本文へスキップ
岐阜大学                                              センタートップページ
応用生物科学部

ツキノワグマ研究bear research


<ツキノワグマの人身事故について>
岐阜県にはツキノワグマが多く生息しています。
岐阜県ではツキノワグマの目撃情報を集めた「県域統合型webGISクママップ」が運用されており、ツキノワグマに関する多くの情報が集められています。

ツキノワグマの生活や危険性について、わかりやすくご説明します。

説明内容は、新しい資料やデータが見つかった場合、適宜改変することがあります。


※詳細は以下の項目をクリック

1. ツキノワグマの生態について

・日本のクマ
 「クマ」とまとめてしまいがちですが、日本にはツキノワグマとヒグマという二種類のクマが生息しています。北海道にいるのがヒグマで、本州と四国にいるのがツキノワグマです。
 ツキノワグマとヒグマは全く別の生き物です。おとなのツキノワグマの体長が110−140cm、体重が30−90kg程度であるのに対し、ヒグマの体長は160−200cm、体重が60−200kg程度になります。
 
図1.クマ類と人の大きさ比較

 岐阜県を含む本州に生息するクマ、ツキノワグマの生態について説明します。

・ツキノワグマの食べ物
 ツキノワグマは雑食性でいろいろなものを食べます。餌の多くは植物性で、新芽や花芽、木の実などを春から秋まで移動しながら探して食べています。アリやハチといった昆虫もよく食べ、特に夏はアリの巣を求めて倒木などをひっくり返した痕跡が見つかります。哺乳類や鳥類を襲って食べることもあります。岐阜県でもイノシシの子供を襲った事例や、ハンターが設置した罠にかかったシカを襲って食べた例、ヤギやニワトリを襲った例が、わずかですが報告されています。
 動けない状況の動物や簡単に捕まえられる動物を狙う傾向があるようです。

・ツキノワグマの一年
【春】新芽などを食べるために野草が芽吹く斜面などに現れます。冬に餓死したシカなどを食べに谷や沢に現れるツキノワグマもいます。
【夏】野生のサクラやノイチゴの実、アリ、ハチなどを食べます。芽吹きを追って標高の高い地域に現れるツキノワグマもいます。ツキノワグマの交尾はこの時期に行われます。

(写真1高山帯に現れるツキノワグマ)
【秋】ドングリ、クリ、サルナシなどの木の実のある場所に現れます。木の実が不作の年は人里に現れるツキノワグマもいます。
【冬】山中で冬眠します。

・ツキノワグマの一生
 ツキノワグマは冬眠中に出産と授乳を行います。子グマは平均2頭生まれます。産まれた子グマは1年半ほど母グマと一緒に行動し、その後母グマのもとを離れます。独り立ちから2年半経った頃、繁殖できるおとなになります。ツキノワグマの死因は、餌の確保の失敗が原因でおこる餓死や病死、木や崖から転落する等の事故、人による捕獲などが多いと考えられています。子グマの頃の死因では、オスによる攻撃があるとされています。

2. ツキノワグマの大量出没について

 冬眠をするツキノワグマにとって、秋の餌の量はとても重要です。岐阜においてツキノワグマの主な秋の餌となるのはドングリ類です。ところが、このドングリには豊作の年と凶作の年があります。
 コナラやブナといった木々にとって、ドングリは言わば子供にあたります。一説には、凶作の年にドングリを食べる動物が減ることで豊作の年にドングリがあまって子孫を残しやすくなるという、木々の視点から見た繁殖の戦略があるのではないかという考え方があります。いずれにせよ、ドングリの豊作と凶作は自然現象で、止めることはできません。
 ドングリが凶作の年では、ツキノワグマが人里周辺で秋に多く目撃される、「大量出没」という現象が起こることがあります。大量出没は図のような仕組みで起こります。

図2. ツキノワグマの大量出没の流れ

 大量出没はドングリ類の凶作が引き金となって起こるものであり、その年にツキノワグマが増えるわけではありません。気付かない間に増えていたツキノワグマが、餌を探すために活動範囲を広げた結果が、大量出没という現象になってあらわれます。
 大量出没の年はドングリが凶作であるため、餌の不足から冬を越せないツキノワグマや繁殖に失敗するツキノワグマが増え、翌年のツキノワグマの数がおさえられる可能性があります。
 岐阜県での実際の出没状況を見ると、大量出没が数年おきに発生していることが分かります。

図3.ドングリ類の量と出没件数
 ツキノワグマの大量出没は異常ではなく、自然な現象なのです。


3. 岐阜県のツキノワグマについて

 岐阜県の調査では、県内に生息するツキノワグマの数は約2000頭で、増加を続けていると推定されています。岐阜県には二つの地域個体群と呼ばれるツキノワグマの集団が存在しますが、どちらも現時点で絶滅の危険はありません。
 岐阜県には豊かな森林が残されており、県土の81%が森林で、人の生活圏は19%にとどまります。ツキノワグマの餌が豊富な天然林面積は43%で、人が利用している土地の2倍以上の地域をツキノワグマが利用できる計算になります。平成に入ってから、岐阜県では大きな開発行為は行われていません。

図4.岐阜県の広葉樹林面積の推移(岐阜県特定鳥獣保護管理計画ツキノワグマより抜粋)

 人里周辺では、耕作をやめた田畑が増え、カキやクリといったツキノワグマの餌となる作物の放棄が増えています。昔は木々を切って薪として使っていた里山も、人が利用することが少なくなり、今ではツキノワグマの餌をたくさん抱えた立派な森になっている地域が多く見られます。
一方で、ツキノワグマを捕獲する狩猟者は減少しており、特にツキノワグマを捕獲できる猟銃の狩猟者はかつての六分の一程度にまで落ち込み、いまだに減少を続けています。

