しがつて入つしやる方だつたよ、そうして、おまへはまだ年 は行かず、分るまいが、そこには色々考へなければならぬ都合もあるのだからね、全体、 わたしがおまへを引留めて遣なければ大層我侭な母になるのだよ、おまへがやがて成人す れば何も彼もスツカリ分り升よ。

とおいひでした。
セドリックは気のなさそうに、頭を振つて、

僕はネ、ホッブスおぢさんに分れるのが嫌でしよふがないんです。
僕も淋しひだろうし、おぢさんだつて、さむしがるに違いないんだもの、それから、みん なと分れるのが大変嫌なんです。

といひました。
さて英国からフォントルロイ殿お迎にとて遣わされたドリンコート家付属の代言人ハヴィ シヤムといふ人が、翌日此家へ来ました時、セドリツクは尚種々の話を聞ました。
併し成人の後、滅法富祐な身分になり、此処、彼処に城郭を所有し、美麗なる花苑、広大 なる鉱山、立派なる借地、借家が皆、目分のものになると聞ても、それがセドリツクの慰 めにはならず、たゞホッブスおぢのこと斗りが気に掛つてゐました。
それ故朝飯を済ますと直ぐ、心配しい\/彼の店へと出掛ました。
ホッブスは丁度新聞を読んでゐた処でしたが、セドリツクはいつもになくまじめ顔に側へ 寄りました。
自分に斯様\/のことがあつたと唐突に申したら、さぞ肝をつぶすだろうから、どふかし ておだやかに其話しがし度とセドリツクは道々考へながら来たのでしたが、ホッブスは突 然、

イヤアー、お早う!

と声を掛ました。セドリツクの方でも、

お早う!

といひました。
今日は何故か、例の高い倚子には乗らず、そこに有る明箱の上へ坐つて膝をかヽへてヂツ トしてゐたことが、やヽ暫くでしたから、ホッブスはやがて不審顔に新聞の上から見上て 、

イヤアーどふだ?

と云ひました。
セドリツクは此時一生懸命に気を落着けて、こふ云ひ出しました、

おぢさん、きのふの朝、こヽで話しをしてゐたこと覚へてゐ升か?

ソウサ、イギリスのことだつけナ。

と答へました。

エー、それから、ソラ、丁度メレが這入つて来た時ネ?

ソウダ\/、ヴィクトリヤのことだの、華族のことナニカ話してゐたつけナ。

それからネ、ソラ‥‥‥ソラと(篭りながら)アノ、侯爵のことネ、覚へてゐないの?

ホンニ、さうだつたナア、あいつ等のこともちつと斗り話してたつけ、ソウダ\/。

セドリツクは額の辺にフサ\/してゐた髪の根本まで真赤になり、凡そ、一生涯にこれほ ど間がわるかつたことはないと自分は思ひ、ホッブスおぢもいくらか間がわるくはなかろ うかと気遣ひながら、

おぢさん、こヽらの明箱へ、侯爵なんかの腰はかけさせないとおつしやたネイ?

と又言葉をつぎ升た。ホッブスは少し威張りかげんに、

ソウトモ\/、こヽらへ腰でも掛やうもんなら、ひどいめに逢はせてやるは、

と答へました。

おぢさん、そういふけれども、此箱の上へ腰かけてゐるのが侯爵だよ!

と聞て、ホッブスは殆ど倚子から飛落そうな気色でした。

何を言ふんだナア!

とビツクリ声で云ました。
セドリツクは遠慮気味に、

エー、デモ僕が侯爵なんです、アノ、これからそれになるんです、嘘いひやしませんよ。

といひました、
ホッブスは、これハ大変だといふ顔付で、俄かに立上つて、寒暖計を見に行ました、振り 向て、ヂツトセドリツクの顔を見詰ながら、

暑気にチツトやられてるナ、今日はまたすてきに暑いからナア、全体、どんな気持がする んだ?
どつか痛いのか?
いつから、そんな心持になつたんだ?

