『小公子』第四回本文
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『小公子』初出本文のHTML化について

○方針
1)原姿をとどめるように配慮した。このため、底本の誤字・誤植などもそのままとした。 一方で、傍線・傍点などの類は復元できなかった。
2)原則として新字旧仮名とした。また、新旧の対立のない字でも適宜現在通用のものに 直したものがある(例、歿→没 附→付)。ただし、この基準は今後変更する可能性があ る。
3)底本では原則として段落分けのための改行・字下げはない。が、ブラウザでの読み取 り速度を上げるため、一文ごとに改行をいれた。
4)当分のあいだ、ルビを付さない本文のみを掲げることとし、準備が整い次第、ルビつ き本文を提供して行きたい。

○作業の流れ
1)荒い入力を佐藤が行い、プリントアウトした。
2)それに、古市久美子(96年3月卒業)が初出本文と校訂を行った。
3)佐藤と古市でHTML化した。



小公子

  第四回  (上)    若松しづ子



次の週間の内にセドリツクハ侯爵になる利益をます\/知始ましたが然し何事でも自分の望む通り殆ど叶へられぬことはないといふことは中\/セドリツクの心に呑込めぬ様子で。
併しハ氏と段々話をする中に、差当り自分の望むことは皆叶へられるといふこと丈はやう\/呑込めて来た様子でした。
又セドリツクの望の単純なことと其満足しての悦びを見ることとは、ハ氏に取つて余程の娯楽みでした。
英国へ向けて出帆する前の一週間には色\/珍ら敷ことが有り升たがある朝、ハ氏はセドリツクを同伴して彼のヂツクを訪問に下町へ出かけたこと、又同日の午後には彼の門閥家なる林檎売婆の露店先へ立つて天幕と、火鉢と肩掛と婆には莫大に思はれた金円とを遣るといふて肝をつぶさせたこと、是皆ハ氏が奇異の余りに久敷記臆て居つたことどもでした。
セドリツクは可愛らしく彼の女に事の様を説明していひ升た、

ダツテ僕はイギリスへ行つて華族になるんだもの、そうしてね、僕、雨が降る度んびにお婆さんの骨のこと考へるのは嫌だもの、僕の骨なんかはネ、ちつとも痛くはないのだよ、だから、僕はどんなに痛いんだか知らないけれど、僕はお婆さんが気の毒でネ、早くよくなれば好と思ふんだよ。

さて露店のあるじは余りのことに自分に思はぬ果報の向いて来たことは合点行ず、アツケにとられて開た口も閉がらぬ中に両人ははや立帰り升た。
セドリツクは、

アノ林檎やのお婆さんは大変好い人ですよ。
先にネ僕がころげて膝をすりむいた時、たゞで林檎を呉たんですもの、それから僕は始終アノお婆さんのこと覚へてゐ升よ。
誰だつて深切にしてくれた人忘れられませんネイ。

と云升たが、其正直、質朴なる心には人の深切を忘れるものが世には数多あることは思ひもよりませんかつた、ヂツクとの応接も亦中々面白いことでした。
ヂツクはジエークといふ朋輩と何かいさかひをした処で、気のなさそうな顔をして居り升たが、セドリツクが大した金子を出して後の禍を悉く追除て遣うと云のを聞ゐて、物も云へぬほど仰天し升た。
フォントルロイ殿が来意を述られた様子は誠に淡泊、無造作で側に聞てゐたハ氏は殊に感腹した塩梅でした。
ヂックは自分の朋友と思ふてゐた人が、何々殿といふ位に登つて、それから命さへあれば侯爵に飛登るのだといふ話しを聞ゐて、ヂックは眼をむき、ロを開いてギヨツトした拍子に、帽子を落して仕まいました、それを拾ひながら妙なことを云升たが、ハ氏には不思議に聞へ升た。
併しセドリツクには其意味が分つたのでした。

なんだ!
かつがふたつて知つてるよ!