図5.岐阜県の狩猟者の推移

 ツキノワグマは、人間活動の衰退によって数を増やしていると言えるでしょう。岐阜県ではツキノワグマがどの山林で目撃されても不思議はなく、ほとんどの地域で目撃の報告があります。
 現在、岐阜県のツキノワグマはめずらしい生き物ではなく、“その辺にいる”普通の生き物なのです。

図6.県域統合型GIS画像

4. ツキノワグマの人身事故が発生する場面

 ツキノワグマは人間という生き物について、何の情報も持っていません。そのため、人間という存在を怖がり、近づかないように生活しています。我々が宇宙人やお化けを怖がることに似ているかもしれません。ツキノワグマは優れた耳と鼻を持っており、人よりも注意深く生活しているため、人が山林に入る場合はツキノワグマが先に気付いて逃げています。
 ツキノワグマが人を攻撃するのは、自身や子グマを守ることを目的としたものに限られます。日本のツキノワグマがはじめから人を食べる目的で襲った確かな報告はありません。
 それでは、どういった時に人身事故が起こるのか、ツキノワグマの行動を含めて説明します。

@ 至近距離でばったり出会う
あまりに近くでツキノワグマと人が出会った場合、ツキノワグマが逃げようとする過程で人をひっかく等の攻撃をすることがあります。攻撃はほとんどが一瞬で、多くは軽症ですみます。
ばったり出会う場面は、音や匂いが届きにくい環境で発生しやすく、沢沿いや尾根をまたぐ歩道のような状況、雨や風の強い日などで発生します。こちらが歩いている時のような人が音を出す場面よりは、渓流釣りや山菜取りの休憩中など木陰や藪のそばで人がじっとしている時に、ツキノワグマのほうがたまたま接近して出会うような場面で事故が発生しやすい傾向にあります。
事故の発生は山の中だけとは限らず、朝、玄関を開けてすぐに事故にあうこともあります。この場合、人が寝ていて静かだったために、庭に植えてある柿や栗の木などの餌に夜の間にツキノワグマが接近しており、朝になって人が出てくる際にツキノワグマの逃走が間に合わずに事故が起こります。

A 木に登ったツキノワグマに気付かずに近づく
 特に子グマや親離れ直後の小型のツキノワグマは、比較的近距離で何か危険を感じ、走って逃げる余裕が無いと感じると、木に登る習性があります。
 木に登ったツキノワグマはそこから移動することができません。人がツキノワグマに気付かずに木の下で作業や休憩をしている場合、しびれを切らしておりてくるか、驚いて転落したツキノワグマから攻撃を受ける場合があります。
 小型のツキノワグマで発生しやすい事例ですので、被害自体は軽症ですむことが多いです。
 逃げられない状況は、人が車で移動する場合にも起こります。ツキノワグマは周囲を警戒しながらゆっくりと移動しますが、車という乗り物は自然界ではありえないスピードで人を運びます。お墓や田畑などに車で向かうと、それまでそこにいたツキノワグマは、逃げ切れないと感じて木に登ってしまうかも知れません。人がそれに気付かずにツキノワグマが登った木の根元に行ってしまうと、事故が発生する可能性があります。

B 親子グマの間に気付かずに割り込んでしまう
 山林等で出会ったツキノワグマが逃げない場合や、出合った時に数メートル程度の距離があるにも関わらず威嚇(うなる・こちらに走ってきて地面を叩く)や攻撃を行ったツキノワグマがいた場合は、ほとんどが親子のツキノワグマの母グマであると考えられます。
 人が子グマに近づくような様子を見せた場合、攻撃を受ける可能性が高いです。
 子グマは木に登るか茂みに隠れており、人の注意が母グマに向かうため(母グマはそのためにも威嚇をする)、襲われた人や目撃した人は子グマの存在に気付かないので「大きな一頭のクマが突然襲ってきた」という報告になります。
 親子グマとの遭遇は、@やAのように単独のツキノワグマの遭遇と同様の条件で発生しますが、特に車を降りた直後に攻撃を受ける事例は親子グマの可能性が高いと考えられます。母グマから攻撃を受けた場合、単独のツキノワグマより症状が重くなる可能性があります。

C ツキノワグマを人が囲い込んでしまう
 2009年に乗鞍岳で発生したツキノワグマの事故は、人による囲い込み構造が原因のひとつとなって発生しました。囲い込み構造というのは、ツキノワグマがどこに逃げても人と遭遇してしまうような状況を作ってしまう環境のことです。ツキノワグマが、人と出会い、逃げた先で車と衝突し、また逃げた先で人と出会い…と遭遇を繰り返してパニックに陥り、逃げるために次々と人を攻撃したものです。乗鞍は高山帯であるため身を隠す場所も乏しく、ツキノワグマが「人の群れに囲まれた!この包囲網を突破するために戦わなくては!」と錯覚したのかも知れません。
 人が多く利用する自然公園等で遊歩道が環状になっている場所、市街地の中まで川沿いにヤブが続いている場所などでは、迷い込んだツキノワグマによって同様の事故が発生する可能性があります。

5. ツキノワグマの捕獲に関連する危険性

 ツキノワグマの人身被害で盲点になりがちなものがあります。それが「捕獲」や「追い払い」が原因で発生する人身事故です。捕獲といっても趣味の狩猟ではなく、有害鳥獣捕獲という、被害を防ぐための捕獲によって、逆に危険な場面が生じることがあります。
その内容についてまとめていきます。

@ そもそも、有害鳥獣捕獲の効果は?
 ツキノワグマの農林業被害が発生した場合には、有害鳥獣捕獲が行われることがあります。
 しかし、実はツキノワグマは餌がある場所に何頭も現れていることが多く、被害を発生させた一頭を狙った捕獲が非常に難しい上に、一頭捕獲しても他のツキノワグマが被害を出すため、防除(防護柵などで農作物等を守ること)に比べると被害を抑える効果はあまり見込めません。