と立続けにとひ掛けて、セドリツクの髪毛の中へ大きな手を突込みました。
処でます\/、間がわるく、臆せ気味に。
ホッブスハ此時椅子にドツカト直り、ハンケチで頻りに額を拭ひながら、

ナンデモ、どつちか霍乱でもするにちげいねいんだ。

ととんきやう声で云ました。

イヽへ、おぢさん、そんなことハないんですよ、ネイ、おぢさん、仕方がないから、二人 とも明らめなくつちやネ、ダツテ、ハヴィシヤムさんが、態々イギリスから其話しを聞か せに来たんで、僕のお祖父さんがよこしたんですと。

ホッブスハあつけにとられて、セドリツクのまじめなあどけない顔を見つめながら、

おまへのおぢいさんとハ、それハ一体、誰なんだへ?

と尋ねました。
セドリツクハポツケツトの中へ手を入れて、丸ッこい、子供ら敷手跡で、覚束なさそうに 書た紙切を取出して

僕ハよく覚へてゐられなかつたからネ、これへ書付けて置たんです、(といひながら迂論 な調子で)、ドリンコウト侯爵、ジョン、アーサ、モリノー、ヱロルと読上げ、それが僕 のお祖父さんの名なんです、そうして、お城に住んでゐるんですと。
ソウソウ二ッも三ッもお城があるんですと。
僕のとうさんネ、死んだ僕のとうさんハ一番の末子で、僕ハとうさんがおなくなりなさら なけれバ、侯爵にナンカ成りやしないんで、それから、とうさんの兄さんが二人おなくな りなさらなけりや、とうさんも侯爵にならない処だつたんだけれど、みんな無なつてしま つて、僕切り残つてゐて他に男の子がないからネ、僕がならなけりやいけないんですと、 ダカラ、僕のお祖父さんがイギリスへ来いつて、迎をおよこしなすつたんですよ。

ホッブスはます\/逆上あがつた様子で、額と頭の禿たおけしを絶間なく拭ひながら、頻 りに忙敷い息づかひをしてゐ升た。
何うやら不思議なことが実際あつたのだと云ことは少しづヽ呑込めては来ましたが、眼の 前にあどけない、気遣わしそうな貌付をしたセドリツクが明箱の上に腰かけてゐて、見れ ば、少しも以前と変つてはゐず、矢張り、きのふ見た時の紺の服に赤い頚飾をつけた器量 よしで、心易くつて、きつそうな童子に相違ないこと故、華族がどうして、こふしての話 しが中々チヨツト合点が行ませんかつた。
其上、セドリツクの話振が余りに無邪気で、さつぱりとしてゐて、自分には大したことと も一向気が付かずにゐる様子ゆゑ尚更仰天したのでした。

おまへの名はなん‥‥‥なんだつたつけナ?

と問ひ掛けました。

アノ、フオントルロイ殿、ヱロル、セドリツクといふんです、ハヴイシヤムさんがなんで もそういひましたつけ、僕がネ最初、坐敷へ這入つて行つたらネ、これがフオントルロイ 殿で御座るか、といひましたつけよ、

フーン、おらあ、あきれつちまつた!

ホツブスおぢのこの言葉はいつも非常に驚いたとか、気の揉めるとかいふ時によく出たの でした。
差当り、仰天の余り、他にいふことも思付きませんかつた。
セドリツクは矢張り是が相当な、差支ない嘆息の言葉と許り思つてゐました。
ホツブスを非常に敬愛してゐる処から総て其言葉までが、尤もに感じられて、いつも心服 してゐました。
未だ世間の交際も知らぬセドリツクにはホツブスの余り礼義正しい人物でないことは気が 付ませんかつたが固より自分のおつかさんと比べて見れば、ホツブスの違つてゐたことは 分りました、併しおつかさんは婦人のことゆゑ、婦人と男子とはどふしても違つてゐるも のと自身に道理をつけてゐました。
此時なにか物足りなそふにホツブスを見詰めてゐましたが、暫くして、

おぢさん、イギリスは大変遠いんだネ?

