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気になることば 第48集   バックナンバー   同分類目次   最新    

*「気になることば」があるというより、「ことば」全体が気になるのです。
*ことばやことばをめぐることがらについて、思いつくままに記していきます。
*「ことばとがめ」に見えるものもあるかもしれませんが、その背後にある、 人間が言語にどうかかわっているか、に力点を置いているつもりです。

19980323
■カカシへの転身

 ある方からのメールに、お前の声はサワヤカ系のナイスボイスだ、とありました。 お返事に、ということは木村ナニガシとか反町カカシ(隆史、でしたか。ゴメンナサイ)並ってことだね、などと書きました。

 そこで、ひらめいた。 田んぼの案山子の−カシは、なにがし・それがしのガシではないか、と。

 このまま話を続けるとトンデモ本になってしまう。 案山子のカカシは「嗅がす」の連用形出自の名詞カガシ(あるいはカガセ)が転じたもの、というのが通説です。 嫌な臭いを発する植物などを焼いて、悪さをする動物たちに「嗅がし(せ)」、農作物を守ることが古くから行われていました。 そういう行為の名が、案山子というものの名に転じたわけです。

 案山子がカカシと呼ばれるまえはソホド・ソホヅと呼ばれていました。 それがどうして行為の名であるはずのカカ(ガ)シになったのか。
 一つにはソホド・ソホヅの語源が不明確になったということがあるでしょう。 でも、それは消極的な理由、ないしは必要条件でしょう。 もっといえば、ソホド・ソホヅが使われなくなった説明であって、カカ(ガ)シが選ばれたことの説明ではありません。

 そこで、さきほどのひらめきが、いくらかは関与してはいまいか、とも思うのです。 つまり、人の形に似せてはいるが、あきらかに人ではないもの。 そういうものに、ナニガシ・カガシ(何がし・彼がし)と用いられるカガシの音に、「嗅がし(せ)」をよそえることは十分に考えられるのではと思うのです。 いわゆる民間語源ということになります。

 とは申せ、ちょっと乱暴な話でした。 『日本言語地図』の「案山子」はじめ、広く細かくあたってみる必要があります。 また、同地図の解説あたりにも載っているかもしれませんね、この考え方。
 民間プロバイダに一部移動したのを機に、CGIを使った掲示板を導入しようと思いました。 ところが、カウンターしか使わせてもらえない。 注意書きをよく見なかった私の落ち度ですが、勢いは余ってしまった。 というわけで、広告入りのフリー掲示版を導入してみました。 でも、へんてこりんなリンクがあるのが気になります。 月200円くらいで、広告・義務リンクのない掲示板に移行できるそうですが、どうしましょうか。
 ともあれ、ご利用ください。
19980324
■現場の「養生」

 前に、人間じゃないものに「養生」を使うのは岐阜の方言ではないかと書いた。 福田嘉一郎さん、岡島昭浩さんから工事現場などでは使います、とのメールをいただいた。 たしかに『広辞苑』級のものを引けば、そのような用法の語釈がある。

 そこでちょっとだけ調べてみた。 一つは岐阜弁としての可能性。 あう人ごとに伺っているところで、いまのところ何とも言えない。 若い人は私と同じで、「芝生養生につき〜」には驚いている。 ところが、中年以上の方だとそうでもない。言下に岐阜弁ではない、という人もいるが、使うという人もいる。

 もう一つは、いろいろな現場での「養生」なのだが、国語辞典の語釈が面白いと思った。 『日本国語大辞典』だと、
@生命を養うこと。健康を維持し、その増進に努めること。摂生。
A病気の手当てをすること。保養。
B土木・建築で、打ち終わったコンクリートを保護し、十分に硬化させるための作業。 乾燥によりできるひび割れを防ぐため、露出面をむしろ、布、砂などで覆い、水をまいて湿潤状態を保たせる。
となっている。 @は古い使い方だろう。現代ならAが普通に使われるか(それでも最近は使われなくなってきた)。 そしてB。たしかに工事現場でのものなのだが、コンクリートに限っている(C以下はない)。 それも、コンクリートの強度を助長する作業として書かれている。 @Aの「養生」にある「(健康・身体を)はぐくむ」ニュアンスが感じ取れる。 その意味で、私には納得しやすいものである。

