昔、[ixi:z]というのもありましたね。今もあるのかな。
20000208
■「フード・プロセッサ」の謎
考えれば不思議である。どうして「フード・プロセッサ」は略語で呼ばれないのだろう。
最初の一拍がことなるだけの「ワード・プロセッサ」は、すでにワープロが定着している。
ワード・プロセッサなどと言おうものなら、かえって、キザなヤツだ、と思われかねないほどだ。
なのになぜ、「フード・プロセッサ」は略称されないのだろうか。
あるいは、そのモノの流布と関係するのだろうか。
たとえば、ワープロとフード・プロセッサとで、導入している家庭の数を調べてみる。
フード・プロセッサのある家庭の方が格段に少なければ、一応、そういう推論がなりたちそうである。
また、性差、というものもあるかと、考えてみる。
どちらかといえば、「ワード・プロセッサ」は男性の(仕事の)世界のもの、「フード・プロセッサ」は女性の世界のもの、といえそうである。
その辺がなにか関係するのかもしれない。
それほど見ているわけではないが、料理番組でも「フープロ」とは言っていないらしい。
というより、料理番組だと、「フープロ」という略語は使いづらい面があるのかもしれない。
「フープロ」が定着していない状況で使おうものなら、手抜き料理を紹介しているとも思われかねない。
そんな感じがする。
案外、この辺が効いているのかもしれない。
「フープロ」と言ってはいけない何かがあるかもしれない、ということである。
結婚式で「切る・離れる・別れる・終わる・する」などを使ってはいけないように。
岐阜県の美濃地方で、学生諸君が調べた結果だと、蟷螂(かまきり)をあらわす方言語形にオママ・オマンマというのがある。
おそらくオガマナトーサンという言い方がオガマと略され、さらにご飯の「オマンマ」に引かれてできたものなのだろう。
あるいは、蟷螂の卵を連想したのかもしれない。
この語形を答えてくださった方4人のうち2人が別の語形──ツメマガリ・ツメマワリ──を答えている。
ご飯(オマンマ)を食べながら、同音(オマンマ)の蟷螂を思い浮かべるのは気持ちのよいものではない。
タブーに触れる同音衝突というものの一つである。
「フープロ」でも、そういう面があるのではないか。
郷土料理や一部の伝統的な日本料理ではそういうことはないのかもしれないが、料理の世界では略語を嫌う部分もあるようにも思う。
特に、フランス料理とかワイン関係ではそんな気がする。
略語が、品のない感じを与えそうな気がする。
本国のフランスはどうか分からないけれども、日本では、そういう雰囲気をまとっているような気がする。
ただ、日本は、「スーパー・マーケット」を「スーパー」と略すくらいだから、いつかは「フープロ」も普通の言い方になるかもしれない。
念のための検索すると、KWIC風表示が便利なRingringでの検索結果だと41件。
ただ、このなかには「ヤフープロ野球」とか「カンフープロジェクト」も入っている。
ライコスだと6件。
何カ月かおきに、定点観察でもしましょうか。
20000216
■雪連想
以前住んでいた仙台は、北国ではあったが、太平洋側のためか、雪はさほどでもなかった。
もちろん、関東以西にくらべれば降りやすいのだが、二階から出入りする、などということはない。
「北国ではあるが、雪国ではない」というのが、仙台に住んでの実感である。
今年は暖冬との話だったので、今住んでいる岐阜は、雪とは無縁かと思ったが、やはり降った。
関が原の雪は、今年も東海道新幹線を遅らせた。
今日などは、雪のなか、東海道線の普通列車が乗客を乗せたまま、垂井方面で7時間、立ち往生した。
電圧の低下が原因という。
救援に向かった列車は、信号を見誤って脱線し、たどりつけなかったという。
どちらも、やはり雪が関係しているのかもしれない。
そういうニュースを聞くにつけ、「北国ではないが、雪国かもしれない」などと思う。
もちろん、岐阜市では二階から出入りする目にあうことはないが。
帰宅の途中、そんなことを思うともなく思いながら、雪を踏んでいた。
で、ついでに思い出したことがある。
以前、「日中の暖気で融けた雪の表面が、寒気にさらされて凍りついた状態、またはそのような雪」という意味の言葉を見たことがあった、と。
ただ、それが何という言い方だったか、忘れてしまった。
国語の教科書だったか、ほかの教材だったか、はたまた、だれかのエッセイだったか小説だったか。
『日本方言大辞典』の索引をひけば出てくるだろうか。
書いているうちに、「サラド漕ぐ」という言い方を思い出した。
やはり以前のこと、山形県寒河江市出身の先輩から教えてもらったものである。
サラドは、まだ誰も足を踏み入れてない積雪、のこと。