と尋ねました。

ソウサ、大西洋を渡つて向ふだよ、

と答へました。

僕はそれが嫌なんですよ、ヒヨツトスルトいつまでか逢れないネ、おぢさん、僕はそれを 考へると嫌になるよ。

親友も離れさるを得ずといふことがあるは。

とホツブスがいひました。

ソウ、おぢさんと僕は幾年か親友だつたんだネ。

ソウトモ、おまへが生れるからだわ、此町を抱かれて歩いたのはなんでも生れてから四十 日もたつてからだつけ。

セドリツクは溜息をつきながら、

アヽ\/、僕は其時分侯爵ナンカニならなけりやならないと思はなかつたつけ。

おまへ、よす訳にはいかないのかナ、

どふもそうは行ないようですよ、かあさんがネ、とふさんが入らつしやればキツトそうさ せ度つておつしやるつていひましたよ、ダガネ、僕はどうしても侯爵にならなくっちやい けないんなら、こふする積りですよ、ネイ、僕は極く好い侯爵になるんです、圧制家にな んかはならないんです、そうしても一度アメリカと戦争しよふナンテいわふもんなら、僕 が一生懸命で止めませう。

これからホツブスと久敷間子細ら敷話しをしてゐました、最初の不審が解けてからはホッ ブスは存外愚痴つぽくなく余議ないこととして観念した様うでした、セドリツクが暇を告 るまでにはさま\゛/なことを尋ねました。
セドリツクは思ふ様に返事が出来ませんかつたから、自分で自由に理屈を付けて、段々侯 爵、伯爵の談話に油が乗つて来てから、こふいふもんだ、あヽいふもんだの、講釈はハヴ ィシヤム氏にでも聞かせたらさぞ肝をつぶさせましたろう。(以上『女学雑誌』二二九号 )


    小公子           若松しづ子
     第二回(中)
併し、ハヴィシヤム氏の驚いたことはまだ外にいくらも有り升た。
是はイギリスに一生を送つて、米人と米国の風俗には少しも慣れて居らなかつた故でした 。
職務上ドリンコート家には四十年間も関係して居り升て、之に付属してゐる莫大の富も、 威光も好く知つてゐること故、自分は全体冷淡なたちで、職務上の外は容易に口を開ぬと いふ人物なるにも係わらす、遠からず、一切を受継で、ドリンコート侯爵の尊号を名乗る 可き此童児を流石に軽忽には見做しませんかつた。
此人はまた長男、次男が老侯の意に叶わなかつたことも、カプテン、エロルが米国婦人と 結婚したのを烈敷憤ほられたことも、其未亡人が忌み嫌はるヽこと今尚ほ以前に異ならず 、其人の話になれば毎も知らす、識らず、言葉を荒らげ玉ふことも承知して居り升た。
老侯はいつも此婦人こそ我子の侯爵家の子息たるを知り、手練を以て欺きたる卑劣なる人 物なれと断じて詈しり居られ升た。
ハヴィシヤム氏も、それ或は然らん位に半信半疑で居り升たが、其生涯の中には、随分勝 手気侭な人物にも、貪欲な人物にも出逢ふたことのある人でして、増して米国人をば余り 好く思ひませんかつたこと故、かく思ふも無理ならぬことでした。
御者の案内で、馬車がトある下賎らしき町へ這入り、安ツぽい、小さな家の前へ止まつた 時に実際ギヨツトした位でした。
苟しくもドリンコートの城主と呼ばる可きものが角に万屋らしき小店のある下賎な家に生 れて、生長したと云ふは、どふ思ふても余りに不相応なことと感じました。
生れし男児と云ふは如何なる人品、又母たるものヽ人柄はいかゞあらんと気遣ひつヽも、 心は一向進まず、有難くもなき対面と少し躊躇の気味でした。
自身がこれ迄久敷間其公務を引受けて居つた大家の事ゆへ、自然贔負も出来て見れば、亡 夫の古郷と、名家の尊巌などに考への及バぬ卑劣貪欲なる婦人と掛引せねばならぬ仕合は 迷惑千万に思はれたのでしたらう。
此老成なる代言人は生来冷淡、英敏なる事務家でしたが、高名なる此旧家に対しては容易 ならぬ尊敬心を懐いて居り升た。
メレの案内に連れて通ふつた座敷を見、批評的に眺め升たが、質素にしつらつてある中に も案外小ざつばりとして住み好さそうでした。
包囲には安ぽい虚飾置物や額は見えず、壁に掛つた多くもあらぬ額面は品好きもの耳で、 婦人の手に為つたろうと思ふ奇麗な飾付が外に少し斗り有りました。
先づこれ位ならば大して悪くはないが、カプテン、エロル殿の嗜好が好かつた為かも知れ ぬと心の中に思ひ升た。
併しエロル夫人が坐敷へ這入つて来たのを見ると同時にどうやら其人品が矢張り其包囲と 相応て居るといふことに気が付ました。
此人が若し沈着で、物に動ぜぬ老紳士でなかつたならば、夫人を見た時の驚きが必ず容貌 に露はれたに相違有ません。
其質素な黒い喪服が窈窕な姿をよくも装ふた処は七歳になる童児の母といわふよりは寧ろ まだうら若き処女と思へる様でした。
其若\/しい貌は奇麗に萎らしく、其大きやかな茶勝の眼には何処となく、優愛で、おぼ こ気な様子が有ました。
此一体に萎\/とした処は夫に離れて以来まだ全く、去り切らぬ様子振りでした。
セドリツクは此様子をよく見慣て居り升たが、一時其の憂はしさが消失せて、母の貌のさ え\/するのを見るのは、只だ自分が一処に遊ぶときとか、話しをしてゐる中に、何か思 はず妙なことをいふ時とか、又は新聞を読んで覚えたか、ホツブスの談話で聞た可笑なま せた言葉をつかつた時とかのことでした。
セドリツクは六ケ敷、長い言葉をつかふのが好でして、おつかさんのお気に入るらしいの は嬉しいけれど、自分は一生懸命で言ふのに、なぜ人々には可笑か知らんといつも思つて ゐました。
さすが代言人丈あつて、彼の人は人物を見るのは得意でしたから、セドリツクの母を一眼 見ると直ぐに老侯がエロル夫人をば下賎で、貪欲な人物と見做した判断の大誤で有つたこ との合点が行升た。
ハヴィシヤムといふ人は一生独身で送つた人で、恋といふことさへ知りませんかつたが、 此可愛らしい声の、萎らしい眼の若婦人がカプテン、エロルと結婚したのは、全く其優な 心を尽して其人を愛恋した故で、損益上、侯爵家の子息なることは考に這入つたこともな いといふことの推測が出来ずして、先、これなれば掛引の面倒もない、又若年のフォント ルロイ殿もドリンコート家にとつてさまでの厄介物でもあるまいかと思はれて来ました。
それから又カプテンは生来、美男子であつて、此婦人も美人なれば、其子は多分器量が悪 いことはあるまいと考へ升た。
最初、先エロル夫人に来意を告げました時、夫人は忽ち貌色を変へました。