図7.同じ場所に同時期に現れたツキノワグマ

 民家付近に現れたツキノワグマへの対応でも捕獲が行われることがありますが、一頭捕獲することで周辺のツキノワグマがいなくなることにはなりません。ツキノワグマが何かの餌を食べに出てきている場合、その餌を取り除くことをしなければ他のツキノワグマが次々と現れるため、捕獲では根本的に出没を解決できません。
 そして、捕獲には必ず危険が伴います。
 捕獲の危険には、捕獲行為が人に直接事故を起こす(人が罠にかかる、銃による人身事故が起こる)危険性だけではなく、ツキノワグマが捕獲によって攻撃的になる危険性を含んでいます。
この危険性は、捕獲者だけではなく地域住民に対するものも考えなくてはなりません。
 捕獲は、ツキノワグマと人の距離を縮めてツキノワグマを攻撃的にする、不測の事態を招きやすいとても強引な手法なのです。

A 銃による捕獲でツキノワグマの事故が起こりうる場面
 銃による有害鳥獣捕獲には、以下のような危険な場面があります。

・捕獲者に追われることでツキノワグマが攻撃的になり、逆襲する
・ツキノワグマを半矢(撃ち損じ)にして怪我を負わせてしまった場合、ツキノワグマがとても攻撃的になる
・山中のツキノワグマを追いかけることで、安全な場所を求めたツキノワグマの大きな移動や夜間の市街地付近への移動を引き起こす
・集団で追いかけることでツキノワグマをパニック状態にしてしまい、現場周辺の人を積極的に襲う行動を引き起こす

B 罠による捕獲の危険性
 罠による有害鳥獣捕獲には、以下のような危険な場面があります。

・不適切なわなを用いた場合、罠が壊される可能性がある
・殺処分や麻酔処置のために、罠にかかったツキノワグマに人が接近しなければならない
・罠にかけた餌によって無関係なツキノワグマを誘い出す
・子グマが捕獲された場合、非常に攻撃的になった母グマが周辺を徘徊する
・罠を設置する場所は捕獲者以外の人も利用する人家周辺である場合が多く、そこでこれらの危険な場面が発生する

図8.捕獲には多くの危険な場面がある

 有害鳥獣捕獲は多くの場合、方法に関わらず、効果が低いわりに危険性が高く、人身事故を避ける観点からは逆効果である場合が多いのです。
 捕獲に関連する事故は、捕獲の危険性に対し不十分な根拠で曖昧な判断をした場合に多く発生し、発生前に十分に防げるものです。
 山林での偶発的なツキノワグマの事故等では十分な予防を行わなかった被害者の自己責任の部分がありますが、捕獲に関連する事故の責任は被害者ではなく捕獲を行った者にあります。
 そして、捕獲にかかわるツキノワグマの事故では、症状が重くなりやすい傾向があります。

 岐阜県のツキノワグマの推定生息数は2000頭で、ツキノワグマの捕獲数が年間100〜300頭であることを考えると、被害の程度だけでなく発生確率で見ても、捕獲に関連する事故は重要な問題なのです。

図9.岐阜県での人身事故(岐阜県特定鳥獣保護管理計画ツキノワグマより抜粋)

6. ツキノワグマの錯誤捕獲について

 イノシシの罠などで誤ってツキノワグマが捕獲されることを錯誤捕獲と呼びます。
錯誤捕獲には、有害鳥獣捕獲の際に発生する事故の危険性に加えて、以下のような危険な場面があります。

・大型のツキノワグマが誤って捕獲された場合は、ツキノワグマの捕獲を想定していないために、はこ罠が破壊される可能性がツキノワグマを狙った捕獲よりも高い

・放獣作業を行う場合、ツキノワグマが捕獲によってとても攻撃的になっているので、放獣作業を行う人に攻撃する場合や、放獣作業を行う場所周辺に無関係の人がいた場合に人身事故が発生する可能性がある

・近年はくくり罠による錯誤捕獲も報告されており、こちらはツキノワグマがワイヤーの届く範囲で動き回れるために、はこ罠による錯誤捕獲よりも危険な場面が生じる

 錯誤捕獲は危険なだけでなく、捕獲されたツキノワグマにも大きなダメージを与えます。捕獲されたツキノワグマは逃げようとして罠を噛んで暴れ、歯をぼろぼろにしてしまいます。

図10.錯誤捕獲によってダメージを受けたツキノワグマの歯

 ツキノワグマが罠から解放されたとしても、罠にかからなかった状態に比べ、大きなハンデを抱えることになります。人の安全を考えても、ツキノワグマへの影響を考えても、錯誤捕獲が起こった後の対策ではなく、起こらない方法を考える必要があります。

 錯誤捕獲の予防方法はいくつかあります。
はこ罠の錯誤捕獲においては上部30cmの穴を推奨している地域がありますが、まずは罠の周辺にツキノワグマが来ていないか確認する方法が簡単です。
 近年はほとんどのはこ罠で、餌をまいた直後から、入った動物が罠にかかる状態にしています。餌をまいた後、罠に入っても動物がかからないようにしておき、どのような動物が罠に接近するか調べておけば、ツキノワグマが来ていることを確認した場合に捕獲をやめることができます。接近している動物は、足跡や糞などで見分けます。
 くくり罠については、しっかりと法律に従った捕獲方法を取ることの徹底が重要です。くくり罠の短径が12cmを超えないように、有害鳥獣捕獲の捕獲方法をよく確認し、指導する仕組みが必要です。

 錯誤捕獲については、ツキノワグマの違法な捕獲が横行しないよう注意すべき点があります。それは錯誤捕獲したツキノワグマの処分方法についてです。ツキノワグマの錯誤捕獲においては、対応が危険であると判断された場合、殺処分されることがあります。注意が必要なのは、処分された後のツキノワグマの死体です。もしこの死体を捕獲者が持ち帰り販売や利用をするようなことがあれば、イノシシを捕る目的の罠でわざとツキノワグマを捕獲する人が現れかねません。
 錯誤捕獲されたツキノワグマは死体の一部であっても捕獲者には引き渡さず、一部の地域で設定されている捕獲報奨金も支払わないようにする必要があります。