「サラド漕ぐ」とイディオムのように言っていたから、「歩く」ではなく、「漕ぐ」にふさわしい全身運動が必要なほどの積雪なのだろう。
「サラ−」は、「更地・まっさら」のサラでいいように思うが、残る「ド」は何なのだろう。
「契約更改」などという言い方があるから、「土(つち・ど)が改まること、たとえば一面雪におおわれるような状態」の「更・土」が原義で、意味の重心が雪に移ったのは転義……
冗談はさておき。
20000218
■辞書での雪の記述
これも以前のこと、融けかけた雪を「シャーベット状の雪」というが、その前はなんと言っていたのだろうか、と問われた。
なるほど。そうである。
昔から日本には(とはじめるほど大げさなものではないが、事実なのでしかたがない)、そのような状態の雪があったはずである。
だから、「シャーベット状の」という外来語をまじえた表現の前に、日本語らしい表現があったのではないか、という問いである。
CD-ROMの『広辞苑』で後方一致検索をすると、「べたゆき」というのがある。
「水気の多い雪。」とだけ書かれている。
たしかに「シャーベット状の雪」は「水気の多い雪」ではある。
が、『広辞苑』の記述では、空から降り宙を舞っている状態のときをさしているのか、すでに積もったものが融けかけの状態になっていることを言っているのか、はっきりしない。
「いや、両方表せるから、いい解説ではないか」という人もいるかもしれないが、それはやはり違う。宙ぶらりんでは困ると思う。
というのは、私が、教えてもらったり調べたりした「べた雪」は、積もった雪のものばかりだからである。
もし、「べた雪」にそういう用法しかないのなら、まぎれないように積もった状態に焦点をしぼった語釈にすべきだろう。
日本語の「○○雪」は、○○の部分で雪の状態を表すから、一応は、○○の部分からどんな状態なのか──空中での状態なのか、積もっている状態なのか──察することができるのが普通。
「ぼたん雪」はやはり降るさまを言っているだろうし、「友待つ雪」は新たな雪の降り来るのを待つ雪だから、すでに積もっているものになる。
しかし、「○○」だけからは分からないものもある。「なごり雪」などもそうかもしれない。
イルカの歌のおかげで(「なごり〜雪の〜降る時〜を知〜り〜」)降ってくるものと分かるけれど、いつまでも消えずに残っている雪の意味で使った例も、どこかにありそうな気がする。
もちろん、「べた雪」に融けざまだけでなく、降りざまの用法もあるのなら、『広辞苑』のままでもよいことにはなる。
それならそれで、両用あると注記してもよいように思う。
一般化すれば、「○○雪」の「○○」に、少なくとも降りざま・積もりざま・融けざまがあるのなら、どのさまをいうのかが明らかになるような語釈の工夫をしてもよいのではないか、ということになる。
さらに拡大して、語釈の記述において、何を書き落としてはいけないかを、あらかじめ全語について設定しておかなければならない時期にきているのではないか。
20000319
■辞書批判の大衆化時代
(承前)というのも、すでに時代が、パソコン・インターネットが自由に使える時期になってしまったからでもある。
辞書は、パソコンを使えば、さまざまな引き方ができるし、現に私も活用している。
「友待つ雪」も、検索語を「雪」とし、後方一致検索で得たものである。
もちろん、それだけなら、いわゆる逆引き辞典と一緒であって、何ら進展がないとも言える。
が、パソコンのいいところは、一網打尽にしたさまざま「雪」の語釈を、クリック一つで見られることである。
非パソコン時代なら、逆引き辞典(例『逆引き広辞苑』)で見つけた項目を、本体(例『広辞苑』)ですべて引き直すのは、かなりの苦痛が伴う。
すべての語を引こうと志を立てても、よっぽどの目的意識がなければ達成できない。
多くの人は、その苦痛の前に、断念することになるだろう。
それが現代では、片手でマウスを操作するだけで可能なのだ。
実に便利である。
これで、辞書批判も簡単にできる。
語釈に統一感がない、語釈内の使用語も不揃いである、などがすぐに分かってしまうからである。
その実践例もすでにある。
柳瀬尚紀『広辞苑を読む』(文芸春秋)である。
よく言われることだが、我々は言語を使うから、言語の専門家だと自分自身を確信している、と。
現在でも、その弊の部分は依然として残っている
(もちろん、「弊」として、簡単にしりぞけるべきでないことは、社会言語学の教えるところ)。
が、こと、辞書に関しては、必ずしも、そういう時代ではなくなりつつある、ということになる。
現代は、辞書の「あら」が格段に見えやすい時代だからである。
未読ですが、国広哲弥氏の著書などでは、すでに触れているのかもしれませんね。
20000322