オヤ、さ様ですか、さ様ならば、私はあの子を手離さねばならぬのでせうか?
マアーあの様によく懐て居り升に、只今まで此上もなく楽しみにいたして、出来る丈の注 意をして育てましたに、ソシテ他に何の楽しみもない私にとつてハ、他人には分らぬほど 大事な子で御座り升のに‥‥‥、

といふ声の震へた処は如何にも愛らしく、眼には涙を一杯に湛へてゐました。
彼の代言人はしわぶきしてかふいひ升た。

チト申悪い事ですが、老侯は尊夫人に対してエー、其‥‥‥ひどく打とけては居られぬの で、イヤ御承知の通り、老人と申者は兎角偏頗な者でナ、老侯も基偏頗心の甚はだ強い方 で、一度思ひ込だことは中\/解にくいのです、殊に米国といひ、米国人といへば、一途 に嫌な質で実は御子息の御結婚のことに付ては、イヤ大した立腹で御座つた、愚老も実以 て面白からぬ御沙汰の使者として推参するは迷惑な次第です、併し早い話しが老侯は貴夫 人とは断じて顔を合すまい、たゞフォントルロイ殿は手元へ引取り、自ら其教育の任を採 り度との御所存で御座る。
元来、老侯はドリンコート城には余程執心で、お住いは重も此城中で、炎症痛風の持病あ る為、都には余り御滞在はないのです。
それ故、フォントルロイ殿も矢張り重もドリンコート城に御住いになることで御座ろう。
貴夫人にはコート、ロツヂと申して、此城郭に遠からぬ、家屋を呈し、又是に加へて適宜 なる歳入も差上る御所存で御座る。
フォントルロイ殿がこヽに出入し母君の機嫌を伺はるヽことは自由にいたし置るヽ筈、只 差留置るヽは対面井に城郭への御出入のみで御座る。
只今申し上る通り故、先方の謂分もさほど無理とは存ぜられぬかと思ひ升テ。
殊に申迄もなく、かくなる上はフォントルロイ殿にとりては教育其他万事に如何程の御利 益か測られませぬこと故、篤と御勘考願升。