 残念ながら、錯誤捕獲を完全に防ぐ方法は今のところありません。しっかりと予防をしていても、わずかですが錯誤捕獲が起こる可能性があります。予防は最も効果的で重要なのですが、錯誤捕獲が起こった場合の対応についても、しっかりと人の安全を確保できるよう準備が必要です。

【はこ罠の上部30cmの穴について】
 あやまってイノシシのわなにかかったツキノワグマが罠から脱出できるように、上部に30cmの穴を開けている罠が利用されている地域があります。
 錯誤捕獲されたツキノワグマの多くがこの上部の穴から逃げていると思われますが、この構造によって危険な場面が生じている事例が岐阜県内でもあります。
 たとえば以下のようなものです。
・上部の穴から脱出できない大型のツキノワグマがかかり、ツキノワグマの体が半分出ているような状況で対応を迫られる
・罠の見回りに来た捕獲者を見て、あわててツキノワグマが罠上部の穴から出てくる
・ツキノワグマが罠の上部の穴を利用し、わなにかかったシカやイノシシを食べに来て、罠の様子を見に来た人などと遭遇する

 上部30cmの脱出口にどの程度の効果があるのかを調査するとともに、痕跡の確認や脱出口に代わる方法について、今後も検討を続けることが必要です。

7. ツキノワグマとの遭遇を避けるには?

 「クマの攻撃を受けたらどうしたら良いですか?」という質問をよく受けます。
 これははっきりと言わなければなりませんが、攻撃を受けた場合の正しい対応は状況によって千差万別で、こうしたほうが良いという明確な対策はありません。
 効果が十分にある対策を明らかにするためには、いろいろな人がいろいろな環境でいろいろなクマに襲われてみていろいろな対策を行い、実証する必要があります。
 そんな研究はこれまでありません。
 そのため、科学的に確かな対策の“正解”は無いのです。

 例えば「交通事故が起こった瞬間、ハンドルが効かなくなった車をどうやってコントロールするか?」という対策の情報を見ることはありません。
 どんな車を運転しているか?
 交通事故がどのような状況で発生したか?
 助手席や車の外で助けてくれる人がいるか?
 運転している人が、初心者か、お年寄りか、プロのドライバーか?
 全員が全ての環境でできる“正解”の対策が無いのです。
 できることは色々と想像できますが、実際には何かをやる前に事故が終わるため、考えても仕方のないものでしょう。
 考えて対策すべきなのは事故の予防であり、事故が起こった後を考えていては遅いのです。
 事故が起こった後は、救急車を呼ぶことくらいしかできません。

 「ツキノワグマに襲われた時にどうすればよいか?」を考えることは、このような交通事故が起こった瞬間の対策を考えることに似ています。
 襲ったツキノワグマがおとなかこどもか、人に慣れたツキノワグマか、親子グマか?
 どのような環境で事故が発生したか?(逃げ込める場所や使える構造物はあるか?)
 周りに助けてくれる人がいるか?
 襲われた人が女性か、男性か、お年寄りか、クマの専門家か?
 全員が全ての環境でできる“正解”の対策はありません。
 ツキノワグマは人が想像するよりもすばやく、力強く、攻撃の方向や位置は人が予測できるものではありません。
たとえ正解があったとしても、こちらが取るべき対応を考える前にツキノワグマの攻撃は始まり、考える暇もなく終わっているでしょう。
 交通事故と同じで、考えるべきなのは、事故の予防なのです。

 ではツキノワグマの攻撃を防ぐには、どのような方法があるのでしょうか。
ツキノワグマと出会ってしまった時は、たいていの場合は人が何かをするより早くツキノワグマが先に逃げていきます。もしツキノワグマが逃げず、こちらが何かをする余裕がある場合、どこかに子グマがいるかも知れません。その場合は、しゃがまず、騒がず、背中を見せずにゆっくりと来た道を戻ることで、攻撃を受ける可能性を下げられるかも知れません。
 しかし、ツキノワグマとの遭遇の多くは状況を選べず、対応も急を迫られます。現実的には攻撃を受けた場合と同様、どんな状況でも正解となる対応はありません。遭遇しない対策を何よりも優先しましょう。

それでは、ツキノワグマと遭遇しないためには、どのような方法があるのでしょうか。
大きくは以下の4つがあげられます。

@ 鈴やラジオを持つ(複数人で行動する)
 人が鈴やラジオのような音を出すものを持つことには、音が届きにくい条件でも、以下のようないくつかの効果が期待できます。
・ツキノワグマに人の存在を知らせ、人と出会う前にツキノワグマに逃げてもらう
・ツキノワグマと人が出合った場合でも、互いの存在に気付いた時の距離が大きくなり、ツキノワグマが攻撃をするほど至近距離の遭遇となることを防ぐ
・ツキノワグマが遠距離から音を聞いていることで、対応の時間が作られ、木に登る反応や茂みに隠れる反応よりも、その場から移動するような反応をとりやすくなる
・多くの人が音の鳴るものを携帯することで、人がよく利用する地域へツキノワグマが迷い込むことを防ぐ
・ツキノワグマが音の存在に気付き、周辺を警戒、確認する行動を増やす

 ただし、鈴については人が動いていない時や鈴が荷物に埋もれている時には鳴らないこと、ラジオについては電池切れがあることに注意が必要です。
 複数人で行動することは、会話を含む活動音などが増えることによって遭遇を回避することや、ツキノワグマと人が遭遇した時もこちらが複数であることによって攻撃を思いとどまらせる効果が期待できます。


A ツキノワグマの餌になりそうな物を人家周辺から取り除く
 ツキノワグマが人家周辺に現れる場合、その目的は餌です。
 岐阜県では特に、柿や栗を求めて人家周辺に出没することがあります。