若侯は是を聞いて正しく避易した様子でしたが、大胆にも気を取り直して、こふいふて説明いたし升た。

アノネ、誰だつて始めは本当じやないかと思ふんだよ。
ホッブスおぢさんなんかも僕が霍乱してるのかと思たんだよ。
僕も始めは嫌でたまらなかつたけれど、今はモウ慣れてよくなつたんだ。
今の侯爵様はネ、僕のお祖父さんで、何んでも僕がし度様にしろつて、大変深切な人で、そうして本当の侯爵なんだよ。
それからハヴィシヤムさんに預けて金をたんと僕によこして呉れたんだから、ジエークの方をつける様に君に少し持つて来てやつたんだネイ。

事の結局はヂックがジエークの方を附けて、一手に客をとる様になり、其上新しい刷や非常に眼にたつ看板と服が出来たことでした。
然るに彼の門閥家の林檎屋と同然で、一寸には自分の果報が真と信じられぬ様子で、夢の中に辿つてゐる人の様に、恩人なる若侯の顔をヂツト見詰めて、何時眼がさめるかと思ふてゐる塩梅でした。
そうして、セドリツクが暇乞をしやうとて手を出した迄は、丸で無感覚の様でした。

それならモウ失敬!。
これから繁昌したまへ。
僕は君と別れて行くのは嫌だけれど、僕が侯爵になつたら又た来るかも知れないよ。
君と僕は親友だから手紙をよこしてくれ玉へ。
これは手紙をよこす時の所書だよ。
そうして僕の名はセドリツク、エロルじやないよ。
フォントルロイ殿といふんだよ。
失敬!

と何気なく云わふとしても声が少し震へて、そうして例の大きい茶色の眼を妙に眼叩きさせてゐました。
ヂックも眼ばたきしてゐて、睫の辺が湿つぽい様でした。
此靴磨は教育のない子でして、自分の心に感じたことを云ひ現はすことが出来ませんので、云ひ現はそうともせず、たゞ眼をパチつかせて、咽喉へ上つて来た塊物を漸くに呑込んでゐました。
やがてカス\/した声で、

行つちまわなけりや好いナア、

と云つてハ氏に向ひ、会釈しながら、

旦那、どふも色々有難う。
逢に連れて来て下すつて有がたう。
どふも妙な子で、大変可愛くつて、ヘイ、エイ‥‥‥其威勢の好い奴で、エー‥‥‥エー‥‥‥妙な子で、

とロ篭りながら云ひ升た。
そうしてセドリツクの威勢の好い姿が、背高く、武張つたハ氏に伴つて行く跡を、立たまヽボツトして見てゐましたが、眼の中の曇りと咽喉の塊物はまだ去り兼ねてゐました。
さて出立の其日まで、若侯は間を見てはホッブスの店へ行つて居ました。
近頃ホッブスは兎角気鬱になり勝で、セドリツクが置形見の金時計と鎖を大勢で持つて来升た時などは、ろく\/挨拶も出来ぬ位でした。
其箱を自分の膝の上へ乗せたまヽで、幾度も\/烈しく鼻をかんでゐました。
セドリツクは、

おぢさん、なんか書いてあるよ、箱の中に、僕が、書いてくれつて頼だんです。
ネイ「ホッブス氏に呈す、旧友フォントルロイより」でせう、

ホッブスは又烈しく鼻をかみました。
そうしてヂックの様なカス\/した顔で、

わしは忘れやしないが、おまへも英国の貴族の中へ這入つて、わしを忘れちや困るよ。

僕、だれの中へ這入つたつておぢさんを忘れるものかね、僕はおぢさんとゐた時が一番嬉しい時だつたもの。
いつかおぢさん僕に逢ひに来て下さいな。
僕のお祖父さんはキツト大変嬉しがり升よ。
僕が行つておぢさんのこと話せば、おぢさんにお出なさいつて手紙をよこすかも知れませんよ。
おぢさん‥‥‥おぢさんアノ僕のお祖父さんが、侯爵なの、かまやしないネイ?
アノ若しお出なさいつて云つたら、侯爵だから嫌だなんて云やしないネイ?