と述立て、さて婦人は兎角涙もろいもの、かふ聞て泣出されはせぬか、左様なこともあら ば苦々敷ことと心密かに其様子を窺ふて居り升たが、其様子もなく、たゞ窓際へ立寄て、 暫く顔を背向て居られたのは、心の動揺を静める為で有つたのでした。
幾ほどもなく、

カプテン、エロルもドリンコートを大層に慕ふて居られ升た。
お国のことと云へば何でもひどく慕はしく思召して、お家を離れて居らるヽが始終御苦労 の種で有つたのでして、お家のことも御家名のことも格別大切に思るヽ方でしたから、其 子に故郷の立派な処も見せ、殊には又未来に賜はるといふ位爵に対して相応な教育が受さ せ度と、若し御存命ならば、思召は必定で御座り升。
といひ乍ら、席へ戻り、ハヴィシヤム氏をしとやかに打見遣り、
夫が矢張り其通りに致し度と思ふだろうと存升上は私くしは他の考も御座りません。
仰の通り、子供の為には結構なことで御座りませう。
そして、アノ侯爵様はまさか子供が此母を嫌ふ様にはお仕付遊ばすこともあるまいかと存 じられ升。
万一さ様に仕付やうと思召たとて、子供の害にはなり升まいかと思ひ升。
誠に父によく似て、温和、忠実な方ですから。
仮令、長の年月顔を合せませんでも私をおもふことには変りは御座りますまい、増して折 節の対面をお許下さるとならば格別申し分も御座りません。

と何気ない言葉を聞て老人の心の中に、さては心得たる婦人、自分のこととては露ほども 思はぬと見えて、別段先方へ要求らしいことも申出ないのかと思ひ、

イヤ、貴夫人が只管、御子息の行末のためにと御配慮あるは此老人も実に感服に存じ升る 。
フヲ(小字)ントルロイ殿も御成人となりたる上如何ほど悦ばるヽか、斗れませぬ。
以来フヲ(小字)ントルロイ殿の御一身、御幸福の為には老侯にも充分御尽力ある御処存 なれば、其辺は御心易く思召して宜しかろうと存じ升。
キツト老侯には貴夫人に代つてどこまでも御保護、御掬育あることはおうけ合致して置ま す。

と聞いて優しい母心に少し思ひ迫つて、震へ声になり、

どふぞ侯爵さまにはセデーにお眼かけられて愛して下されば好うござい升が、あれは気立 が誠に人懐こい方で、これまで優しくされつけて居り升から。

といひ升た。
ハヴィシヤム氏は又少し拍子抜がした様に咽喉を払ひました。
心の中にどふも彼の持病持な、癇僻ある老侯が大して人を愛する様なことは間違つてもな いかと思はれました。
併し自分の後を継ぐ可きものを懐けて置くは利益で有つて見れば、先深切には扱ふであろ う、又人物が自分の気に叶へば、随分、人に対して自慢する程だろうかと思ひ升た。

フヲ(小字)ントルロイ殿はキツトお気楽には相違御座りません、必竟、貴夫人が近隣に 御住居なさる様、お取斗ひあつたと云もフヲ(小字)ントルロイ殿のお心の中を推測つて の御配慮で御坐る。

怜悧くも答ました。
ハヴィシヤム氏も流石侯爵殿の申された通りを其まヽ伝へるに忍びす、態と言葉を和げて 滑らかに聞へる様に注意致しました。
さてヱロル夫人がメレに子息を尋ねて連れ帰る様に申付けて、メレが其有家を申した時、 老紳士は又も一度ドツキリ致し升た。

へイ\/、雑作もなく見つかり升とも、又いつもの通り、今時分はホッブスさん処の帳場 のワキへお腰をかけて、政事の話しをして入つしやるか、ソウデなけりやあ、シヤボンや 、蝋燭や、馬鈴薯のあるなかで御機嫌で遊んで入つしやるにちげい御座いませんよ、エど ふもお悧巧で、おかうゑいらしいんですからネ。