図11.岐阜県における誘因物

 利用しない柿や栗は伐採するか、ツキノワグマが登って食べられないようにトタンの板で防護しましょう。

図12.トタンまきつけ

 養蜂箱やコンポストは人家から離した場所に設置しましょう。
 その他、ツキノワグマの餌になりそうなものを人家周辺に置かないようにしましょう。
 養魚場、養蜂場、果樹園などでは、電気柵等での防除が必須です。
 言うまでもありませんが、野生のツキノワグマに対する餌付けは絶対にやめましょう。

B ひとけのない場所に移動する時は、周囲をよく確認する
 ひとけのなかった場所へ車で移動した際は、たとえ自宅の前でも十分に周囲を確認し、特に樹上やヤブの中に動くものが無いか確認しましょう。
 自宅周辺や車の乗り降りを行う場所周辺では、ヤブを刈り払っておくことも有効です。

C 無闇に捕獲をしない(錯誤捕獲を予防する)
 特に人家周辺では無闇に捕獲や追跡をすることを避けましょう。
イノシシやシカの捕獲では、ツキノワグマの存在を前提にした罠のかけ方が必要です。
捕獲等によってパニックに陥ったツキノワグマは、自然な状態のツキノワグマとは異なり、人に対してどう反応するか予測ができません。
 ツキノワグマの出没があったら、まず何を食べに出てきたのかを調べ、それを取り除くことを優先します。

 近年の新しい危険性として、トレイルランやヒルクライムといった山林の環境で行われるスポーツがあげられます。これらのスポーツは車と同様に、ツキノワグマに移動する時間を与えず、遭遇する確率をあげてしまう可能性があります。少なくとも練習の時は鈴をつける、大会の直前にコースを主催者が確認するなどの、遭遇の予防策を行うことが望ましいと考えられます。

 冬眠中のツキノワグマが、営林作業中に冬眠からさめて人を攻撃する事例も他県で報告されています。人工林の中での冬眠穴は、根から倒れたスギやヒノキの根元や岩の間、崩れた斜面の横穴のような場所に作られます。人が想像するよりも入り口が小さいものが多いです。外からツキノワグマが見えるものもあります。作業によって起きるようなツキノワグマは、それ以前にも穴から出ている可能性が考えられるため、冬眠穴の周りがならされたような見た目をしているかも知れません。作業をする周囲にそのような構造が無いか、注意しましょう。

 稀ではありますが、人に慣れてしまったツキノワグマや、危険な行動が見られるツキノワグマでは捕獲等の対策が必要な場合もあります。囲い込み構造の解消のために行政が何かしらの対策を行う必要がある地域もあります。
しかし、我々個人がツキノワグマとの遭遇を避けるために簡単なルールを守ることが最も効果的であり、その方法と意味を広く伝えることが真っ先に必要な対策でしょう。

8. ツキノワグマの実際の危険性について

 これまでの部分をお読み頂いた方は、ツキノワグマに対して少し不安を感じているかもしれません。
 ここでは、実際にツキノワグマの事故が発生する可能性がどのくらいであるのか、説明していきます。

 まず、過去のデータを見ていきましょう。
 記録がある平成7年から平成18年までのクマ(ヒグマとツキノワグマ)による事故の死者数と、屋外で発生する他の要因による死者数を比較してみましょう。あまりに交通事故での死者数が多いので、死者が比較的少ない要因を比較したのが下のグラフです。

図13.屋外の要因での死者数の比較

 クマ類に襲われて亡くなる人は、めったにいません。ヘビやハチや犬や人のほうが、死者を多く出しています。この数字を見て、クマの存在が大きな危険を生むと感じられるでしょうか。クマによる死者よりも猟銃による死者のほうが多いという事実は、捕獲の是非を考える上で重要なデータになります。

 しかし、岐阜県におけるツキノワグマの推定生息数は増加しており、大量出没年では事故件数も増加する傾向にあります。近年の大量出没年での事故を調べれば、数字が大きく変わっているかも知れません。それでは、ツキノワグマの大量出没年であった平成26年の事故件数を比較してみましょう。

図14.岐阜県における野外の死者数

 平成26年は、残念ながら岐阜県において記録上初めてツキノワグマによる死者が出ました。事故にあった人の数も11人と記録上最多で、岐阜県においては最悪の人身被害が発生した年だったと言えるでしょう。しかしそれでも、他の要因に比べて死者は多くはありません。
 全国でツキノワグマの事故にあった人の数を見ても、やはり他の要因と比べて多いとは言えません。

図15.全国の屋外の要因での事故者数

 「山菜採りやキノコ採りの際はクマに注意しましょう!」
 「渓流釣りや登山の際はクマに注意しましょう!」
 という啓発をよく耳にしますが、山菜やキノコを食べることのほうが事故の数が多く、そもそも山に入ることそれ自体のほうが実は危険なのです。
 あまり山になじみの無い方は、確率でよく話題になるジャンボ宝くじの一等と前後賞の当選本数が年間363本であることと比較してもらうと良いかも知れません。
 ちなみに、アメリカの国家安全運輸委員会のデータによると、アメリカ国内で自分が乗った飛行機において死亡事故に遭遇する確率(1994~2013平均)は、約0.00002%です。ある人がある年に岐阜県でツキノワグマの死亡事故にあう確率は、ここ10年で死者1名、岐阜の人口が約203万人ですので、約0.000005%です。1年間で1回しか飛行機に乗らない人で考えても、ツキノワグマで死ぬ確率よりも飛行機で死ぬ確率のほうが4倍も高い計算になります。

 ツキノワグマは非常に丈夫な牙と爪を持ち、その気になれば簡単に人の命を奪える生き物です。しかし、実際にツキノワグマに襲われる人の数は、多くの人が想像するよりはるかに少なく、襲われた人のほとんどが命を奪われる結果とはなりません。ツキノワグマが、人を殺すためではなく、人から逃げるために、攻撃に踏み切っているからです。