 ところが、ほかの辞書では、必ずしもそうではない。(続く)
 4月18日(土)に予定していました中部日本・日本語学研究会(第19回)の詳細が決まりましたので、 同会ホームページを御参照ください。
19980325
■国語辞典の「養生」

 ほかの辞書では「保護」の意味合いに重点をおくことが多いように思う。
B[建]コンクリートを打ち込んだあと、その凝結・硬化を完全にするために、寒冷・乾燥から守るための処置をすること。
学研国語大辞典(2版)
B打ち込んだコンクリートやモルタルが十分に硬化するように、低温・乾燥・衝撃などから保護する作業。
大辞泉
B土木・建築工事で、打ち込んだコンクリートが固まらないうちに崩壊したりすることのないよう手当てをすること。
カラー版日本語大辞典(初版)

 「完全な強度をえるための」ということをどの辞書も盛り込んでいるので、完全に「はぐくみ」のニュアンスが失われたわけではないのだが。

 この3辞書の記述は、『日国』Bとほぼ同じ内容を記しているのだが、それとくらべると格段に洗練されており、スマートである。 そのために、「はぐくみ」感が出ていないのかもしれない。 その意味では、「はぐくみ」感が犠牲にされた結果、対人間用法の「養生」とのつながりが見えにくくなっているようにも思える。

 もちろん、このことは、国語辞典の編纂者の態度・姿勢にかかわるのだろう。 現実的な要請としては、省スペースで十分な記述をこころがけたため、ということが考えられる。 学術的な態度にかかわるものとしては、現代語における意味・用法を記述することに主眼をおいたので、かならずしも歴史的展開(=意味の派生関係)の記述を優先しなかった(=共時的記述)ことも考えられる。 いずれも、辞典を本という具体的な形にまとめあげるには、許される割り切りだと思う。

 ところで、昨日の『日国』や上記3辞典では、コンクリート以外の対非人間用法の記述はない。 この点は、ちょっと不十分かもしれない。 すでに、他の用法を記述する辞典があるためである。(続く)
19980326
■保護専用の「養生」

 たとえば『講談社国語辞典』(2版)では次のようになっている。
B土木・建築で、工事の迷惑が他に及ばないように手当をすること。 また、コンクリートがかたまるときの保護作業をいう。

 同辞典はいわゆる一家に一冊タイプの手軽だが手堅い辞典。 「養生」にかぎっては、昨日の3冊の辞典より周到といえる。 ただ、コンクリートの「はぐくみ」感はより薄くなっているが。
 さらに『広辞苑』(4版)では具体的である。
B土木・建築で、モルタルや打ち終ったコンクリートが十分硬化するように保護すること。また、建築中に、材や柱の面・角に紙を張る、砥(ト)の粉を塗る、プラスチックのカバーをかけるなどの保護、広くは工事箇所の防護をすること。
 このように施工中の不意の損傷の予防措置にも「養生」が使われる。 その点をすくっている点が評価できるところだろう。 この傾向は、何かと話題の多い『新明解国語辞典』(5版)で一つの頂点に達するようだ。
(ニ)(A)打ち込んだコンクリートが所期の性能を発現するまでに必要な期間、次の工事にかかるのを見合わせ、保護すること。
(B)施工箇所の周りや物品の表面を覆って汚れから保護すること。また、その覆い。
(C)工事現場に設ける危険防止のための柵(サク)や幕など(を用意すること)。
記号は改めた。適宜改行を施した。
 (A)で「保護」の内容が知られないのは惜しい。前半部分に力を割いたためか。 あるいは対人間用法とのつながりを意識して前半部分を強化したものか。