■「二 0 0 0 」年問題
思えば、今年の幕開きは2000年問題のパート1。
「00」年表示を、コンピュータが、「1900」年とカウントするのではないかと、戦々恐々でした。
大きな問題はなかったものの、ネットをあちこち見て回っていると、いくつかの掲示板ソフトやメールソフトで、年表示のおかしなものを目にすることがありました。
ただし、それが1900年でないところが、面白いというか、奇妙というか。
2000年問題のパート2が、うるう年問題。これは、社会的にもちょっと問題になったのがありましたね。
いくつかのアメダス関係のソフトが対応していなかったとか。
そして、それに気づくのに数日かかりました。これはこれで、ちょっとこわい。
外見・振る舞いに不調が反映しないとは。
そしてパート3(?)が左図。「二〇〇〇」ではなく、「2 0 0 0 」でもなく、「二 0 0 0 」。
JR東海のポスターです。
しっかし、もう、なさけないくらいぶれてて、すみません。
3度撮って、これが一番ましでした。笑ってしまいます。写真が趣味、などと言えません。
自己弁護すれば、デジカメで撮ったから。藤原紀香が、一時、宣伝していたのと同じものです。
小さいのを、と買ったのですが、持ちにくい。ことに、内蔵フラッシュを使うときは、神経を使います。
縦型デザインがわざわいしたのか、どうしても右手中指が発光体にかかりがち。
それを避けようとすると、しっかり保持できない……
ということで、こんな風になってしまいました。
やはり、フィルム・カメラのように横長デザインのものが、いいようです。
さて、「二 0 0 0 年」。どうして漢数字と算用数字がごっちゃになったのでしょうか。
なんせ、天下のJR東海のポスター。「間違えちゃいました。(^^ゞ」ということはないでしょう。
何かの理由があって、ということは、確信犯的な混用なのだろうと思うのです。
2000年問題がコンピュータのものなので、「二〇〇〇」よりは「2000」の方がなじみやすい。
そして、その影響が喧伝されるものだから、「2000」が頭にこびりついている。
もちろん、西暦2000年にちなんだ数々の(商業的な)イベントもこれに拍車をかけたことでしょう。
このようにして、ニセンといえば「二〇〇〇」ではなく「2000」が、一時的にも、想起しやすいことになった。
その、「想起しやすい2000」を利用したのが、JR東海のポスターなのでしょうね。
ただ、ポスターの背景は、飛騨高山の酒造所の杉玉のようです。高山といえば古い町並み。
そして、ポスター全体の色合いは、渋い茶色系。
そこに、画像のように白抜き文字が伝統的な縦書きで並びます。
どうみても「古き日本」をアピールしているかのようです。
そのようなポスターではさすがに「2000」を縦書きにするのははばかられた。
しかし、2000年にちなんで醸された祝祭的な雰囲気を盛り込まない手はない。
そこで、「二 0 0 0 年」と表記してみた。一応、こんな風に考えられるのではないか、と思っています。
20000323
■誰もが考えている
ちょっと必要があって思想関係の本を読んでいたら、つぎの一節にいきあたった。
やっぱり、誰かが言っていたんだね。
歴史的現実の世界は制作の世界、創造の世界である。制作といふのは我々が物を作ることであるが、物は我々によって作られたものでありながら、何処までも自立的なものとして逆に我々を動かす、加之我々の物を作る働きそのものが固、物の世界から生れるのである。物と我とは何処までも相反し相矛盾するものでありながら、物が我を動かし我が物を動かし、矛盾的自己同一として世界が自己自身を形成する、作られたものから作るものへと行為的直観的に動いて行く。我々は制作的世界の制作的要素として、創造的世界の創造的要素として、制作可能なのである。而して斯く我々が歴史的制作的なる所に、我々の真の我といふものがあるのである。故に此世界は労苦の世界である、人間は自由と必然との矛盾的存在であるのである。(西田幾太郎『人間的存在』。『近代日本思想大系』11筑摩書房による)講義で、言語の本質、のような話をするとき、かならず言っているのが、「言語って、規則・規則のかたまり・束・体系なんだよね」のひとこと。
*必ずしもことばだけが話題の中心になっているとはかぎりません。
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・金川欣二さん(富山商船高専)の「言語学のお散歩」
・齋藤希史さん(奈良女大)の「このごろ」 漢文学者の日常。コンピュータにお強い。
ことばにも関心がおあり。
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