 ツキノワグマは近年突然あらわれた生き物ではなく、人が気付かないだけで、ずっと昔から岐阜県に生息しています。そのツキノワグマに対して我々が最も恐れるべきなのは、人側の情報不足と、それによって生じるツキノワグマへの誤った対応なのです。「ツキノワグマはいない」と考えること、「いなくなればいい」と捕獲を含む危険な対策を取ること、そしてツキノワグマに対して何の予防も準備もなく生活することが、実は最も危険だと言えるでしょう。

9. よくある対策の質問について

よく質問を受ける内容について、お答えします。

Q1. 死んだフリをするのはだめか?
A1. 状況によりますが、あまりおすすめしません。
繰り返しになりますが、出会わない対策を考えましょう。

Q2. 山の中に実のなる木を植える対策や、餌をまく対策はどうか?
A2. ドングリの豊作と凶作は木々の間で同調します。山の中にドングリの木を植えて増やしても、豊作の年においてツキノワグマの餌を増やす効果はあっても、ドングリが凶作の年に同じく凶作となってしまうため、出没を抑える効果は低く、逆に自然環境中のツキノワグマの数を増やして大量出没を大規模にする恐れがあります。
柿や栗を山中に植えるという意見もありますが、ツキノワグマが人里の餌を学習することになり、こちらも出没の性質を悪化させる可能性が高いと考えています。

Q3. 音や匂いや光を使った対策について
A3. ツキノワグマは学習能力が高く、設置型の音や匂いや光に対しては、「これは危なくなさそうだぞ」とすぐに慣れてしまいます。地域によって、特に交通量の多い地域では、車にすら慣れてしまうツキノワグマがいます。車というのはヘッドライトやクラクションや排気ガスを伴い、サイズが大きく、ものすごいスピードで動きます。それでも、慣れてしまうのです。
そんなツキノワグマでも、人が車から降りると逃げていくことが多いです。やはり、何をするか分からない、見たことが無い生き物が恐ろしいのだと思います。

Q4. 人に慣れたクマがいる
A4. ツキノワグマの人慣れには、いくつかの種類があります。
「人間は特に危なくなさそうだぞ」とツキノワグマが学習して慣れることは、状況によっては大きな危険にはなりません。人間に免疫のないツキノワグマに比べてパニックになる可能性が低く、出合った際の攻撃が重篤化する可能性も低くなることが考えられます。ツキノワグマが自然なエサを食べており、人(特に車)に気付いていても逃げない場合は、ツキノワグマが「このくらいなら安心だ」と落ち着いている状況なので、人が無闇に近づく行為や刺激を与える行為をしない限り、事故が発生する可能性は低いと考えられます。
ただし岐阜では報告がありませんが、養魚場や果樹園等で人間に慣れてしまい、人の目の前で被害を繰り返すほど人慣れがエスカレートしたツキノワグマがいた場合は注意が必要です。人がツキノワグマを追い払おうとした際に、「エサを奪われる」と感じたツキノワグマが威嚇や攻撃をする可能性があります。
また、「人が餌をくれる・餌を落とす」と学習することは、「人は危ない生き物ではない」と学習して慣れることよりも、はるかに危険です。絶対に、絶対にツキノワグマには餌を与えないようにしてください。餌付けによって「人に近づくと餌が得られる」と学習したツキノワグマが、執拗に人に接近し、恐怖を感じた人が食べ物を投げて注意をそらすような行動をとった場合、「人を威嚇・攻撃すれば餌を落とす」と人慣れがエスカレートする可能性があり、特定の個体が多くの深刻な問題を引き起こす可能性があります。
好ましくない人慣れが見られる場合は、捕獲も重要な選択肢の一つになります。ただし、果樹園や養魚場、養蜂場においてはしっかりと防除をすること、ツキノワグマへの餌やりは絶対に行わないことが人身被害予防の大前提です。

Q5. ツキノワグマは人を食べるか?
A5. ツキノワグマは雑食性で、シカやイノシシの死体も食べます。人が遭難などによって山中で死んでしまった場合、人の遺体を見つけたら食べるかもしれません。突発的な遭遇時に、運悪く攻撃を受けた人が死んでしまった状況においても、場合によってはその遺体を食べるかも知れません。例えば我々がイノシシを交通事故で轢いてしまった場合、落ち着いた頃にイノシシの死体を見て「食べられるかな?」と考える人がいるかも知れません。ツキノワグマの中にも、そのような反応をするものがいても不思議ではありません。
そういったツキノワグマに対しては、念のため捕獲を行うこともあります。
ただし先述のとおり、はじめから食べる目的でツキノワグマが人を襲った確かな例はありません。

Q6. テレビやネット等で見たクマの情報と違う
A6. 動物園のクマと野生のツキノワグマでは、特に人に対する反応や行動が明らかに違います。野生のクマ類に関する情報でも、海外のクマ類を扱ったものや、人慣れ等によって自然ではない特殊な事例である場合が多く、岐阜のツキノワグマに当てはめると判断を誤るような情報が含まれている場合があります。岐阜のツキノワグマを考える場合、少なくとも国内の野生のツキノワグマに関する情報を収集するよう注意しましょう。

10. ツキノワグマのフィールドサインについて

ツキノワグマが残す痕跡について、ご紹介します。

・爪跡
 4本から5本の傷が、平行して残ります。
 イノシシのキバとぎやカモシカ、シカの角とぎが下から上に向かって力がかかっているのに対し、ツキノワグマの爪あとは力が上から下に向かってかかっているため、木の削り屑が下についていることが多いです。
樹種によって、確認が難しいものがあります。