とメレがいひ升た。
ヱロル夫人は其跡を継いで、

ハイ、アノホッブスと申す人はセデーが生れた時から御存じで、大層深切にして呉れるの で、セデーもよく懐いて居り升。(以上『女学雑誌』二三〇号)


   小公子        若松しづ子
    第二回(下)
自分が角を過つた時、チヨツト眼に這入つた馬鈴薯や林檎の箱、其他種々雑多の商物の散 乱してゐた小店のことを此時思出し升てハブィシヤム氏は又心に疑を生じ升た。
いかさま英国では苟くも紳士の家に生れたものは、万屋の亭主などヽ友誼を結ぶといふ様 なことは有ませんかつたから、今聞たことが余程不思議な所行に思はれ升た。
もし其子供が行儀賎しく、下卑た人の交際を好む様ならば、それこそ当惑なことと考へ升 た、老侯が何よりも不面目に感じられたことは、長男、次男の両人が、下賎の者の交際を 嗜んだことでしたから、此子が万一、質父の見識を受継ず、却つて伯父たちの悪癖を遺伝 しはせぬかと、少し気遣はしく思始め升た。
エロル夫人と談話の最中、此ことに付て心安からず思ふて居り升たが、其中戸が開ひて、 子供が坐敷へ這入つて来升た。
最初、戸が開き升た時、何故ともなく子供と顔を合るが嫌に思はれて、チヨツト躊躇升た 。
然るに手を広げて迎へる母の方へ走り寄る子供を見ると同時に、此老紳士の心の中に起つ た得も云はれぬ感情を、平素其実着、沈静な気象を見貫て居たものが知り升たら、余ほど 不思議なことに思ふことでしたろう。
さてかくまで非常にハ氏の心を動かしたものは、一種反動的の感情でした。
一見して其童児が嘗て見ことのないほどな秀逸ものと分りました。
殊に容貌の美いことは非常な者でした。
其体つきの倔強で撓やかな処、幼な顔の雄々しき処、子供らしき頭を抬げて進退する動作 の勇ましい処、一々亡父に似て居ることは、実にギヨツトする斗りでした。
髪の色は金色で、父に似、眼は母の茶勝な処にそつくりでしたが、其眼付には、悲しそう な処も、臆せ気味な処もなく、只あどけない中に、毅然とした処のあるは、一生涯、なに ヽも恐ぢたことなく、疑つたこともないといふ気配でした。
ハ氏は心の中に、是は又大した上品な、立派な童児だとおもひましたが、口へ出しては極 く淡泊に、「サヤウならばこれなるがフォントルロイ殿で御座るか」といひました。
此後、童児を見れば見るほど意表に出ることが多あり升た。
ハ氏は英国で見た子供の数の最も多中に、巌重、丁寧に抱への師匠に仕着けられた、気量 好の、立派な童男、童女も多くありました。
中には控めの質なのもあり、又中には騒々敷方のもありましたが、忸れ近づいて、子供と いふはどふいふものと気を留めて見たことは有りませんかつた。
尤もハ氏の如き四角張つた、巌整な老成代言人にとつては、子供などは別段面白いことは なかつたでせう。
然るに、セデー丈には、普段と違つて、よく注意したといふものは、此童児の運命は、自 分の利益に関係の多い処からで有つたのか、又はそうでないのか、兎に角知らず、識らず 、非常に注意を引起されてゐ升た。
セドリツクの方では自分の眼を着られて居るとも何んとも気がつかず、たゞ平生の通りの 挙動をして居り升た。
自分がハ氏に紹介された時、いつもの通り丁寧に握手して、ホッブスと応答すると替つた 調子もなく、問はるヽ毎に雑作もなく返事をしましたが其様子は恐気た風もなく、さりと て差出ケ間敷処も有ませんで、ハ氏が自分の母と話をしてゐた間、ヂツト聞いて居つた様 子は、ハ氏には丸で成人かと思われる位でした。

