気になることば 85集 一覧(ミニナビ) 分類 | 「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、背後にある「人間と言語の関わり方」に力点を置いています。 |
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20020227
■モード越境
いま作った言葉です。あるいはどこかで使われてるかな。「染みだし」と言われることもあるかと思います。ちょっと分かりやすくしたつもりですが、かえって解りにくい?
昨日分の補足図を見ていて、面白いなと思ったんです。「前」が大きく書いてあるからではなく、「具足櫃(ぐそくびつ)」と同じ紙(同一平面)に書かれてあることが。「具足櫃」は説明(の一種)ですね。それと同じ場所・空間に「前」も書いてある。とすると、「前」も説明かもしれない。説明となれば、前・後の意味の「前」だと考えてもおかしくない……
が、実は、昨日分に書いたように、具足櫃自体に「前」字が書いてあるのでした。説明ではなく、説明されるものに備わったもの、説明される側のものなわけです。
本当に前・後を表すのなら、具足櫃の輪郭線の外に「前」とか「後」とか書くのでしょう。他の図も見くらべると分かるのですが、説明は輪郭線の外にくるのが普通です。輪郭線内のある部分の名称を示したい場合は、その部分と、輪郭線外に書いた名称とを線で結ぶようにしているからです。
でも、やはり、紛らわしい。説明と被説明という風にモードは異なるのに、コード(「文字」とか「媒体」とかいうべき?)や環境(紙面)が同じだからです。さらに、印刷法も同じであることも注意すべきでしょう。というのは、現代なら、画像は写真原版とかオフセットとかで再現し、文字は活字・フォントにするのが普通なので、見た目にタッチが異なることになり、同じ文字でも、図なのか文字なのかが明確に分かります。が、江戸時代では図も文字も木版上にあらわすほかないので、より区別がつきにくいと考えられるからです。
実は、今日はまた別のことを書くつもりでした。モード越境に配慮しない言語表現、あるいは、わざとモード越境して簡潔な表現を得ている例を見ておきたかったのですが、それはまた後日に。
20020226
■「前」
昨日の続きというわけではないのですが、戸板康二のものから。
七、八年前に京都の宿で、朝食の卓に配られた新聞を何となく見ていると、戦国時代のよろいびつに[前」という文宇が大きく書かれている埋由が解説されており、これもうれしかった。
歌舞伎の小道具によく出て来るよろいびつのあの前の字をぼくは、前と後とを間ちがえないための標識と考えていたのだ。(戸板康二「耳ぶくろ」。日本エッセイスト・クラブ編『'83年版ベスト・エッセイ集 耳ぶくろ』(文春文庫 1986))
たしかに誰しもそう考えそうです。というか、それが普通でしょうね。私だってそう思う。しかし、どんな風に書かれているのか。もし、前面にドーンと大きく書かれていたら笑ってしまう。目印なら小さいもので済むはずだから。そこで、画像で確認。「前」の大きさもそうですが、ひょっとしたら、家紋が普通かもしれないし。
で、例によって Google で検索。イメージ検索があるので便利ですね。おお! 確かに鎧櫃に「前」字が大きく書かれています。う〜ん、笑ってしまうゾ。リンクしたいところですが、営利サイトのものなので、控えておきますね。ごめんなさい(以前は知らずにリンクしていたのですが、してはいけないらしいので)。
その朝刊のコラムによると、これは「勧進帳」の山伏問答で弁慶が富樫に説いて聞かせる「九字の真言」の九つ目の字の前で、つまり武士が戦場にゆく時の魔よけの目的で書かれているというわけであった。前という字面が九画なのも、偶然ではないとある。
京都新聞に京都の大学の先生の書いた記事だから、東京では読めないはずで、これこそ大げさにいうと、一期一会だった。(同。承前)
おやおや、目印じゃなかった。「九字の真言」とは「臨兵闘者皆陣列在前」。『広辞苑』4版によると「「臨兵闘者皆陣列在前」の九字の呪(じゆ)を唱え、指で空中に縦に四線、横に五線を書く時は、どんな強敵も恐れるに足りないという護身の法」とあります。忍者とかがやるヤツですね。九字め「前」が九画なので、九字すべてを込めたものとして書かれている、ということなのでしょう。
大きく書かれる意味、あるいは大きく書いても笑われないだけの理由があるのですね。う〜ん、知らなかった。
「いや、じつは小道具がいいんですよ。今月は初め岩浪の持って来た弥陀の尊像がチャチなんで、厨子があいて、つきつけられても、いかにもこしらえ物でございという感じで、一向に有難そうでないんです。少し気の毒だったが、来月京都に持ってゆく出し物でもあるしするから、こしらえ直してくれといってやったのが、やっと出来て来ましてね」(戸板康二『團十郎切腹事件』(講談社文庫 1981)より「尊像紛失事件」)
