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*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、
人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。
19980409
■「蝉」
岐阜市内の地名である。
私のアパートから歩いて5分くらいのところだろうか。
こちらです。
バス停の写真はまだとってないが、堂々と「蝉」とだけ書かれている。
今日、所用があって岐阜県図書館にいったついでに語源を調べてみた。
というより、以前、どこかで読んだはずの説を確認しようとした。
その説というのは、現在「蝉」と呼ばれている地域に「セミ(瀬見?)氏」という豪族がいたとかいうもの。
今日のところは確認できなかったけれど。
ひょっとして夢の中でのできごとだったか。
で、別の説が見つかった。
昔の東山道が地図で示したあたりを通っていたそうだ(むむむ)。
「東山道」は「トウセンドウ」と読める、「中山道」と同様に。
マピオンの地図にも見えている「仙古」は、やはり「東山道(トウセンドウ)」と関係があろう。
「山・仙」の音はセンで、「蝉」の音ゼンに似ている。
きっと、「蝉」というのも東山道にゆかりがあるのだろう.....
だとしても「山」(せん)だけとった由来は知られない。 地名は難しい。
19980410
■「北詰」
南北にかかる橋の北側の地域をこのように呼ぶ。
辞書をみると、橋にかぎらず、もとより南北にもかぎらず使えるようである。
ただ、私は橋の例しか見たことがないし、話がこんがらかるので橋の北詰で代表させる。
で、この言い方、はじめて見たのは、島根県松江市のことである。
あるいは金沢だったかとも思うのだが、いずれにしても、はじめてそれらの土地に訪れたのは学部3年か4年のころ。
逆にいえば、それまでは聞いたことがなく、自分で地図とにらめっこするような一人旅を、中部以西ですることもほとんどなかった。
つまりは、西日本的な言い方なのだろうと思っていた。
なお、現住の岐阜でも使われる言い方である。
ところが、ちょっとこの認識がぐらつくことがあった。
数年間、岐阜に住んでいて、いまは富山在住の友人からのメールである。
「富山では北詰といいます」とあった……
ということは、私の場合にも同様のことが起こりうる。
他の人たちは使っているのに、自分だけ、使っていないと思っているということ。
具体的にいえば、関東はじめ東日本でも、「北詰」は使われているのに、私が気がつかなかったということ。
『日本国語大辞典』には東京出身の岡本かの子の例が引かれている。
gooで検索すれば東京の例がある。
(後者の場合、西日本出身の方が書いた可能性はあるが)、あっけなく北詰=西日本方言説はくずれてしまった。
事実は事実としてそれでよく、これ以上、あらがうつもりはない。
が、私という若年元関東人(「若年」も「元」か?)の言語感覚のありようをきっかけに何か考えられないか。
たとえば、使用頻度とか。西日本では比較的さかんに使うが、東日本ではあまり使わない、とか。
あるいは、分野などでことなるとか。
歴史小説になじんでいる人には普通の使い方かもしれない、とか。
何かお気づきのことがありましたら、ぜひ、芳名帳にお記しください。
おとといの田中克彦の話。藤原さん(けいちゃん)がフォローしてくださいました (「茨城弁は日本語ではないのか」) 。 御礼もうしあげます。 ひとりでも多くの方に読んでいただき、ことば・言語についての認識を深めていただきたい話です。
19980411