ホッブスは寛大らしく、

よし\/、そうしたら逢に行ふ。

と云まして、そこで侯爵殿からドリンコート城に暫時来遊あれと鄭寧なる招待状の来ることがあれば、ホッブスが共和主義の僻見を捨て旅仕度をするといふ條約がこヽに出来ました。(以上、『女学雑誌』二三六号)





小公子
  第四回  (下)    若松しづ子
遂に、旅仕度も悉く整のひ、荷物を蒸気船へ運ぶ可き日も来り、其中馬車も戸口へ止り升たが、セドリツクは此時妙に淋しい心持になり升た。
暫らく自分の部屋に閉篭つて居つた母が、下へ降りて参り升た時、母の眼が大きく濡れて居つて、愛らしい口元は震へてゐ升た。
セドリツクは思はず側に寄り升て、母が屈んだ処へ抱き附いて、共にキスをしました。
何故とは分らねど、両人とも裏悲しひ心持になつてゐたのを、セドリツクは先づ承知して、萎らしひおもひを、口へ出してこふ云升た、

かあさん、ふたりとも此家好だつたんですネ?、
いつまでも好になつてゐませうネイ?。

母は低い優しい声で、

セデーやほんにそうだよ。

それから馬車に乗り移た時も、セデーは殊さらに近く母にすり寄り、母がなごり惜そうに馬車窓から振り返つて見てゐ升た時、セデーは母の顔を窺いて、そうして母の手を撫でながら、シツカリ握つてゐ升た、そうこうする中、間もなく、恐ろしひ混雑の中に蒸気船へ乗り移り升た。
客人を乗せた馬車は、頻りに往復して、其客人は荷物の遅くなるのに気をいらつてゐ升た、大きな櫃や箱を投げ出しては引づり廻る者が有れば、船頭たちは縄を解て、こヽかしこに奔走してゐ升た。
貴婦人や紳士、子供や守りは、追々と乗込んで来て、笑つて嬉しそうな貌つきの者が有れば、口を閉ぢて悲しそうな様子の人もあり、其中に二三人のひとは泣ながらハンケチで眼を拭つてゐました、セドリツクには何処を見ても面白くないものはなく、縄の積や、捲いた帆や、殆ど蒼い炎天を突かとおもふ程高い帆柱などを見るにつけ、船頭たちに話かけて海賊といふもののことを聞出そふといふ心算が、モウ心に浮びました。
最早出立の極く間際になつて、セドリツクが甲板の手欄に寄り掛りながら、船頭や波止場人足の騒動を面白く思ひ乍ら、最後の準備を見て居る時に、自分に遠からぬ一群の中に、何やら少し込み合ふ様子のあるに気がつき升た。
誰か其群集の中をくゞり抜けて自分の方へ来ると見れば、手に何か赤い物を持た男児であつて、よく\/眼をすへると、イキセキセドリツクの方へ近よるものは、まがひもないヂツクでした。

イヤア、駈つ通ふして来たんだよ、おまへに逢ふと思つて。
大変な繁昌でネ、昨日の儲で之を買つたんだ。
おまへヱライ人のとこへ行つたら持て、歩るくが好い。
下で上げねへちうもんだから、おれが騒ぐ内に、包み紙がどつかへ行つちまつたんだ。
ソラ、ハンケチだぞ。

とのべつに言つて、セドリツクが何とも返事の出来ぬうちに合図の鐘の鳴るのを聞いて、又一飛に駆て行つてしまいました。
行く前に息を切りながら、

さいなら!
エライ人のとこへ行つたら、持つて歩るきねへよ。

といふ声を残して影は見へなくなり升たが、間もなく、込み合ふ中をくぐりぬけて、下の甲板へ下り、波止場へ足をかけるかかけぬに、桟橋は船へ引上つて仕まいましたが、波止場に立ち止つて頻りに帽子を振つて居り升た。
此方にはセドリツクが、今貰つたハンケチを手に持つて、向ふを眺めて居り升たが、見れば、紫色の馬靴と馬の頭が飾に附いた、真赤な絹のハンケチでした。
其中一層ひどひ混雑の中に輾る音や引張る音が惨ましくなつて来まして、波止場に立つ人は、船の上の人を望んで叫び、般の上の人は送つて呉れた朋友に叫んで暇乞をする其声が、