 このように現代の「養生」は、工事現場を主に「保護」の意味合いで使われていることが知られる。 では、そのような用法はどこから派生してきたものなのだろうか。 考える手だてを得ようと他の辞典を引いたのだが、かえって悩みをます結果となった。(続く)

やっぱり実例あたらなきゃ、だめよ。語誌・語史は。

 『小公子』、第3回・4回分のルビつき本文をアップしました。 ゼミ生・石丸憲子さんにお世話になりました。 ここに謝意を表します。
19980327
■「養生」(保護)の派生経路は?

 私は次のような派生経路を想定していた。
        段階1    段階2     段階3     段階4
 意 味   :摂生     病後の保養   助長・保護   保護
「育み/保護」:主/従    主/従     主/従     ナシ/主
 対 象   :人間     人間      モノ      モノ(人間)
 使われる場 :一般に  → 一般に   → 工事現場  → 工事現場
(辞書の記述 :諸辞書@   諸辞書A    多くB     多くB
 要点は、対象とニュアンスが全部の段階をうまく連鎖させていることである。 特に段階3の存在が重要。これがなかったら、一気に「育み」のニュアンスがなく、モノを対象とした用法になる。 それはやはり一足飛びだと思う。 どうしても段階3はあった方がよい。

 しかし、問題は、段階3の対象がコンクリートという近代的なモノである点。 段階4より古いと考えているのなら、コンクリート以前に「育み/非人間」の「養生」がないものだろうかと思ってしまう。

 そこで、建築がかかわって古いことの書いてありそうな辞書を手にした。 ちょっと安易だったかもしれないが、武井豊治『古建築辞典』(理工学社 1994)である。
 ようじょう(養生)[技]現場において,完成した部分などを,汚れや傷から守るために施す手段をいう.建て前のあとの柱には,砥の粉を塗るか紙貼りをし,床柱・木框・框などは板で覆ったりする。
 もう段階4が使われている...  もちろん、「古」建築辞典だからといって、古語的用法があるわけではない。 神社仏閣の建築で「現在」使われている言葉である可能性も大いにあるのだから。

 だから、建築で押して行くなら、古い時代の建築まわりの資料を見る必要がある(『古事類苑』にないかなぁ)。 ただ、現代の国語辞書でも、段階2と段階3の中間にきそうな候補が見つからないわけではない。(続く)
 大阪難波の野球場の下にあった古書店街。 この3月で廃止、という話を聞いて数カ月たった。 本当になくなるのだろうか。 1万円の『大日本永代節用無尽蔵』(複製)をみた所である。 思えば、7年くらい御無沙汰してきたのだが。
19980328
■園芸などの「養生」

 たとえば、次の語釈などはどうだろうか。
C植物の生育を助成・保護するために、支柱・敷藁・施肥などの手当をすること。
『広辞苑』(4版)
(三)花を活(イ)ける際に美しさを保ち、しおれないように保護を加えること。
『新明解』(5版)。ブランチ記号は改めた。
 まさにぴったり。「養生」の対象の移行からみるとき、人間とコンクリートのあいだに植物がくるのはちょうどよい。 仏教では人間とそれ以外で「有情/非情」に分ける。 また科学では「生物/非(無)生物」に分ける。 植物は「非情/生物」。まさに人間とコンクリートの特徴を半々ずつ持ったものだ。

 また、両辞書の語釈も私にとっては「はぐくみ」感が出ているようで都合がいい。 『広辞苑』ははっきり「助成」と言いっているし、『新明解』にもニュアンスはある。 もちろん、生物が対象なのだから当然、ということもあるかもしれない。

 園芸・生け花関係なのだから、コンクリートよりは間違いなく古い。 それだけ、対植物用法の「養生」が、古い文献に現れやすいと期待できそう。 さいわい、その方面は江戸時代なら相応に文献資料もある。 さらに農書にまで目をむければ、沃野といってもいいほどだ。