・糞
 未消化物が多く、泥状に近い見た目をしています。
 被害を頻繁に受けている場合は、糞に被害作物がそのまま出ているようなものもあります。


・毛
 くねくねと蛇行しています。
 フェンスや登った木の樹皮などに残っていることがあります。


・足跡
 ツキノワグマは肢の接地面が広く肉球があるため、アスファルトなどに残っていない限り、シカ・イノシシ・カモシカに比べて足跡の確認が難しい場合が多いです。

【話題】三重県が放獣した、発信機をつけたツキノワグマについて

・事例の概要
 2015年5月17日に三重県いなべ市内で錯誤捕獲されたツキノワグマが滋賀県多賀町において放獣され、その後2015年5月27日に滋賀県多賀町でツキノワグマによる人身事故(放獣したツキノワグマによる事故ではなかったことが後に判明)が発生したことで、三重県及び岐阜県側の海津市、養老町、大垣市が放獣されたツキノワグマに対し、捕獲を試みる事態に至ったものです。
 発信機を装着したツキノワグマは7月初旬の現在まで養老山周辺に留まっており、捕獲されていません。そして、放獣されてから2015年7月10日現在まで、このツキノワグマによって被害を受けた人や、このツキノワグマに遭遇した人は、捕獲者を含めて一人もいません。

・今回の事例の問題点
 まず、県境を越えてツキノワグマを放獣したことは大きな問題でした。ツキノワグマの保護管理は都道府県によって方針や基準が異なります。「ツキノワグマの錯誤捕獲について」で触れたとおり、放獣の際はツキノワグマによる人身被害の可能性が高まります。放獣という判断とその後の対応を想定していない地域では、当然ながら住民への説明や安全確認が不能であり、その状況で興奮したツキノワグマを放ったという事実は、結果的に事故が起こらなかったことは幸いでしたが、あまりに無責任であったと言わざるを得ません。
 三重県の「野生動物保護等緊急対応マニュアル」には、ツキノワグマの捕獲に対して「クマについては発信機を装着し、奥地に放獣することを原則とする」という一文しかなく、放獣を県が行うにも関わらず、放獣地の選定や地域住民への説明を含む放獣時の安全管理等に関する記述が全くありませんでした。三重県ではツキノワグマの特定鳥獣保護管理計画も策定されておらず、ツキノワグマに対する基本的なスタンスや状況の把握、危険な場面の想定が根本的に欠落しており、対応の根拠やその後の人身事故リスク管理の視点も不十分な状況にありました。
 捕獲の是非についても、判断に大きな誤りがありました。三重県は捕獲の許可権限が県にありますが、岐阜県の場合は権限が市町村にあり、このことも判断ミスに影響しました。特に巻き狩りを選択したことは、「ツキノワグマの捕獲に関連する危険性」で触れた危険な場面を作り出す恐れがあり、結果的にこれまで事故は発生していないものの、不要なリスクを生む判断であったと考えられます。巻き狩りでツキノワグマが追いかけられて危険を感じたことにより、養老公園周辺へ出没するようなツキノワグマの大きな移動を引き起こし、このことが行政対応の範囲や対象を拡大させた可能性が高く、そういった反応について考慮しなかったことも問題でした。
 発信機の装着についても問題があります。この事例がここまでの話題となったのは、この目的の無い発信機の存在が大きな要因であったと考えられます。岐阜県ではツキノワグマの特定鳥獣保護管理計画を策定しており、ツキノワグマ目撃時の対応のフローや、ツキノワグマ単独で30ページに及ぶ「ツキノワグマ対応マニュアル」、捕獲者や一般市民向けの啓発パンフレット等を作成し、ツキノワグマ対応においてイメージや先入観から誤った対策が採られないよう、人への情報の普及に力を入れた対策を行っていました。ところが、今回のように発信機を装着した特殊なツキノワグマが移入し、三重県がツキノワグマの性質と対策に関する情報の普及を伴わずに「今、ここにいます」とツキノワグマの存在だけを繰り返し発表することによって、無用な恐怖心を抱く住民が増え、「ツキノワグマが予防をすれば危険ではないこと」の普及が岐阜県内でも間に合わない状況に陥りました。残念なことですが、これは行政が主体となって作り出されたパニックと言えるでしょう。その結果、岐阜県では捕獲の対象とはしていない、三重県では保護対象であるはずの、被害を出したかどうかも分からない山の中のツキノワグマが、有害鳥獣捕獲の対象となる異例の事態を招いたのです。
 今回の件で、多くの不要な行政サービスが浪費され、多くの人が十分な情報を得られぬまま根拠のない対応に追われ、養老山の周辺では観光を中心に経済的なダメージや市民活動の停滞も発生しています。ツキノワグマにはほとんど危険性が無くても、一つの自治体がしっかりとツキノワグマへの対応方針を構築していても、どこか一つの自治体の稚拙な管理によって、周辺の管理状況が悪化する可能性をこの事例は示しています。