御子息は誠にお巧者の質に見受けられ升、

と母に向つて申し升た。

左様で御座い升ことによるとさうかと存じます。
物覚は極く宜しい方で、只今まで重に年上な人と計り居り升たから、聞覚や、読み覚の長 い言葉を遣ひ升たり、ませたことを申たりする僻が御座り升て、折々大笑をいたし升。
仰の通り、どちらかといへば、巧者なたちでせうが、又時としては矢張り、極々子供らし ふ御座り升。

此後ちハ氏が再たびセドリツクに出逢ひ升た時、母の申分を思ひ合せて、本に子供らしい 子といふことが分りました。
馬車が角を曲がると、一組の童児が眼に這入り升たが、見れば何か大層イキセキしてゐま した。
其二人は今しも走りくらべにかヽらうといふ処でしたが、二人の中の一人は未来の侯爵殿 で、朋輩に負けず、劣らずの騒をして居られました。
丁度今、合手の子供と並びたつてゐて、赤い靴足袋を穿た脛を向ふへ一歩踏み出してゐる 処でした、主唱者は大声に、

よろしいか?
一ッチデ始まり‥‥‥二ッデ確乎、三ッデやれ‥‥‥

と呼はわつてゐました。
ハ氏は知らず\/首を馬車窓の外へ出して、大層身を入れて勝負を眺めてゐました。
合図の言葉と共に跳出した若侯の立派な赤い脛が膝切ヅボンの後へ躍り挙り、殆ど宙を飛 かと思ふ様な塩梅は、未だ嘗て見たことのない壮観だと思ひ升た。
セドリツクは少さな両手をシツカリ握つて、風に逆つて走り升がた、きら\/した髪は浪 々と後ろへ吹流されて居升た。
朋輩の男児等は夢中になつて足踏をしながら、狂ひ声に呼たて、

セデー!
ヤツヽケローイ。
ビレー!
負けるナアイ。
ヤレイー!
ヤツヽケローイ!

ハ氏は独言に、

矢張りこちらが勝そうだ。

といつてゐ升た。
彼の赤脛の飛工合、朋輩等の高声、赤脚に少し後れてゐても、中々軽蔑の出来ぬビレの鳶 色の脛が夢中に競争するも、何れもハ氏の心をいらだてる原因でした。

どうぞして勝せて見度ものだと。

又我知らず独ごちて、あとで人もゐぬに間のわるそうにしわぶきしてゐ升た。
丁度此時跳上り、躍り廻つて居つた童児等が、一斉に鯨声を作つたと思と、未来のドリン コート侯爵は最後の大奮発の一飛で、角のガス灯の柱に達し升たが、これはビレが息を切 つて其柱へ飛掛つた二セコンドほど前のことでした。

ヤアやつたな、セデイ、エロル!
えらいぞッ。

と朋輩等が叫びました。
ハ氏は此時暫し馬車の窓から首を引こめて、にこ\/しながら後ろへ寄り掛りました。

フオントルロイ殿大でかしで有つた。

と又独言を云ました。
自分の馬車がヱ口ル夫人の家の前へ着た頃には勝負を終へた両人は、ガヤ\/ドヤ\/と 立騒ぐ一ト群の童児等に後を推されて参り升たが、セドリツクはビレと並んで歩いて居つ て、何かいつて居り升た。
其いらだつた顔は真赤で、ちゞれた其髪は熱して汗ばんだ額へくつヽいて居つて、其両手 は、ポツケツトの中へ這入つて居り升た。

ネー君、僕が勝つたのは僕のすねが君のより少し長いからだろうよ。
なんでもそれにちがひない。
ネー君、僕は君よりか三日早く生れたろう、だからそれが僕の得になつたのだ。
僕は三日丈、君の上なんだもの。

と勝負に不首尾な自分の競争者を慰める積りか、いつて居升た。
こふ思つて見ればビレも心わるくなく、段々白い歯を顕しかけ升た、そして其中に却つて 自分が勝でもしたかの様に少し威張り気味に成升た。
セデイ、エロルはどふいふものか人の不機嫌をなだめる法方を知つてゐました。
自分が勝利を得て心の浮\/してゐる時でも負かされた人は自分ほど愈快ではあるまい、 こうならば勝てたものと思はれヽば、幾分かの心遺りになるだらうと、人の心の中を推す る徳を持つてゐました。(以上『女学雑誌』二三一号)




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