■「北詰」の計量的考察
岐阜聖徳学園大学の小田勝さんより速攻レス。
多分、新記録でしょう。
内容もおもしろい。そこで明日分も書いちゃいます。
本日分をお読みになりたい方は、もどって読んでください。
田中克彦まわりのフォロー記事もあります。
まず、関東圏にもけっこうあるよ、という話。
「北詰」、國學院大学八王子キャンパス行きのバス(立川駅前発)に、たしか「多摩 大橋北詰」という停留所がありました。そこで佐藤先生のリンク集にある、「何度も 使えるページ」(異常に便利!)の「東京&千葉バス案内」で検索したところ、ほかに、
桜木橋北詰、行徳橋北詰、行徳橋南詰、関戸橋北詰
などがありました
なるほど。関東在住だったとはいえ、私には縁のない場所でした。
ただ、小田さんも「頻度といわれると、私(東京・新宿区生まれ)は、大阪に多そうに感じます」とのことでした。
さらに小田さんの探索は続く。
「何度も使えるページ」の「MAPION」(地図検索)で(〜橋)北詰を検索しますと78件ヒットしまして、1位は大阪府の24件、2位 は広島県の14件、3位は東京都の10件、4位は徳島県の8件、5位は三重県・石川県 の3件、のようでした(数字はざっと見ただけで、不正確かも)。
うううう。マピオン、こういう使い方もできますね。
教えてもらいました。
もちろん、マピオンがそれらの地名を検索キーワードにした基準がどうなのかは、大いに気になる、かつ関心のあるところですが、十分に参考になります。
大阪が断然多いのは、やはり八百八橋の土地柄でしょうか。
立派にランドマークとして機能しているということがありましょう。
東京都を例外とすれば、ほかはまず西日本に含まれるでしょうからちょっと安心。
西日本で「〜詰」を使用するという私の語感(?)も、あながち、間違いではないかもしれません。
東京が偉大なる例外になるわけですが、これもうまく解釈できそうです。
先進の文化の伝播過程を考えるとき、小田さんの示した数字は、私にはぞくぞくするくらい自然なものと見えます。
ただし、「〜詰」という言い方が大阪(より広い「上方」だともっと都合がいい)が発祥の地である、ないし、本場であるという前提が成り立てば。
つとに徳川宗賢氏が『日本言語地図』を使って明らかにしたことですが、上方の語形は西日本に伝播する速度が速く、東日本にはそれほど(全然?)速くない。
数値をだします。
東海道 27語形の平均値0.75q/年 最小〜最大 0.04〜2.9q/年
北陸 1.06q/年 0.04〜3.6q/年
中国 1.10q/年 0.0 〜6.3q/年
四国 1.23q/年 0.0 〜5.4q/年
南近畿 1.06q/年 0.1 〜1.8q/年
平均 0.93q/年 0.12〜3.62q/年
平均しゃうと何ですか、最大記録を見た方が手っとり早く分かるでしょうか。
上方と西日本とが、文化圏として同一であるとか、少なくとも同一感・一体感が濃いという感じがしますが、うまく数字の上でも現れていると思います。
これはおそらく、江戸時代からの陸上交通もさることながら、海上交通の密度ともかかわっているでしょう。
さて、東京です。
都市化したのは江戸時代からですが、その文化はやはり圧倒的に上方のものに依存してきたという背景があります。
つまり、他の東日本各地にくらべて、都会であるがゆえに、上方文化の影響を受けざるを得なかった面もあるわけです。
ことばも例外ではありまんでした(後半部を参照)。
その具体例のひとつに「〜詰」も挙げられるのかもしれません。
もと同僚だった人からメール。 「蝉」という地名、そのむかし、階級的最弱者のアジール的セミナリオがあったからだとの説を唱えるものがいたと。 大笑いですが、かつてそのちかくには刑務所がありました。 ひょっとして……