あたりまえのことですが、この年になっても初めてお目にかかる言葉というものには事欠きません。ただ、どうやら和語らしいものに、しかも現代語でお目にかかると、さすがにどきっとします。「あるしするから」というのもその一つ。正直なところ、「あるしするから」という単位で切り出してよいものかどうか、自信がない。
で、すでにある日本語の知識(といっても学術的なものではなく、日本語話者としてのそれ)を活動させてみる。ともかく、とりあえずの納得を得たいと思って、あれこれ考えるわけです。あるいは、「あるしするから」と自然に書けたりする人の語感を追体験してみたいと願って。
たとえば、「出し物でもあるし(その像を使った出し物を)するから」と補ってみる。あるいは「出し物でもあったりするから」と言い換えたりしてみる。本当にそれでいいのかな。
そこで、検索サイトで引いてみたりもする(Googleにて)。12例あるから、戸板の例が孤例なのではない。が、それにしても少ないように思います。やはり珍しい言い方のよう。
短い時間によくこれだけ描いたと感心した。絵本もあるしテレビもあるしするから、手本には事欠かないと言ってしまえば、それで終わりだが、(青山学院大学・全学共通科目案内・文学)
この例だともう少し分かりやすい。「絵本もあるし」「テレビもあるし」のように「あるし」で同格のものを列挙する。あるいは列挙の機能は「し」に限った方がよいかもしれません。ともあれ、そうして列挙したものを「するから」で統合して理由とし、後(後件)を導いていく構文のようです。
とすると、「し」を「たり」に置き換えてもよさそう。「絵本もあったり、テレビもあったりするから」。これだと、「絵本も」の「も」がちょっとひっかかる感じがしますが、私の日本語としてかなりすんなりしたものになります。ならば、戸板の例も「出し物でもあったりするから」でよいようです。少なくとも理屈のうえでは。
非列挙タイプ「あるしするから」。自然に使えるよ、という方、いらっしゃったら、語感など教えてください。
「あるし・するから」と区切りを入れて読みたくなりますが、どうなんでしょう。一気に読むのが本来なのでしょうか。
日国大が「するからして」で挙げる藤村の『破戒』の例は、列挙タイプですが、接続詞的なものですね。「自分も子は無し、主人の許しは有るし、するからして、あのお末を貰受けて、形見と思って育(やしな)ふ積りであると」(二三・二)
20020221
■珍品のワケ
数年前、大枚(ちょっとだけだけど)をはたいて一冊の節用集を買いました。『万宝節用集』(元禄13(1700)年刊)です。
和本に限った話ではないですが、古本屋さんの方で、書名と値段を書いた帯を付けることがあります。特に即売市などでは多い。その帯には、書名の下に「珍品」と書いてありました。しかも赤で。そのせいで大枚(ちょっとだけだけど)をはたくことになったんじゃないかと。
余計なお世話だよな、と思っていたのですが、裏表紙(右図)には「明治参拾九年七月四日/修復之/明治十年頃(頭?)華族山科家ヨリ/求之/藤井蔵」とあります。どうやら、これが「珍品」の根拠なのでしょう。
う〜ん。たしかにそうかもしれない。でもなぁ。
いやいや。『国書総目録』で見ても刊記(奥付)まできちんと残っている本はないようです。また、この本は、いわゆる「三階版」(三段組みだけどそれぞれの段ごとに別内容の記事が進められる)なのも珍しいといえば珍しい。そうしたことも含めて「珍品」としたのかもしれません。
名詞に複数形がないのも実に不便である。例えば、「滑らかな曲線AとB」と言った場合、曲線Bが滑らかなのか定かでないが、英語なら、smooth curves A and B と複数形を用いることで、共に滑らかであることを簡明に言い表せる。数学者の中には、複数形のない不便さに音を上げ、名詞の語尾に「たち」を付けることで、強引に複数形を作る者さえいる。二つの曲線たちとかこの方程式たち、などと言ったり書いたりするのである。(藤原正彦「日本語と数学」より。『父の威厳 数学者の意地』(新潮文庫)所収)
複数形がないのは不便である、それなら作ってしまおう。で、出来たのが「方程式たち」。「日本語として美しくない」「誤りだ」ということは簡単ですが、日常使っている言語に不備不足があるとき、それを改めるのも言語使用者の自然な働きです。大雑把にいえば、それが日本語の歴史でもあったわけです。「方程式たち」で目くじらを立てるには及ばないでしょう。
また、数学、あるいはもう少し広げて理数系の分野にとどまるのなら、一般の日本語に大きな影響がすぐさま現れる訳でもなさそうです。もちろん、今後、複数形があるとやりやすいな、という雰囲気が拡大すればそれまでのこと。
