このなんだか訳の分からない数え方は、「易」の陽の数である九を基本にしたものである。9から小さくなっていくのではなくて、整数倍していたというわけ。 ただ、異説もあるらしい。
子の刻と、午の刻を九つとして太鼓を九回打つ。一刻後に九の倍の十八回打つところを十は省略して八回打つ。次は九の三倍の二十七回打つところを二十は省略して七回打つ。‥‥‥最後は九の六倍の五十四回打つところを四回打つ。これが時刻の呼び方となった。
この時刻の打ち方は『延喜式』という平安時代の律令書に記されているというくらいだから、かなり古い。
『別冊歴史読本 決定版 江戸時代考証総覧』1994
「(佐藤注−−犯人である)男は自分を《幼い娘を亡くした母親だ》と主張していたそうです。《真弓ちゃんはなついている。帰る気はない》と書いてあった」私はカムフラージュを使う。別に原音の発音を知っているとかなんとかということではく、そういう語だと覚えてしまっている。 中学生のころだったろうか、カモフラージュはいけないという話を聞いたような気もするから、その影響かもしれない。 かすかに「なんで鴨が出てくるのだろう」という素朴な違和感もないではない。 そういえば、同じ北村薫の作品に、主人公の女性が「ソバージュってお蕎麦とポタージュみたいでしょ」(取意)というのがあった。 それにならえば、鴨がフラミンゴといっしょにジュースを飲んでいる、いや、鴨がジュージュー焼かれながら末期のフラダンスを踊っている…… 止めよう。
「そう思っていたわけではないでしょうね」
「カモフラージュだとは思います。しかし、そういう物語を完全に頭の中で作ってしまうのですね」北村薫『覆面作家の愛の歌』角川文庫
川上作品を読みながら、私自身の小説のヒントを得たことも、何度かある。 この「六人目の女」のテーマは、川上さんならでは思いつかないものであり、私は楽しく読ませていただいた。ふと手をとって読み返してみたのだが、思わず、そうなんだよな、こういう使い方だったんだよな、と確認してしまった。 私も忘れかけていたということだ。佐野洋『推理日記T』講談社文庫
井沢 私が、あなたを”永久初版作家”などと言うわけがないでしょう。なかなかうまい。が、愉快なものばかりではない。
大沢(在昌) いいえ。私はよく”永久初版作家”だと言われました。 「大沢君、本には二刷、三刷というのがあるのを知ってる? 僕は家を建てたから作家だけど、君は家を持ってないから作者と言わなければいけないのだよ」と。
井沢 どういう詩人が好きだったの?これは、むむむ、である。(以下、都合により削除しました。2001年1月25日)
大沢 室生犀星(むろおさいせい)が好きでした。