19980414
■五七調
現代の短歌の(俗な?)読み方は、三句めできる七五調が中心。
学生に読ませても、三句の直後にポーズをおく。
しかし、現代の短歌のなかにも、句切れ(便宜「文末同等表現」とする)が二句直後にあるものもある。
つまり、五七、五七七と五七調で読むことが考えられる。
しかし、七五調全盛の現代だとちょっと厄介な存在。
作者自身、五七調を−−二句の直後でポーズを置くことを−−意識していないかもしれない。
声に出して読むときも、七五調に読むかもしれない。
句切れが二句直後にあるのは単なる偶然に過ぎないかもしれない。
そういう現代短歌を他人がどう読み上げるか。
これはもう、歌意を手掛かりにするほかあるまい。
今日の『NHK歌壇』のメンバーは、佐々木幸綱・水原紫■(艸+宛)ともう一人(ごめんなさい)。
前は、俵万智が読み上げ係をし、テキストの宣伝までやっていて、もったいないと思った。
かといって講師というのもなんなんだが、気のきいたコメントもしていたので、短歌をよく知った人が案内役という理想的な構成だったのかもしれない。
で、今回の読み上げ嬢も専業歌人(だと思う)の水原。
どこかでみた名前ではある。
でも、この人の解釈力にちょっと疑問を感じざるをえなかった。
というのは、次の投稿歌を思いっきり七五調で読んだのである。
やはり、それでは軽く流れすぎるだろう。
静寂(しじま)なる
夜などは無し
むささびの
爪痕残る
ブナの樹を見よ
八王子市 沙木まりゑ
「地球にやさしい」などと自然への思いやりが叫ばれている昨今だが、一方では、食物連鎖・弱肉強食の厳しい現実も知られるところである。 そういう面を忘れちゃいけないよ、と訴えかけている歌だと私は解した。 情緒性でほんわか歌ったものではなく、現実をつきつける歌である。 そういう歌はやはり二句直後できって、五七調に読むほうがよいのではないか。 七五調になれきった耳には、なかなか武骨に響いて歌らしくないが、説得力(説得感?)がこもってふさわしいように思うが、はて、如何。
何だか以前にも書いたような気もするのですが、とりあえず。
昨日の午後、腰を捻挫してしまい、しばらくは安静にすることに。
あ、ギックリ腰ではありません。あくまで捻挫ですよ捻挫。
19980416
■「おくんち」
病欠の平日(ひる)も楽し ゆくりなくテレビに不明を教えらる 竹色
だいぶまえだが、風邪で会社を休むのは気分がいい、といった内容の随筆(だったか)を読んだことがあった。−−
健康管理も自分の責任とつきつめることはできるが、とりあえずの責任は風邪が引き受けてくれる。
ずる休みと違って、こころおきなく、平日の昼からテレビを見ることもできる−−
そんな内容だったろうか。
『謎学の旅』が消えて久しいが、それに類した短い番組は、民放でもNHKでもやっている。
そんな番組の一つで、「九」を話題にしたのを見るともなく見ていた。
「九九」とか、龍がそなえるべき九つの動物の特徴とか、陽数の最大のものとか。
で、「おくんち」も触れられた。御九日の変化とか。なるほど。
まえから耳にしていて、ちょっと不思議な言い方だなと思ってはいたが、そういうことだったか。
思いがけず教えてもらった。
まだまだ知らないことは多い‥‥‥ などと、改めて知らされたりもする。
それもまた楽しい。
「この状態を一般には、ぎっくり腰とよんでいます。簡単にいえば、腰椎関節のねんざと考えてもよいでしょう。」(保健同人社『新赤本・家庭の医学』)
いかんなぁ。こういう説明は。捻挫は捻挫。ぎっくり腰とはまったく別なのッ!