数学と隣接分野にかぎるとなれば、「方程式たち」も、やはり専門語・職業語の一つと考えた方がよいでしょう。ただ、少し定義を変える必要がかな。「専門語・職業語」だと、他の分野・方面に見つけにくい独自の単語、となりそうです。が、そうではなく、用語としては一般的なのだが、用法が少々異なるものも組み入れようということです。そこまで考えると「社会的方言」などという、より広い言語現象を指し示す言い方の方がよいのでしょう。
化学などでは「発生する」を、「二酸化マンガンに過酸化水素水をそそぐと、酸素を発生する」のように他動詞的に使います。ほかの分野でも、そういうもの──普通の日本語だけど使い方がちょっと違うもの──があるような気がします。お気づきの際には、お教えください。
20020206
■「サーイン(山陰)」
今朝、(なかば仮死状態で)NHKの気象情報を見ていたら、「サーイン」という言葉が耳に留まりました。「山陰」です。以前にも「全員」について、自分の発音がかぎりなく「ゼーイン」に近いというようなことを書きましたが、それの「山陰」版ですね。条件はまったく同じ。直後に「イン」が来る「ン」の発音が「ー(長音)」になるわです。
これはどうやら今に始まったことではなく、江戸時代には認められる変化のようです。『浮世鏡 第三』(貞享5・1688)は、当時の訛語を集めたものですが、
○うぢ井 雲林院(うんりんいん)也 此所はむかし寺也 其寺号則所の名とするなり
とあります。もとは「ウンリンイン」だったのが「ウヂイ」になったのですが、その過程を想像すると「山陰・全員」と同様だったのではないかと思います。
すなわち、「リンイン」の部分は、一旦「リーイン」のような発音になったのでしょう。また、現代ではどうなのか分かりませんが、『浮世鏡』などを見ていると、撥音(ン)や長音(ー)を重視しない発音傾向もあるようです。あるはずの部分を脱落したり、ないのに補ったり(促音ッも?)…… そうして「ウンリンイン」は「ウリイ」となります。「リ」が「ジ」になるのは、ある理由から(聴覚上の印象効果を高める、でしょうか)[r]→[zj]と強められたのでしょう。
「ンイン」を持つ語がどれくらいあるか、『広辞苑』(5版、CD−ROM版)でみると122語。今後、それらが「ーイン」と発音されるようになるのか、そしてそういう発音が「正しい」ものになるのか…… ちょっと長生きしてみたいな、とも思います。
20020116
■初買い・出会い
2002年になりました。今年もよろしくお願いします。
節用集の初買いですが、今日、果たしました。古書展の目録で昨年末に注文したものが、今日届いたのです。多分、抽選になったかと思うので、運試しとしては良かったでしょう。
その本は、『和漢音釈書言字考節用集』(万延元年刊)。享保版・明和版は持っていたのですが、万延版もあってよいかな、と思ってました。ただし、一三冊本ではなく、薄い用紙の二冊本で。目録には「三冊」とあったのですが、「二冊」の書き誤りだろうと思っていました。ところが、やはり三冊本。もちろん、薄い用紙のものですが、三冊本ははじめて。新たな出会い。嬉しいことです。
さっそく、高梨信博「『和漢音釈書言字考節用集』の考察──版種を中心として──」(『国文学研究』64)と首っぴきで同定作業です。
三冊本の記述はないので、一三冊本・二冊本の範囲での作業です。どうやら「III、万延元年(一八六〇)版」のA類の一種のようです。A類である要点は、刊記の書肆の最後が「勝村治衛門」であることですが、第一冊の見返しに刊年・書名・「京摂書房合梓」と記してあるタイプ。A類にはこの記載があるものとないものとがあるとのこと。なお、この記載はB類にもあるそうです。
さて、問題は三冊であること、です。三冊になっているのは、本屋がその形で出版・販売したのか、それとも旧蔵者が三冊に綴じなおしたのか……
綴じ方はしっかりしていて、元来二冊本であったとは見えないように思います。もちろん、二冊本とよくよく比較してみる必要もありますが。題簽は惜しいことに上・中巻分ははがれてしまっていて、痕跡しか認められません。ただ、下巻の題簽は、書いたものではなく印刷したもので、「増補//和漢合類大節用集//言辞数量/附/日本姓氏//下」(111kb)とあります。「言語・数量・日本姓氏(本朝通俗姓氏)」は、一三冊本だと五冊分にあたるので、三冊に分割するには妥当な配分。したがって、三冊本というのも正式に出版されたのでしょう。
ただ、よくよく見ると題簽の「言辞数量」の部分(261kb)だけは、ひょっとすると書いたもののようにも見えます。でも、「言」字の二画目の「一」などは、終筆が印刷っぽく、境界付近で墨がわずかに溜まっているように見えるので(画像では分かりにくいと思います)、やはり印刷だと思うのですが。