 あとは、(古)建築の方で先に保護専用の「養生」がでてこないことが示せればいいのだが、それはかなり厄介な話である。 古い資料をどこまでたどれるかがまず大きな問題。 また、古い資料があったとしても難しい。 古い資料に用例がないからといって、その当時使われなかったことの証明にはならない。 たまたま文献資料に挙がらなかっただけで、口語としては使っていたことは十分に考えられるからである。

 今日は暖かですね。 うちのキャンパスの染井吉野もちらほらほころびはじめました。
19980330
■漂流記への関心

 実は、江戸時代の漂流記が好きである。 大黒屋幸太夫や中浜万次郎などが有名だけれど、無名の人のも興味ぶかい。 というのは、外国人と出会ったとき、どのようにコミュニケーションを成立させるかに興味があるからである。

 いや、白状してしまおう。 漂流記の一つ『南瓢記』に節用集の記載があるのに味をしめて、類例はないかと探しているのである。 せめて、所持品のなかに節用集は出て来ないかなどと見ている(大黒屋幸太夫の場合、その可能性が高い)。 『江戸漂流記総集』(日本評論社)とか、『通航一覧』などをぱらぱら見ているが、なかなか二匹めの泥鰌はいないものである。

 それでもことばまわりで興味深い例が拾えないわけではない。 たとえば『紀州船米国漂流記』(『叢書江戸文庫1漂流奇談集成』所収)では、当時の識字の様相をしめす記述がある。 漂流者の談話を何者かが聞き取って紀州藩に呈上したものらしく、話の視点が揺らぐので少々読みづらい部分もある。
 日本人六人出来りて「我等は日本五島の住人にて、今亥正月此国え漂着せし」とて此処にて日本漂人都合十一人一集に成(略)。 此人々、皆無筆にて猟師なり。虎吉船の漂人五人は相応読書するを、甚五郎羨みて 「各は読書慥(よみかきたしか)成る故、異人の饗応も又格別なり。 我々は幼少より魚漁のみして手習せざれば字をしらず(略)此国(中国)に来りし以来、恥をかき当惑せし事度々なり」と後悔いたし候。 此処にて十一月まで逗留中、虎吉等にいろはの仮名手本を乞て、一心不乱に手習致候由。 扨又、此天寿丸(=虎吉船)の漂人五人は、五畿内国尽し位の事は、相応に読書出来候事故、何方にてもさのみ不自由成事なかり様子なり。
*一部記号などを改め、鍵括弧・注記・読みを補った。
 「虎吉船」は船頭虎吉が乗っていた回船である。 有田みかんを江戸におろし、その帰途、遭難した。 この一行はなかなか奇遇が多く、アメリカ船等に助けられるうちに、中浜(ジョン)万次郎・音吉(ニッポン音吉)・庄蔵(肥後)などともめぐりあっている。

 話をことばまわりにもどそう。 引用箇所からは、回船の乗組員たちはそこそこ読み書きができるが、漁民はそうではなかったことが知られる。 問題は、これをどう捉えて、当時の言語生活・識字層研究にいかすか、だ。 果たして、回船員と漁民のあいだで識字境界線(造語です)が引けるのか。 それとも、単なる個別例にすぎないから重視すべきではないのか。

 船頭が節用集を所持していた『南瓢記』の場合も回船だったから、回船員なら読み書きが相応にできたとみてよいようである。 第一、品物の取り引きもなにがしかは請け負ったのだろうから、読み書き・そろばんがある程度以上できなければ勤まらない面もある。 とすると、漁民の方の解明を重視することが必要か。
 なんだか全国的におだやかな気候ですね。 キャンパスの桜も、木によっては6・7分咲きになりました。 そんなに急がなくていいヨ、と言ってやりたくなります。
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