・今後の危険
 2015年7月に、三重県は「三重県ツキノワグマ出没等対応マニュアル(暫定版)」を発表しています。その中では「住民の安心・安全を確保するために、市長や地元自治会の要請があれば」発信機を装着するという書き方がなされています。
 大きな誤解がありますが、発信機の装着自体によって安心や安全が確保されることはありません。発信機を用いた調査を分析し、管理に還元することに効果があります。
 ツキノワグマは放獣されたもの以外にも多く生息します。「発信機を装着したクマはいませんよ」とそちらにばかり目が向いて、他のツキノワグマとの遭遇を予防しないことになれば、危機管理上逆効果になるでしょう。マニュアルでは放獣作業について、放獣後に地域住民に連絡が行われることになっていますが、これでは無意味です。錯誤捕獲が起こる前に放獣地を決め、放獣前に周辺への連絡が行えるよう体制を整備しておく必要があります。最も危険なのは放獣直後であり、そこから位置の捕捉や地域への連絡を段階的に行っていては、発信機をつけていようが手遅れなのです。
マニュアルでは一般市民に対する遭遇前や捕獲前の普及について何も触れられていません。アマチュアによる発信機の電波受信が可能な現状において、住民を行政自らが不安にさせて多大な影響を生んだ「ツキノワグマの性質に関する情報不足とクマの存在の無思慮な提示」が、複数の形で繰り返される可能性があります。
 発信機を装着するのであれば、その目的やモニターの方法に関して調査の計画と予算を用意する必要があります。この発信機を用いた調査が何を明らかにするもので、どのようなデータを収集するのか、管理のどこに活かすのかを明確にすることが重要です。
 発信機を危機管理に使うにしても、ツキノワグマが捕獲地周辺に戻ってきたとして、どのように危険性を判断し、どのように対応を行うのか、基準もありません。今回の放獣の事例は、特定の自然なツキノワグマ一頭を捕獲することがどれほど難しいかを証明し、捕獲が管理上逆効果になる可能性を強く示しています。位置が分かったとしても日頃の予防以外に有効な対策は無く、発信機の位置情報が一人歩きして問題がコントロールできなくなることはあっても、管理の選択肢が増えることはまずありません。
 発信機の装着が「場所が分かるから安心ですよ」と放獣をする時点のことのみを考えた地域への言い訳に使われるものであるとしたら、それは現実とは異なり、住民を騙す行為だと言えるでしょう。そのような無計画な発信機の使い方を県レベルで行えば、今回の事例同様の他の自治体を巻き込んだ管理上の問題が再発し、しっかりとした計画を伴った発信機による科学的な追跡調査にも支障が出ることが考えられます。
 今回の事例での最大の問題点は、行政が作り出す混乱と危険性だったのですが、その点については今回のマニュアルにおいて何の配慮もなされていません。残念ながら、このマニュアルでは人身事故の予防と軽減には何の効果も無いと言わざるを得ません。

・問題の背景
 驚かれるかも知れませんが、多くの自治体では、野生動物の管理について専門的な知識を持った職員が配備されていません。今回の件で見れば、ツキノワグマそのものの危険性や、捕獲や対策の効果と判断、そして市民への情報の普及と、ツキノワグマと人の双方へのケアにおいて、野生動物管理の専門的な知識が必要なポイントが多くあります。しかし現実には、ツキノワグマについて専門的な知識を持たない職員が市町村や県レベルの判断や方針を任され、後々に大きな問題を残す初動対応でのミスが発生し、そのために苦しい後付けの理由を確保しようと奔走して問題の根本的な解決にたどり着かない、というのがよくある結末です。職員を配備することが難しくても、少なくとも対象種における管理の専門家の意見を、問題の初動や、可能であれば事が起こる前に取り入れられるよう、仕組みを整備しなくてはなりません。
 もう一つの問題として、行政境の存在があります。特に広範囲を移動し、地域の個別の対応というより、広範囲に一定の対策が必要となる生物では、対策のレベルや方針、人材に自治体間で差が生じることが問題の温床となります。ツキノワグマを含むこういった性質の生物では、国がある程度橋渡しをして調整する役割を担う必要があると考えられます。

・行政の方へ
 対策会議などでよく出てくる、人にツキノワグマ対応を誤らせる魔法の言葉があります。
 それは、「何かあったらどうするのか」、というものです。
 この言葉は、ツキノワグマに対して何の知識もない出席者の頭に“空想上のクマと事件”を作り出し、実際には無意味な対応や逆効果な対応、そして非現実的な対応を迫るものです。現実のツキノワグマがどのよう場面で事故を起こすのか全く分からない人が「何かあったら」を想像し、予防や対策の効果と段取りを全く理解できていない人が「どうするのか」を考えるので、判断を誤るのも無理はありません。膨らむのは不安ばかりで、対策は「不安の排除≒捕獲」へと流れていきます。
 このページをご覧になっている方々で、「何かあったらどうするのか」と言われて不安になることがあれば、このツキノワグマのサイトをもう一度読みかえしてみて下さい。そして、その相手に対して「捕獲なんかして何かあったらどうするのか」と聞き返してみるとよいでしょう。
 どのような場面においても、ツキノワグマの対策は予防が第一です。事故が発生した後の会議では「事態の収拾」に目が向きますが、それは今回の事例のように行政職員の課題とはなっても、市民へのツキノワグマの現実的リスクとは関係がありません。
 今回の件で、養老町、大垣市、海津市でツキノワグマに関する研修会を行った際、野生動物管理学研究センターが行ったアンケート結果を以下に挙げます(アンケート回答数248人)。






 養老山周辺に発信機をつけた個体以外にも多くのツキノワグマが生息する可能性を伝えたにも関わらず、ツキノワグマの情報を得た多くの方が安心したと回答しています。住民が不安を感じるのは、相手に対する知識が不足しているからなのです。そして最も多くの方が、知らなかった情報・対策に有用だと答えた情報が、ツキノワグマを捕獲する危険性です。
「一般人にツキノワグマは危険では無いですよ、捕獲するほうが危ないですよと言ったところで納得されるワケがない」という意見が対策会議等ではよく見られます。行政側が住民の理解力や判断力を疑い、住民に対してツキノワグマの危険性や対策に関する情報を提示せずに、逆に市民を危険にさらす捕獲のような対策を、その危険性を理解した上で実施するということになれば、その判断それ自体が極めて大きな問題ではないでしょうか。


【話題】秋田において4人の死者が出たツキノワグマの事例について

 ...




※本研究は、野生動物総合対策推進事業(寄附研究部門)の一環として行われます。

野生動物管理学研究センター

〒501-1193
岐阜県岐阜市柳戸1-1

TEL&FAX 058-293-2959
E-mail: rcwm@gifu-u.ac.jp

岐阜大学 応用生物科学部 附属野生動物管理学研究センター 〒501-1193 岐阜市柳戸1-1 TEL&FAX: 058-293-2959 http://www1.gifu-u.ac.jp/~rcwm/