「いやぁ、クルマ、買い換えたんだよ。ミレーニア」そんなやりとりが、ふと浮かんでしまう。 マツダとしては、ディーラーも整理したことだし、古い名前にこだわることはないのだろうが。
「なに、それ? どこのクルマ?」
【主要工事内容】それにしてもトンネル部分が長い。 地下鉄でなければ、地上に露出して走るのが普通だろうから、それを特に言う名称は必要ない。 が、東北新幹線の盛岡・新青森工区では、その名称が必要なほど、トンネル部分が長いということらしい。
盛岡・新青森間
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│総延長\種別│明り │トンネル│駅 │
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│約176km │約59km│約117km │5か所│
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注1)明りとはトンネル以外の区間
「(佐藤注:図書館経由で雑誌のコピーをしても)必要なページが分からなきゃお金の無駄だよ。大学の方がてっとり早いさ(中略) 基本図書は義兄さんの残してくれたものがあるから助かる。 飯島虚心の『葛飾北斎伝』や楢崎さんの『北斎論』から捜すんじゃ何年経っても手がつけられない」(中略)
「良平さんのお得意がはじまったわ。いよいよヤマト発進かあ」
−−せえや、せえや。この部分を読んだのは、もう大分まえのことである。 なんせ、単行本が出て間もないころに読んだのだから。 またそれ以前に「そいや」に対する同じ趣旨のエッセイを読んでいた。 ははぁん、あれだな。吉村昭が書いたのだったか... とさして気にも止めず読みとばしていた。
と掛け声は激しく陶酔的に沸き起こる。
吉村昭が、こういう時の声は《わっしょい》であるべきなのに、近頃《せえや》だの《そいや》だのというわけの分からないいい方が出て来たのは遺憾であり、祭りの本質にかかわる重大問題だといっていた。北村薫『夜の蝉』創元推理文庫
苔の生(む)すまで 山口 瞳 316北村薫は、とりちがえたのではないか。 小説に「そいや」のエッセイ記事を挿入する。 そのとき筆者の名前を確認するわけだが、『おしまいのページで』の目次をみて、吉村の名をさっと書いてしまったのではないか。 あるいは初出誌『オール読物』を見たのだが、間違えて記憶していたのかもしれない。 いずれにしても、よくある間違いだろう。
「そいや、そいや」 結城昌治 318
特 技 吉村 昭 320
こころにもない言葉 串田孫一 322
一銀行の経営問題にとどまらず、日本の金融機能が壊される事態を、手をこまぬいて見ているわけにはいかない。まして、日本が世界の金融大混乱の震源地となるようなことは避けなければならない。こういうとき、私は「こまねいて(拱いて)」を使う。FEPも漢字変換してくれる。 「こまぬいて」だとFEPは「込まぬ鋳て/混まぬ鋳て」などと返してくる。 したがって、「こまぬいて」は変な言葉だ..... が、実は「正しさ」という点では、「こまぬいて」の方がよい。朝日新聞1998・8・26 社説
こまぬ・く[3]:[3]【拱】(他五)〔もと、敬礼のために、左右の手の指を胸の前で組み合わせる意〕腕を組む。 〔口語形では、「こまねく」とも〕私個人の内省でしかないので、中立的な見解かどうかは自信がないけれども、現代で「こまぬく」を使うのはちょっと古すぎるのではないだろうか。 朝日新聞の社説からは、辞書を引いて、そこに出てないから「こまぬいて」を使ったというニオイを嗅いでしまう。 もちろん、山田氏の文章をすでに読んでいたので「こまぬいて」を使った、ということは大いにありうる。
しそ [1]【始祖】「元祖」の意の漢語的表現。元祖だって音読みするのだから「漢語」といって(も)よい表現。 さらにそれに対応する「始祖」が、これまた「漢語的表現」とはこれいかに。 と普通なら思ってしまう。ぜひ、やめた方がいいと思う注記である。
かんご [0]【漢語】←→和語 (一)中国起原の字音語のうち、文章語としては広く用いられるが、一般の人にとってはやや改まった感じをもって受け取られるもの。「むずかしい−ばかり並べる/−的表現」たしかに語義の書き方としてはいいのだが、この意味を最初に掲げるのはいかがかと思う。 というのはこの辞書の「編集方針」とちょっとずれるのではないかと思うからだ。 語義の配列順について「現代日本語において通常使用されているものを凝視し、頻度の高いものから低いものへ、一般的なものから特殊なものへという方向によることを原則とした」とあるが、私には、この「漢語(一)」が一般的用法とは思えない。 一般性というなら、やはり「音読みする語で、本来は中国本土の語だが、日本で作られたものも含む」とかいった記述が見られるものだろう(ただ、そのような語については「字音語」という用語を準備してはいる)。
(二)日本起原の字音語、および中国起原ではありながら、社会生活に密着して久しく用いられて来た結果、同化の程度がはなはだしく、あたかも日本起原であるかのように一般の人には受け取られている字音語。例、滑稽(コツケイ)・介抱・景色:大変・大層・一層・徒然(トゼン)。何だろう、この説明は。私には理解不能である。 こういう意味で「漢語」を使ったこともない。 あるいは、元主幹・山田忠雄氏の御尊父・山田孝雄氏の論考に、このような定義でもでているのだろうか。 あるいは、「漢語」の学術的な定義を見直す気運があるので、それをくみ取ったものだろうか。