19980417
■「ZenzaBronica」
商品の命名というのは、特にネーミングなどと呼ばれて神経を使うものだと聞いている。
しかし、マァーストカートル(手動蚊取器)のごとき商品名もまだまだ健在。
センスを疑うまえに感動すらしてしまう。
胃腸薬のガストールは有名になったようだが、整腸薬だったかウェスト(ー)ンとかいうのもあるらしい。
テレビのCMに「身毒丸」の文字が浮かんだ。
変な名前の薬だな、と思ったら、これは芝居の題名でシンドクマルだった。
説経節の「しんとく丸」あたりから出たものか。
カメラ業界もこの手のものが多かったりする。
ミノルタ(稔田?)・キャノン(観音)・ニコン(日本光学)・トプコン(東京光学)などはみな日本語が基盤になっている(らしい)。
もともと外来の技術ながら、比較的早期に日本のお家芸と化した分野だから、そういうことになるのだろう。
旭光学のペンタックスが例外的にペンタゴナル・プリズム(五角形プリズム)に由来する。
が、そのレンズもタクマーというブランドだった。
切磋琢磨の「琢磨」である(現在ではペンタックス・ブランド)。
そんなカメラ業界での最高傑作は「ZenzaBronica」だろう。
文字面は、ドイツ語由来のラテン語めかしみたいだ(ラテン語はほとんどしらないけど)。
ところが、これは(とんでもなく)日本語に依存した命名なのである(→参照)。
現在でも販売されている(→参照)。
瀬戸内寂聴訳の源氏物語が話題になっている。 一昨日だったかの「クローズアップ現代」で、ブームの秘密を特集していた。 その一つに、和歌の前後の行空けを多くとったことがあるという。 その場合、古文をかかげ、現代語訳は脚注にまわる。 テレビカメラがズームアップして映し出した和歌は…… 二句切れのものだったが、三句のおわりで改行していた。
19980419
■俵万智の舌鋒
彼女のエッセイは、やさしさに満ちたものが多いように思う。
『パソコン日記』(という書名だったか)あたりは、ちょっと甘ったるくていただけないが、これは余技なのだから許せる範囲だろう。
さて、ほかのエッセイを読めば、彼女の筆力と豊かな感性と実力には容易に気づく。
が、私の場合、「林あまりと私」の激しさに、短歌への思いの決定的な強さを見たように思う。
生理中のFUCKは熱し血の海をふたりつくづく眺めてしまう
(中略)林あまりは、「生理中のFUCK」という言葉を、使いたかった。 もっと言えば、その言葉を使った歌を作りたかった−−のではあるまいか。 “熱”いこと、“つくづく眺めてしまう”状況、に歌の眼目はない。 もしそこに歌の中心があるなら、“熱し”“つくづく眺め”るなどという安易な表現は、許されないはずだ。
『よつ葉のエッセイ』河出文庫文芸コレクション 45〜6ぺ
これは、過激な表現が特徴の(と言っても私はぜんぜん知らない人なのだが)林あまりの歌に対する、正面切っての批評である。
「酷評」ではなかろう。それは、林の歌をみれば知れる。
名だけ告げ電話きるひと−−演技なの? 自意識過剰?−−問いだけ残して
曇り空、あなたと会う日はいつもそう……中途半端がお似合いLOVERS
(中略)「我」が「君」をうたっているのではない。 「ア・タ・シ」が安全地帯から、「ひと」の歌を作っている。 そして、「ひと」の歌を作っているアタシは、六本木で芝居を観ているアタシ、寛斎を着こなしているアタシ、とほぼ同じではないか、と思われる。 こんな言い方は失礼かもしれないが、「詩」としての意識が、一首に非常に薄いように思う。同 46〜7ぺ
かなりはしょったので読みにくいかもしれないが、どのみち、最後の一文は正当な評だろう。
俵の短歌観も端的に現れている。
短歌はアクセサリじゃなくて、自己を掛けた表現なのよ……
ようするに林は、短歌のなんたるかが分かっていない。
かなり強い調子になっているが、これには訳もある。
「林あまりと私」は、どうやら短歌雑誌の一文だったようである。
となれば、作品の是非を見きわめる目は問われるはず。
また、引用部分の直前には、他の若手歌人と同類に論じた評論に触れている。
「ちょっと違うんだけどなぁ」との意義申し立てということもあっただろう。
が、それを割り引いても、明確な短歌観の持ち主であることが確認できて、わたしには好ましく思われた。
4月19日の『なんでも鑑定団』(地方局の遅れ版)を見ていた。
ナレーターが「松平」●○○○○ 、「松平家」 ●○○○○○と発音していた。
「〜家」の場合、共通語だと、家の直前で低まりがくるようになるので○●●●●○でいい。
おそらく、その人の「松平」のアクセントは本来別だったのではないか。
たとえば、○●●○○とか(これは私のアクセントでもある)。
それが、何か(NHK大河ドラマ?)をきっかけとして、●○○○○に修正したのかもしれない。
「松平家」とともに。