さよなら!
皆さんさようなら!
忘れては嫌ですよ!
リヴアプールへ着たら、手紙をおよこしなさい!
さよなら!
さよなら!。

と誰云ふとも知らず、暫らく鳴りも止まずきこえました。
フォントルロイ殿は欄干へ寄つて、ずつと前へ身を伸しかヽり、大威勢に、

ヂツクや、さよなら、有難うよ、ヂツクや、さよなら!。

と呼はつて居ました。
スルト大きい蒸気船は静かに動き出し人々はまた大声に呼はり、セドリツクの母は覆面をことさらに眼の上へ垂らし、海岸では大した混雑でしたが、ヂツクはフオントルロイ殿のパツチリした可愛いらしい顔と、きら\/光つて、風に吹き流されてゐる頭の髪を、ながめて居つて、他は一向に夢中でした。
フオントルロイ殿は精一杯な幼な声で、

ヂックや、さよなら!。

と呼つて居ましたが、汽船の徐かな進行と共にフオントルロイ殿は故郷を離れて、まだ知らぬ先祖の国へ旅立いたしました。
此の船旅の間に、セドリツクの母は、自分の住居とセドリツクの住居とが、別々になるのだと云ふことを始めて云つてきかせました。
セドリツクがそれと漸く合点の行ました時、驚き歎くことが非常でしたから、ハ氏も母を切めて近い処に住まはせて、折々対面の出来る様にした、老侯の取斗らひに感服した位でした。
さもなくば、到底母と引別けることは為し難い様に思はれました。
併し母の慈愛を篭めた優しいなだめにより、左程に遠く離れるではなく、誠の離別ではないといふことが分つて、漸く少し慰めを得た様子でした。

セデーや、わたしの家といふのは、お城から大して遠いのではないよ、少ふし斗りしか離れてゐないから、おまへが毎日馳けて来て逢る位なのだよ、それからおまへが色々かあさんに話すことが出来るだろうし、いくら嬉しいか知れないよ、ネイ?
お城といふのは、一層美しい処だつて、とうさまがよくお話しをなすつたつけよ。
とうさんは、大層そこがお好だつたが、おまへもキツト好になるよ。

と其話が出る度に、かう申てはなだめました。
セドリツクは、大歎息で、此話を聞き、

ソウ、それでも、かあさんも一処なら尚ほ好になるは。

と云ました。
子供心に、母と自分とを別々の家に引別けるといふ不思儀な取斗らひが、どふいふ訳かと思ひ惑はずに居られませんかつた。
実は何故かういふ都合になつたかのこと訳は、セドリツクに知らせぬが却つて好かろうと母が思つたので、ハ氏に対つて此の通りに云ひました、

わたくしはどうも云つて聞かせぬ方が好かと思ひ升よ、聞かせました処ろで、よく分かりもし升まいし、却つて驚ろいて心持をわるくする斗りで御座いませうから。
それから又、お祖父様がわたくしをそれ迄にお嫌ひ遊ばすといふことを承知いたさぬ方が、そつくり其のまヽお懐つき申さうかと存じます。
セデーはこれまで、凡そ憎しみとか不人情とかいふことを、一切見聞いたしたことが御座りませんから、だれかわたくしを憎くむ者があるなどヽ申したら、それこそ大した驚ろきで御座りませう。
あの通り優さしい子でござい升のに、わたくしを思ふて呉れ升のが亦一通りならず深いので御座りますから。
どふしても、ズツト年をとり升までは、申して聞かせぬ方が、自分の為めのみか、侯爵さまのお為めにも、宜しかろうと存じられます。
若しさもなくば、セデーがあの通りな子でも、矢張りお祖父様との間に隔てが出来ようかと存じます。(以上、『女学雑誌』二三七号)




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